どのようなゲームであれ、プレイヤーの絶対多数から「完璧な出来である」と判断されるようなものは生まれ得ません。これは、それが内包する作品世界が、エンターテインメントとしての足かせを引きずっている限り、避けられない宿命と言えましょう。そんな中でも、特にシナリオ面において評価が分かれそうだ、と考えられるゲームが、立て続けにリリースされたのが、1998年上半期でした。『WHITE ALBUM』(Leaf)と『ONE』の二作品です。
このうち、『WHITE ALBUM』に関しては、私自身がのめりこむことができず、コンプリートしないまま途中放棄してしまっているので、それが呈示しているテーマを把握できなかったのですが(あの妙ちくりんなシステムがねぇ…)、『ONE』については、何十回とプレイを重ねている上、テキストベースでの構造把握に努めたこともあるので、語る資格があろうと自負しています。そこで、この『ONE』について、それが呈示している「構造」を考えてみました。
これらを踏まえ、こと『ONE』に関しては、「批評(review)」の枠を越えた考察を試みたいと考えます。しかし、それを体系的なものとして一度に呈示することは、私の力量を超えていますので、断片的な覚え書き程度のものが段階的に出される、という形になることと思います。
ところで、先頭に記したとおり、このゲームは、評価が見事に分かれています。もちろん、賛成派と反対派という形で二分することはできませんし、肯定的な人の中にも、そのスタンスが「盲信」から「批判材料として受容」までさまざまです。しかし、その賛否両論の「軸」というものは、NIFTY SERVE各会議室での議論などを拝見すると、意外に単純であるように感じられます。こういった「対立軸」をうむことそのものが、このゲームの性格を暗示しているとも思えますので、まずはそこから話を始めたいと思います。かくのごとき「対立軸」の存在は、この作品を作ったメインスタッフが、後にKeyからリリースした『Kanon』でも言えることなのですが。
ここでまず、賛成派、否定派の内容を、ごく簡単にまとめてみたいと思います。もちろん、これはKenがあちらこちらで拝見してきた同ゲームに対する「表出した(注1)」意見を集約したものであって、アンケート調査などの社会統計的な分析に基づくものではないことを、あらかじめお断りしておきます。
・注1:一見、些細なことのように見えますが、『ONE』のように、そのテーマ性を「語るのが難しい」ゲームの場合、解釈を言語化するという作業自体に相応の負担が伴うため、単純に「良い」「悪い」で済ませる人、あるいは、サイレント・マジョリティが相当数存在していることを知っておく必要があります。ネット上で一定以上有力な意見であっても、プレイヤー(=消費者)にとってそれが一般的であるとは限りません。
まず、「否定派」は、物語の構造を批判するという点において、かなりの程度、高い共通点を示しています。端的に言えば、「感動」を催させる御都合主義的展開に依存した物語構造を、そしてそれが決して斬新でもなんでもない手法であることを、ほぼ共通して俎上に上げています。さらに、その延長として、物語の過剰性(「感動」を用意させるための過剰修飾)が指弾されるケースも多く見受けます。
一方、「賛成派」は、キャラクターを巻き込んでいくファンタジーをアプリオリに是認(黙認?)するという点が指摘できます。もちろん、シナリオ展開を忠実に追い(なぞっているだけの場合もあれば批判的に読解を試みる場合まで様々ですが)、その過程で「物語」の構造分析に踏み込む場合もありますが、その手法には、あくまでもキャラクター描写を感情的に肯定し、そこに一定程度同化しているゆえに抱える「弱点」があります。すなわち、キャラクターの表象的描写という、あくまでもシナリオ上では軽い「表象」を、あたかも主要な軸であるかのように(意識するしないは別として)錯覚している以上、「(刹那的な)感情的共鳴」の延長となっているケースが非常に多く見受けられます。
こういった「二項対立」が明確に浮き上がっているのは、『ONE』というゲームそれ自体が、そこに含んでいる「物語」の手法として、決して斬新なものを採用しておらず、さらに、感情を沸き立てることが計算されているということが、その背景にありましょう。そして、双方の「共通認識」として、理解困難な点を「無視」せざるを得ないというスタンスがうかがえます。これは、上記の「否定派」の場合、あくまでもファンタジーそれ自体の批判に終始しているケースが大多数であり、そういったファンタジーを「採用」するという「手法」自体に関する批判というものは、それが「プレイヤーを遠ざける重要な一因となっている」という以上のものにはなっていない(プレイヤーを選別するという要素自体に積極的な意味合いを見出すことも可能ですが、詳細は後述)、従って「ファンタジー」それ自体に『ONE』のテーマが直接的に内包されていることを前提としている論が大多数であることから、立証可能でしょう。
なお、この「理解困難な点の「無視」」は、テキストベースでの矛盾追究を行わないということとは、必ずしも一致しません。それは、ゲーム内に呈示されたテーマ性が把握しにくい(注2)形態を取っているがゆえに、そこからメッセージを読みとろうとする「作業」がなされにくいということを考えればおわかりでしょう。
・注2:能力的に困難、という意味だけでなく、受け手側が、半ば本能的に「逃げ」の姿勢を取らざるを得ないような内容になる、という面も含んでいます。
『ONE』発売後しばらくしたころ、このゲームにおけるテキスト描写から演繹的に解釈可能な世界展開を構築しようと試みたことがありましたが、どう解釈しても合理的な分析を峻拒するその「物語」には、ほとほと手を焼いたものです。しかし、こういった作業を認めないのは、「合理的な分析」という幻視に、そもそも意味がないのだ、というメッセージなのだ、と、現在では感じています。
私自身のスタンスとして、ゲームにせよ何にせよ、作品として世に出されたものは、その「作品」内部においてのみ批評・考察の対象となるべきであり、従って、ゲームに込められているメッセージ(←受け手が受容可能なメッセージ)は、その送り手の意図とは一致させる必要がない、と考えています。主題(テーマ)と呼ぶべき内容は、かなり狭い範囲で確実に存在するわけで、議論にあたってはそこからスタートさせるべきでしょうが、それを「意図」に縛りつける必然性はないでしょう。
以上を踏まえた上で、このゲームの「テーマ」は何か、を「探って」みることにします。そのため、『ONE』というゲームが、基本的にどのようにカテゴライズされるのが妥当かという点に関しては、意図的に「無視」します。例えば、このゲームを「恋愛ゲーム」として捉えた場合、また新たな切り口が出てくるでしょうし、これまでも多く語られているとおり『To Heart』(Leaf)との比較という方法も意味を帯びてくるのは確かでしょうが、敢えて白紙の段階から考えてみたいと思います。
『ONE』というゲームのテーマが、非常に特異な描写を以て綴られる「えいえんのせかい」の中に込められていることは、多言を要せぬと思います。しかし、この「えいえんのせかい」という手法を「取った」意味(くどいようですが、「意図」とは一致しません。テクストとしての「意味」と考えて下さい)は、重層的かつ複合的なものであるように思われ、これを明快にまとめるのは難しいと考えられますから、まずは、この「せかい」が、ファンタジーという手法で描かれていることから検討したいと思います。
ファンタジーという手法は、そこにおける「物語世界」を前提として受容することを一方的に求める、という側面を伴います。この際、その「物語」内部における「体系」を探っても、それは「ファンタジー」という表層から一歩も踏み込んでいないわけです。
しかしながら、これは、このゲームがファンタジックな「世界」を出しながら、その骨格を読みにくくすることによって、却ってシビアな選別をプレイヤー側に呈示していることを表しているように思えます。それは、「ファンタジー」という手法を取ることによって、ゲームの中に集約されているテーマが、「物語世界」に依存しているスタンスを取っている限り、絶対に見えてこないからなのです。この「物語」依存については、ラストでまとめることにしますが、端的に言えば、「居心地の良さそうな表層」で「多くのプレイヤーをソフトに受け止め」る反面、その表層を突き抜けるプレイヤーに対しては、情け容赦ないメッセージを出しているように感じます。
この「手法」を取った結果として、「ファンタジー」という表層を突き抜けることに対し、かなりのプレイヤーが(無意識のうちに)躊躇したように思えます。もちろん、これは、このゲームが「複数のヒロインを用意したマルチエンド」という体裁を取っているがゆえに、その「厚み」をより膨らませていることも一因でしょう。
では、この「えいえんのせかい」とは、どのような「せかい」なのか。上述した「ファンタジー構造の中における物語分析」に陥らないように注意しつつ、明確に判断可能な部分のみで考えてみます。
まず、「日常世界」と「えいせんのせかい」とのコントラストを考え、合わせて、「えいせんのせかい」に関する描写をたどった場合、明示的に出されている情報としては、
- 時間という概念が存在しない。
- 「動」なる存在なき、静寂の世界。
- 外部と内部との双方にある。
このうち最後のものについては、「日常世界」において、主人公が夕焼けを見ながらひとりごちているシーンを考えればおわかりいただけるでしょう。
これらの中で、もっともわかりやすい判断材料としては、やはり「時間がない」ということに尽きるかと思います。
ここから真っ先に出てくるのは、正しく「死」の世界でしょう。「存在否定」というものからスタートしている「消滅」こそが、これを規定していると考えられます。人間における「社会的な死」とは、生体活動の停止ではなく、それと「認識としての不在」とを区別することはできません。理屈っぽい話になりますが、生体活動を停止しながら悲しまれていれば彼はまだ生きているのであり、通常の生体活動を続けながらも彼をすべて取り除いた構造の再構築が完成していれば彼は死んでいるわけです。こう考えると、主人公の「消滅」からは、「死」、そして正真正銘の「不在」というものが読み取れます。
あるいは、仏教におけるニルヴァーナと把握することも可能かも知れません。「復活」=「永劫からの脱出」というコンテクストでの相似性で考えた場合は、こちらの方がむしろ適合するでしょう。もちろん、仏教という個人主義的な宗教概念は、上記のような「社会的死者」を許容しないわけで、この二つのメッセージが「同時に」込められていると考えるのは早計に過ぎるかも知れませんが。
こういった形で「えいえんのせかい」を考えた場合、主人公が「それをうみだした」そして「主人公の中にある」ところの「せかい」であるわけで、それは正しく、過去の「永遠の盟約」=「過酷な現実を眼前にした現実逃避への契機」によって「発動」したものに他なりません。主人公は、「盟約」の「発動」に際しては、大なり小なり抗う姿勢を隠していません。従って、「日常生活」における主人公には、現実逃避への方向をうかがうことはできません。しかるに、主人公は、「日常」からは「いなくなる」宿命にあるわけです。
ここにおいて、主人公が示している「発動」への抵抗に注目した場合、それの直接的なよりどころとなっているのが、ヒロインたちとの「絆」であるわけですが(←肉体関係を付随するかどうかは二の次)、これは、主人公自身が「現実逃避」を必要とする段階を乗り越えている「にもかかわらず」訪れるという点が重要です。すなわち、「現実逃避」を必要とする段階=過酷な現実に入り込めない、という「通過儀礼」は済ませていながら、にもかかわらず「消える」。そこにあるのは、「日常」というものへの不適合そのものでしょう。
不適合とは、要するに「他者が認知可能な関係」からスピンアウトしていることであり、それをつきつめていけば、他者との関係を構築できない「個」のさまよいに他なりません。
このゲームに関する考察の結果として、「主人公の人間的な成長」というものが最大のテーマだ、と説かれるケースを、二・三、目にしています。そういった把握の方法にも一理あります(ゲーム中、主人公と関わりのある「姿をもった」大人が一人も登場しないことが示唆的です)が、これを呈示する場合、「えいえんのせかい」を「非日常」の舞台として描く必要があったのだろうか、という疑問が残ります。例えば、茜の幼なじみなども、姿を消すという過程を経ていますが、彼は主人公とは異なり、もはや戻ってくることはありません。これも含めて「成長」というキーワードで捉えることには抵抗があります(自閉に陥って回復不可能となった、といえばそれまでですが…)。
物語批判、神話構造批判といったムーヴメントがどこから起こったのかは浅学なる私の知る由もありませんが、純文学の消滅に始まる一連の動きの中で、「物語」を消費する構造が日本に定着(瀰漫?)しているのは間違いありません。そして、これは、Xゲーム愛好家のように、その中における「物語」性の消費が(ある意味では中毒的に)渇望されがちな層に対しては、より「痛い」形で伝えられるように思えます。
しかし、裏を返せば、このゲームの中で非常に大きな魅力(ただし、非常に「怖ろしい」魅力)であるところの「物語批判」は、それを批判として受け止める必要がある層に対し、どの程度届いているのか、と考えると、大いに疑問が残ります。もちろん、商品として見た場合、自己の秘める構造によってそれへの執着を断ち切らせるとも言えるわけで、ある意味では自殺行為とも言えるのでしょうが、少なくとも、「物語批判」ゆえの不快感というものが、大きな反響として出ているようには見えませんから、この試みが成功しているとは言えないように思えます。
さらに、これは、後発作品である『Kanon』においても、そのまま踏襲されているように見えます。否、『Kanon』の方では、ファンタジーとしての「物語」展開が拡散しているだけに、なおのこと、こういった「批判」が届きにくくなっているのかも知れません。
結局、『ONE』は、「作品」として評価する際には、非常に微妙なラインの上で揺らめいているように見えます。メッセージが届くべき相手に届いていない、というのは、ゲームそのものが痛烈な皮肉を発していると解釈することもできましょうが、そこまでシニカルに見るのは却って良くないような気も…。いい意味での「受け狙い」をして間口を広げたものの、結局はその部分だけでの受容に満足するプレイヤーの支持を得てしまった。そんな自己矛盾を内包しているゲーム。私の目には、『ONE』は、そのように映っています。
練り上げて書いたというよりは、思いつくことをパラパラと書きとめたというのが実情なので、どうにもまとまりがありませんが(^^;)、取りあえず「書きとめる」ということをしておく方が、精神衛生上もいいでしょうし、覚え書き程度の水準のものをアップしてしまいました。レビューの方で記した「言いしれぬ不気味さ」を、自分なりに判断すると、やはり「死」というものに直結していくように感じます。また、「物語批判」については、それ自体が手垢にまみれた「物語」と化しているという面もあり、こういったメッセージを「受け」た自分の感性自体が「余りにも甘い」のかもしれません。こういった部分への詰めに関しては、しばし間をおいて再考したいと思っています。