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わしがなんで「逮捕」されるんじゃ! [気になる下落合]

金山平三1.JPG
 吉武東里Click!が設計した、美しいスパニッシュ建築の刑部人邸Click!が解体され、そのあとに建設されたタウンハウス風のシャレた集合住宅なのだが、いつまでたっても入居がはじまらないと思ったら、昨年ディベロッパーが倒産してしまったようだ。下落合のタヌキの森の工事中「重層長屋」Click!もそうだけれど、四ノ坂の物件もこのまま“野ざらし”状態がつづくのだろうか?
 先日、「カフェ杏奴」Click!で調べものをしていたら、洋画家・刑部人Click!のご長男である刑部昭一様とお話する機会があった。杏奴のママさんから偶然、ご紹介いただいたのだ。現在は、四ノ坂から目白文化村Click!の第一文化村エリアへ移られているのだが、わたしはこれ幸いとお父様のことや旧・刑部邸のこと、あるいは金山平三Click!について取材させていただいた。刑部昭一様は、金山じいちゃんのもっとも身近にいたおひとりなのだ。「いや、ホントに変な人で・・・」と、お話いただいたエピソードの数々に、わたしは笑いClick!が止まらない。
 刑部様は一級建築士で、銀座2丁目に設計事務所を開設されていたのだが、お昼近くになると金山じいちゃんがやってきて、「やあ、昼めしに行こうか?」と誘いにくるのだそうだ。普通の感覚だったら洋画界の重鎮であり、しかも祖父と孫ぐらい歳が離れている“金山画伯”が誘いにきたのだから、当然お昼はおごってもらえる・・・と判断するのがあたりまえだろう。でも、金山じいちゃんに“あたりまえ”はまったく通用しない。要するに、ランチを“たかり”にきたのだ。いくら洋画の大家でも、描いた絵を1枚も売らないのだから、しょっちゅうおカネに困っていたそうで、外出先が銀座方面で昼どきを迎えると、どうやら刑部設計事務所がねらわれたらしい。
 また、銀座を歩く格好もすごかったようで、カンカン帽をかぶり浴衣を着流していたそうだ。しかも、その浴衣が並みの作りではない。手ぬぐいを1枚1枚つないで縫い合わせ、それを生地にして浴衣を縫うものだから、いろいろな模様が入り混じったツギハギだらけの“作品”なのだ。当然、裁縫好きの金山じいちゃん自身が縫い上げたのだろう。人形作品Click!の衣装から想像すると、かなり縫い目も粗くボロボロに見えたにちがいない。また、浴衣の“柄”には旅先の馴染み旅館の手ぬぐいも使われていたかもしれず、下諏訪の桔梗屋旅館Click!の“柄”も含まれてやしなかっただろうか?
金山アトリエ.JPG 刑部アトリエ.jpg
金山平三「港」1946-56.jpg 刑部人「渓流新緑(塩原)」1971.jpg
 いつもボロボロの格好をしているものだから、「洋画の大家」を駅まで出迎えた歓迎団の一行が、あまりにも汚い年寄りを見すごしたエピソードは、すでにこちらでもご紹介Click!しているが、刑部様によれば警察に捕まった“事件”もあったそうだ。そのときは、たいてい身ぎれいな装いをしていた刑部人も同行していたが、たまたま金山平三と似たような汚い格好をしていたらしい。戦後、ふたりそろって写生旅行Click!に出かけ、特急の1等車を利用したときのことだ。汚い風体の怪しい男ふたりが1等車に乗りこんでいるということで、まず列車の車掌がいぶかしんだ。そして、列車から警察へ通報してしまったのだ。駅へ着くと、さっそく警官たちがやってきてふたりは捕まった。
 「こちらは、あ、あの、一応これでも芸術院会員の、洋画の大家でおられる金山平三画伯で・・・」
 -ちょっと来い。
 「わしは、これから人君と、大石田の最上川を見に行くんじゃ!」
 -そ~かい、ちょっと来い。
 「わ、わしが、なんで逮捕されるんじゃ!?」
 -い~から、ちょっと来い。
 ・・・と、わたしの想像はもう止めどないのだけれど、ふたりは列車から降ろされ連行されてしまったのだろう。自宅に警察から連絡が入り、ようやく本人確認がとれてほどなく「釈放」されたようなのだが、まだまだ人を“見た目”だけで判断するのがあたりまえの時代だった。
金山平三2.jpg
 また、刑部昭一様が子供のころ、暮れになると金山アトリエへよく呼ばれた。1年間を通じて描いた絵を一同に並べ、気に入らない作品を焼却する手伝いをさせられたのだ。そのときの金山平三の表情は、非常にけわしく怖かったらしい。描いた絵は、すべて額に入れられアトリエに保管されていた。額といっても本格的なものではなく、おカネがないからダンボールでこしらえた簡易額だった。それをアトリエで1点1点眺めながら、気に入らない作品はダメ出しをして、庭先の焚き火に放りこむのだ。ダメ出しのキャンバスを、ダンボール額から外して火にくべるのが刑部様の役目だった。あまりにもったいないと刑部様は思われたそうだが、それを口に出して言えるような雰囲気ではなく、非常にピリピリした空気が張りつめていた。きっと、池へタライClick!を浮かべに刑部邸へとやってきた金山じいちゃんとは、まるで別人のような表情を浮かべていたにちがいない。
金山先生 長野市犀北館にて1963.jpg 堅山南風「K先生」.jpg
 刑部昭一様の結婚式に、金山じいちゃんはバリバリのモーニング姿でやってきた。でも、当時の一般的なモーニングではなく、かなり古色蒼然としたいでたちで、ひときわ目立っていたようなのだ。それもそのはず、そのモーニング、金山平三がフランス滞在中にあつらえたもので、大正初期のヨーロッパ仕立てだった。刑部様の回想は、まだまだつづくのだが、それはまた、別の物語。
 いろいろと、楽しいお話をありがとうございました。>刑部様

■写真上:「なっ、なんで、わしが逮捕されるんじゃ!?」。
■写真中上は、アビラ村Click!(芸術村)と呼ばれた旧・下落合(現・中井2丁目)に建つ、エピソードの尽きない金山平三アトリエ()と刑部人アトリエClick!)の内部。下左は、1946~56年(昭和21~31)制作の金山平三『港』。下右は、1971年(昭和46)制作の刑部人『渓流新緑(塩原)』。
■写真中下:「だから、なんで、わしが、逮捕されるん、じゃー!?」。
■写真下は、1963年(昭和38)制作の刑部人『金山先生(長野市犀北館にて)』。は、同じく1963年(昭和38)に描かれた堅山南風の日本画『K先生』。


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目白通りをバスガール争議団がゆく。 [気になる下落合]

ダット乗合自動車1.jpg 東環乗合自動車1.jpg
 1,001回目の記事は目白通りを走るアイドル、ダット乗合自動車のバスガールたちからスタート。
  
 大正末から昭和初期にかけ、女性あこがれの仕事に「バスガール」があった。いや、戦後もしばらくの間、バスガール(バスガイド)は女性の花形職種だった時代がある。昭和初期では、今日でいうところの女子アナや客室乗務員(スチュワーデス)の人気に匹敵するほどの職業だったろう。省線・目白駅Click!を出発し、目白文化村Click!北側の停留所を経由して練馬方面Click!へ、さらには豊島園へと向かうダット乗合自動車Click!にも、たくさんのバスガールたちが勤務していた。
 容姿端麗で頭がよく、停留所をアナウンスする声にも美しさが求められたバスガールだが、そんな彼女たちがいっせいに起ち上がった労働争議が、1935年(昭和10)ごろの目白通りを舞台に起きている。貴重な情報をお寄せくださったのは、目白通りでダット乗合自動車(1935年/王子環状乗合自動車→1936年/東京環状乗合自動車)に勤務されていたバスガール、上原(旧姓・田中)とし様を母親にもつ小川薫様だ。そして、労働争議の写真を含む、当時の目白通りを走る貴重な乗合自動車の写真を多数ご提供くださった。アルバムごとお貸しくださったのだが、そこに写っている写真類はいずれも貴重なものばかりだ。なぜなら、お母様の仕事がら、昭和初期の目白通り(目白・下落合)や長崎町界隈を走るバスを中心に、周辺の風景があちこちに横溢しているからだ。
 バスガールたちの決起の模様についてお伝えする前に、なぜ労働争議が起きたのかを考えてみたい。昭和に入ってからの労働運動や争議、罷業(ストライキ)、デモなどは当局の弾圧が徹底熾烈をきわめたため、よほど大きな事件・事故Click!でもない限り、ほとんど報道もされなければ、民間の記録としても残っていない。今日、見ることのできる記録は、圧殺する側だった警察(特高含む)の内部資料が主体だ。ダット乗合自動車労働争議の背景には、企業の吸収合併というテーマが絡んでいたようだ。上原とし様は、「ダット乗合自動車が国際興業に吸収合併されるのに反対した」と話されていたようだが、国際興業の前身である第一商会が設立されるのは1940年(昭和15)のことであり、昭和10年前後の状況には当てはまらない。なにか、別の合併話に絡む動きがありそうだ。そこで、ダット乗合自動車の成立した経緯について見てみよう。
ダット自動車営業所マップ.jpg ダット自動車車庫マップ.jpg ダット自動車製造工場マップ.jpg
ダット自動車製造工場.jpg ダット乗合自動車2.jpg
ダット乗合自動車3.jpg 東環乗合自動車2.jpg
 目白駅から練馬駅、さらに豊島園へと向かうバスは、大正期に設立されたダット自動車合資会社によって運営されていた。おそらく、長崎町3923番地にあったダット自動車製造(株)と、高田馬場にあったダット乗合自動車(株)との共同出資によるものと思われる。ダット乗合自動車(株)は、高田馬場駅を起点に早稲田から若松町をめぐるバスの運行をしていた会社だ。大正末か昭和の初期あたりに、目白駅を起点とするダット自動車(資)は、高田馬場駅を起点とするダット乗合自動車(株)へ経営統合されている可能性がある。なぜなら、昭和期に入って写された目白通りのバスには、「ダット自動車」ではなく「ダット乗合自動車」のネームがすでに見えているからだ。上原とし様は、ダット乗合自動車(株)時代にバスガールとして採用されている。
 1933年(昭和8)に親会社であるダット自動車製造が、鮎川コンツェルンの石川島自動車製作所(のちの日本産業)に吸収合併されると、ほどなく1935年(昭和10)にダット乗合自動車にも吸収合併の話が持ちあがる。相手は、王子環状乗合自動車(翌年に東京環状乗合自動車と社名変更)だった。この吸収合併の騒ぎの中で、労働条件の悪化やベースダウンに反発して、「合併反対」のダット乗合自動車労働争議団が結成されたのではないか。でも、吸収合併は強行されダット乗合自動車は消滅した。そこで、職場の待遇改善やベアを要求しつづける闘争を継承した争議団は、名称を東京環状乗合自動車労働争議団(略称:東環争議団)と改めた・・・とわたしは解釈している。そして、争議団のメンバーたちが集まって撮影されたのが、闘争勝利へ向けた下の記念写真だ。
東環労働争議団.jpg
東環労働争議団拡大1.jpg 東環労働争議団拡大2.jpg
 ここに写っている争議団員は、130名(社会情勢を考慮するなら、写真を避けてメンバー全員ではない可能性さえある)を数えるので、当時としてはかなり大規模な労働争議だったと思われる。全体の3分の2をバスガールたちが占め、残りの男性たちはドライバーあるいは整備員、さらには事務職の人たちだろう。印が上原とし様だが、団員たちの背後にはさまざまなポスターや檄文が貼られているのが見える。その一部を拡大して読み取ったのが、以下の文章だ。
  
 弾圧の口実を与へる様な非合行為は避けよ/行動は威嚇を恐れず大勝(胆?)○動敢に
 我々の大勝(胆?)に行動○○反動/を死滅○○勝利の道だ!!/デマ中傷に迷ふな!
 苦難の交渉○/全員緊張○/勝利を○○
 必勝つ/東環争議團
 狸に騙れん!
  
 どうやら、東京環状乗合自動車の社長あるいは役員は、下落合のバッケに棲むタヌキさんClick!とは異なり、人を化かしてだます性質(たち)の悪いタヌキだったようなのだ。
 集会のあと、目白通りへデモ行進に繰り出した争議団を、あらかじめ配置されていた警官隊が襲撃し、無抵抗なメンバーを次々と検挙・拘束していった。上原とし様は幸運なことに、ひとり前を歩いていたメンバーが捕まったせいか、直後を歩いていて偶然にも逮捕をまぬがれている。警察によるあからさまな嫌がらせと、見せしめによる弾圧だった。彼女は逮捕こそまぬがれたけれど、その直後に会社から争議団に加入していたこととデモに参加したことを理由に、「1年後には辞めてもらう」という時限つき解雇通告を受けることになった。
ダット乗合自動車4.jpg 東環乗合自動車3.jpg
上原とし様.jpg 東環乗合自動車4.jpg
 ここにご紹介している、目白通りや南長崎通り(通称:バス通り)などを走る、昭和初期のダット乗合自動車または東京環状乗合自動車の写真は、アルバムのほんの一部にすぎない。これら超貴重な写真類は「上原としアルバム」と名づけ、これからもこちらの記事で順次ご紹介していこうと考えている。たいせつなアルバムをお貸しいただき、ほんとうにありがとうございました。>小川薫様

■写真上は、ダット乗合自動車とともに記念撮影するバスガールたち。は、「驛白目」へと向かう東京環状乗合自動車の運転席から「よう、きょうは非番? 目白で映画か珈琲かい?」。
■写真中上は、1926年(大正15)制作の「長崎町事情明細図」に描かれた長崎町4053番地の「ダット自動車営業所」()、長崎町1965番地の「ダット自動車車庫」()、長崎町3923番地の「ダット自動車製造工場」()。このうち、ダット自動車製造工場は昭和初期に少し西(長崎町4236番地)へと移転している。中左は、長崎町3923番地に設立当初のダット自動車製造工場。中右は、ダット乗合自動車のボンネット前での記念撮影で、右から2人めが上原(旧姓・田中)とし様。当時のバスが、現在のものと比べかなりコンパクトだったのがわかる。下左は、やはりダット乗合自動車とともに写した記念写真で、背後は畑や空き地が多く残る長崎町か練馬界隈と思われる。下右は、南長崎通りあたりを走る東京環状乗合自動車を運転するドライバー。
■写真中下は、おそらく1936年(昭和11)に撮影された東京環状乗合自動車労働争議団の記念写真。ダット乗合自動車が消滅したあと、改めて結成されたばかりの「東環争議団」をとらえた貴重な画像だと思われる。は、争議団の背後に見えている貼り紙やポスターの拡大。
■写真下上左は、ダット乗合自動車に入社したころの上原とし様(右)と同僚。上右は、南長崎通りClick!の営業所からの情景と思われ、路上には2台の東京環状乗合自動車が写っている。下左は、東環乗合自動車を退職・結婚後の上原とし様(左)とバスガールの後輩。下右は、同じく東環乗合自動車の新しい車体を背景に、同僚のバスガールとドライバー。
 


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古い本棚をのぞいていると。 [気になる下落合]

落合地域1950.jpg
 最近、古い本棚を整理しているのだが、大正期から昭和期の面白い本や資料がいろいろ見つかる。みんな、親父が読んだり集めていた蔵書や資料なのだが、地図類もたくさん保管されている。その中に、1950年(昭和25)ごろと1965年(昭和40)に発行された、日本地図株式会社の「東京都区分図」があった。1965年(昭和40)現在で、定価が100円のハンディな街歩きマップだ。
 その地図で、新宿区の落合地域を見ると、いろいろと面白いことがわかる。上掲の地図が、1950年(昭和25)ごろの落合地域だ。まあ、なんとスッキリわかりやすい地域名になっているのだろう。下落合のエリアは、古来どおり目白学園の西までグリーンに塗られており、その南側には上落合と戸塚町がちゃんとそのままだ。昔ながらの名称どおりで、現在のようにゴチャゴチャと妙な町名がないところがいい。東京府の風致地区だった葛ヶ谷Click!は、戦前から西落合という町名が新たにつけられ、いかにも計画的な碁盤の目のような街づくりがなされている。
 十三間通り(新目白通り)は存在せず、山手線の端にあった「大黒ブドー酒」Click!や「森永乳業」の工場が記載されている。旧・下落合駅Click!のあった氷川明神前の「駅前交番」や、目白文化村Click!箱根土地本社Click!前にあった「文化村入口交番」Click!も、そのまま残っている。下落合駅近くに採取されているのは、交番ではなく「第四方面予備隊」と書かれているので警察予備隊の施設(宿舎?)だろう。そして、目白学園の隣りに国学院高等学校が採取されているのがめずらしい。同高校は、1949年(昭和24)から1956年(昭和31)まで下落合4丁目の目白学園近くにあった。
 でも、よく見ると「おやおや?」という記載も見られる。目白通りと山手通りの交差点から、下落合駅前へと南へのびる斜めの大通りは、いったいなんだろうか? 戦後すぐのころに立案された、計画道路なのかもしれない。聖母坂(補助45号線)よりも、はるかに道幅が広く描かれている。道筋から想定すると、「八島さんの前通り」Click!から西坂へと抜ける補助ルートのようだ。また、聖母病院や聖母短大がこの道の東側に描かれ、徳川邸Click!は野鳥の森公園の北側あたりに位置し、薬王院にいたってはミツワ石鹸の三輪邸Click!に建立されていることになっている。地図上で、勝手に引っ越しが行なわれているのだ。(爆!) 椎名町あたりで、山手通りから北へ分岐している大通りも気になる記載だ。聖母坂へとつなげる、補助45号線計画の名残りだろうか?
落合地域1965.jpg
 さて、15年後の1965年(昭和40)に制作された同地図は、どのように描かれているのだろう。相変わらず地名変更もされておらず、新目白通りが存在しないのも同じなのだが、またおかしな記載になっている。聖母坂がちゃんと幅広く描かれるようになったにもかかわらず、山手通りと目白通りの交差点から南へ斜めにのびる道路も、そのまま描かれつづけている。
 しかも、聖母病院がこの道の西側へと「移転」している。(爆!) そのすぐ下に見える○印は、旧・落合町役場(落合村役場)の跡地にできた、新宿区の落合第一出張所だ。つまり、聖母病院が今度は聖母坂沿いから、落合第一小学校Click!の北へと「移動」しているのだ。10年ごとに、引っ越しをする大病院もめずらしい。^^; 「東京都区分図」をポケットに入れて、緑が多い下落合を散策しようとやってきた人たちは、フィンデル本館Click!が見たいのに落一小の北側をウロウロ探しまわりやしなかっただろうか? 1965年(昭和40)版からは、15年前の不正確な同地図とは異なり、目標物となる施設や邸の名前がほとんど省略されているので、薬王院へお参りするために三輪邸の門をくぐってしまう・・・などという心配は、なくなっていたとは思うのだが。
 そんなハンディマップを片手に、落合地域を歩きまわるにはいい季節だ。下落合の公園や空地、たまに残る畑などでは、あちこちで野山に咲く野草を観察することができる。既存の家が解体され、次に建て替えられるまで赤土の地面が露出すると、さっそく待ってましたとばかり野草たちが生えてくる。風で種子が運ばれてくるのか、あるいは上に家が建っていたときはジッと地中で発芽をガマンしていたものか、あっという間に草原となってしまうのだ。その情景は、まるで大正末から昭和初期に描かれた佐伯祐三Click!『下落合風景』Click!に数多く登場する、「原っぱ」を髣髴とさせる。
春の野外植物1934.jpg 夏の野外植物1935.jpg
 東京の街中を歩くときでさえ、ハンディな野外植物図鑑があれば便利なのだが、ちょうどいい図鑑が本棚から出てきた。1934年(昭和9)に三省堂から出版された理学博士・本田正次の『原色・夏の野外植物』と、翌年の『原色・春の野外植物』の2冊だ。ほぼ昔の小さな葉書サイズでオールカラーの本書は、発売当初から1円50銭と高く、数年で1円80銭へ値上がりしているようだ。同書のシリーズで、いちばん早く出版された『原色・夏の野外植物』の「はしがき」から引用してみよう。
  
 近年植物採集が急に盛になつて来たことは何といつても喜ばしい現象である。自然に親んで植物を観察し、採集することは知識を獲得する上からは勿論、健康増進の点から云つてもどの位利益になるか分らない。特に当今の様に思想問題がやかましく云々される時にあつては尚更のこと注意を美しい自然物に向けて健全な品性や思想を涵養する事は最も必要なことではあるまいか。
                                                                (同書「はしがき・昭和9年6月」より)
  
 政治の動きには目をつぶり、社会観を主体的に探求するのはよそう・・・と言っているに等しいので、今日からみるとすぐさま反発をおぼえる文章なのだが、ほんのわずか10年後、当の「健全な品性や思想」のために多くの飢えた国民が、食べられる野草まで求めて郊外や野山をさまよい歩くハメになるとは、当時の本田正次は思ってもみなかったことだろう。
ウラシマソウ.jpg ホタルブクロ.jpg
 これらの図鑑は、鎌倉や湘南、丹沢、箱根、足柄などをハイキングするとき、必ず親父が携帯していたものだ。めずらしい野草が見つかると、子供のわたしにページをめくって花の名前や説明を見せてくれた。さて、街歩きマップが見つかり、原色の野草図鑑が出てきたということは、きっと親父が「もっと東京を歩け」と言っているのだろう。さっそく、下落合をベースにどこかへ出かけてみよう。

■写真上:1950年(昭和25)ごろに発行された、日本地図株式会社の「東京都区分図」。
■写真中上:1965年(昭和40)に発行された、同地図の落合地域。
■写真中下:1935年(昭和10)刊の『原色・春の野外植物』(三省堂)と、1934年(昭和9)刊の『原色・夏の野外植物』(同)。当時、オールカラーのハンディ図鑑はまだまだ高価でめずらしかった。
■写真下:ともに、鎌倉や大磯の山野でいまでも見かける、わたしの好きな野草たち。は、一度見たら忘れられない有毒のウラシマソウ。色はともかく形状はどこかマムシグサに似ているが、マムシグサよりもかなり数が少なくめずらしい。は、よく海の近くで群生を見かけるホタルブクロ。
 


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下落合からたどる「黒門」物語。(下) [気になる下落合]

太素神社参道跡.JPG 太素神社1915.jpg
 もう一度、相馬邸の下落合から中野への転居と、黒門の移築などの経緯をまとめてみよう。
-1939年(昭和14) 相続に関連して相馬邸が売却され、相馬家は下落合から中野へ転居
-1941年(昭和16) 太田清蔵が福岡に香椎中学校を設立、初代校長に長沼賢海が就任
-1941年(昭和16) 黒門の解体・移築作業がスタート、同時におそらく母屋の解体も開始
-1943年(昭和18)3月 香椎中学校の正門として黒門の福岡移築が完了
-1945年(昭和20)4月~5月 旧相馬邸の太素神社・庭門は空襲にも被災せず無傷で残存
-1945年(昭和20)秋 台風(枕崎台風?)により香椎中学校の黒門が倒壊、すぐに修復
-1946年(昭和21)4月 香椎中学校の経営者だった太田清蔵が死去
-1947年(昭和22)秋 台風の余波とみられる突風によって再び黒門が半壊
-1947年(昭和22)秋~冬 香椎中学校の生徒たちが半壊だった黒門を押し倒して全壊
-1948年(昭和23)4月 香椎高等女学校と合併し福岡県立香椎高等学校が誕生
-1950年(昭和25) 下落合の太素神社を福島県小高町へ移すために社殿を解体・撤去
-1952年(昭和27) 福島県小高町の相馬小高神社で遷座祭が行なわれ奥の院として設置
-1969年(昭和44) 相馬邸の跡地が地元の強い要望で「新宿区立おとめ山公園」として開園
-1990年(平成2) 福岡市で黒門付属の中間長屋と出番所(袖)を解体、重要部材を保存
-1996年(平成8) 香椎高等学校のシンボルとして黒門(門部のみ)を改めて新規復元
-2007年(平成19) 旧相馬邸敷地(おもに庭園部)である「おとめ山公園」の大幅拡張が決定
 まず、1915年(大正4)に相馬家が下落合へ新邸をかまえる以前、相馬邸は戸塚村大字源兵衛字バッケ下Click!の東側段丘上、すなわち現在の「甘泉園」に邸をかまえていたと伝えられる例が多いけれど、このとき黒門は甘泉園に建っていたのだろうか? 実は、この甘泉園にあった「相馬邸」が、もうひとつの大きな謎なのだ。下落合へ転居する以前、まだ御留山が近衛家の所有地だったころに制作された、1910年(明治43)の「戸塚1/10,000地形図」を見ると、甘泉園は「相馬邸」と記載されているだけで、門や邸が建っていたらしいフォルムや記号の描きこみが見られず、敷地は単に池や築山のある庭園のみの表現となっている。甘泉園=相馬邸の記載は、さまざまな地図にも見られ、なんと相馬邸が下落合から中野へと引っ越してしまったあと、1940年(昭和15)の地図でも甘泉園は相馬邸と記載されているのだ。
 1930年(昭和5)の地図から、甘泉園の高台に大きな建物が描かれているけれど、門の記号は相変わらず地図上には見えない。これに対して下落合の相馬邸には、はっきりと黒門の位置が門記号とともに採録されている。この甘泉園と下落合で二重に記載された相馬邸については、また機会を改めて書いてみたいけれど、おそらく明治期の甘泉園に記載された相馬邸(相馬庭園ないしは寮?)に、黒門は存在しなかったと考えたほうが自然だ。この課題は、実は相馬郷土研究会が2001年3月に発行した『相馬郷土』3月号の田原口保貞「相馬中村藩邸黒門のゆくえ」でも、黒門が甘泉園からではなく、明治以降に明治政府の命令で転居させられていた、津和野藩亀井家の旧邸(外桜田=現・内幸町)の門を移築したものだ・・・という論旨とともに、チラリと触れられている。
両袖門.jpg ベアト撮影1864.jpg
 「相馬中村藩邸黒門のゆくえ」ではまた、『「黒門」ものがたり』で指摘されている津藩(藤堂藩)ないしは南部藩(盛岡藩)の門ではないかとの伝承に対して、「俗説と思わざるを得ない」としている。わたしも同感で、実は津藩の藤堂家上屋敷の門は明治初期に写真に撮られて現存しているのだが、相馬邸の黒門とはまったく異なるデザインの両袖門だ。これらの藩は10万石を超える石高の大名であり、門がまえの形式が片袖門(出番所がひとつ)ではなく、両袖門(出番所が両側にふたつ)だったはず・・・なのだ。いまに伝わる一般的な格式の解説にしたがえば、5万石以下の大名は片袖門、5万石以上が両袖門(慣例として簡素な切妻仕様ないしは片屋根の簡易出番所)、10万石以上が唐破風仕様の豪華な屋根の出番所を配した両袖門・・・ということになる。でも、これら門がまえの格式には、より細かな譜代別(譜代も格式が分かれる)や外様別の暗黙の“お約束”があったと思われるのだけれど、詳しいことはいまに伝わっていない。「相馬中村藩邸黒門のゆくえ」から、相馬邸の黒門の由来についての謎に迫った部分を引用してみよう。
  
 では、ここで浮上させるとすればあの内幸町の旧亀井藩邸の表門を移築したのではないかということである。何故ならば相馬藩は六万石であるので、表門の出番所は左右におかれなければならない(五万石以上は両番所)。南部藩は二十万石・藤堂藩は三十余万石であるので、表門の当然両番所がなければならない。これは旧幕藩時代の規制であり、必ずしもそれに従うことはないわけではあるが、移築の際にわざわざ取り外したとは考えられない。/したがって、単純な考えで恐縮だが、この門は津和野藩主旧亀井藩邸の表門であった可能性が極めて高い。 (同誌より)
  
 わたしも、この推理に傾きかけたのだけれど、ややひっかかる点がある。それは、下落合の相馬邸に移築された黒門が、4万3千石の津和野藩の片袖門にしては、袖(出番所)が破風仕様であり豪華すぎること(中間長屋も豪華で大きい)。片袖門の場合、向かって左側に出番所が設置される例が多いが、相馬邸の黒門は向かって右(ありえないことではない)に設置されていること。中村藩相馬家は、6万余石と小大名にもかかわらず帝鑑間詰め譜代だが、津和野藩亀井家は外様であること(豪華な門は内証が豊かだとして幕府に睨まれやすい)・・・などなどだ。
 ※その後、津和野藩上屋敷の門は片屋根(庇)仕様の簡素な両袖門だったことが判明している。もちろん、相馬邸の黒門とはまったく異なる意匠Click!をしていた。
 これらを総合的に考えると、中村藩の相馬家上屋敷は両袖門だったことはおそらく間違いないが、その格式が譜代だったので10万石以上の大名によく見られる唐破風の出番所を許されていたのではないか。ましてや相馬家は、鎌倉期以前より連綿とつづく生っ粋の関東武士団の末裔であり、格式からいえば同じ関東武士団の末裔である世良田家(徳川家)と対等または格上だったはずだ。そして1868年(明治元)、明治政府が相馬家へ津和野藩上屋敷への引っ越しを命じたとき、江戸期の慣習が抜け切れない当時としては、門をそっくり移築したか、あるいは解体した部材をそのまま持って転居したのではないか?・・・ということなのだ。
 とりわけ家や結構の格式を重んじたであろう当時(いまだ感覚は江戸時代のままだっただろう)、「これからは、なにもかもが新しい時代だから」・・・と、いきなり片袖門の屋敷へ入ることに諾々と従ったとは、どうしても思えないのだ。相馬家の上屋敷から転居先の亀井家上屋敷まで、わずか300m前後の距離にすぎない。当時の大江戸(おえど)Click!大工の腕前からすれば、作業人数にもよるが解体はわずか数日で済んでしまっただろう。つまり、下落合の相馬邸の正門になっていた黒門は、もともと中村藩上屋敷の表門そのものではなかったか?・・・という可能性だ。
尾張屋切絵図1864.jpg 相馬邸跡1947.jpg
 では、なぜ片袖門になってしまったのか、その可能性はふたつ考えられる。ひとつは、転居先の津和野藩上屋敷には片袖門を建てるだけの門スペースしかなかったためだ。だから、片袖を落として移築せざるをえなかった。(いまだ格式を重んじる当時としては非常に考えにくいケースだが) また、もし仮に津和野藩の上屋敷へ相馬藩の両袖門が建てられたとすれば(両袖門の部材を邸内へ保管したケースも含む)、片袖になった理由は次の時代にある。つまり、下落合の相馬邸敷地に、両袖門が建てられるのに十分な水平で直線状の道が“足りなかった”ということだ。時代が大正初期にもなれば、6万石の相馬家の門はどうしても両袖でなければならない・・・といった、門がまえについての江戸期の結構や格式に対する頑迷な考えは、さすがに薄れてきていただろう。
 ここで、黒門が建っていた下落合の道路を思い起こしていただきたい。東西に走る相馬邸の北面道は、途中で大きく「く」の字に屈曲している。西側の直線に走る道路に面して、長屋つきの長大な両袖門を建てようと思えば建てられたのだろうが、ここにはどうしてもスペースを確保しておかなければならない、表門の移築などよりももっと重大な理由があった。相馬邸内にあった、太素神社(妙見社Click!)の社殿を、参道や鳥居、神輿蔵、付属蔵ともども丸ごと設置しなければならなかったからだ。(この妙見社も明治初年、相馬藩上屋敷から津和野藩上屋敷へ移築されていた可能性がある) 下落合の相馬邸を上空から見ると、主な屋根の配置が北斗七星のフォルムClick!に見えるのだが、妙見社の安全かつ確実な移築はこの転居における相馬家の最優先課題だったろう。したがって、黒門の位置はどうしても東寄りにならざるをえなかった。でも、東に寄せると「く」の字の屈曲部に、どうしてもかかってしまう。だから、やむなく左側の袖(出番所)や長屋を落として片袖門となった・・・。
 いっそのこと「く」の字に屈曲した先、東側の道路に面した位置なら、まだまだスペースがあったのでそちらへ移築すればよかったのに・・・と、いまの道路状況を見るとつい思ってしまいがちなのだが、大正時代の周辺の地形を想定していただきたい。現在は、戦後の地下鉄工事で出た土砂によりずいぶん水平にならされているけれど、大正初期は林泉園Click!の湧水源からの渓流が流れる谷間に向かって、道はかなり傾斜していたはずなのだ。中間屋敷が付属する長大な両袖門を、傾斜面の坂道に建てるわけにはいかない。こうして、下落合の相馬邸は両袖の黒門を移築しようとしてはたせず、片袖のままになってしまった・・・という推測はいかがだろうか。
相馬邸前屈曲部.JPG 相馬小高神社奥の院.jpg
黒門棟上式1996.jpg 黒門現在.jpg
 さて、下落合の相馬邸から移築された黒門は、福岡市で1990年(平成2)までその半分(中間長屋や出番所)ながら見ることができた。現在でも、先述した「香綾会館」を訪ねれば、その重要部材を見ることができるのだろう。でも、黒門の門部自体は、すでに1947年(昭和22)の突風と生徒たちの“ダメ押し”で倒壊して以来、その姿を消してしまった。現在、同校の黒門として建っている正門は、1996年(平成8)に新しく復元されたもので、太い門柱にはカナダ産のヒバが使われている。

■写真上は、下落合の相馬邸内に建立されていた太素神社(妙見社)の参道跡で、現在でも行き止まりの路地となっている。は、1914年(大正5)に撮影された邸内の参道と拝殿。
■写真中上は、明治初期に撮られた唐破風の出番所を備えた両袖門だが場所は不明。相馬家上屋敷にあった両袖の黒門も、このような風情だったろう。は、1864年(元治元)にフィリップス・ベアトが愛宕山から撮影したパノラマで、内濠の向こうに津和野藩上屋敷が見えている。
■写真中下は、ベアトが大江戸市街を撮影したのと同年、1864年(元治元)に改訂版が出た尾張屋清七版の切絵図「麹町永田町外桜田絵図」。同切絵図の“お約束”によれば、名前の向く頭方向の家紋の位置に屋敷の表門は建っていたことになる。は、1947年(昭和22)現在の下落合・相馬邸跡。母屋の建物は、空襲前の1944年(昭和19)以前に解体されている。
■写真下上左は、相馬邸跡の北側に接する道路の大きく屈曲した部分の現状。上右は、下落合の相馬邸から福島県相馬郡小高町の相馬小高神社の奥の院として移築された太素神社(妙見社)の現状。下左は、1996年(平成8)に撮られた香椎高等学校の新しい黒門の棟上式。下右は、復元直後の黒門の様子。香椎高校の新「黒門」は、いずれも同年に出版された『「黒門」ものがたり』より。


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下落合からたどる「黒門」物語。(中) [気になる下落合]

香椎黒門1947ごろ.jpg
 1945年(昭和20)の秋に来襲した台風(枕崎台風?)で、香椎中学の黒門はあっけなく倒壊してしまう。下落合に伝わってきた「黒門は台風で倒壊した」という風聞は、おそらくこのときの出来事を伝えているのだろう。だが、再建修理は早々に行われたらしい。翌年には、すでに修理を終えた黒門の下を生徒たちがくぐって登校している。
 しかし、この再建修理が戦後の混乱期のことでもあり、修理用の部材も良質なものが手に入らなかったのか、かなり無理を重ねた中途半端なものだったとみえ、黒門は1947年(昭和22)の秋に、今度は台風の余波とみられる突風で、再び柱が大きく傾いてしまった。このときは半壊状態で危険なため、黒門の通行が禁止されている。今度は、敗戦直後のようにすぐに修理するというわけにはいかなかった。前年の1946年(昭和21)4月に、香椎中学校の大きなうしろ盾だった太田清蔵が死去し、同校は経営難から同年12月より、福岡県へ県立移管を申請しはじめていたからだ。おそらく、黒門の修理どころではなく、学校の存続さえ危ぶまれていた時期だったろう。
 黒門を最終的に全壊させたのは、どうやら突風のしわざではなかったようだ。『「黒門」ものがたり』には、黒門にとどめを刺した「犯人」の「告白文」が収録されている。
  
 私たちは、中学五年生でした。それより半年か一年ぐらい前に門が半壊して、傾いだ主柱につっかい棒をして補修をしていましたが、少し修繕したかと思うと何カ月も手がつけられず、瓦は落ちたまま屋根は斑になっていました。/子供心に、修繕するなら早くやればいいのに、やらないのなら、あんな陰気でみっともない門なんか片づけてしまえばいいのにと、友達同士で話し合ったのを覚えています。/と、言うのは、汽車通学で途中顔を合わせるA中学の生徒が、黒門をサカナにしては私たちの中学のことをバカにするからです。/「おまえは、どこの学校や」/「香椎たい」/「ああ、寺子屋の奴か」/「寺子屋とはどうゆうことや」/「門は、寺の門、中身は寺子屋、先生は時代後れのチョンマゲちゅう話じゃ」/「なんばこっきょるとかア」/と、いうことで殴り合いが始まる。
                                   (同書収録の村田善鴻「黒門記」より)
  
香椎黒門1947ごろ部分.jpg
 確かに、長屋や袖(出番所)などの全体を見ず門部のみを見れば、どこか寺院の山門のように見えなくもない。また、明治以降は大名屋敷の門を寺院の門として移築した事例も多々見られるので、逆に大名屋敷の門がことさら寺院の門のように見えてしまったのかもしれない。こうして、周囲からバカにされるのは、半壊でみじめな黒門があるからだとの想いが募るばかりだった生徒たちは、黒門さえなければ・・・ということで、相撲が得意な友人に力だめしの誘いをかけた。
  
 同じ汽車でH君というのが通っていた。体もガッチリしていて力も強かった。/「おい、お前がいくら力が強かっても、あの門は倒しきらんじゃろうねー」/「なーんばいうとや、あんなもんわけはなか」/「じゃー、やってんやい」/「おう、よか」/それで、最敬礼をしていた柱を両手でドーンと、一発ついたら、一抱えもある柱が簡単にひっくり返ってしまった。/「ウォー・・・?」/台風一過、空は藍色に抜けていた。(同上)
  
 このときに倒壊した(生徒たちが倒した)のは門の部分だけであって、もちろん右手の出番所(袖)や中間長屋の建物は健在だった。その後、黒門の残骸は撤去され、1948年(昭和23)4月に福岡県立香椎高等学校として再スタートをするのだけれど、ついに黒門自体が再建されることはなかった。でも、門の半分である中間長屋や袖(出番所)は、そのまま1990年(平成2)まで建っていたのだ。その重要な部材、鬼瓦や雲版(うんばん)、斗供(ときょう)、懸魚(げぎょ)、虹梁(こうりょう)などは、同市の香椎高校同窓会組織である香綾会の「香綾会館」に保存されている。
黒門1936.jpg 黒門跡2009.JPG
 さて、『「黒門」ものがたり』を読んでいたら、下落合に住んでいるわたしが「あれ?」と思う、気になる箇所がいくつか見られたので、以下に少しまとめて整理してみたい。
◆「赤門」と「黒門」の解釈
 同書では、大江戸Click!の加賀藩上屋敷(現・東大敷地)のみが「赤門」Click!だったように書かれているけれど、将軍家の娘を嫁さんにもらえばどの藩でも「赤門」が構えられたわけで、当サイトでも佐賀藩松平鍋島家の上屋敷「赤門」Click!をご紹介しており、前田家の赤門は一例にすぎない。
◆相馬邸の買収時期
 太田清蔵が相馬邸を買収したのは孟胤の死後、相続税の支払いに絡み相馬恵胤が下落合から中野に転居する1939年(昭和14)ごろであり、1937年(昭和12)ではない。それは、1938年(昭和13)に下落合の邸内畳廊下で撮られた、相馬雪香の写真Click!を見れば明らかだ。
◆「おとめ山」の表記
 おとめ山は、将軍家の鷹狩場としての幕府直轄地で、立入禁止という意味の名称「御留山」に由来しており「乙女山」ではない。もちろん天領なので、大名の下屋敷が建っていた事実もない。ただし、幕末には御留山に隣接して幕府の大旗本である酒井家の下屋敷(寮)が建っていた。
◆相馬邸の消滅
 下落合の相馬邸は、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲で焼失したのではない。陸軍の空中写真Click!でも明らかなように、1944年(昭和19)にはすでに邸の建物は存在せず、相馬邸敷地を東西に横切る道路がすでに造成されており、同年以前に解体されている。
◆「東京三十五区区分地図帳」の不正確
 上記に関連して、1946年(昭和21)に制作された同地図Click!は、相馬邸に限らず東京の「焼失域」や「建物疎開域」の色分け区分が非常に大雑把だ。戦後、米軍が爆撃効果測定用に撮影した空中写真と比較すると、実際の被害地域と同地図の色分けには少なからず齟齬が見られる。したがって相馬邸に限らないが、同地図を被災の“裏付け”とするには不正確さがともなう。
黒門出番所1947ごろ.jpg 復元黒門1996.jpg
 次回は、もうひとつ別の角度からの視点、相馬家の国許である福島県の相馬地方から見た、黒門の物語を追いかけてみよう。地元の相馬郷土研究会Click!が2001年3月に発行した『相馬郷土』3月号掲載の労作、黒門の“謎”に迫った田原口保貞「相馬中村藩邸黒門のゆくえ」からだ。貴重な同資料をお送りくださったのは、将門相馬家ご一族の相馬彰様Click!だ。
                                                  <つづく>

■写真上:終戦直後に接道から撮影された、香椎中学校と黒門(右端)。
■写真中上:上掲写真の部分拡大で、いまだ門が見えているので1947年(昭和22)秋前の姿。
■写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された下落合・相馬邸の黒門。は、現在の同所。
■写真下は、黒門の出番所前で撮られた写真で、雲版の様子がはっきりわかる。は、1996年(平成8)に復元された黒門。香椎中学の写真は、いずれも『「黒門」ものがたり』より。


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