メールにてお送りいただいた、cianさんのご意見です。『僕と、僕らの夏』(light)および『夏日』(すたじお緑茶)を題材としつつ、特に後者の持ち味について述べておいでです。
メールにてお送りいただいた、cianさんのご意見です。『僕と、僕らの夏』(light)および『夏日』(すたじお緑茶)を題材としつつ、特に後者の持ち味について述べておいでです。
私はそもそもPC歴が2年と浅く、あまり美少女ゲーム(以下、ゲーム)をプレイしておりません。(月1本買うかどうか)
さらに特定の分野への専門知識は、一切持っておりません。
つまり「時々ゲームをする、何処にでもいる平凡な人間」の意見、とお考えいただければ間違いないと思います。
そういった「平凡な人間」がどこまで「現実にある問題をゲームに取り入れる難しさ」に迫れるか自信はありませんが、挑戦したいと思います。
というか、こんなことにお付き合いさせて、申し訳ありません。
『ONE』=名作、『僕と、僕らの夏』(以下、『僕僕』)=良作、『夏日』=佳作 とさせていただきます。
世間での評価(『夏日』はまだですが)もありますが、私の評価でもあります。
「美少女ゲーム」である以上、どうしても主題は「男女の愛」となります。
しかし、そこに別のファクターが入ることによって、その作品の魅力が更に増します。
この中で、『ONE』と『僕僕』・『夏日』では大きな違いがあります。それはファンタジー(現実では起こりえない事)か、リアル(現実にある問題)かの違いです。
そしてこれは、登場人物の性格付けに関わってきます。
私はあまり「萌え」ません。
ですから、正直言って「萌え」る人の心理がよく判りませんが、
萌え=現実にはまず存在しない男の理想的な女のコ像
と考えております。
ゲームの女のコは、架空人物(ライターが創造した人物)です。
そしてゲームが「男女の愛」を扱い、ユーザーの大半が男性である以上、キャラクターに「男の理想像」という色付けがなされます。
そしてその色付けの度合いは、各ゲームによって大きく変わります。
『ONE』と『僕僕』・『夏日』では、登場人物の性格が大きく違います。
ファンタジーではデフォルメが大きく、リアルでは小さいです。
これはある意味、当然のことと考えられます。
ファンタジーは極論を言えば異世界、つまり「架空世界」です。
いくら舞台を現在の日本に似せようと、あくまで「架空世界」です。
それは極端なデフォルメがされる下地になることと思います。
そして極端なデフォルメは、容易に「萌え」に繋がります。
対してリアルではそうはいきません。
例えば『僕僕』や『夏日』に、『ONE』のようなキャラ(『ToHeart』、『とらハ』でもいいですが)を登場させたらどうなるでしょう?
おそらくゲームそのものが成り立たないでしょう。
舞台が現実の日本とされる以上、登場人物でも現実に存在しうる人物像を求められます。
その事はあまり「萌え」には繋がりません。
勿論、「萌え」ないからといって、キャラクターに魅力がないわけではありません。
しかし、ユーザーがゲームに娯楽を求めるのであれば、「現実にも存在しうるキャラ」がユーザーに受け入れられるか、些か微妙です。
これはつまり、リアルなテーマを扱う場合、キャラの魅力を前面に出せないことを意味します。
それはリアルなテーマを扱うゲームにとって、不利なことと思います。
もっとも、「萌え」キャラを使ってさえいれば、ユーザーが必ず受け入れるとは言いませんが。
(特に私)
続いて、テーマ面で。
『僕僕』と『夏日』では同じように「現実にある問題」を取り扱っていますが、この2作品でも違いが見られます。
『僕僕』では恭生と貴理が、お互いを好きでありながら相手の気持ちが判らない……2人の気持ちを中心に描かれています。
そこに失う故郷への郷愁、もう2度と会えないかもしれない焦燥、という感情が入ってきます。
ですから、いくら「現実にある問題」といっても、それがメインテーマではない以上ある程度問題の本質を「ボカし」ているように感じられました。
(ダム建設問題は細かい点まで突っ込むとキリがありません)
『夏日』ではメインヒロインが知的障害者である時点で、どうしても「障害者に対する感情」という難しい問題を避けて通れません。
しかしこの問題に最後まで踏み込むのは、たとえ18禁といえど不可能に思えます。
私は『夏日』をプレイして「障害者への愛情」より「女の嫉妬」の方がより印象深かったのですが、「最後まで踏み込んでいない」ことがその理由ではないかと思います。
「ちや」のキャラクターは、知的障害者を「純真無垢な存在」として扱っているようには思えず、その点は評価して良いと思います。
問題は「ちや」が柊一(主人公)に恋愛感情を抱くかどうか……ですが、あっても良いと思います。
そうしないと話が進まない、ということもありますが、私の両親が以前「たとえ3歳でも女の子は女の子、女にしかない特徴はある」と言っておりました。
それが恋愛感情と結びつくかどうか判りませんが、少なくとも相手を同性か異性かは見分けています。
実際、1歳半(女子)の親からは「この子は女の人には少しで懐くが、男の人にはなかなか近寄りたがらない」と聞いておりますし。
恋愛感情があるならば、嫉妬心(独占欲)もあってもいいと思います。
これらの感情は表裏一体ですから。
柊一が「ちや」に恋愛感情を抱くかどうか……それはユーザー個人が知的障害者をどのように考えているかによると思います。
些か「逃げ」のような感はありますが、論評は控えさせていただきます。
私の感想については、「もし女として「ちや」を愛するとすれば、柊一のような性格の男だろう」とだけ書いておきます。
一部の例外を除き、大半の人は「偏見」は良くないと考えているはずです。
普通の人間は、自分の利害に関係ないことには「善人」ですから。
私個人のことをお話ししますと、知的障害者はともかく、身体障害者は2人存じています。2人とも会社の同僚です。(1人は定年退職しました)
私は障害者には偏見を持っていないつもりですが、仕事が絡むと話は違います。
私個人のスタンスは
「給料分の仕事をするなら、障害者かどうかは関係ない」
ですから、やはり自分の利害(仕事がスムーズに出来るか)とは無関係ではいられません。(仕事のことですからやむを得ないと割り切っておりますが)
余談ですが、定年退職された方とは先日お会いしました。
70歳を越えているはずですが、お元気そうで喜ばしく思っております。
名前がないので、仮に「A村」とします。
「ちや」と柊一のキャラ設定はそれなりの評価はしておりますが、A村の設定はいただけません。
私は地方とはいえ中核都市の出身・居住ですから「ムラ」という閉鎖社会(こういう表現は好きではありませんが)の構造はよく知りません。
が、A村での「ちや」の扱いが甘いように思われます。
普通、都会よりも田舎の方が偏見が強いとされています。
作品によってはそれを「田舎故の無知」として描かれていますが、(それこそ偏見)
私は狭い社会故に自分の利害と密接に関わるからではないかと思います。
(繰り返しますが、普通の人間は自分の利害に関係ないことには「善人」です)
そしてA村では主要登場人物以外は殆ど出てきません。
それはA村での「ちや」の周囲の偏見を生々しく描かずに済んでいる反面、印象が薄くなり、結果的に「牧歌的な世界」という印象を持たされました。
(勿論、1回だけですが「ちや」が虐められているシーンはありました)
「幻想としての田舎」とまでは言いませんが、細部の設定が甘いと言わざるを得ません。
それなりに真面目に取り組んでいるとは思います。(「ちや」と柊一の設定)
しかし細部の設定には疑問を感じております。
そして知的障害者には一定以上踏み込めない(これはライターの力量とは別)
現実があり、細部の設定の甘さも相まって、『夏日』が良作以下となったのではないか?と考えております。
「普通の作品」と断じてもよいのですが、知的障害者という普通なら目を瞑って通り過ぎたい問題を、多少のデフォルメがあってもそれなりに美化しないで扱った点は評価したいです。
「普通の作品」として他の「普通の作品」と同列に扱うことは、私には抵抗があります。
最初にそういった「平凡な人間」がどこまで「現実にある問題をゲームに取り入れる難しさ」に迫れるか自信はありませんが、挑戦したいと思います。
と書きましたが、表層的な部分のみで終わったような気がします。
更に深く追究する為には、各ゲームを再プレイ・更に細部まで検証しなければならず、それは私の気力・能力を超えます。
今はこれだけで満足しようかと思います。
kenさんには「それ程ディープにゲームを検証しない人間」の意見として考えていただければ良いかと思います。
長々と失礼いたしました。
私は『夏日』はプレイしていない、いやそもそも持ってさえいないので具体的な論評はできません。
しかし、18禁ゲームはその特性上、必然的に「人間どうしの関係」を説明する必要がどうしても出てきます。『夏日』のように「田舎」を舞台にしたゲームの場合、その舞台における登場人物たちの位置、そして相互の相対的な関係がどうあるのかという「規定」から逃れることはできません。そしてまた「関係」をどの程度リアルに描写するのが望ましいのかは微妙な問題であり、一概に線引きすることは不可能です。
しばしば「リアルであること」をこの種の手法に求める論がありますし、文学や芸術でもそういう手法がかなり優勢になった時期があったのは、例えばプロレタリア文学/芸術が、直接的な政治的プロパガンダと離れたところで支持を得ていたことからも、一応の納得はいきます。リアルさを追求しても、結局は登場人物が各社会階層を代表する因子の申し子にとどまってしまうのが実情でしょう。実態を告発する、いわばドキュドラマとして作られているものならともかく、エンターテインメントに求められるものではありません。
そうすると、やはり「登場人物」が「一個の人間」としてどのように「特殊な社会」あるいは「特殊な関係」のなかで「動いている」か、が重要になるのでしょう。社会の成因であり、関係の因子であるところの人物を、安易に「独立した存在」と見ることなく、しかし「一個の人間」であると見ることが大事なのではないか。
その点で、cianさんが対極的な世界としてファンタジーを持ち出されたことは、なかなかに示唆的と考えます。ファンタジーの世界はあくまでも「“登場人物がそこにいる”ものとして作られた世界」であり、一定程度のリアルさを求められる世界は「登場人物が“そこにいる”世界」です。わかりやすく言えば、前者は人物が世界を作るのに対し、後者では世界が人物の前に(しばしば絶望的なまでの圧倒的な存在感をもって)端然と広がっている、という違いがあります。この両者の区別がつかないままにこの種のシナリオに触れても、「求められるものと違う」という不満を抱くに留まってしまうでしょう。
判断材料の少ない中での私見に説得力が弱いことは百も承知ですが、そんなふうに思っています。
え? ゴタクはいいからさっさと『僕夏』やれって?? ハイ、ごもっともでございますm(__)m
Ken 拝