戦前生まれのファンにとっては、懐かしいスターたちの面々。高峰三枝子、山田五十鈴、岸惠子、木暮実千代、高峰秀子、山口淑子、有馬稲子、轟夕起子、月丘夢路、原節子、上原謙の皆さんです。女優10人に対して、なぜか男優はひとりですね。
この本は近代映画社創立62周年を記念して出版されたもの。平成18年11月に初版発行。
●原節子さん(左)・・美貌という言葉は、戦後の荒廃した時代にさわやかな彩りを投げかけました。原さんは、まさにその名にふさわしい美しさでした。
●高峰秀子さん(右)・・木下恵介監督の「二十四の瞳」がリバイバル上映されるなど、名作は時代を越えて健在です。昭和に輝く代表的なスターです。
●岸惠子さん(左)・・和服を着ても、どこかモダンな岸恵子さん。松竹映画「君の名は」の眞知子役は大当たりでした。今なお、映画、テレビ界で大活躍。
●山口淑子さん(右)・・爆発的な人気スターであった山口淑子さんは、男性たちの憧れの的。昭和25年、脚本・黒澤明、監督・谷口千吉の「暁の脱走」は記念すべき映画。
●淡島千景さん(左)・・宝塚から松竹へ入社。「てんやわんや」(監督・渋谷実)で主演デビューを飾りました。昭和30年、森繁久弥さんとの共演「夫婦善哉」は代表作の一つです。
●乙羽信子さん(右)・・宝塚という夢の花園から大映に入った乙羽信子さんですが、後年は演技派女優として大活躍しました。代表作に「裸の島」があります。
●八千草薫さん(左)・・宝塚の娘役から東宝映画に転じ、可憐な演技を見せてくれました。日伊合作映画「蝶々夫人」に主演し、合作映画の先駆けを作りました。
●津島恵子さん(右)・・大船撮影所でモダン舞踊を教えていたのですが、吉村公三郎監督の目にに留まり女優として転身。「安城家の舞踏会」がデビュー作です。
●有馬稲子さん(左)・・チャーミングな中にも知的で聡明な美しさ。昭和27年1月宝塚歌劇団を退団して東宝映画へ。目下は主に舞台女優として活躍しています。
●山本富士子さん(右)・・昭和25年、ミス日本の栄冠を獲得し、昭和28年大映入社。デビュー作は「花の講道館」。吉村公三郎監督の「夜の河「」が代表作です。
●若尾文子さん(左)・・往年の二枚目スター、長谷川一夫さんに弟子入り。その紹介で大映ニューフェイスになり、努力の甲斐があって看板スターで大活躍。
●南田洋子さん(右)・・大映の新人女優として性典シリーズで活躍された後、日活へ入社。「太陽の季節」で日活に初出演。
上の画像は昨年(2011年)に発行された週刊ポスト12月16日号の記事をスキャンし、転載したものです。
われわれは、できればボケることなしに、100歳まで現役でいたいものですね。
教えるのは順天堂大学の教授・白澤卓二氏。1958年の生まれの54歳。
「ボケない道」放射線障害から動脈硬化まで効く「死海の藻」のパワー
死海はアラビア半島北西部に位置する塩湖で、西側をイスラエル、東側をヨルダンに接している。湖面の海抜はマイナス418メートルと地表で最も低く、死海の湖水が流れ込む先はない。そのため塩分濃度は上昇の一途をたどり、今では35%と湖水の高塩分濃度は生物が生息できないレベルに達することから、死海と呼ばれている。
体が沈まず、プカプカ浮かぶ浮遊体験が楽しめるのもこの高塩分濃度のおかげだが、30分も浮遊体験をしていると高塩分濃度のために高浸透圧性脱水に陥ってしまう。
イスラエルのワイツマン基礎科学研究所は、死海の湖水の一部がオレンジ色に変化していることに注目し、死海に生息できる藻を発見した。調べてみると、この藻はドナリエラ・バーダウィルという種類の微細藻類だった。興味深いことに、ドナリエラは緑藻類の仲間であるが、太陽光と高塩分濃度の環境下で、βーカロテン等のカロテノイドが細胞に蓄積されオレンジ色を呈することがわかった。
さらにこのβーカロテンを分析すると、半分はニンジンと同系列の色素成分で、残りの半分は9ーcisβーカロテンというβーカロテンの異性体の一つだったのである。
イスラエルは1990年から1994年の4年間に、チェルノブイリ原発事故(1986年)で放射線障害を受けた児童1001名を受け入れた。これらの児童はエルサレム郊外のハダサ病院で治療を受けた。原子炉に近い場所に住んでいた児童の健康チェックをすると、放射線汚染区域から避難しているにもかかわらず、内分泌疾患、眼科疾患、血液中の酸化ストレス指標が高いことがわかった。酸化ストレスとは酸化反応によって引き起こされる障害のことで、この指標が高いと、様々な病気を発症する要因となるものだ。
βーカロテンは抗酸化能力が高いことから、放射線に対する能力も高いのではないかと考えた。ハダサ病院のシャウル・ヤツィブ小児科部長は死海由来のドナリエラ粉末を57名の男児と42名の女児に3ヶ月間投与した。その結果、男児では、3ヶ月後に放射線による酸化ストレスを示す指標である血液中の脂質の酸化度は約20%、女児では約50%低下、明らかに放射線障害が減っていた。仮に汚染地域から避難した後でも、持続する内部被曝に対して抗放射線対策をする必要があり、9ーcisβーカロテンが放射線から人体を保護するのに有効であることがわかったのである。
日健総本社の故田中美穂社長はドナリエラの可能性に注目、質の高い天然型βーカロテンを管理培養生産することに成功した。その後も、ドナリエラ・バーダウィルに含まれる9ーcisβーカロテンには、放射線保護作用だけでなく、網膜色素変性症に対する治療効能や糖尿病や動脈硬化症に対する進行抑制作用などが報告され、死海の中で生きる生命力に限りないパワーが秘められていることが明らかになった。放射線汚染が広がりつつある日本でも、死海のパワーがこれから役に立ちそうだ。
以上で週刊ポスト「ボケない道」の記事を原文のままに引用転載致しました。
こんなきれいな女性に「忘れちゃいやョ」と言われたら、鼻の下が伸びますね♪ デヘヘヘ
「忘れちゃいやョ」が発売禁止
時節柄風俗の取り締まりがひじょうにやかましくなったが、最近レコード熱普及の波にのりさかんに市場にはんらんしつつある低級卑猥なレコードの取り締まりに乗り出した島根県では、社会風俗を乱すと認められるものは容赦なく発禁、あるいは没収などの方法により徹底的にこれを駆逐することとなり、過般ビクター・レコード「忘れちゃいやョ」(歌手・渡辺はま子)を断乎発売禁止に付した。
引用文献:(松陽新報/昭和11年11月3日)
昭和10年代初期、「ネエ」小唄というのがはやりました。女性が甘い声で「ネエ」という唄です。その代表的なのがこの曲で昭和11年2月に発売されました。ヒットしそうな曲なのに、なぜかB面に入れられ、A面は小林千代子と徳山璉(れん)の「ホの字の唄」でした。渡辺はま子のお色気たっぷりな歌い方が人気を呼んで、たちまち大ヒット、渡辺は、最後の「忘れちゃ嫌ョ」の部分が、何度やってもうまくできないので、ついに泣きながら歌ったところ、感じが出たそうです。それが内務省の検閲官に引っ掛かって注意されたので、ビクターは自主的に販売を中止し、同年9月に「月が鏡であったなら」の題で、歌い方を改めた改訂盤を出しました。この時はこちらがA面で、「ホの字の唄」は「うそか!ほんとか!」と改題されて、B面へ回っています。この「忘れちゃいやョ」の作詞者・最上洋(もがみひろし)は、三越のメッセンジャー・ボーイだった人で、世に出たのはこれ1曲で終わりました。
日本音楽教育センター発行「精選盤 昭和の流行歌」歌詞集より引用致しました。
画像は日本音楽教育センター発行/監修・服部良一の精選盤 昭和の流行歌・歌詞集の表紙
右から
●笠置シヅ子 コロムビア 東京ブギウギ&買い物ブギ
●美空ひばり コロムビア 川の流れのように
●岡晴夫 キング 男の涙
●西田佐知子 ポリドール アカシアの雨がやむとき
●加山雄三 アポロン 君といつまでも&夜空の星
●若山彰 コロムビア 喜びも悲しみも幾年月
(ジャケットの写真は、若山彰さんではなく、佐田啓二さんと高峰秀子さんが出てます)
岡 晴夫(おかはるお)
全盛時代はワンステージ20数曲を歌いまくったという超人的な岡晴夫さん。観客へのサービス精神が旺盛だったとか。大物歌手でNHK紅白歌合戦に出演したことがないのはただ一人、岡晴夫さんだけです。
岡晴夫さんが、NHKのラジオ番組の出演を拒否したお話。岡さんのもとにやって来たNHKの担当者が「簡単なインタビューと、歌は一曲だけですが、ぜひうちの番組に出演してほしい」と頼みました。
当時は、まだテレビもない時代。NHKのラジオといえば、たったひとつの貴重な電波媒体。どんな歌手でも、よろこんで出演するところです。ところが、岡さんは、相手に条件を出しました。
「一曲だけでは、わたしのファンは満足しません。どうか、30分は歌わせてほしい。それと、わたしがラジオに出ると専属楽団の『ニュースター』が仕事がないということになります。ですから、バックにこれを使ってもらいたいんですが」
NHKの担当者は、即座に答えました。
「それは無理ですな。こちらにも、番組の狙いというものがあるんですから」
岡さんも、あっさりと決断しました。
「それじゃあ、結構です」
岡さんの態度に怒ったのか、それ以来、岡さんにはNHKから出演依頼がくることはありませんでした。
昭和26年からはじまった『紅白歌合戦』にも一度も出ていません。
岡さんが出演したのは、26年7月に放送した『歌の花ごよみ』のただ一度だけでした。この時はNHKが折れて、岡さんは十曲歌いました。
あくまで生のファンを大事にする岡さんの仕事への態度は、生涯変わることはなかったのです。だが、それは、肉体の酷使につながっていきました。
当時は、まだ交通手段も発達していません。何時間も汽車や車にゆられながら巡業をおこなうのです。しかも、会場では、肉体の限界といっていいほどまで全力で歌いまくりました。
晩年は、糖尿病で入退院をくりかえしました。最後は、肝臓がんに蝕まれ、昭和45年5月19日、飯田橋の東京警察病院で息を引き取りました。行年54歳の若さでした。
右から
●森進一 ビクター 襟裳岬
●津村謙 キング 上海帰りのリル
●倍賞千恵子 キング 下町の太陽
●渡哲也 ポリドール くちなしの花
●近江敏郎&奈良光枝 コロムビア 湯の町エレジー&雨の夜汽車
●島倉千代子 コロムビア 逢いたいなァあの人に
津村 謙(つむらけん)
「ビロードの声」が美しかった津村謙さんです。『上海帰りのリル』は津村謙さん最大のヒットで、売れない歌手だった渡久地(とくち)政信さんを作曲家として世に送り出した曲です。作詞家の東条寿三郎さんの詞は「上海にいたリルという女が、日本に帰っているはずだが、どこにいるか知りませんか」という設定で書かれています。
戦前の「上海リル」という唄を踏まえているわけで、これは1933年(昭和8年)のワーナー・ブラザース映画「フットライト・パレード」の主題歌でした。日本で最初に歌ったのが、ニットーレコードの唄川幸子で、続いて川畑文子、ディック・ミネ、江戸川蘭子と歌ってヒットしました。
この詞をもらった渡久地さんは、津村謙さんの「ビロードの声」を生かそうと、20日も曲想を練って書き上げたそうです。新東宝が映画化して、島耕二監督、水島道太郎さんと香川京子さんの主演で昭和27年4月4日に封切られました。その続編として「風の噂はリル」という映画も作られ、主題歌「リルを探してくれないか」を津村謙さんが歌っています。
上の写真は、「たばこと塩の博物館」のチケット売り場で買った本の表紙カバーをスキャンしたものです。僕が子供の頃によく見られたマッチ箱が、最近は少なくなりました。昔のマッチ箱は広告が印刷してあったり、ラベルが貼ってあったりして見るだけでも楽しいですね。これって豆ポスターと言ってよいでしょうか。税別1200円。ポケットに入る楽しい文庫版。紫紅社発行/著者・三好一
近頃は広告マッチを提供してくれる商店や会社がめっきり減ってしまった。喫茶店には店名入りのマッチが置かれているが、それも請求しなければ貰えないという貴重品となりつつあるようだ。旅先のホテルやふと入った町の喫茶店でもらった広告マッチのラベルに、あの時の風景や嬉しかった事や淋しかった感情が湧き上がって来たのを、なつかしく思い出す。今は古い広告マッチや私の集めたラベルの中で、私だけの時の旅を楽しんでいる。三好一(みよしはじめ)
【たばこ】
都会のモダンライフに両切のシガレットはお似合いである。デザインも洗練されていて、図のようなエアーシップ、ホープ、翼などはパッケージをそのままマッチラベルにしたもの。エアーシップは大正5年5月21日に10本入り一箱十銭で発売。昭和12年8月31日、18銭の段階で廃止された。
両切煙草のゴールデンバットは東洋的なデザインで味のよいわりに値も安く人気があった。発売は明治39年9月1日で昭和15年11月1日、洋名がよくないと云うことで金鵄(キンシ)と名を改められ10本入り1箱9銭で売られた。戦後、ゴールデンバットは復活したロングセラー。
上の写真は昭和46年4月に発行された講談社の月刊誌「現代」に載っていたものです。石川光陽氏(元警視庁カメラマン)の秘蔵写真から、と書いてありました。
黒く塗られた議事堂:白亜の国会議事堂も、防空のために黒々とぬりたてられ、焦土と瓦礫(がれき)の荒涼たる風景の中に敗戦の日をむかえた。昭和20年3月から本格的に開始された東京大空襲によって、東京は太平洋戦争史の中でもっとも凄惨な戦場の一つと化した。その東京で“銃後”ということばにかわり“東京戦場”ということばが使われるようになった。
東京大空襲の記録東京空襲は、第二次世界大戦史の中で、広島、アウシュビッツにつぐ惨事であった。イギリスの物理学者ブラケット教授によると、広島の死者が7~8万であるのに、東京の3月10日の死者は8万3千人になっている。また、単に火事という点からみても、3月10日は世界最大の火事である。(う~む、知らなかったですよ)
米軍の日本本土にたいする空襲は、第一期は昭和19年11月から20年2月末までで、この間は主として軍事施設が爆撃された。第二期は20年3月10日からはじまり、都市の無差別爆撃である。
そして、北は根室から南は鹿児島まで日本の主要都市は、ほとんど廃墟と化してしまった。この中で、3月10日の東京大空襲は最大の死者を出した惨劇であった。(戦場になったことがないアメリカは、物量作戦にものをいわせて日本を戦場にし、無差別に大多数の日本人をこんなに焼き殺したのだった)
この東京空襲の報道は、戦時中は日本軍部によって厳禁され、ついで占領軍によっても禁止されたこともあって、市民の目にふれることがすくなかった。そこで本誌(講談社の「現代」)はグラフ記事で初めてその全貌を明らかにしたのである。(解説・松浦総三)
講談社、えらい!やったね。
焼け跡をさまよう人々
20年4月13日の夜の空襲で一夜で焦土となった荒川区尾久付近。右手にもったヤカンと肩にかけた風呂敷づつみだけが全財産となり知人や親戚をたずねて焼け跡を夢遊病者のようにさまよう人々。自転車は当時では最高の乗り物であった。
死体には無念の表情が
5月25日の大空襲で、都電青山車庫近くにあつめられた焼死体。 その死体にはそれぞれ表情がある。空を睨んだまま死んでいる人。座ったまま死んでいる人。もっともむごたらしいのは抱きあったまま 死んだ母子の死体だった。どの顔も苦痛にゆがんでいる。黒こげ死体がほとんどだが、桜色の死体もある。後方の伏せられた死体は、ほとんど女性である。
たった一夜で9万人の死者
3月10日の大空襲で上野両大師脇で収容した焼死体。東京都庁では、最悪の空襲があった場合、死者2万人を予想して、その対策はたてていたという(戦時死体処理要綱による)。ところが、3月10日の空襲の死者は一夜にして約9万人。東京都の火葬能力を数倍も上回る多数の焼死体は、隅田川畔、六義園などに仮埋葬された。着物がまったく焼けていないのに死んでいるのは、一酸化中毒死によるものである。
黙々と死体を運ぶ
3月4日の空襲。この空襲は、3月10日の大空襲のまえぶれであり、曇天を利用して朝8時半ごろ“B29” 150機の編隊が東京上空に現われ、住宅地を爆撃した。約700発の爆弾と2万3千発の焼夷弾による爆撃で、死者1万3人、被害家屋4千85、罹災者1万4千人。爆風でとばされた死体を運ぶ人々の頭上に、無情の雪が降りはじめた。
残された兄弟はどこへ・・
4月13日の空襲で両親を失い手をとりあって避難する幼い兄弟。リャカーを引いている兄は中学生、うしろから押しているのは幼稚園児であどけない顔をしている。降りそそぐ爆弾の中、燃えて広がる火に追われて、兄弟は両親を求めつづけたにちがいない。もちろん、両親のほうも必死でわが子を求めて・・彼らを引き裂いた戦争のむごさ・・
銀座も廃墟と化して
5月23日と25日の大空襲で、日本一の繁華街銀座もとうとう瓦礫の街と化し、名物の“銀座の柳”もほとんど焼けてしまった。三越、松屋、松坂屋などのデパートも丸焼けになった。もっとも、このころのデパートは売るものがなくて、営業していたのは1階だけ。2階以上は貸事務所か軍に接収されていた。まだ窓から火煙がふきだしているのに、人々は目にもくれずに歩いている。もう見飽きた風景なのだ。
隅田川に浮かんだ死体
3月10日の空襲で、江東地区に燃え広がった火災に追われて隅田川に飛び込んだ人々は、一夜あけて無残な死体となった。
江東地区は、南は海、東は荒川放水路、そして西には隅田川がある。どちらへ逃げても水の中に入らなくてはならない。人々は熱さにたまりかねて川に飛び込んだが、まず泳げない人が死んだ。たとえ泳げる人も火災が川面をなめつくし、一酸化炭素中毒で次々に意識を失っていった。かくて一夜にして約9万人の死者が出て、東京大空襲の中でも最大の惨状となった。
焼米の配給に長蛇の列
戦争中から戦後にかけて、日本人はよく行列を作った。そうしなければ、なにも買えず、なにも食べられなかったからだ。焼けた荏原農商省倉庫の前で、焼米の配給を受けるために長蛇の列を作る人々。とても食えた代物ではなかったが、飢えは満たせた。
防火演習は盛んだったが
空襲の防火演習は、隣組が中心になって熱心におこなわれた。その訓練もいざとなると、なんの役にもたたなかった。一番熱心に訓練をやった下町で、最も多く死者を出した。また下の写真のように演習の前後に偉い人がもっともらしい訓辞をたれることもあった。
全財産をかかえてさまよう
3月10日の空襲で生き残った人々は、焼け残った地区の知人をたずねて、歩きまわった。まず食べて寝たかったからである。
この日、国鉄は無料。停電のため国電は蒸気機関車が走ったところもある。汽車の椅子は木製だった。あちこちで炊き出しもおこなわれた。彼らの表情の中には、もう怒りも恐ろしさもなかった。ただあきらめと、ようやく助かったというつかの間の安心感だけがあった。それでも身につけたものは離さない。これだけが全財産なのだ。
死体に非情な整理番号
劫火で焼かれて、死体がまったく炭化してしまい、身元を照会しようにも、なにひとつ手がかりがない死体がたくさんあった。これは5月25日の空襲で青山付近に集められた焼死体。所持品や死体の特徴をメモしている警察官も、どうしょうもないといった顔つき。大空襲のあとには、きまってこうした光景が見られたが、人々はだんだん無感覚になっていった。
のんびりしていた初空襲
昭和17年4月18日、東京は初空襲された。人々は警報に、いぶかしげな表情でいるが「まさか東京に敵機がくるとは」と軍を信頼しきっていたにちがいない。もちろん、20年に入ってからの惨状など予想もできなかった。
この子になんの罪が・・
劫火に追いつめられながらも、母は背中の幼児をはなそうとしなかった。しかし、激しい火風が、ついに彼女を倒した。それでも、わが子をはなさなかったが・・。
3月10日の大空襲では、こうして多くの母と子が、兄と妹が手をとりあいながら、抱き合いながら、死んでいったのだ。
母の背中の白さは訴える。「わたしたちになんの罪があるのか」と。幼くして絶たれた生命にも、生きて平和を享受する権利はあったのに・・。(これはひどいです)
“浅草の灯”も消えて:
浅草の映画館街は、戦前の東京では最も有名な娯楽街だった。そこでも防火演習がおこなわれた。往年の美男スタア、長谷川一夫さんと李香蘭(山口淑子)さんの看板に懐かしさを覚える年配の方も多いだろう。これらの映画館も大部分が3月10日の大空襲で観音さんといっしょに焼けてしまった。
焼夷弾とB29の残骸:
上は“モロトフの花束”と呼ばれたもの。この中に円筒型の焼夷弾が何発もつめられ、空中で散る仕組みになっていた。下は撃墜されたB29の残骸。物資不足に悩んでいた人々は、夜になるとこの残骸に近寄り、めぼしいものを盗んだ。ことにタイやは靴の裏にもってこいだった。
以上、昭和46年4月発行の講談社「現代」より転載致しました。
河口写真館「赤玉ポートワイン」 1922年(大正11年)
この画像は、昨年の8月26日に当ブログのカテゴリー「本と雑誌」にも公開しております。今回はさらに詳しい話を講談社の「日録20世紀」より転載し、公開します。
本邦ヌード広告第一号!
検閲すれすれのポーズに
女優・松島栄美子が挑戦
日本の広告に女性のヌードが登場したのは明治の末期。おもに月経帯や香水の宣伝に使われたが、いずれも絵や図像だった。ところが大正11年、本物の女性を起用したセミヌード写真の「赤玉ポートワイン」のポスターが登場した。ヌードといっても胸から首筋を見せる程度のものだが、肌を出しただけで警察から目をつけられる時代、人々の度肝を抜くには充分だった。
広告主は寿屋(現在のサントリー)、モデルは松島栄美子だった。日本の写真版美人ヌード広告第一号として語り継がれているこのポスターは、当時は検閲すれすれ。松島栄美子はそんな“危ない広告”に挑んだのだった。
大正10年の春、27歳だった彼女は、浅草オペラの女優。大阪で「赤玉ポートワイン」の宣伝興業に出ていた。そこへ寿屋の宣伝部長・片岡敏郎が現れ、「一生に一度のお願いや」と、ヌードモデルを頼み込んだ。彼女がOKしたのは、「胸の開いた舞台衣装に慣れていたから」だという。
撮影は極秘で行われた。寿屋の工場の隣りの写真館を「本日休業」の札をかけて借り切り、ここで4,5日缶詰になった。撮る方も撮られる方も初の試みとあって、栄美子はあらゆるポーズをさせられ、できあがったのが件(くだん)のポーズである。
ただし、ポスターは世に出るまでに約1年かかった。彼女の白い肌にグラスの中の赤ワインの色が合わず、当時の社長だった鳥井信治郞が、色の研究をさせるために担当者を半年間もアメリカに派遣したからだった。その結果、ワインの部分に鮮明な赤を着色してポスターは完成。これが大評判となり、ドイツで開かれたポスター展で一等に入選した。栄美子にはファンレターが殺到、同時に警察もやって来て親戚からは出入り禁止になったと、彼女は後のインタビューで語っている。同年、彼女は、寿屋がPRのため組織した赤玉薬劇団(オペラ団)のプリマドンナとして全国各地を巡業したが、興業資金が続かず一年で解散した。
松島栄美子の功績は当時はタブーだったヌードを「別に何とも思わず」受け入れ、広告界に新しい地平を開いた点だった。
その後の彼女の足跡は明らかではないが、老後は本名の飛鳥清に戻り、東京都内の長男の家に同居。昭和51年2月27日号の「週刊朝日」では、元気に当時の思い出を語る82歳の姿が報じられた。(女たちの肖像・稲葉真弓/講談社・「日録20世紀」)より。
昭和初期の広告
早いもので、高峰秀子さんが亡くなってから今月の28日に1年目 を迎えます。この本は先月の25日から発売されており、それを本屋で知り、購入しました。秘蔵写真が満載しており、読んでみると改めて高峰秀子さんの才能に驚かされます。
●グラフはプライベートアルバムから●年譜は旅、ひと、暮らしでたどる生涯●旅篇は二人三脚カタツムリ旅行●本棚篇は、愛した本と偉大なゴジラたち
という構成に組んでいて、読み応えは十分であり、特に旅篇は、もし自分がハワイ旅行へ行くときの参考とか役立ちそうに思われる記事が書かれています。
旅篇の二人三脚カタツムリ旅行・・これは想像できますね。ツアーでなく、カタツムリのように、ゆっくりマイペースでハワイを楽しむという理想的な旅を満喫できたらいいですね。
この本は昭和52年12月に発行されたものであるから、かなり古い。しかし今でも映画ファンにとっては中身が濃く見応えのある本。毎日新聞社が発行した。
この本はオークションで手に入れたもので、価格は500円という安さだった。320ページもある、けっこう厚い本だ。
画像の説明
上は「忍ぶ川」の加藤剛、栗原小巻。
右は「海峡の風雲児」の嵐寛寿郎。
左は「怪鼠伝」の尾上松之助。
下は「楢山節考」の田中絹代、高橋貞二。
赤木圭一郎さんの写真が載っていた。昭和35年7月に公開された日活映画「霧笛が俺を呼んでいる」。
おお、素っ裸の女たちに囲まれた石原裕次郎さんですよ。昭和47年公開の石原プロ作品「影狩り」。幕府スパイと浪人の活劇ものにも見事な裸女群が登場。この画像は気になるね。裸の女優さんたちは前貼りをしてたのか、それとも丸見えだったのか・・
大昔のスターです。全然知らない人ばかりですね。
飯田蝶子さん以外は知らない女優さんたちです。飯田さんは「隣の八重ちゃん」で逢初夢子さんが演じる八重子の母親役を演じました。テレビドラマにもけっこう出てましたね。
浦辺粂子さんは、テレビドラマでおばあさんになっても演じていたのを見たことがあり印象に残っています。吉川満子さんは「愛染かつら」等、けっこう出演していたのを見たことがあります。英百合子さんは「妻よ薔薇のやうに」を見て知りました。
知らない人ばかりですが、早川雪洲さんの名前だけは聞いたことがあります。
大河内伝次郎さんの素顔からは、とても丹下左膳というイメージがわきません。当時、すでに大スターだったんですね。明治30年(1897年)生まれというから、65歳で亡くなったことになり、意外にちょっと短命じゃないですか。
岡田嘉子さんは昭和初期の人気スター。「隣の八重ちゃん」に出演。栗島すみ子さんの名前は聞いたことがあるけど、出演した映画を見たことがありません。
鈴木澄子さんは戦前の化け猫スターだったそうです。戦後は入江たか子さんが化け猫を演じました。八雲恵美子さんは当時美人女優といわれていたとか。八雲恵美子さんは昭和元年に松竹入りし、五所平之助監督「初恋」でデビュー。たて続けに五所作品に5本出演し、日本髪がよく似合う美貌と勘のよさで、一躍松竹映画のホープとなり、「彼と彼女」(昭和3年)「その夜の妻」(昭和5年)「東京の合唱」(昭和6年)など数多くの作品に主演し一時代を築きました。昭和54年1月13日に死去しました。
阪東妻三郎さんは田村正和さんと田村亮さんの父。無声映画時代の当時、スーパースターだった。坂本武さんは「カルメン故郷に帰る」で、高峰秀子さんが演じるストリッパー・リリーの父親を演じました。高田稔さんは「良人の貞操」で入江たか子さんと千葉早智子さんと共演しました。当時、二枚目のスターだった。鈴木伝明さんは外国人っぽいですね。
丸山定夫さんは「妻よ薔薇のやうに」で千葉早智子さんが演じる君子の父親役として共演。丸山さんは昭和20年8月6日に広島巡演中、アメリカ軍投下の原爆を被爆したため16日に死去、享年44。彼の映画デビューは「ほろよひ人生」でした。
これは、出演の映画を見たことがないので知らない女優さんばかりです。
田中絹代さんと三益愛子さんが出演する映画を見たことがあるので知っているが、夏川静江さんは映画に関する資料や本でよく見るので、出演作は見たことないけど知ってます。原駒子さんと森静子さんは知らないです。
岡田時彦さんは、岡田茉莉子さんのお父様。嵐寛寿郎さん、片岡千恵蔵さんはご存じ時代劇の大スター。
エノケンこと榎本健一さん、古川緑波(ろっぱ)さんは当時のコメディアン。
戦前の川崎弘子さん、千葉早智子さん、入江たか子さんは人気があったスターでした。
逢初夢子さんは「隣の八重ちゃん」でおなじみ。ここから大正生まれの女優さんが登場です。
沢村国太郎さんは長門裕之・津川雅彦兄弟の父親です。藤原釜足さんがデビューした映画は「ほろよひ人生」。
市川右太衞門さんは北大路欣也さんの父親で、旗本退屈男シリーズで人気がありました。長谷川一夫さんが美男子ですね。笠智衆さんが若い。
95歳になった山田五十鈴さん、お元気でいるだろうか?水久保澄子さんはどうしてるのかな。
どの女優さんも戦前は花形スター。高峰三枝子さんは100歳まで生きたいといって健康食・玄米食に心がけていたが71歳で亡くなりました。玄米ばかり食べていると骨がボロボロになることもあるそうです。健康食ばかりの偏食も控えた方がよろしいようで・・。
戦前の松竹三羽烏のうち二人である上原謙さんと佐分利信さんが、今見てもやっぱり二枚目ですね。
水島道太郎さんが出演の映画を見ると、かっこいいんですよ。「上海帰りのリル」では香川京子さんと共演。名優の森雅之さんが62歳で亡くなったとは、早すぎますね。彼の父は小説家の有島武郎氏。
原節子さんが美しい。山口淑子さんは一時、政界入りしていますが、その後はどうしているんだろう?山根寿子さんは近江俊郎さんとの共演作「湯の町エレジー」でキスシーンをしており、近江さんの演技が今ひとつだったな(笑)。照れくさかったのだろうね。
昭和20年代の人気スターが揃っています。高峰秀子さんは惜しくも昨年の12月に亡くなりましたが、同い年の淡島千景さんと京マチ子さんはどうしているのでしょうか?月丘夢路さんは?
佐野周二さんは、毎週日曜日の朝にTBSが放送する「サンデーモーニング」の司会者・関口宏さんのお父様。シリーズの怪傑黒頭巾役がはまった大友柳太朗さんが懐かしい。また大友柳太朗さんの丹下左膳もかっこよかった。森繁久弥さんが出た日活映画の「警察日記」にはホロリとさせられますね。
池部良さん、今でいうとイケメンですね。昨年(2010年)の10月に92歳で亡くなりました。近衛十四郎さんは俳優・松方弘樹さんと目黒祐樹さんのお父様。
1940年代後半から1950年代にかけてもっとも活躍したスターたちです。▼津島恵子さんは舞踊教師として松竹大船撮影所に通っていたところを、吉村公三郎監督にスカウトされ、「安城家の舞踏会」(昭和22年)でデビュー。清楚な美しさで人気を得て、大船調メロドラマのヒロインをたて続けに演じました。昭和28年松竹とねばり強い折衝を重ね今井正監督の東映映画「ひめゆりの塔」に主演し、娘役から脱皮。その後フリーとなり黒澤明監督「七人の侍」(昭和29年)に出演したのを皮切りに、「足摺岬」「愛と死の谷間」(昭和29年)、「由紀子」「市川馬五郎一座顛末記・浮草日記」(昭和30年)など独立プロ系の作品に主演して大活躍。昭和32年に結婚してからは助演が多くなり、優しく上品な母親役を演じていました。最近は芸能界から遠ざかっているようです。もう86歳ですからね~。
昭和5年、6年・・ほとんど同い年の女優さんのなかで、左幸子さんと桂木洋子さん、新珠三千代さんが、今では故人になってしまった。
「七人の侍」の三船敏郎さんが懐かしい。丹波哲郎さんは英国映画「007は二度死ぬ」に出演、国際的なスターの貫禄十分であった。丹波さんのデビューの頃は“態度が大きい”といわれ、役がつかないこと1年以上もあったとか。恵まれた体格に生来の反骨精神を備え、日本映画の大作はもとより、外国映画の世界的スターと共演してもひけをとらない俳優だった。岡田英次さんは東映の「怪人二十面相」シリーズで、明智小五郎の役で出演、印象に残っています。
大正12年生まれが揃っている5人。今は三國連太郎さんが健在で、あとは故人になってしまった。
山本富士子さん、どうしてるのでしょう?香川京子さんはテレビとかCM、マスコミに出ており、まだまだ健在です。
岸惠子さんがひとつ上で、残り4人は同じ昭和8年生まれですが、その中で南田洋子さんが惜しくも亡くなられています。▼南田洋子さんは昭和26年ニューフェースとして大映に入社。翌年「美女と盗賊」でデビュー。昭和28年「十代の性典」で売春する高校生を好演して注目され、“性典スター”として人気沸騰するが、昭和30年に日活に移籍。「沙羅の花の峠」への主演で思春期女優のイメージを一転させました。翌年「太陽の季節」に主演し話題となったが、「幕末太陽傳」(昭和32年)「盗まれた欲情」(昭和33年)、「豚と軍艦」(昭和36年)などの異色の文芸作でその魅力はより発揮されました。アクション映画の台頭で彩りとしての出演が多くなり、他社出演により喜劇もこなすなどして役の幅を広げ、貴重な脇役として活躍していた時代がありました。
懐かしのスタアがずらり・・。佐田啓二さんがハンサム。鶴田浩二さんもいい男。ぼくが子供のころに映画で見た5人の人気スターたちも今ではこの世にいません。映画界にとっても寂しいですよね。
うわー、このスターたちも懐かしいですよ。高橋貞二さんは佐田啓二さん、鶴田浩二さんと共に松竹大船を支えた三羽烏のひとり。彼の写真を見るとすごく懐かしい。昭和20年代から30年代前半ちょっとまでは僕が子供の頃、近所に高橋貞二さんの自宅(葛飾区の高砂)があり、彼が出演の映画をよく見ました。昭和34年に自動車事故のため、32歳の若さで死去。ショックでした。渥美清さんは「男はつらいよ」シリーズの寅さん役で有名。ストリップ劇場の前座コメディアンから出世して日本映画界のスーパースターになってしまいました。
お~♪美人揃いです。若尾文子さんは、今でもテレビなどに出演して健在ぶりを見せています。昭和8年生まれというから現在78歳ということになりますか。とてもそう見えませんなぁ。
昭和30年代のスターたち。みんな昭和10年生まれですね。あのころピチピチできれいだった女優さんも、現在では75歳すぎのお婆さまになりました。団令子さんと嵯峨三智子さんは、すでに亡くなられていますが、日本映画の全盛時代では、きらきら輝いていましたね。 ▼丘さとみさんは、会社勤めをしていたところスカウトされ、昭和30年に東映入りし「御存知怪傑黒頭巾・新撰組追撃」でデビュー。以来、東映時代劇の娘役スターとして活躍し、「大菩薩峠」(昭和32年~34年)、「宮本武蔵」(昭和36年~昭和40年)などの大作に 出演。現代劇「裸の太陽」(昭和33年)でも好演しました。
眠狂四郎と座頭市が出ています。市川雷蔵さんと勝新太郎さんが懐かしいです。天知茂さんはニヒルでかっこよかったですね。二谷英明さんは、今どうしているのかな?フランキー堺さんはテレビドラマで印象に残っています。
高倉健さんが出る映画をよく見ました。宇津井健さんは今でもテレビドラマに出演しているほどに健在です。東映の時代劇が華やかだった頃、中村錦之助さんの出演映画もずいぶん見ました。大川橋蔵さん、東千代之介さんと共に東映の花形スターだった。
▼お姫様の役が多かった大川恵子さん、きれいでした。東映の時代劇によく出演していたので忘れられません。大川恵子さんはミス・コンテストに入賞し、東映入りし昭和32年「とんちんかん八百八町」でデビュー。古典的な美貌をいかして「忠臣蔵」(昭和34年)、「新吾十番勝負」シリーズ(昭和34年~35年)、「姫君一刀流」(昭和34年)など100本近い時代劇に出演したが、昭和38年の「きさらぎ無双剣」を最後に芸能界を引退しました。▼白川由美さんは昭和31年スカウトされて東宝入りし、「ならず者」でデビュー。知的で清楚な魅力で人気を得て、SF特撮映画(美女と液体人間)や、サラリーマンもの、「サザエさん」シリーズなど数多くの東宝映画に出演。代表作に「二人の息子」(昭和36年)があるが、最近はテレビで主に母親役を演じて活躍しています。白川由美さんは二谷英明さんの奥様になりました。その娘さんが郷ひろみさんと結婚したが、のちに離婚となりました。▼中原ひとみさんは江原真二郎さんの奥様。「バンビ」というあだ名でした。中原ひとみさんは昭和28年ニューフェースとして東映入りし、翌年の中村錦之助さん主演の「魚河岸の石松・女海賊と戦う」でデビュー。昭和30年「姉妹」の好演で注目され、その後明るいキャラクターをいかして男性活劇や時代劇での助演が続いていました。三ツ矢歌子さんは新東宝、叶順子さんは大映の花形女優さんでした。
若い頃の浅丘ルリ子さんと中村玉緒さんが出てます♪桜町弘子さんは、大川恵子さん同様に東映映画でよく見ました。野添ひとみさんは俳優の川口浩さんと結婚して奥様になりました。川口浩さんは51歳のとき食道癌で死去、娘さんは17歳で病死、野添ひとみさんは看病の疲労から58歳で亡くなっています。
南田洋子さんの亭主、長門裕之さんは若い頃、いい顔してました。宍戸錠さん、石原裕次郎さん・・日活映画が活発だった頃は人気スターが揃っていました。宝田明さんは「ゴジラ」に出てました。菅原文太さんは「トラック野郎」シリーズがおもしろかった。
日活全盛時代、裕次郎さんと人気を分けていた小林旭さん、東映では里見浩太朗さんが人気でした。小林旭さんの奥さんは青山京子さん。川口浩さんは野添ひとみさんが奥さん。江原真二郎さんの奥さんは中原ひとみさん。そして田宮二郎さんの奥さんは同じ大映の女優だった藤由紀子さん。昭和53年12月に田宮二郎さんは、なぜか猟銃で自殺しました。享年43。
倍賞千恵子さんは「男はつらいよ」シリーズで、寅さんの妹・さくらの役で出てましたね。三田佳子さんは東映映画によく梅宮辰夫さんとのコンビで出てました。山本陽子さんは1963年(昭和38年)、日活のニューフェースに合格し、翌年「抜き打ちの竜・拳銃の歌」のヒロイン役で本格手ビュー。助演が多く目立つ存在ではなかったが、テレビでその持ち味をいかして女優としての地位を築き、「華麗なる一族」(昭和49年)、「八つ墓村」(昭和52年)などで好助演を見せました。
▼松原智恵子さんは日活のニューフェースに合格し、昭和36年「夜の挑戦者」でデビュー。吉永小百合さん、和泉雅子さんと共に“日活三人娘”として売り出され「学園広場」(昭和38年)、「仲間たち」(昭和39年)などの青春映画のヒロインを演ずる一方、「さすらい」(昭和37年)を皮切りに小林旭主演のアクション映画で相手役を務めています。▼浜美枝さんはバスガールをしていたが、東宝のコンテストに応じたのがきっかけとなって昭和35年「若い素肌」でデビュー。主にサラリーマン喜劇に出演していたが、昭和42年「007は二度死ぬ」の海女役に起用され、ショーン・コネリーさんが演じるジェームズ・ボンドの相手役をつとめ話題となりました。翌年「砂の香り」に主演。見事なプロポーションでヒロインを熱演したが、昭和50年以降は映画の出演はなし。現在はエッセイストとしてマスコミに活躍されています。▼星由里子さんは昭和33年、東宝のシンデレラ娘に当選し、翌年「すずかけの散歩道」でデビュー。昭和36年「大学の若大将」で加山雄三さんと共演し、これがシリーズ化され恋人役を演じ続けてお嬢さんタイプのイメージを定着させ、東宝の看板女優となりました。現在もテレビに出演していることがしばしば。
お~、いい男が揃ってます。加山雄三さんの昭和12年生まれから、昭和16年生まれの渡哲也さんと石坂浩二さんまで、どれも年齢が近くあまり違わないのです。津川雅彦さんは昭和15年生まれ。皆さんは現在も芸能界で健在だ。なのに、赤木圭一郎さんだけがひとりぽっちで21歳の若さで死去しているのですから早すぎますよ。悲しい。
現在は高橋英樹さんと北大路欣也さんがテレビドラマで大活躍してますね。高橋英樹さんは他にクイズや、バラエティなどいろいろな番組に出演してます。松方弘樹さんもたまにテレビのドラマやバラエティ番組で見かけますが、ショーケンこと萩原健一さんと浜田光夫さんはどうしてますかね?
▼酒井和歌子さんは小学4年のとき児童劇団入り子役として活躍。昭和39年にスカウトされ東宝に入社し、「今日もわれ大空にあり」でデビュー。「めぐりあい」(昭和43年)、「俺たちの荒野」(昭和44年)などでひたむきな青春を好演したあと、若大将シリーズのヒロイン役などで青春スターとして一世を風靡しました。▼藤純子さんは京都女子高校卒業。在学中から朝日放送テレビの「スチャラカ社員」に出演(昭和38年~40年)していたが、父親が東映のプロデューサーであった関係で撮影所に出入りするうち、マキノ雅弘監督の目にとまり、映画出演をするようになりました。第一回の出演作は「八州遊侠伝・男の盃」(昭和38年)で、以後急速に東映の看板女優となり、多くの作品に出演しました。とくに東映任侠映画路線の中で女の侠客という役どころに進出して「緋牡丹博徒」シリーズに主演して人気を得ました。あでやかに美しい若い女が、女の身で九州のつぶれかけたやくざ一家の名代を継ぎ、旅に出て各地でやくざの抗争に巻き込まれ、自ら刀を振り回して戦うという女剣劇映画であるが、従来の女剣劇が男のような女の大暴れを見せ場としたのに対し、女らしい優しさと美しさを義理人情の世界でいやがうえにも美化しながら立ち回りを展開したところに新しさがありました。昭和47年に七世尾上菊五郎さんと結婚して映画界を一度は引退しました。しかしその後は富司純子と改名、一転してごくおとなしい中年女性の役柄に転じ、現在も活躍しています。
▼関根恵子さんは中学二年のときにスカウトされ、昭和45年に大映に入社。いきなり「高校生ブルース」の主役でデビュー。続いて「おさな妻」の大胆な演技で話題と人気を集めました。▼松坂慶子さんは、児童劇団を経て昭和44年にスカウトされて「ある女子高校医の記録・続・妊娠」でデビュー。翌年大映入りし、「夜の診察室」(昭和46年)で初主演。大映倒産で松竹に移籍し、清純派女優にイメージ・チェンジをしました。「藍より青く」(昭和48年)、「恋人岬」(昭和52年)などに主演して人気を得たが、美人スターどまりで低迷していました。昭和53年の「事件」で工員に殺されるスナックのママを熱演し注目を集め、以後「五番町夕霧楼」(昭和55年)「道頓堀川」(昭和57年)と作品にも恵まれ、昭和57年「蒲田行進曲」で女優賞を獲得しました。平成2年にもノーメイクで挑んだ「死の棘」で受賞し、NHKの大河ドラマにもたびたび出演するようになり、いまや日本映画やテレビ界を代表する女優の一人となりました。▼宮下順子さんは昭和46年スカウトされて成人映画「私はこうして失った」でデビュー。翌年日活に引き抜かれて「団地妻・忘れ得ぬ夜」に主演。一躍ロマンポルノのエースとなり、「四畳半襖の裏張り・しのび肌」(昭和49年)、「実録阿部定」(昭和50年)など傑作ポルノを残しましたが、最近では一般ドラマでの助演が主となっています。
僕の好きな漫画です。作者は西岸良平氏。団塊世代には懐かしいストーリーが満載で、ホロリとさせられる。涙腺を著しく刺激される。僕は涙もろくなっているので、人の前や電車の中ではとても読めない。大人の男が泣くのを見られたら恥ずかしいので、人のいないところで読むことが多い。布団の中で読むのが一番いいね。
昭和30年代、そこには日本人の心の原点がある。
●鰯雲 あの頃は、よく雲を眺めていました。
長い間、忘れていた優しさを思い出す!!
昭和30年代。そこは、現代の日本人が忘れかけた心の安らぎがある時代。
●五月晴れ 五月病なんて知りませんでした。
広い空が広がっていた麗しき昭和30年代!!
昭和30年代 ─ 日々の生活の中に確かな手応えがあった時代。
あの頃は今のように贅沢はできなかったけれど、人々の間に温かな触れ合いがあった。
今も目を閉じれば、あざやかに甦る、懐かしい思い出の町・・ここは夕日町三丁目。
←第9話の「おっぱい物語」が泣けます。
おっぱい物語を読んで、恥ずかしながら涙してしまいました(笑)。あなたの奥さん、おかあさんを大切にしましょう。
昭和30年代 ─ つつましい生活の中に大きな喜びがあった時代。
豪華な景品はなかったけれど、福引きの時はワクワクしました。
←第6話「風俗小説」にはムフフとさせられました。
サングラスをかけている人は芥川じゃなくて茶川といって、原稿料の安い作家なのですが、駄菓子屋も兼ねているので、なんとか生活はやっていけます。
原稿料の安い作家が、人知れずにアルバイトでエッチな小説などを書いて稼ぐという、あり得そうなお話ですが、スケベな人には読み応えのある楽しい漫画でした。スケベでなくても勉強になります(笑)。
「太陽賞」第一回の受賞者は“アラーキー”だった。
「新妻陽子との新婚旅行の記録」 荒木経惟撮影 初出『センチメンタルな旅』(1972年)
写真家の登龍門ともいうべき「太陽賞」の創設が発表されたのは、「太陽」1964年(昭和39年)1月号誌上であった。「カメラの表現力をもって文字のそれに迫り、あるいは、それにとって変わろう」という編集方針をもった「太陽」が、まだ数少なかったグラフィック・カメラマンの出現を待望して創設したのである。
第一回の審査委員は伊奈信男を委員長として、伊藤整、木村伊兵衛、中島健蔵、羽仁進、原弘、東山魁夷、渡辺義雄の8氏。第一回の応募総数は90点で、伊奈委員長は、その数が意外に少ないことと、しかし応募作品の水準が相当に高いことに驚いている。
以後、25回までに、19の太陽賞と24の準太陽賞が生まれた。それぞれの受賞作品にはその時代の空気が色濃く反映しているし、また、写真家たちが好んで狙った被写体の変遷も見うけられる。社会の底辺の記録、アジア・アフリカのルポルタージュ、辺境と下町、民俗と芸能等々。そしてここ数年は現代の都市そのものを捉えようとする作品が続く。
さて、1964年の7月号で発表された第一回の「太陽賞」受賞者は、当時23歳で電通宣伝技術局勤務の荒木経惟だった。作品はやんちゃな小学4年生・星野幸夫君の1年にわたるドキュメンタリー「さっちん」。
審査委員の伊藤整はこの写真を「写される側も生き、写す側もそれを楽しんで生きている」と評している。荒木の「受賞の感想」によれば、その頃、近代美術館のライブラリーで、ドレイエルの裁かるるジャンヌ」とロベール・ブレッソンの「抵抗」を見て“ドキュメントとは人間を凝視しつづけることによって、その本質を発見することである”ということを教えられたという。
そして「感想」を次のように結んでいる。「賞ってやつはいいもので、金はくれますし、ひとりぼっちのぼくを勇気づけてくれます。ごきげんです」。
以上、丸写しでした。
これまでの写真を見ると、プロのカメラマンは凄いなと思わざるを得ません。デジタルカメラの開発、オートフォーカスの発明、カメラ付きケータイの発達など、精密機械の技術進歩のおかげでマニュアルさえ理解すれば老若男女問わず、子どもが撮っても、大人が撮っても変わらずに、美しい写真を写せるようになったのです。日本人総カメラマンの時代が到来したのです。しかし、この状況はプロフェッショナルとアマチュアの写真に差がなくなったことを意味しないのです。
考えて撮るプロフェッショナルの眼の厳しさは、カメラという機械の発達とは別に養われるものである、と痛感します。素人である僕の写真術はまだまだ未熟であって、プロやセミプロの領域には及ばないのです(笑)。
1957年(昭和32年) 常盤とよ子撮影 『赤線地帯の女と黒人兵 横浜・若葉町』
基地の女たちの現実に凝縮された日本の中の異国
基地のはじまりは占領であった。敗戦まもなく本土進駐の第一陣を率いてマッカーサー元帥が厚木の土を踏んだときから基地の昭和史のページがめくられた。はじめは「基地」とはいわず、「接収地」と称した。必要なものはたとえ個人の建物であっても否応なしに接収された。
アジア情勢の緊迫が頂点にまで達した朝鮮戦争当時には、米軍基地は全国2824カ所に散在し、総面積は13億5000万㎡にのぼった。(1987年現在では106カ所、3億3000万㎡だが、米軍基地はほぼ自衛隊がひきついでいる)。
基地の町にはあっという間に米兵専門のバーやキャバレーが軒を並べ、まるで西部劇の映画に出てくるような横文字とどぎつい原色の街に変わった。ピーク時には米兵相手の通称パンパンは5万人を超えたといわれ、米兵の犯罪も多かったが、占領軍の検問下に、新聞の紙面では、「暴行したのは黒い大男」というような表現しかできなかった。
1952年(昭和27年)から1985年(昭和60年)までの米兵の犯罪や事故は18万274件にのぼり、それによる日本人の死亡は1216人だが、これらの事件の扱いで日本側の裁判はほとんどなかった。
横浜在住の常盤とよ子は、そのころ女性の社会進出の実態を迫っていたが、当時の赤線に働く女性たちの生態を発表して注目されることに刺激を受け、米兵専門のバー街にもぐりこんで、基地から転々と流れる女たちの現実を、日本の中の異国の街角に凝縮させた。(岡井)
以上、丸写しでした。
パンパンとは?↓
パンパンは、1945年以降の占領統治下、主に在日米軍将兵を相手にした街中の私娼(街娼)を指す言葉。「パンパン・ガール」「パン助」「洋パン」ともいう。一般的には蔑称であると考えられている(日本人相手の日本人売春婦はこう呼ばれなかった)。占領が始まって1ヶ月もたたない1945年9月には既に存在が確認されていたとされ、1946年には全国で7万から8万人、朝鮮戦争の激化した1952年には10万人近くがいたとされる。1956年(昭和31年)の売春防止法施行後は激減したが、ベトナム戦争が激化した1960年代後半になっても米軍基地周辺には存在した。
敗戦により、経済的に困窮した家庭では、生きる為に止む無く身体を売る女性が急増した。特に進駐軍(占領軍)相手の売春は、金・物資ともに乏しかった日本人同士を相手にするよりも儲かったとされる。また当時は厚化粧の女性が少なかった為に、全く売春とは無関係の派手な身なりの女性を指してこう揶揄する事もあった。
ウィキペディア フリー百科事典より抜粋
1965年(昭和40年)4月20日 嬉野京子撮影
「米軍のトラックにひき殺された少女 沖縄・宜野座村漢那」
なんという、むごいことを・・
↑
沖縄がアメリカ統治下にあった頃の光景。1972年(昭和47年)の日本復帰後もアメリカ軍基地は存続。初出『沖縄100万の叫び』 (1968年)
不気味な存在“米軍基地”。その本質と現実を暴く ため写真家は執拗に挑んだ。
戦後日本の表街道が高度成長経済の論理であったとすれば、裏街道は日米関係の根幹の一つである基地の論理だった。防衛費を1%以内に抑え込み、国の安全保障を米国まかせにして、たとえ安保ただ乗りと批判されようと、ひたすら軽武装通商国家への道を選択できたのも裏街道が機能していたからである。それはまた、保守党政権が長期化するかぎり、、変更のきかない東西冷戦を背景にしたサンフランシスコ体制の必然であった。
1970年(昭和45年) 中西 浩撮影
「横田基地内のジェット機」
金網の向こう側はベトナムの戦場につながっていた。初出『カメラ毎日』(1970年12月号)
50年代の朝鮮戦争と60年代のベトナム戦争では、潜在的な日本の工業力とともに在米軍基地の恐るべき能力がいかんなく証明され、米国の太平洋安全保障の要(かなめ)として半永久的に米軍の管理下におかれる宿命となった。
日米安保条約にもとづいて基地を提供しているかぎり、どれほど反戦平和を叫んでも、戦争そのものと無関係ではありえないといういらだちとデスパレートな抵抗が、いわば基地をめぐる感情だった。基地問題への構想力の弱さは戦後日本の内部矛盾に根ざしていた。
多くの写真家が基地問題に挑んだが、鉄条網で囲われた制約もあり、内部からあぶり出すことは至難で、基地周辺の米兵の生態や一種治外法権的な強権としての不気味な存在をリアルに描くことが精いっぱいであった。嬉野京子の一枚も、その冷酷な現実を象徴化したもので大きな衝撃を与えた。中西浩の独特の巨視的虫瞰描写による米軍機群の衝撃感もまた、その違和性をするどく衝いたからであった。(岡井)
以上、一部を除いて丸写しでした。
野島康三撮影『樹による女』1915年(大正4年)
写真家による本格的なヌード表現の試みとしては最も早いもののひとつ。野島康三遺作保存会蔵
ヌード写真の先駆者は、モデル探しに苦労した
「野島さんというのっは、落ち着いた、ゆったりした紳士でした」野島康三と親しかった写真家・吉川富三氏は、懐かしそうに目を細める。吉川氏は野島の紹介で写真界に入り、野島が他界するまで親しいつきあいを続けた。
「野島さんは裸を撮ってましたけど、あの当時、モデルがいなかったんですよ。だから、初めは自分の家に雇われてきているお手伝いさんをモデルにしたんですね。今になれば微笑ましい話ですけど『野島さんのとこは、女中が居つかない』なんていわれました」
後にヌードに対する世間の目が変わってからは、まわりの人間が女優などから野島好みの女性を探してくることが多くなる。
野島は、例えば写真集を買うときでも、2冊並べて1ページ、1ページの印刷具合を確かめてから買うほど丹念な男だった。
「野島さんは撮影するところを見られるのは嫌いでしたからよく知りませんが、モデルを写すときもさぞや時間をかけて、丹念にやっていたんだろうと思います」(編)
番外↓各作家による裸婦の制作
弦田英太郎の着物のヴィーナス 私の裸婦讃歌
制作中の弦田英太郎
制作の際のモデルさんとの距離・角度・高さの選択も、作家にとって制作上重要である。
Ⅰ.書名 「一枚の繪」1993年8月号 特集「女神たち」
Ⅱ.出版社 一枚の繪株式会社
Ⅲ.刊行日 1993年8月1日
Ⅳ.価格 820円
Ⅴ.内容
各作家による裸婦の制作
・ 奥津国道 インパクトを与える視線
・ 弦田英太郎の着物のヴィーナス 私の裸婦賛歌
・ 虚構のイメージを描く 森秀雄の"裸婦制作"
河口写真館「赤玉ポートワイン」 1922年(大正11年)
どこかで見かけたことがある写真です。これは、もともとポスターであり、サントリー広報室蔵となっています。成功の原因は、女優の卵の恥ずかしげな表情と大胆なセミヌードを組み合わせた企画の新鮮さだろうといわれます。宣伝上手のサントリーといわれる所以ですね。
広告における写真の重要性を決定づけた初期広告写真の傑作
大正時代になると食品、飲料、化粧品などのメーカーやデパートなどを中心に、宣伝活動がさかんに行われるようになってくる。人びとの購買意欲をそそり、商品を強く印象づけるポスターや新聞、雑誌広告の重要さが認められるのもこの頃であった。写真印刷の発達によって、広告の中での写真の位置も高まり、本格的な商業写真(コマーシャル・フォト)が登場してくる。
洋酒メーカーの寿屋(現サントリー)は赤玉ポートワインを画面のどこかに写しこんだ写真を募集した「赤玉盃獲得写真競技会」(1925年)を開催するなど、早くから商業写真の開拓に熱心だった。片岡敏郎、井上木它がデザイン・制作にあたり、河口写真館が撮影した「赤玉ポートワイン」のポスターは、セミヌードの女性を使うというアイデアで、見る者をあっと言わせた初期広告写真の傑作である。
モデルは、浅草オペラに出ていた女優の卵の松島栄美子だった。 モノクロームの落ち着いた色調の画面に、ポートワインの赤が鮮やかに浮かびあがるこのポスターは、ドイツで開かれた世界ポスター展にも出品されるなど、国際的にも評価が高かった。
なお片岡、井上のコンビは寿屋の他に、缶入り歯磨きスモカの広告でも、切れ味のよいコピーとイラストを展開し、1920年~30年代の広告をリードした。このポスターをひとつの契機とし、昭和時代になると金丸重嶺、井深徴、渋谷龍吉らのプロ写真家が次々に登場してくることになる。(飯沢)
以上丸写しでした。
番外↓各作家による裸婦の制作
奥津国道 インパクトを与える視線
モデルさんにポーズ指導する奥津国道
実際に作家がイメージしているポーズを視覚的に表現すると、モデルさんもポーズの把握がしやすい。
Ⅰ.書名 「一枚の繪」1993年8月号 特集「女神たち」
Ⅱ.出版社 一枚の繪株式会社
Ⅲ.刊行日 1993年8月1日
Ⅳ.価格 820円
Ⅴ.内容
各作家による裸婦の制作
・ 奥津国道 インパクトを与える視線
・ 弦田英太郎の着物のヴィーナス 私の裸婦賛歌
・ 虚構のイメージを描く 森秀雄の"裸婦制作"
新潟県の国民学校児童の勤労奉仕
日本国存亡の危機が叫ばれ士気昂揚のために写真家が動員された
報道写真という新しい写真言語の誕生と、その実践にとり組む若いプロたちは、あるものは報道班員として戦地に向かい、国内にいるものは戦争推進のための士気昂揚写真を数多く撮った。
雑誌のグラビアも戦時色を深めていったのである。国是にしたがう写真のありようについて、毎月のカメラ雑誌さえ、論文と口絵の大部分をついやしてアマチュアの読者に“お国のため”の写真のありようを説いた。
そうした情報管理は、おおむね内閣情報局によって行われた。同局から『写真週報』という週刊誌が発行され、多くのカメラマンが動員されている。仕事がなければ生活できない、という戦時下のきびしい現実の反映でもあった。
掲載の写真は、正規の学校教育のほかに“勤労奉仕”という作業が日常化していった事実を物語る映像である。大学から小学校まで勤労奉仕は課せられ、やがて戦争末期には戦場への学徒動員におよぶのである。
しかし女子学生が上半身はだかというのは珍しい光景だ。ひたすら日本国存亡の危機が叫ばれ、強制的に若い労働力がもてはやされ、それを疑うものは少なかった。
成人の男女も、銃後においては勤労動員の対象となった。そういった意味において戦場も銃後といわれた本土も、きびしい状況だった。 (桑原)
以上、丸写しでした。戦争時の勤労奉仕について聞いたことはあるが、女子学生の上半身裸があったとは知らなかった。でも、全然 いやらしい気がしない。健康的そのものだね♪強制的な労働にも かかわらず収穫した大根を高々と挙げ、にっこり微笑む「日本娘」は 最高です。
好奇心の目で見ることではなしに、笑顔いっぱいの彼女の顔に釘付けとなり、僕の目は涙であふれた。戦争と青春・・僕はその女の子に敬礼する。我が国は、もう絶対に戦争を起こすべきではない。
番外↓ 各作家による裸婦の制作
虚構のイメージを描く 森秀雄の“裸婦制作”
モデルさんによって自己のイメージを具体化する。
制作同様に作家にとってポーズづけは重要な作業である。
Ⅰ.書名 「一枚の繪」1993年8月号 特集「女神たち」
Ⅱ.出版社 一枚の繪株式会社
Ⅲ.刊行日 1993年8月1日
Ⅳ.価格 820円
Ⅴ.内容
各作家による裸婦の制作
・ 奥津国道 インパクトを与える視線
・ 弦田英太郎の着物のヴィーナス 私の裸婦賛歌
・ 虚構のイメージを描く 森秀雄の"裸婦制作"
昭和36年、杉山吉良撮影 「裸婦」
おぉ~、素晴らしいです♪ この砂をまぶしたヌードは健康的な「美」が強調されている。
土門拳、木村伊兵衛がリアリズム写真運動を提唱し、アマチュア写真に刺激を与え、写真界にもニューアマチュアリズムが胎動しはじめた時期に、「ヌード写真」にも新しい潮流が表れてきた。単に“脱がす”という意味からは程遠い、女体をオブジェと見立てた、写真家の美意識に基づいた作品が次第に主流を占めてきたことである。
全身に砂をまぶしたトルソーのような杉山吉良の異様な写真「裸婦」は、ショッキングなものとして注目を集めた。戦後初の「ヌード写真展」(1949)を開催した杉山のこの作品は、マテリアルからくるビジュアルスキャンダルの先駆的なものとして評価できる。
以上、丸写しです。
番外↓一枚の繪「愛しき女たち」
弦田英太郎 ゴヤ「裸のマハ」
Ⅰ.書名 「一枚の繪」1997年6月号 特集「愛しき女たち」
Ⅱ.出版社 一枚の繪株式会社
Ⅲ.刊行日 1997年6月1日
Ⅳ.価格 820円
Ⅴ.内容
各作家により名画のポーズを再現しての制作
徳田宏行 ルノワール「裸婦」、ボッティチェリのポーズ「ヴィーナスの誕生」
弦田英太郎 ゴヤ「裸のマハ」
奥津国道 アングル「トルコ風呂」
私見
名画のポーズを再現する。西洋画のモデルとはプロポーションも異なり、作家の美意識によるデフォルメもあるので、単に真似るのは無意味であるが、ポーズの特性を知り、作家の眼を知るためには有効な場合があると思う。
以上、転載です。
1972年(昭和47年)加納典明「『春画集』より」
写真はセクシュアルな表現をどこまで探求できるか。新たなエロチシズムの模索
男と女のセクシュアルな情景を積極的に写真表現の名簡易とりこんできた、この『春画集』はエロチシズムというものに写真家がどうかかわっっていくかという一つの試みであった。当時の若い写真家たち(この『春画集』は、加納典明・立木義浩・一村哲也共著)は単なる男と女のからみというシーンをより濃密に表現するためにさまざまな工夫をこらしている。
その工夫とは、セックスを表現するための視覚バイオレンスの投入であった。それは局部描写であったり、不思議な小道具の投入であったりした。そうしたフィクションによる視覚の刺激は、性的暴力の形となって現れてきている。
当時、ビジュアル・スキャンダルという言葉があって、撃ちこんでくる弾丸のようなショックを映像に意識的にとり入れて、そこからたち上がってくる心理的なバイブレーションを利用した写真があった。それは、映画の世界にも見られた。現実にはベトナム戦争があり、麻薬や暴力が時代をおおっていた社会背景もあった。
ともあれ、この『春画集』はそうした時代背景からの影響もさることながら、男と女の抱擁やセックス描写を、写真によって緊張感のあるものにしたいという願望から生まれたものといえる。それは現実生活の中にある男と女の葛藤に、写真という表現でどこまで迫れるかという問いに対する一つの回答であった。(玉田)
以上、丸写しです。(素人の僕にはよく分かりませんが(笑)。)
番外↓ 一枚の繪 & 藝術新潮 裸婦の魅力と讃歌
「一枚の繪」1994年別冊「裸婦」より 古沢岩美の制作風景
古沢氏も2000年、88歳で永眠したが80歳を過ぎても意欲は衰えを見せなかった。
感覚的には瑞々しくエネルギッシュである。
裸婦の制作がこのような力を与えていたのかもしれない。
人を虜にするような、そんな魅力が裸婦にはある。
おぉ~♪ ヌードは美しい。1969年(昭和44年)杉山吉良撮影の「讃歌」
大自然の陽光の中に躍る、健康で清潔な女体。若さと美しさへの裸の讃歌
1969年(昭和44年)の春3月。東京銀座4丁目交差点の三越デパートの外装壁面に超特大のカラーヌード写真が掲げられ、道ゆく人びとの度肝を抜いた。この写真は、太田八重子というモデルを、日本各地の風光明媚な自然中で裸にし、その清浄な女の躍動美を撮った写真展「讃歌」の大広告写真であった。
この写真展は大成功で、全国各地を巡った。入場料300円という、写真展として初めての有料化の試みであった。この「讃歌」のセンセーションは、それまでヌードはともすれば密室的なスタジオ作業とされていたが、大自然の陽光の中にさらされ健康的な明るいイメージのヌード讃歌として、世に躍りでたということである。それも19歳の無名の素人モデルである。
「自然の風景のなかに純潔な娘をはね躍らす、その娘は、まだアダムを知らないイブの姿でなければならない」と当時の杉山は語っている。
杉山吉良写真集①← リンク
杉山吉良写真集②← リンク
奔放で清潔な女体が、青い海の中に横たわり、樹間に輝く光の中で若い汗がひかる、南国の百合畑で笑顔を見せてふり返る。景観の中にとびはねるこれらの若いヌード。これはまさに開放された自由な空間への裸の讃歌である。 現代であれば、これだけの写真を仕上げるのは、多くのスタッフがかかわるプロジェクトである。それを杉山吉良は、モデルと一対一で成しとげている。それは驚異的なバイタリティーといえる個人作業であった。だがこのモデルが、なぜか冬の海に投身自殺したとう事実が残っているのだが。(玉田) 以上、すべて丸写しです。
弦田英太郎による裸婦の制作
弦田先生は初めてのモデルさんは、まず顔だけのデッサンをして、その人を理解しょうと心掛ける。顔にはその人の性格やそれまでの歩みなどが表われているた
めだ。顔を描きながら、さりげなく故郷や、好きな食物や色などの好みを聞いていく。そのようにしてモデルを理解し、合ったポーズを見つけるのだが、長い時
は一週間近くかかるという。
「あくまでモデルさんはパートナーなんですよ。当然、彼女にも好き嫌いがあって、この先生いやだなと思ったら良い絵は描けない。そこでお互いが信頼し合うことが大切なんです」
ポーズを決めるといっても、モデルの体形や性格によっても異なってくる。ふっくらした人は寝ポーズが合うが、ほっそりした人が寝ポーズをすると体がマッ
トに沈んで一層細く見える。モデルさんの性格によっても、開放的なポーズか、内向的なポーズか、合うポーズが違ってくる。
「僕はいいモデルさんだと思い、向こうも良い先生だと思うことです」
取材後も弦田先生は半月ほど同じモデルさんに依頼し、良い人間関係を作りながら制作を続けた。
(「一枚の繪」1995年6月号 特集「美・裸婦」より)
この写真の本は1988年(昭和63年)7月に株式会社 平凡社が発行された「太陽」です。
この本に載っていた数々の写真の中から「これはいいな」と思った 写真だけを選んで紹介します。
これは有名な写真ですね。僕のお気に入りで尊敬している侍です。
着物姿で革靴を履いたこの写真は、若き志士の風貌をよく伝える。1866年(慶應2年)、上野彦馬撮影の「坂本龍馬」。彦馬の師・フランス人のロシエの好影響がみえる初期人物写真の傑作。
上野彦馬とは? ← リンク
明治前・中期 内田九一・作者不詳「横浜写真他」
「横浜写真」は、単なる外国人用のお土産写真ではなかった
幕末より明治期にかけて、横浜を中心にして、大量の人工着色写真が製作された。日本の風景と風俗がテーマで、数十枚を一組として、蒔絵の表紙をつけアルバム仕立てにしたことが特徴である。この「日本風景風俗人工着色写真蒔絵アルバム類」を、その主製作地にちなんで「横浜写真」と総称する。
主に外国人旅行客のみやげものとして販売された。以上が、最新の「横浜写真」研究の共通した見解である。
だが、その通説というレンズの先に結ぶ評価という像には虚像と実像がある。
その虚像とは。「横浜写真」は幕末の重要な写真家ベアトの流れをくむものであり、人工着色という特殊技法の点でもユニークな作品であることは事実。だが、その質は外国人旅行客めあての、異国趣味をあおるだけの思想のないものであり、その後の発展もないものという、相対的に低い、限定的な評価である。
その実像とは。今までは「横浜写真」については、その評価が先行し、実態の十分な調査研究はなされてこなかった。しかし今年発見された金幣写真館のカタログから2067点に関する基礎データが明らかにされた。系統だて分類された作品群の中から、作家の美意識、技法が見えてくる。それは、構図、光線、明暗、テーマ・・すべて西欧19世紀的唯美主義の表現を基礎としたものである。
日本の写真の中で海外に大量に存在し、評価されていながら、国内で研究・評価が遅れている分野として、「横浜写真」の再評価がまたれている。(岡部)
以上、全文丸写しでした。
近所の本屋で株式会社グローバルプラネット発行・朝日新聞出版が発売の「男の隠れ家」定価680円を買いました。«昭和時間を旅する»というタイトルに興味を持ったからです。昭和を彩った銀幕のスタアという題の特集は、最初に「伝説の銀幕スタア」として原節子さんの写真が大きく載っていました。
続いて、昭和の大女優というページには、李香蘭(山口淑子)さん、山田五十鈴さん、田中絹代さん、入江たか子さんが選ばれています。戦前に銀幕のスタアとして日本中を席巻し、過酷な第二次世界大戦をものの見事に乗り越え、戦後、新たなる女性像を多くの日本人に見せ続けることができた女優こそ、昭和の大女優といえるだろう・・と書かれています。これってすごいといえますね。戦前の美人女優として知られる入江たか子さんが、あまりにもきれいなので改めて驚きましたよ。
「化け猫の入江たか子さんは、戦前、美貌の人気女優だった」
子供の頃に祖母と見に行った映画「化け猫シリーズ」でしか彼女を知らないので(笑)。でも、入江たか子さんの写真はけっこう見かけているのですが、「男の隠れ家」という本には、今まで見たことがない彼女の顔写真が大きく載っていました。戦前(1930年代)の入江たか子さんの美貌にビックリ仰天です。
さて、続いて5大映画会社の看板スタアというページでは、大映は京マチ子さん、山本富士子さん、若尾文子さんが出ています。松竹は津島恵子さん、岸惠子さん、淡路恵子さん。東宝は高峰秀子さん、岡田茉莉子さん、八千草薫さんだ。東映は田代百合子さん、高千穂ひづるさん、千原しのぶさん。そして日活は吉永小百合さん、北原三枝さん、浅丘ルリ子さんが看板スタアとして選ばれていました。
僕は、この特集を読んで初めて悲しい事実を知らされました。東映時代劇美人女優の田代百合子さんが2000年(平成12年)に亡くなっていたのです。
「えっ、うそでしょ?」
てっきりお元気でいると思っていたのに、9年前すでに他界されていたという現実が信じられなくて、しばし田代百合子さんの美しい顔の写真をじーっと見て目が離れませんでした。恥ずかしながら、涙してしまいました。享年69は、早すぎる!今となってからでは遅いですが、彼女のご冥福を祈るばかりであります。
8月16日のブログに「笛吹童子に出演した当時23歳の田代百合子さんは、現在77歳のお婆様になりました。元気でいてほしい」と書いたばかり。そのときは亡くなられていることを知りませんでした。検索しても、そのことは知らされていません。僕は「男の隠れ家」の発行に感謝しています。もし買わなかったら、いまだ生きていると思い続けることになります。偶然でしょうか。じつは、「男の隠れ家」という本を買ったのは、これが初めてなんですね。神様が知らせてくれたのでしょうか。合掌。
上の写真は歌と映画の娯楽雑誌「平凡」昭和26年9月号の表紙です。価格は90円。左は美空ひばりさん、右は桂木洋子さん。
雑誌「平凡」が発表した映画スタア人気投票ベストテンの結果が載ったページです。本誌6月号と7月号にて愛読者から募集した映画スタアのベストテン選出人気投票は凄い反響を呼び、6月15日の締め切り日までに平凡社に到着した総得票数は36万1千3百六十二という膨大な数字にのぼったとあります。懐かしい銀幕スターの面々ですね。男性スターの場合はほとんど故人ですが、2位の池部良さんがご健在です。
ちなみに11位から21位に選ばれたスタアは次の通りです。男優は⑪堀雄二⑫山村聡⑬高田浩吉⑭森雅之⑮三國連太郎⑯伊豆肇⑰片岡千恵蔵⑱龍崎一郎⑲藤田進⑳水島道太郎㉑宇佐美諄
女優は⑪久我美子⑫月丘夢路⑬山口淑子⑭角梨枝子⑮水ノ江瀧子⑯折原啓子⑰山根壽子⑱島崎雪子⑲若山セツ子⑳田中絹代㉑山田五十鈴 以上でした。
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