平成20年4月公開以降の閲覧者数は、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自分史 池田 昭 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家内と私 うちの家内は、心広く頼りになるひとだった。 お互いに名前(貞子と昭)を呼んだことがない。 「おー」と言えば、「何?」と言う答えで事足りた。長男がうまれて、私は「おとうさん」とよばれるようになった。 家内との出会いは、私が巡査部長に昇任して、酒田地区警察署から小国警察署(警備交通係)に転勤して(昭和23年3月31日)、小国町警察署の婦人警察官として勤めていた家内と同じ庁舎に勤めたことによる。家内は、一見地味で、必要以外には口を利かないひとだった。
昭和24年夏のある日に、家内に、近くの県社山公園に行ってみないかと誘われ、カメラをもって出かけ、町を見下ろす小高い公園を散策して帰った。
翌年、昭和25年8月30日に結婚した。結婚式は簡素に、家内の親戚だけで家内の家で行い、すぐ酒田に向かい、悟叔父の家で池田家の親戚が集まり、悟叔父夫妻を仲人にしてささやかな宴席をおこなった。 家内の親戚衆の希望もあって、家内は日本髪姿に装い、小国唯一の渡部写真館に写真をとってもらい、一応の新婚生活をスタートさせることができた。 新居は、倉屋敷という旧家の奥座敷を間借りした。古い茅葺の大きな家で、おばあさんが独り暮らしで、親切に迎えてくれた。横川べりの高台の見晴らしもよく、周辺の環境はすぐれていた。 家のすぐそばには大きな栗の木が生えていて、秋には根元にマイタケ(舞茸)がたくさんはえて、びっくり仰天し、家内はそれを人々にわけてやり、大変よろこばれた。 栗の大木も私達の結婚を祝して、純白の香り豊かな天然の舞茸をおくってくれたのではなかったかと話題になった。当時はマイタケの養殖のない時代で、貴重なもので、みんなが喜んでくれた。 結婚当時の私の月給は、五千円なので、やりくりには苦労したと思う。どうしても月に五百円は不足する計算だったが、お米を家内の家から恵んでもらい、また、隣の和泉屋食料品店からは、ある時払いの催促なしで、しかも記帳は家内にまかされて、食料品をゆずってもらっていた。 和泉屋さんとは以来、長いお付き合いとなった。昭和34年に山形市の松山の土地を購入するときもお金を貸して下さった。和泉屋さんの息子さんや娘さんともお付き合いが続いている。 家内は私との出会いと結婚を大変喜んでくれて、献身的につくしてくれた。 ともに農家にうまれ、学業は上位だったので進学を望みながら、その希望を果たせず、こつこつ自学しながら、自立の夢をふくらませていたことは共通していた。 家内は兄達が出征したあと、牛を使って一町五反の田畑を耕した。 私は、家計を支えて、類焼後の家の再建とその借財の返済のための炭焼きなど、激しい労働を経験してきた。二人は不思議なほど、共通した経験をしていたので、多くを語る必要がないくらい、よく理解しあえたようである。 思わぬトラブル 私は普段は私服勤務で、制服はあまり着るときはなかったが、ある朝、制服を着て拳銃の帯革をしめ、家内が、押入れの格納庫から拳銃を取り出し私に渡そうとしたとき、茶目っ気で、突然開け放していた窓に銃口をむけて引き金を引いたので、「バン」と大きな音で暴発してしまった。 家内は婦人警察官として拳銃は扱っていたのに、そのころは弾を充填していなかったので、まさか弾が入っているとは思っていなかったようである。 家内が暴発させたとも言えず、私が誤って引き金を引いたことにして申告し、減給の懲戒処分をうけた。 拳銃には常に弾が充填されていること、取り扱いは私だけが行うことでよく話し合っていればこの様な事故はおこらないことで、私のうかつであった。 私は仕事一筋のほうで、ひたすら仕事に没頭していたので、このことはけろっと忘れていたので、事故のことはその後一度も口にしたことがなく、その後の昇進にも影響させなかった。 博明と雅夫の誕生 結婚して翌年、昭和26年、博明がうまれた。8ケ月の未熟児だった。小さくて、顔を洗う洗面器で湯浴みができる大きさで、育てるにはかなりの心くばりが必要であった。 声を上げて泣く力もなく乳房に吸い付く力もなかったが、顔色は赤く、おわんに母乳を絞り、スプーンですくって口元に運ぶとぴちゃぴちゃと音を立てて飲んでくれたのにはげまされて、一生懸命に乳をのませた。 保温にもかなり気をつけて、お湯をいれた一升瓶を両側に置いてあたためた。伊藤ちよさんは助産婦としてとりあげてくれただけでなく、献身的に手伝ってくれた。
家内が亡くなる少し前に、病院の傍らで看病していた博明の首を抱えて「あんなに小さかった博明がこんなに大きくなって」とつぶやき感慨にふけっていたのを見て、私もあらためて家内の必死の思いを再確認し、感動したものである。 何故早産したのか、家内の反省としては、くみとり便所を自分で汲んで、そのときに腰に負担をかけたからであると言っていた。男まさりになんでも果敢に自分でやりこなすことが、過重な負担となったものかもしれない。 名前は聡明な人に育つようにと願い、博明とした。私の聡明な祖母「よしを」に与り、明をよしと読むことにしたものである。 その翌年、雅夫がうまれた。雅夫は満月のようで、まるまる太って、かわいい赤ちゃんであった。名前は、博明のときにあまり考えすぎて難しくしたので、やさしく呼びやすく、みんなに愛されるようにと思い、雅夫とした。 雅夫はその名のとおりに、その後、小国,長井、山形を通じて、子供達の人気物で、雅夫ちゃん雅夫ちゃんと大声で呼ばれていた。 小国では私は結核にかかり、病気がちで、家内には心配をかけた。 家内は博明を背に、雅夫を抱きかかえて、年子のふたりをよく育てた。 栄養には大変気をつかっていた。肝油をうまいうまいと言ってその気にさせたり、食べ物を好き嫌いなく与えた。子供達もすっかり家内を信頼しきってだだをこねたことはなかった。 (2008年4月26日UP)
小国には足かけ5年いて、家内の家族や親戚の人たちとも親しくし、親切にしていただいた。 長井署に転勤 病気して警部補昇任試験を一度見送り、二回目に学科7番で、7人合格の選にもれた。翌年、昭和29年7月1日に長井警察署に転勤して、受験し、合格した。 長井では、白山神社のそばの物置小屋のような建物を借りて生活していた。 昇任試験のとき三週間一日三時間しか寝ないで,死に物狂いで勉強し、自信満々で合格した。順位は知らされなかったが、学科試験を終えたときには手ごたえを感じていた。 長井ではパチンコに熱中し、家内に心配をされた。昭和29年、年末のボーナスを使い果たしたとき、家内がポロリと涙をながしたのをみて、パチンコとは縁を切った。パチンコの機械の性能その他を知り尽くし、技術の勝負でないことを知り尽くしたときでもあった。 長井でも近所の鈴木信一さんを始め多くの人々との出会いがあった。 私は小国、長井にいたころ、ひとつ上の兄から助けを求められ、数回お金を送ったことがあった。ぎりぎりの生活の中から家内は文句ひとつ言わないで、快く協力してくれた。当時は巡査部長であったが、田舎では、部長さんといえばかなり偉い人のように思われており、出世したので収入もそれなりに多いと思われていたようである。 その後、山形では、弟と妹があいついで私の家に寄宿し、当然のように居候していたが、家内は一切愚痴をこぼさなかった。家内が亡くなって3年になるが、最近家内の姉が、私たちの生活は公務員でもあり、とても豊かな生活をしているものと思っていたと言ったので、驚かされた。 質素な生活 金が無いため、着るものは最低限度にし、古着で間に合わせ、子供たちを幼稚園や保育園にもやらず、つつましく生活していたものである。 雅夫は体格がよくなり学童服の首がしまらなくなって、先生に注意をうけたことがあった。雅夫の大好きな芳賀先生で、詰襟の首を絞めないのはだらしがないのでなく、首が太くなりしまらなくなったのに替えの着物が無いことに気がついたのか、先生はその後は何も言わなくなり、しばらくはそのままきゅうくつな服を着ていた。 また、親戚の婦人ひろさんが編み物をしていてセーターを編んでくれたが、博明と雅夫でかわりばんこに着ており、雅夫から寒くなったからもう一着編んでくれないかといわれて、あわててもう一着編んでやったことがあったとのこと。つつましやかな、しかもぎりぎりの生活であった。 しかし、食べ物は十分与えられていたことと、家内が貧しいことを口にしないので、子供たちは「質素な生活」という認識はあったと思うが、貧乏人の卑屈さはなく、のびのびと育ってくれた。 (2008年4月26日UP)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渋谷円吉画伯との交流 渋谷円吉画伯と知り合ったのは長井署に勤務していたとき。たまたま渋谷氏の家を訪れ、話を聞き、絵を見た私はその絵の素晴らしさに心を打たれた。ちょうど渋谷さんは梅原龍三郎が興した国画展に「空」という絵で初入選した頃だったが、ほとんど無名だった。そこで、私は毎日新聞の山田記者に渋谷さんのことを紹介した。さっそく山田記者は取材をして新聞に大きく取り上げてくださった。その後も山田記者は渋谷さんの動静を新聞に取り上げてくれることになった。
警部補で山形に転勤した私は中央公民館で渋谷さんの個展を開催する算段をした。当時の社会教育課長や印刷会社社長・豊田太氏、かねか園の社長などが協力してくれて実現した。七日町界隈に古紙の裏を利用した手作りのビラを作製して宣伝した。個展には大久保山形市長も注目、市でも渋谷さんの絵を購入することになった。渋谷さんはその後、国画展に連続して入賞、遂には審査員となった。 渋谷さんは、長井市から山形市に移り、山形市平清水の住居、十畳一間の家に家族全員で暮らす生活となる。 当時の署長は私と渋谷さんの交流を暖かく見守って下さった。絵が認められるようになって、渋谷さんは松山の私の自宅の隣地に住居を構えた。山形新聞に真壁仁氏が斉藤茂吉の伝記を連載したときの挿画も担当した。 渋谷さんの奥さんとの交流は平成16年に円吉氏が亡くなった後も続いている。 (奥さんは平成20年5月15日朝、逝去されました。) (談) (2008年4月26日UP,5月17日一部更新)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
八幡町助役に就任 昭和56年から2年間、山形警察署長を務め、昭和58年に山形県警察を定年退職した。その後、郷里の八幡町の助役として招かれることになった。署長官舎から山形市松山の自宅に落ち着くこともなく、八幡町字法連寺与作新田5番地に引越し、家内には新しい苦労をかけることになってしまった。 就任のあいさつで、「広報やわた」No.261(昭和58年4月1日号)に、私は次のように書いている。 「このたび、美しい自然と人情豊かなふるさと八幡町の助役に選任されたこと、大変幸せに思います。 これからの時代は、愛情・友情・信頼など、心の豊かさが何よりも大切にされる時代であり、人生の楽しさは、人間の出会いふれあいにあると思います。私は町長を補佐する助役という仕事を通じて、多くの方々とお知り合いになれることを何よりの楽しみに着任いたしました。 そして、この八幡町をより明るく、豊かなものにするために一生懸命につとめ、皆さんのご期待にこたえたいと思います。 どうぞよろしくお願い申し上げます。」 昭和62年に辞職するまで3年間の助役生活は、国と地方行政の問題点を痛感する職場であった。 (2008年4月26日UP) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
親父とおふくろ 親父(作治)はおふくろ(さだを)の婿養子として與冶衛門(よじえもん)家を継いでいた。私が物心ついたころは、2人とも朝早くから夜遅くまで外で働き、親子のふれあいはなかった。祖母が家にいて私たちに接していた。 祖母よしをはやさしく利口なひとでみんなに親しまれていた。 親父は丈夫な人で、仕事はよくできたようである。 農家といっても120戸で50町歩の農地をわけあって耕作していた部落であるから、炭焼きをかねて生活している人が大部分であり、うちもその例外ではなかった。水田7反歩、畑2反歩、山林3町歩を利用し、炭焼きを兼業、祖父・千代吉が村会議員と営林署との仲立ち役の山総代をしていた。 親父は応用能力があって自分で石屋をはじめ、石材をとって稼ぎ、さらに冬の仕事には鉄砲による狩猟もやり、ブナ材を利用して農具の鍬の柄もつくった。黙々と働き家計を支えていた。石材をとる作業中にひざの骨を折る大怪我をしたことがあり、この後遺症に悩まされていた。しかし我慢強く、炭大小2俵を背負って、山道を運びことができるまでになった。 私は父親と2年がかりで火災で焼けた家を再建し、その借財をかえすために、さらに2年炭焼きをして負債をなくしてから、警察官となって家を離れた。 厳しい労働の連続であったが、夜は将来に大きな希望をえがき、中学講義禄で勉強していた。父は「1年だけ家にいてくれ」と引き止めた私が4年いて家をつくり、借金もなくしたことで感謝していた。 父は晩年、弟が入植した大台野の畑作りが好きで、耕耘機を利用して、大台野に通っていたが、夏に腹をこわして寝込み、寝たきり老人になってしまい、おふくろや和夫夫妻の厄介になり、80歳でなくなった。 よく働くこと、いろいろな仕事に果敢に挑戦したこと、元気な時代には一切口説かない(不平を言わない)こと、家族の生活を支えたことなどは評価できるが、寝たきりになってからは、頑固にリハビリはせずに「こんどはお前たちが俺の面倒を見る番だ」と威張りちらしたことは不幸であった。 関節が固くなっただけであるから、リハビリをすれば、また農作業に復帰し、楽しい余生を送れたと思われたのに残念であった。 おふくろは、父を支えて、地味に暮らしてきた。 やさしく、こどもは一切怒ったことがなかったようだ。孤独に耐える強さがあり、晩年和夫夫妻が働きに出た後、留守を独りでまもり、一切くどくこともなく淡々とくらしていた。一般に人は孤独に弱く、さびしがって、ノイローゼになったりするものであるが、一年中ひとりでテレビをみて、なんの不満も言わず、ゆうゆうとくらしていた。この孤独にたえる偉大な力におどろいた。
山形の私の家に来て、写真を撮ったのが気に入り、葬儀用にとひきのばしていた。また、私が米沢署長のときに米沢に来て、酒田のおしん伯母とふたりで、一ケ月も泊り、ふたりであれやこれやを話し合い、こんなに楽しいことはなかったといって帰っていったことがあった。 私は、仕事に没頭していて、升田に行く機会はめったになかった。お金はせいぜい一万か二万円程度しかわたしていないが、親父にもおふくろにも負担をかけたり、心配をかけたりすることはなかったので、せめてもの親孝行というものか。 母は、「送ってくれたさくらんぼが、おいしかったよ」と私に電話をよこした翌朝、「気分が悪くなった、昭と淑子に知らせてやれ」と言って、まもなく息をひきとったとのことであった。(平成15年8月10日記)
(平成20年4月26日記) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和16年(1941年)3月 日向高等小学校 高等科2年卒業.最後列左に池田昭(14歳のころ),最前列左から2人目が大風先生 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
火災の後 今で言えば中学3年のとき、火事で家が焼失した。 升田部落約100戸のうち83戸が焼失した大火だった。火元は実家の数軒隣の家だった。朝の4時ころだろうか、その家の嫁さんが竈でご飯を炊き始めた。燃やしつけて、ほんの少し火元を離れた。その隙に竈の近くの木々に火が燃え移ってしまったのである。あわてた嫁さんは実家に助けを求めに走った。家人を起こせばまだよかったのだが、嫁に来て日が浅かったこともあり、気が動転してしまったものであろう。運が悪く風の強い日であった。火はみるみる燃え広がり、隣に燃え移った。 「火事だ!」との声に外に出てみると、もう隣が轟々と音をたてて燃えていた。屋根に上がって飛んでくる火を消せということになり、ホウキを持って屋根に上がった。火の粉をたたき消すのである。しかし、無駄であった。なにせ茅葺きの屋根である。落ちた火の粉が風に吹き上げられて一気に燃え上がっていく。次々に火が飛んできて、ほどなくもうダメだ、あきらめて逃げるしかないという判断になった。下に降りたらもう家の中にも火が入っていて煙が充満し始め、中に入れなかった。中の物を持ち出すことも出来なかった。このとき、祖母が持ち出したのが仏壇の位牌と念仏用の鐘だった(現在、この鐘は妻・貞子の仏壇の前にある)。火は次々に燃え移り、被害を免れたのは上流の4戸だけだった。隣の婆さんが燃え上がる家を見て「実相だ」と泣いていたことを覚えている。実相とは、「あるべきはずのない現実」のことだと後に漢和辞典で知った。 焼けだされた私たち一家は遠縁の親戚の家にお世話になったが、そこで一番の思い出は塩辛だった。内臓だけでイカの身が入っていない塩辛だったが、貧乏な身には何よりのご馳走だった。 父親・作治はそれ以前に、私に一年だけ家の手伝いをしてくれと言ったのだが、この火災のため、結局、家を再建する木材を切り出すことになってしまった。 私は現在で言えば、高校1年生に当たる年齢であった。 家の森林から、杉の木を手鋸で切って(一日3本くらいは切り出したろう)、一定の長さ(5間くらいの長さ)に切り、細い林道に置いたリヤカーまで運ぶ。山道は地面に敷いた丸太の上を転がすのだが、それが難儀である。リヤカーを引いて木材を製材所まで運ぶ。製材所の長に、その材木の用途により、何寸角に裁断するかを指定して切ってもらう。 もっとも重労働だったのは、建具用の材木ホオの木を製材所へ運んだ日だった。 火事で焼失した家の再建は借金をしてでもその年のうちにした家が3分の2だった。わが家は翌年に再建した。自分の杉林の杉を活用しようという算段もあったろうし、3千円も借金をするのはもったいないという計算もあったろう。しかし、この遅れは結局高くついた。戦争が進んで物価が上がり、建築資材も高騰化したからである。釘もガラスも満足に買えなくなってしまった。一年前なら3千円で立派な屋敷が再建できたのが、3千円ではとても住めるような家にならない。かえって3百円余分に借金しなければならないような羽目に陥ってしまったのだ。情勢判断の重要さを思い知ったものである。 長男は戦地へ出征していた。次男は満州へ行っていた。三男の自分が中心になって家を造らざるを得なかった。
高校2・3年に相当する時期は炭焼きに明け暮れた。 炭焼き用の木を切り出して炭焼き窯まで運ぶ。 父親が焼いた炭を俵につめる。八貫目を2俵、父親は背負う。 自分は八貫目と四貫目の俵を背負った。炭の俵を組合の小屋に納めて一日の労働終わる。 夕方家に帰ると、上がり口から居間までは、はっていくような疲れ方だった。 一服して風呂へ入り夕飯を食う。一日で履きつぶしてしまったワラジを作る。地下足袋が高価で買えないので、素足にワラジを履くのだが、一日でダメになってしまうのだ。一足作るのに40分から一時間はかかる。けれども、作り方を工夫して一足20分で完成させるまでになった。 それから眠い目をこすりながら、中学講義録の勉強をする 午前3時には起床してまた炭焼き作業に従事する。そんな生活が2年間も続いた。 当時,作った俳句をひとつ 牛あらふ こどもの肌も 黒びかり あきら (談) (2008年5月15日UP,2009年2月25日一部更新) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
肋膜炎の後 警察官になって3年目に巡査部長試験に合格し、昭和23年3月に小国署に配属された。署で用意してくれた家がひどかった。木の梯子で上がる屋根裏部屋で狭い場所に4人もの若者が共同生活をするのである。食事の準備も外で七輪でするというひどい状況であった。私はさっそく近所に下宿を見つけてその部屋を出た。一緒に共同生活を共にしていた警察事務官のT君はやがて結核を発病し、昭和29年ごろに亡くなってしまった。 私も家内と結婚した直後の昭和27年に肋膜炎を発病した。警察では官区学校に保健の設備があり、療養しながら勉強することができた。休養と栄養をとりながら仕事を続けることができたのである。警部補試験に合格して長井署の警備担当主任、その後、昭和33年から武田署長の要請により山形警察署の警備係長として働いた。昭和33年当時は労働争議が頻発、学力テスト反対闘争の教員組合のストライキ、湯の浜所属問題などに重ねて、昭和33年には皇太子・美智子妃殿下の行幸と体を休める暇も無かった。 朝出勤すると前日の疲労で警察署四階の警備課まで階段を上がることができない。手すりにつかまって自分の体を引き上げるようにしてやっとのことで机にたどりつく。途端に電話が鳴る。事件の報告を作り、上司に回す。外勤や内勤をこなして勤務時間が終わった後、今度は一日の報告書を書く。何枚も書いた報告書を、もう一度まとめ直して二、三枚の報告に仕上げるのだった。猛烈な早さでまとめ上げて上司の課長に提出。承認を貰って上司を見送った後、部下の巡査二人に清書してもらう。清書が終わると電送する。ようやく帰宅できるのは午後10時ころである。こんな日が毎日、一年間続いた。 そんな状態で警部試験を受験して、合格したのは奇跡に思えた。毎日の報告書のまとめが知らず知らずのうちに文章修業の訓練になっていたのであろう。合格したお蔭で昭和34年の一年間、警察大学校へ留学できた。結核が完治していなかったので、体育実技を免除された私はここで病気をゆっくり直すことが出来た。当時使われ始めたストレプトマイシンのお蔭で私の肋膜炎は徐々に回復した。図書館から借りた本もたくさん読めた。この一年間が無ければおそらく過労で死んでいたことであろう。警察大学校から山形署に戻ると、昭和35年、第一次安保闘争で激務の毎日が待っていたからである。 (談) (2009年3月3日) |