1996年12月26日発売
私は、スワティという存在については、この『きゃんきゃんバニープルミエール2』以外では知りません。「きゃんバニシリーズ」といえば、今でもなおかなりの支持者を集めているようですが、その最新作である本作品の発売が1996年ということを思えば、「すでに終わっているゲーム」と見ることが可能でしょう。もちろん、その後セガサターンに移植された『きゃんきゃんバニー・エクストラ』がWindowsに移植でもされれば話はまた違ってきますが、寡聞にしてそういった情報は入ってきません。
したがって、「WindowsベースのDOS/V機」しか持っていない私にとって、このゲームは貴重な作品といえなくもないですし、個人的に非常に気に入ったキャラクターがいるので、評価は別としてかなり思い入れのあるゲームだったりします。
ところが、このゲームを考えてみる場合、どうしても、「特殊な存在」としてのスワティを避けることができません。従って、以下、ネタバレ領域に踏み込みつつ、思うところをまとめてみました。
ちなみに、最初は、サワディと東山日奈緒との対話形式という、某所でしばしば使っている手法を取っていたのですが、題材が題材だけに断念しました。
続編における継続キャラの役割
人気のあるキャラクターを抱える作品の場合、そのキャラクターが続編にて再登場するというケースは、決して珍しくありません。
しかし、こういったキャラクターたちは、あくまでも「人気が出た」、すなわちかなりの支持を得たからこそ再登場するわけです。人気がある→プレイヤーサイドである程度固定されたイメージが植え付けられている、といえますから、「既存のイメージ」との調和が必要になってきます。原画の担当者が替わっていたりすれば、なおさら、既存のイメージとのすりあわせが大事になってきます。その上で、前作を知らない人にも、そのキャラクターなりが明確なものとして受け止められる必要がありますから、描くのは非常にたいへんになってきます。
こういった難しい作業が入るため、既存キャラが攻略対象クラスとして再登場するケースはさほど多くありませんが、成功事例としては、『Graffiti』(ぷち)→『My Friends』(Euphony Production)の高杉美咲・工藤真弓の両名が挙げられましょう。
さて、『きゃんきゃんバニープルミエール2』の場合、スワティ・サワディの両名が「継続登場」組です。スワティは『きゃんきゃんバニープルミエール』『きゃんきゃんバニーエクストラ』、サワディは『きゃんきゃんバニーリミテッド5 1/2』に登場しています。
このうち、サワディは完全な脇役キャラなので、このゲームを語る上での比重をあまり高くする必要はないのですが(高くしたいけどねぇ…(^^;))、スワティは、ゲームの最初に登場し、エンディングもスワティが締めます(ハッピーエンドの場合)。したがって、彼女は、このゲームの中で「なくてはならない存在」という位置づけになっている、これは間違いのないことでしょう。
女神の存在意義たるや何処にあるのか
話の発端からして、ナンパして娘をたらしこまないといけないという、何とも都合のいい形になっています。こんな条件で生まれてきた女神の将来が思いやられますが、私はサワディ派なのでミーナはどなたかに差し上げましょうヾ(^^;
のっけからの与太話はともかく、このゲームにおける、スワティの「存在」を考えてみましょう。
スワティは、バイトや約束に遅れそうな場合など、警告を発してくれますが、ただそれだけの存在です。あとは、基本的に主人公の自室で、のほほんとしている様子。主人公を見守ると見えなくもありませんが、自分にできる限りのことをする、という切迫感がほとんど見られません。亜矢子の失踪など、かなり緊迫感を伴うシーンが確実に存在していますが、スワティは単なるONE OF 七福神になっています。これでは、「女運を授ける女神」(←ホント、男にとって都合のいいこって…)というのが「見かけ倒し」といわれても仕方がないでしょう。無能ではないのでしょうが、「役立たず」であることは確かのようです。
当然のことながら、用が終わればさっさと帰る…のだろうと思っていたら、初回プレイでは、なんだか主人公と名残を惜しんで「必ず帰ってきますからっ!」…あんた、何様だよ?(「神様だ」というお約束のツッコミは不可ね)
この時点で、「ああ、このゲームは、前作とのケリをきちんとつけず、中途半端にひきずっているんだな」という印象を持ちました。なんか、特別な存在ではあるという「イメージ」づけがなされているけど、実際には、このゲームでは正真正銘の昼行灯、信楽焼の置物よろしく部屋に居座るマスコット。
ちなみに、この初回プレイでは、東山日奈緒嬢には出会っていません。スワティは「全く活躍していない」わけです。
嫌いになる要因もありませんけれど、これで思い入れができるはずもありません。サワディも「なんだかよくわからない」というイメージでしたが、スワティのほうは、マニュアルなどではメインヒロイン級の扱いを受けているため、勘違いをしてしまったしだいです。
絶対に、許さないんだから!
スワティに対する私のイメージが一変したのは、セカンドプレイ終了後です。
2回目になると、行動パターンを少し変えたため、東山日奈緒嬢とお近づきになることができ、必然的にサワディとの接点も増えました。日奈緒さんとサワディという、非常にほのぼのとした組み合わせ自体が微笑ましいものですが、ここではあえて深入りするのは避けておきます(萌えの続く文など読んでもおもしろくないでしょうから)。
重要なのは、この日奈緒シナリオの最後の最後でしょう。主人公と日奈緒とが結ばれるわけですが、ここに至るまでには、サワディが頑張っていたことを見過ごしてはいけないでしょう。単に遊んでいただけと見えなくもありませんが(「良縁を取り持とうってがんばってたもん」といってはいますが…(^^;)、日奈緒に対してサワディが影響を与えていたことは間違いないでしょう。
そして、このサワディが、突如として調子を崩して倒れ、主人公の部屋に運び込まれるのですが、この時点で、スワティが事態をどう判断していたかというと、漠然と何らかの予兆を感じていたというレベルです。
この後、主人公が出かけようとするとき、七福神から「お守り」をもらうことになるわけですが、スワティだけが、見当違いのものを主人公に手渡します。もちろん、これを「単なるミス」ということは可能でしょう。しかしその後、日奈緒が絵に取り込まれかかったとき、その場に急行したのはスワティだけであり、他の七福神は動いていなかったことに注目すれば、彼女の動向を、好意的に受け止めることの説得力が相当に欠けてきます。さらに、これ以降、「頑張っていた」はずの、そしてスワティを誰よりも一途に尊敬しているサワディに対し、何らフォローを入れていないことを考えれば、彼女の行動原理が、単に「主人公が心配」という念だけにとどまらないものだったと思えてなりません。
単刀直入に言いましょう。スワティは、主人公が、東山日奈緒という女性と急接近したことを、非常におもしろくないと思い、「タマゴにとって好影響が出た」以上の関係になることを阻止した、というのが妥当に思えます。
そこで、以下、日奈緒シナリオについて、ちょっと突っ込んでみたいと思います。
サワディちゃんは、良縁の女神様なんですよぉ☆
タイトルが正鵠を得ているかどうかはともかく、日奈緒とサワディとが非常に仲のいい関係にあったのは多言を要せぬと思います。しかし、ここで見落としがちなのは、寂しがりやであり孤独であった日奈緒にとってサワディが必要であったのはもちろんのこと、サワディにとっても日奈緒という存在は、「自分のことを認識してくれるやさしいお姉ちゃん」として必要な存在であったことです。
サワディは、基本的に「人間の目には見えない」はずなのですが、主人公と日奈緒の目には見えるわけです。サワディが落ちてきた(笑)時点では、単に怠け癖のついたガキ以外の何者でもありませんが、サワディは「子供」であるからこそ、人の役に立つために、自分なりに真剣に(客観的には迷惑そのもの)行動し、そこに自分の意義を見出そうとします。これは、環シナリオでのイベントでも立証可能ですね。
そして、サワディがいる結果、日奈緒の顔に笑顔が増えていった中で、サワディは、自分の意味を認識しているはずです。倒れた後も、出てきたセリフは、「修行していた」ではなく、「良縁を取り持とうってがんばってたもん」でした。それが事実であるかどうかは問題ではなく、サワディ自身が「そのように認識していた」ことが重要なのです。この時点で、サワディは、「日奈緒の役に立とうと(少なくとも主観的には)懸命になっていた」といえます。妖魔の存在がわからなかったのは「見習い」ゆえの未熟さによるものであって、彼女に責任を帰することはできないでしょう。
今度は視点を日奈緒にほうに移します。
日奈緒のシナリオが他のキャラクターのそれとは性質を異にしているのは、サワディの存在だけではありません。主人公と日奈緒との付き合いが日奈緒の父親公認であったこと、そして、「人には見えないものが見え」ていることの二点が指摘可能です。
まず、前者のほうですが、サワディうんぬんとは無関係に、主人公は「もう逃げられない」状態になっているといってよいでしょう(^^;)。東山画伯が、主人公の存在を「日奈緒を明るくさせる存在」という程度で留めたがっているのであれば、あのメイドさんを監視につけるなりなんなりするはずですが、そういったこともなく、むしろ全幅の信頼を置いているようです。人を見る目がないといえばそれまでですが(^^;)、主人公側から見れば、ある程度の覚悟をしている状態になっているはずです。
後者に関しては、今までもさんざん書いてきたとおりであり、特に付け加える必要はないでしょう。
以上、日奈緒視点で見た場合はもちろんのこと、サワディ視点で見ても、主人公がこのシナリオで日奈緒と結ばれることが一番自然な結末であるといえましょう。ほかにも魅力的なキャラクターは登場しますが、こう考えた場合、トゥルーシナリオにあたるのが日奈緒シナリオである、と言い切っても問題ないと思います。
それにも関わらず、日奈緒は主人公の元から離れることになります。それが「別れ」を意味するとは言い切れません(言いたくないというのが本音)が、このシーンを見れば、必然的に、スワティが主人公とベタベタしているシーンが出てくることを考えれば、非常に後味の悪いものが残ります。ミーナという存在を媒介として、あたかも疑似夫婦のような関係で幸せそうな顔をするスワティですが、その笑顔を見ても苦々しさが消えませんでした。
日奈緒は、いつか、素敵な人になって、戻ってきます…
自分の気持ちに素直になれないのは罪だ。恋愛ゲームではよく使われるタイプのお話ですが、このゲームにおけるスワティは、素直になれないを通り越して、相手を中途半端にその気にさせているとしか思えません。
実際に歴代キャラクターの人気投票などを見ると、スワティがかなりの人気を得ていたことを考えると、こういった狡猾なキャラクターとして設定されていたとはとうてい思えません。要するに、スワティというキャラクターイメージを、このゲームは「持て余していた」と見て良さそうです。
日奈緒のエンディングでは、「日奈緒は、いつか、素敵な人になって、戻ってきます…あの時の、あの人のように…」というセリフが、ムービーの中で出てきます。
「続編をあらかじめ出すことを念頭に置いて作った作品」にはろくなものがない、というのが私のイメージなのですが、こと、このゲームに関しては、「悲劇の生き別れヒロイン」である日奈緒のためにも、「努力の報われなかった見習い女神」サワディのためにも、そしてなにより、後味の悪いイメージを被ったままになっているスワティのイメージ回復のためにも、Windows版のきゃんバニシリーズの続編を出してほしいものです。「シリーズもの」として成長してきたキャラクターの終幕がこれでは、いくらなんでもひどいでしょう。
スワティに対し、相当にネガティブな評価をくだしてきましたが、このゲームのレビューなどを見ると、スワティの位置づけに対して「あんまりだ」という声は、ほとんど見ないので、反応がかなり怖かったりしますが、逆にいえば、過去に蓄積されたイメージが一定程度「固まっていた」ため、フィルターを通した像で見られるのが一般的だった結果でしょう。
追記:その後、『きゃんきゃんバニー・エクストラ』の入手・プレイによって、スワティに対する私的イメージは相当改善されました。しかし、ゲーム単独で見た場合、上記のような先入観が入るのはごく自然のことと思います。「続編」で前作のキャラクターが粗雑に扱われた一例として、また本来であれば輝ける光を放てるはずのキャラクターが本来の力量を発揮できなかった一例として、この『プルミエール2』を評価したい、という点は、現在も変わっておりません。(2000年10月19日)
1999年10月1日
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