まずここでは、二項対立の主軸として、メインヒロインである「月島瑠璃子」と「新城沙織」の両名を見比べ、シナリオの、あるいはキャラクター描写の対比を試みることにします。なお、「藍原瑞穂」については、この両名とは別個に扱うのが妥当と思われるので、ここでは取り上げません。
また、以下の文中、「狂気(の世界)」を、「日常(の世界)」「現実(の世界)」と対比させる形で使っています。念のため(祐介の「妄想」なんざ、「狂気」とは言わないと思いますよ、あの程度じゃ…)。
まずここでは、二項対立の主軸として、メインヒロインである「月島瑠璃子」と「新城沙織」の両名を見比べ、シナリオの、あるいはキャラクター描写の対比を試みることにします。なお、「藍原瑞穂」については、この両名とは別個に扱うのが妥当と思われるので、ここでは取り上げません。
また、以下の文中、「狂気(の世界)」を、「日常(の世界)」「現実(の世界)」と対比させる形で使っています。念のため(祐介の「妄想」なんざ、「狂気」とは言わないと思いますよ、あの程度じゃ…)。
瑠璃子と沙織との際だった相違を見出す箇所はいくらでもありますが、まずは、シナリオの終結点というべきエンディングで比較してみましょう。
ハッピーエンドルート同士で比較した場合、
・瑠璃子→屋上で青空を見ながら
・沙織 →教室で夕陽を見ながら
という相違があります。
エンディングを「屋上」で迎えること自体は、特に気を引く点はなさそうです。瑠璃子と出会ったのが屋上だとか、あるいは電波を使えるようになった祐介にとって「屋上」という場が特別な意味を持つとか、そういう考えもできそうに思えますが、注意しておくべきコトは、瑠璃子だけでなく、瑞穂とのエンディングも似たような舞台で行われていることです。すなわち、「屋上」という設定自体には、深い意味を求める必要はなさそうです。
一方、エンディングを「教室」で迎えるのは、他の各エンディングを全て含めたとしても、沙織ハッピーエンドが唯一だ、ということに思い至ります。
祐介にとって、「教室」とは、どんな舞台なのでしょうか。言うまでもなく、そこは、彼がこの上なく嫌っていた「日常」の象徴です。彼が世界崩壊の妄想を抱き、また目の前で太田香奈子が異常を示したその場は、エンディングの時点では、もはや違和感を覚えない舞台へと変貌しています。
また、エンディングにおける、彼自身の感情描写として、綺麗だな、と思った。世界はこんなに綺麗だったんだ
そして…誰だって、この夕陽を綺麗に思う…か
というものがあります。ここからは、現実世界というものに対する拒絶の念はもはやなく、それと対極の世界と言いうる「狂気」というものへの未練がまったく残っていないことがうかがえます。実際、「狂気」に関する描写も、完全に「彼岸の出来事」とした立場になっています。
こういった、沙織エンドでの「夕陽」の描写からは、例えば瑠璃子ルートの途上における「屋上での夕焼け」シーンに見られたような「何もかもが、真っ赤」な世界ではなく、それが単に「綺麗」の一言で済ませられるものになっているわけです。別のルートでは「狂気」と深く関わる素材が、こちらではそういった「記号」を帯びていないこと自体、意味を持っているといえましょう。
しかし、キャラクターへの心情となると、話はまた別のようです。それを強調しているのが、「指切り」です。
沙織が「指切りしよう」と右手を出したにもかかわらず、祐介は、自分が屋上で瑠璃子と指切りしたことを思い出して右手を引っ込め、左手を改めて差し出します。
これの意味は、どう捉えるべきでしょうか?
人によっては、「沙織とラヴラヴ状態になってて瑠璃子をこの場で思い出すとはケシカラン」と取るかもしれません(私が最初そうでした)。しかし、この前後における祐介の感情描写を見ると、キャラクターに対する「想い」を、ストレートに描いている箇所は皆無で、そこには必ず「現実世界」へのスタンス、という媒介者が存在しています。
沙織に対しては、彼女が側にいてくれる限り、僕はこの世界から、色と音を失うことはないだろう
と述べ、一方瑠璃子に対しては、現実世界の美しさ、暖かさを、ほんの少しでも感じて欲しいと思った
といいます。ここからわかるのは、「現実世界を是とする」ことを疑っておらず、「狂気」を否定する祐介の心境でしょう。その「延長」線上での心情吐露として、沙織(=今目の前にいる)を「自分を現実に引き止めてくれるパートナー」と、そして瑠璃子(=彼岸の世界に行ってしまった)を「こちらの世界に戻ってきて欲しい人物」として考えているわけです。
そう考えると、祐介が「右手」をどう捉えていたのか、ということになりますが、これは「瑠璃子」=「狂気の世界へ行ってしまった人物」という意味合いを含んでいる、と考えるのが妥当でしょう。狂気の世界へと旅立ってしまった瑠璃子と指切りをした、右手。それを「沙織との指切り」に使わない、というのは、「現実を是としている」現在の祐介にとっては、「過去の指切り」を精算する、という意味合いを感じます。
沙織萌え〜、という方には、「沙織を、狂気への扉の鍵でもある"右手"に触れさせたくなかった」という見方をする方がいいかな?(^^;)
一方の瑠璃子エンドでは、祐介は必ずしも、現実世界そのままを是とはしていません。これは、トゥルー・ハッピー両エンドとも共通ですが、「事件」終了直後の記述が、いきなりゲーム開始当初の記述と同じように、細いシャープペンシルの芯をかちかちと伸ばし、意味もなくノートの上を走らせる。…
と始まります。ここからは、現実世界に溶け込んだ祐介自身を感じることはできません。なるほど、後になって現実世界は相変わらず退屈だったが、不思議と僕は奇妙な充実感を得ていた
という描写もありますが、この「充実感」も、直後に「瑠璃子さんのことを想いながら」という記述を考えれば、「現実の美しさ」ゆえのものでないことは明らかです。
沙織エンドとは明確に異なるこの姿勢の根拠は、祐介が「電波を使える」ことに依拠していると考えて良いと判断します。「電波を使える」とは、それまで自分が妄想の中ではぐくんできた「爆弾」を、自分で「自由に」使えるようになったことと同じです。すなわち、力を暴走させることなく、それを自分で制御可能になった、ということです。
これが制御不可能になったのが、他ならぬ「トースターエンド」でしょう。
ここで、私が注目したいのは、トゥルーエンドのラストで、祐介が「涙の雫を落とすのだった」と語っていること。
涙を流すというほど感極まっている背景にあるのは、当然、そこに瑠璃子がいないことが直接に挙げられますが、そこには、「自分がそこから戻ってしまったところの"狂気"」との別れ、というものを感じさせます。日常の中では決して得られないもの。すでに、瑠璃子は兄の元へと去り、自分だけが「狂気」の世界だけにある「もの」を心に抱きながら、周りにはもはや誰もいないわけです。「狂気」と別れたものの、それは「現実」をポジティブに見た結果ではなく、あくまでも「電波」を制御できるようになったがゆえのこと。
ハッピーエンドでは、ここで瑠璃子が戻ってきてめでたしめでたし、となるわけですが、「現実」や「狂気」に対するスタンスは、トゥルーエンドでのそれと基本的に同じです。従って、敢えて分けて考える必要はないでしょう。この件に限らず、瑠璃子の「ハッピーエンド」の意味は、「トゥルーエンドの救済版」的な意味合いが濃いと感じられるので、同列で論じるのが妥当と判断します。もちろん、「力を得た者が振りかざす"正義"が、孤独を招き寄せた」と見ることも可能でしょうが、あの選択肢設定では、祐介を聖人君子的に動かすと、偽善者的な影を引きずってしまうので、却ってよろしくないでしょう。
以上から、瑠璃子トゥルー&ハッピーエンド、沙織ハッピーエンドを比較すると、
・瑠璃子→狂気
・沙織 →日常あるいは現実
という関係が明らかに浮かび上がってきます。
しかしながら、それぞれには、バッドエンドも用意されているので、以下、それらを見てみることにしたいと思います。
沙織のバッドエンドは、ビジュアル的にも非常に印象が強く残りますが、彼女があのような形(←「壊されない」形)で操られることや、綴られている彼女の言葉。そしてまた、瑠璃子の存在が必要であったことなどが注目されます。
まず、沙織は、「精神を破壊される」という、生徒会役員や太田香奈子のようなタイプにはなっていません。月島は、彼女の意識を残したままで、身体のみを操作して最上級の恐怖感を伴わせています。エンディングでの扱われ方を見る限りに置いては、明らかにゲーム中でもっとも悲惨な目にあっているわけです。
月島は、なぜ、このような方法を取ったのか。
ここで、他の「電波」の被害者との比較、という方法を取ろうにも、瑞穂は瑠璃子が関係していない以上、同列で論じるべきではないと思いますし、他のキャラは登場した時点で壊れていますから、その場での月島、あるいは、彼女の言動や態度から類推するしかありません。
まず、月島は、電波を使って沙織を「殺し」たわけですが、彼は、「狂気」の世界で悦楽に耽っており、それのため「だけ」に「電波」を駆使しています。これは、瑠璃子トゥルー&ハッピーエンドで、自分の力を制御している祐介とは異なり、明らかに「暴走」しているわけですが、ここで、彼は自分の「電波」について得々と語っており、その「力」を見せつけています。その対象に対し、「壊す」ことをしなかったのは、その「力」を頑として否定する者−このシナリオにおける沙織と祐介−に対し、「無力さを感じさせる」ことに至高の快感を抱いたから、と見えます。
沙織が、最後のセリフにこれ…ゆめ…だよね…
と漏らしているのは、なかなかに示唆的です。彼女は、「電波」(←「狂気」の象徴)に自分が操作され、自分の手で自分の命を絶つという、これ以上ない「非−日常」に曝されながら、それを受け入れることが最後までできないわけです。「狂気」に対する姿勢が固く、「日常」の中に浸っている者ゆえに、その悲劇が増幅された、と考えられます。
注意しておくべきは、沙織は、「狂気」という世界の存在を、決して否定していないことです。校内探索中、彼女はこんなことを語っています。
狂気って、案外身近なのかも知れないよね。こんなつまんない毎日を送らされるてるんじゃ、おかしくなってトーゼンよ(注・原文のまま)
しかし、「否定すること」と「共感を多少なりとも抱くこと」とは、まったく違います。
親友であった太田香奈子の現状から目を背けることができなかった瑞穂と違い、彼女は、「他人事」にしか過ぎなかった「狂気」の世界を、最後まで受け入れられなかった、そう考えます。
「沙織」という存在が、「日常」と分離不可能なキャラクターとして設定されていたがゆえに、ハッピーエンドではこのゲームの中で唯一のラヴラヴ状態、かたやバッドエンドではこのゲーム中もっとも悲惨な扱いという、コントラストの強い形を取らざるを得なかった、と見てよいでしょう。
沙織の「ハサミエンド」に対するエンディングは、瑠璃子においては「トースターエンド」と見るべきでしょう。即ち、瑠璃子を犯した挙げ句、祐介が暴走するエンディングです。
このエンディングでは、瑠璃子を蹂躙した後に得られた「破壊的な力」によって、祐介自身が暴走するわけですが、祐介自身もそれなりに気付いているとおり、彼は「月島と同様に崩壊」しているわけです。それは、月島との闘いに勝った、というよりは、自分が力を制御できなくなっている時点で、すでに「自分」に負けていることを示している、と見てよいでしょう。
これは、瑠璃子トゥルー&ハッピーとの分岐選択肢からも如実にわかるとおり、自分を制御できなかったことがすべて、と感じます。その果てに、
私を傷つけたのは、君だよ…長瀬ちゃん」
という言葉が彼を襲うわけですが、これは、主人公が「自分に負けた」ことを自覚した結果と見てよいでしょう。
「暴走した者」同士として、沙織エンドでの月島を参考に、トースターエンドでの祐介を見てみましょう。
沙織エンドでの月島は、あくまで「日常」の側に留まり続ける沙織・祐介に対し、自己の「力」を絶対的に確信しながら、それを制御できないという「狂気」の側に立ち、彼女たちを追いつめていきます。ここでストップをかけられるのは、月島が犯した瑠璃子だけ。その瑠璃子は、兄のことはすでに許しており、また、兄を、あくまでも「兄として」(男として、ではなく)優しく受け止めています。もはや、月島一人ではどうにもならない状態になっているわけです。
一方、トースターエンドでの祐介は、その「暴走」の果てはどうなるのか、わかりません。しかし、「日常」の世界に繋ぎ止めているはずの理性などというものはすでに彼方にあります。現実の情報を得ているのが「テレビを通じて」であり、自分が直接見聞きしているものではない、というエンディングは、彼自身が「実感」というものを(いかなる形であれ)受け入れなくなっていることを示している、と見てよいでしょう。もはや、「日常」は、単に「嫌悪すべきもの」ではなく、「自分とは無関係であり拒絶すべきもの」になっているわけです。当然、「抑えるべき主体としての自分」も「拒絶」するわけですから、「自分に負けなかった人物」の到来を待つしかないのでしょう。
この「トースターエンド」では、ヒロイン二人よりも、むしろ、「自分に勝つ/負ける」という構図が浮き彫りになります。
最後に、各シナリオの中で、キャラクターがどう扱われているか、について。
まず、瑠璃子シナリオの中の沙織ですが、非常に悲惨な結果となります。悲惨といえば、瑞穂も十分悲惨ですが、瑞穂の場合は、あくまでも香奈子救出という具体的な目標があり、その際の判断ミスとして片づけることも可能でしょう。しかし、沙織の場合、単に「通りすがりの犠牲者」というべき存在です。彼女は、「狂気」あるいはそれに憑かれた人間に対して能動的に活動しているわけではありません。また、犯され方などを見ても、明らかに瑞穂より「ひどい扱い」であることが強調されています(五十歩百歩ではあるけれど)。
しかし、瑠璃子シナリオの展開の中では、沙織は意味を持っていません。彼女の上のような「扱い」は、沙織シナリオにおいて、彼女がヒロインとして活躍するときの意味づけと対比して初めて意味を持ってきます。要するに、単独では単なる「やられキャラ」です。
では、沙織シナリオにおける沙織と、瑠璃子シナリオにおける沙織とを比較すると、祐介とともにいることによって「日常」に留まることのできた沙織と、悲惨なシーンしか描かれない沙織との幅の差は甚大です。前者での沙織は、最後まで「電波」を否定していますが、後者での沙織は、祐介が発見した時点ですでに陵辱されており、もはや「電波」に対しては萎縮するしかない存在になっています。沙織という「日常」を体現するキャラクターにあっては、その「日常」が崩壊した時点で、もはや精神的に崩壊してしまうことを意味しているようにも見えます。
一方、沙織シナリオの中での瑠璃子ですが、こちらは上記の場合とは逆に、瑠璃子はキーパーソンとなっています。
沙織のエンディングを迎えるためには、瑠璃子の協力がない限り、絶対にハッピーエンドに到達できない、という仕組みになっています。これは、瑠璃子と会わなかったり電波という言葉を許容しなかったりした場合だけでなく、彼女が来るまで部室で時間稼ぎ(笑)しなかった場合でも不可、となるわけですが、いずれにせよ、月島の暴走を瑠璃子が土壇場でくい止めていること、そして、沙織のハッピーエンドでも瑠璃子が出ていることは、「瑠璃子と対極的なキャラクターとしての沙織」という位置づけになっているのは明白です。メインヒロインに依存するキャラというのが哀愁を誘いますが、メインヒロインと無関係な瑞穂よりはマシと見るべきでしょうか(苦笑)
私自身は、狂気、あるいは逸脱といった情動に憑かれたことは一度や二度ではなく、また、その対極にあった「日常」、あるいは、文明社会というものの非現実性を漠と感じていたタイプなので(今から考えると、「核」というものへの恐怖が刷り込まれていたように思います)、非常にすんなり受け入れられました。もちろん、社会を否定する場合、その背景には、「冷たい暑苦しさ」とでもいうべき、不快なる無機質の空間が自分を取り巻いている、という感情があったわけですが、主人公の心情からは、これに加えて、「関係」というもの自体一切からの逃走が感じられます。
従って、本来は「主人公サイド」から、新たに見直すべき点が多々あると感じていますが、ここから話を分析すると、どうしても主観の「軸」がぐらついてしまい、『雫』的な世界がかえってわかりにくくなるだけと感じ、こんな風に考えてみました。
そうはいっても、「二項対立」の軸は、まだまだ上記で尽きるものではありません。藍原瑞穂と太田香奈子も触れるべきなのでしょうし(あまり印象に残っていないシナリオですが(^^;))、瑞穂と沙織でも比較は可能です。しかし、面倒くさいのでパス(爆笑)
新城沙織嬢については、「存在感が薄い」ように見えますが、瑠璃子が「表のヒロイン」であれば、沙織が「影のヒロイン」なのではないでしょうか。このゲームにおける「狂気」といえども、それは「日常」とのコントラストを出してこそナンボのもの。瑠璃子シナリオ単独の場合と、沙織シナリオがプラスされている場合とを比較してみれば、沙織の存在意義は決して小さくないと思います。
NIFTY SERVEなどでは「妹」を扱ったゲームが非常に人気を呼んでいますが、このゲームもそのコンテクストで考えることは可能だと思います。そういった解釈があまり見られないのは、月島兄が「悪役としても魅力がない」ためなのではないか、と考えています。例えば『痕』の柳川祐也のように、悲劇のダーティヒーローとでもいうべき面がなく、「自分に負けたヤツ」以上の人間的な魅力が一切ないことがありそうですね。ゲームの評価それ自体に影響することはありませんが、コイツをもう少し切り刻んで…もとい、分析してみる必要も感じています。まぁ、それはまた、気力が充実した機会に、ということで。