春の唄 (喜志邦三・内田 元)
母の歌 (板谷節子・橋本國彦)
愛國の花 (福田正夫・古関裕而)
海ゆかば (大伴家持・信時 潔)
大日本の歌 (芳賀秀次郎・橋本國彦)
ヒュッテの夜 (深田久彌・高木東六)
靖國神社の頌 (佐藤春夫・大中寅二)
僕等の團結 (勝 承夫・信時 潔)
勝ちぬく僕等少國民 (上村數馬・橋本國彦)
朝はどこから (森まさる・橋本國彦)
三日月娘 (藪田義雄・古関裕而)
山小舎の灯 (米山正夫)
たそがれの夢 (西澤義久・田村しげる)
乙女雲 (藤浦 洸・橋本國彦)
白い花の咲く頃 (寺尾智沙・田村しげる)
山の煙 (大倉芳郎・八洲秀章)
うるわしの虹 (鈴木比呂詩・八洲秀章)
月夜の笛 (横井 弘・吉田矢健治)
並木の街の時計台 (丘灯至夫・古関裕而)
学校教育においては、国語や音楽の教材を分析して一つの解釈を提示したり、唯一の正解を定めることが当たり前のように行なわれている。だが、作品のイメージを固定することに、どんな意味があるというのだろうか。いかなる作品であれ、受け取り方には個人差があるし、解釈は時代によって変化する。戦争中の音楽作品に取り組んだことで、私はそう考えるようになった。世間には、戦時下の作品はすべて好戦的だとする論調があるが、それはいささか感情的で根拠に乏しい。実際に作品を掘り下げてみれば、誰もが作風の多様性に気付くだろう。 この度のコンサートは、こうした視点から、純粋に音楽的な興味が湧く作品を選んだ。前半は昭和11年から終戦までに「國民歌謠」「われらのうた」「國民合唱」の時間に放送された作品、後半は「ラジオ歌謡」として放送された作品でまとめている。 最初は、NHKの「國民歌謠」で頭角を顕わした作曲家・大中寅二の《椰子の實》である。彼の作風は大海原を彷彿とさせるフレーズ感と、教会のオルガニストとして培った和声感に特徴があり、これはその後の《靖國神社の頌》でも変わっていない。それにしても、クリスチャンとしての大中は、どんな気持ちで靖國神社の歌を作曲したのだろうか。キリスト教の教会音楽風に仕上げられた音楽と、日本の神道のミスマッチからは、反戦主義のにおいすら嗅ぎ取れるのだが。 なお、靖國神社関係の歌は、「國民歌謠」では5曲発表されている。昭和12年4月26日初放送の《靖國神社の歌》(渋谷俊作詞・小松耕輔作曲)、翌27日の《靖國神社の歌》(田巻秋虹作詞・陸軍戸山学校軍楽隊作曲)、翌28日の《靖國神社招魂祭の歌》(岩本平太郎作詞・海軍軍楽隊作曲)、そして昭和15年10月14日の《靖國神社の頌》と、10月21日の《靖國神社の歌》(細渕國造作詞・海軍軍楽隊作曲)である。 次の《春の唄》は西宮駅近くの北口市場の様子を描いた作品で、《椰子の實》同様、戦後の「ラジオ歌謡」でも取り上げられた。 《母の歌》は、昭和9年から12年にかけて欧米留学した橋本國彦がNHKの委嘱に応じて作曲した子守歌だが、戦後の出版譜では日の丸・君が代を歌った3番の歌詞が削除されるようになった。 天性のメロディストだった橋本は、日本にまだ管弦楽曲を書ける作曲家が数えるほどしかいなかった時代に、フランス印象派ばりの洗練された和声法を身につけていた。そのため、皇紀二千六百年の記念式典のための祝典曲(オーケストラ作品)を委嘱されたり、指揮を任されたりしたが、この活躍によって、戦後は苦境に追い込まれた。その死は、彼自身にとっても、日本の作曲界にとっても、早すぎた。 歌曲作曲家としての橋本はすでに昭和3,4年頃に名声を確立していたが、戦中・戦後にかけてのNHKでの仕事も、時代と音楽家の関わりを考える上で重要である。彼は「國民歌謠」において、《總選擧の歌》(土井晩翠/S.12.4.19初放送)、《母の歌》、《黎明東亞曲》(佐藤春夫/S.13.1.6初放送)、《國民協和の歌》(中央協和会・大政翼賛会/S.15.12.16初放送)を「橋本國彦」名で作曲した他、少なくとも「東京音楽学校作曲」として《大日本の歌》を書いており、それ以外の「東京音楽学校作曲」作品の中にも橋本の作品が含まれている可能性は高い。 彼は、専門家ではない大衆が歌うための作品は難しく書いてはならないと考え、最小の仕掛けで最大限の演奏効果をあげようとしたようだ。歌いやすい旋律線に対し、伴奏部にはスタッカートやレガートを細かく付けて演奏効果を狙っている。《大日本の歌》にせよ、《勝ちぬく僕等少國民》などの「國民合唱」にせよ、その特徴は、強弱や、テヌートとスタッカートの対比によるメリハリにあった。 さて、敗戦後、NHKは昭和21年5月に歌番組の放送を再開した。橋本はその2回目の放送で《朝はどこから》を発表している。森まさるによる歌詞はまるで標語か何かのように味気ないが、作曲者はスタッカートを随所に用いることで、退屈さを避けた。橋本は結局8曲の「ラジオ歌謡」を書き、昭和24年5月6日に44歳で他界した。中でもタンゴとして書かれた《乙女雲》には、ビクターの専属でもあった橋本の流行作曲家としての一面が強く出ている。 古関裕而については改めて語る必要もないが、山田耕筰、信時潔、橋本國彦といった留学組と違って、独学でオーケストラ曲を書き、日本人作曲家として初めて国際的な作曲コンクールで入賞を果たしている。メロディーだけ書いて伴奏部を編曲者に任せることの多い流行歌の世界でも、彼は自らオーケストラ・スコアを書いていた。「國民歌謠」では《愛國の花》や《南進男兒の歌》(若杉雄三郎/S.15.9.2初放送)、「われらのうた」では《海の進軍》(海老沼正男/S.16.5.9初放送)、「國民合唱」では《突撃喇叭鳴り渡る》(勝承夫/S.19.5.1初放送)などの器楽パートが印象的だ。 「ラジオ歌謡」は昭和21年8月18日初放送の《三日月娘》から、昭和36年8月14日の《山の男は雲と友達》(薩摩忠)まで実に41曲を書いているが、今回は初めて《並木の街の時計台》を取り上げた。鐘の音を彷彿とさせるピアノ・パートには、古関お得意の不協和音が効果的に生かされている。 橋本と同じく東京音楽学校教授をつとめた信時潔も、この時代を代表する重要な作曲家である。当時の前衛音楽であったシェーンベルクらの十二音音楽を研究しながらも、決して自作には取り入れず、終生、ドイツ・ロマン派的なスタイルを崩さなかったその作風は《海ゆかば》の重厚な和声に象徴されている。昭和12年10月13日のNHK「國民唱歌」の時間に放送後、11月22日に「國民歌謠」として再放送されたこの歌を、文部省と大政翼賛会は、昭和18年2月より儀式に用いることを決めた。ちなみに信時はそれ以前には「國民歌謠」を作曲していない。初めて「國民歌謠」として書いた作品は《國こぞる》(金子基子/S.13.10.3初放送)で、《海ゆかば》のスタイルを継承している。 「われらのうた」の時代、信時は《僕等の團結》と《伊勢神宮にて》(北白川宮永久王/S.16.10.27初放送)を書き、「國民合唱」では《此の一戰》(大政翼賛会標語/S.17.2.8初放送)ほか4曲を作曲。ところが「ラジオ歌謡」は《われらの日本》(土岐善麿/S.22.5.8初放送)と《吹雪の道》(白鳥省吾/S.26.1.2初放送)しかない。戦時中、準国歌的役割を果たした《海ゆかば》の作曲者をNHKが使いづらくなったということだろうか。 これに対し、高木東六は33曲もの「ラジオ歌謡」を作曲している。《空の神兵》(S.17発売)の作曲者として知られる高木だが、「國民歌謠」は《空軍の花》(相馬御風/S.12.9.12初放送)と《ヒュッテの夜》、「國民合唱」は《征くぞ空の決戰場》(井上康文/S.18.9.14初放送)、《怒濤を越えて》(佐伯孝夫/S.20.7.15初放送)と、2曲ずつしか書いていない。興味深いのは、《ヒュッテの夜》といういかにもブルジョア的な題材が、昭和14年1月にはまだ問題にされていなかった点だ。 ところで、戦後の「ラジオ歌謡」は、始まった当初こそ妙に健康的で明るい題材が目立ったものの、新作が追いつかなかったのか、昭和22年の後半には21曲もの「國民歌謠」を再放送している。初放送でも、同年10月の《山小舎の灯》は、米山正夫が戦前のポリドール専属時代に書いたものだった。 「ラジオ歌謡」で世に出た作曲家に、寺尾智沙との作品《白い花の咲く頃》《リラの花咲く頃》で知られる田村しげるが居る。彼は5曲の「ラジオ歌謡」を発表しており、その第1作目が《たそがれの夢》だった。 同じ日本人でも、戦禍をくぐり抜けた世代と、戦争を知らない世代との感性の違いは甚だしく、現代の若者は、抒情的な田村の作風や、感傷的とさえいえる八洲秀章の歌には共感しにくいかも知れない。だが、人々が敗戦で傷つき、疲れ果てていたあの時代、彼らの歌で癒された人は少なくなかった。《さくら貝の歌》(土屋花情/S.24.7.4初放送)で世に出た八洲は、《あざみの歌》(横井弘/S.24.8.8初放送)、《山の煙》《うるわしの虹》など、19曲の「ラジオ歌謡」を書いている。 NHKラジオから生まれた一連の作品は、愛唱歌としても、時代の証言者としても重要な意味を持っている。ただ残念ながら、これらの作品の楽譜は必ずしも出版されておらず、出版された楽譜も現在は絶版になるなど、入手はきわめて困難だ。そんな情況で全体像を語ることはできないが、少なくとも《月夜の笛》は日本の伝統的な陰旋(都節音階)で作曲されたという点で特殊な一曲といえるだろう。 歌を味わう上では、時代背景や個人的な思い出も大切な要素となる。しかし、いつまでも懐古趣味にとどめておいては、時代とともに忘れ去られかねない。近代日本の歌が我が国の音楽文化の一翼を担うためにも、この時代の作品をきちんと検証し、伝承してゆくことが必要なのではないだろうか。 (藍川 由美)
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藍川由美「NHK國民歌謠〜ラジオ歌謡」を歌う
椰子の實(昭和11年7月13日)島崎藤村+大中寅二
祖國の柱(昭和11年9月21日)大木惇夫+服部良一
心の子守唄(昭和11年11月23日)稲野靜哉+宮原禎次
母の歌(昭和12年5月20日)板谷節子+橋本國彦
愛國の花(昭和12年10月18日)福田正夫+古関裕而
海ゆかば(昭和12年11月22日)大伴家持+信時 潔
めんこい小馬(昭和16年1月27日)サトウハチロー+仁木他喜雄
御朱印船(昭和18年8月24日)北村秀雄+清瀬保二
突撃喇叭鳴り渡る(昭和19年5月1日)勝 承夫+古関裕而
三日月娘(昭和21年8月18日)藪田義雄+古関裕而
やすらいの歌(昭和22年12月5日)百田宗治+古賀政男
緑の牧場(昭和23年1月20日)松坂直美+江口夜詩
黒いパイプ(昭和23年7月24日)サトウハチロー+服部良一
夏の思い出(昭和24年6月13日)江間章子+中田喜直
リラの花咲く頃(昭和26年3月26日)寺尾智沙+田村しげる
雪のふるまちを(昭和28年2月2日)内村直也+中田喜直
ああプランタン無理もない(昭和28年4月27日)サトウハチロー+中田喜直
あまんじゃくの歌(昭和29年3月29日)深尾須磨子+高木東六
近代日本の歌の歴史を追ってゆくうちに、一つの放送局が戦前・戦中・戦後にわたって量産した作品群が非常に重要な意味を持っているのではないかと考えるようになった。しかし、手持ちの資料がない上、入手も困難で、なかなか演奏会を開催する段階まで漕ぎ着けられなかった。
1.心のふるさと
2.椰子の實
3.祖國の柱
4.心の子守唄
5.母の歌
6.愛國の花
7.海ゆかば
8.めんこい小馬
9.御朱印船
10.突撃喇叭鳴り渡る
11.三日月娘
12.やすらいの歌
13.緑の牧場
14.黒いパイプ
15.夏の思い出
16.リラの花咲く頃
17.雪のふるまちを
18.ああプランタン無理もない
19.あまんじゃくの歌
藍川由美「NHK國民歌謠〜ラジオ歌謡」を歌う
2001年2月13日(火) 7時開演〜東京文化会館小ホール
NHKが作った歌の歴史は
A春の唄 (喜志 邦三/内田 元)
B愛國の花 (福田 正夫/古関 裕而)
C海ゆかば (大伴 家持/信時 潔)
D白百合 (西條 八十/大中 寅二)
E出征兵士を送る歌 (生田 大三郎/林 伊佐緒)
F隣組 (岡本 一平/飯田 信夫)
G朝だ元氣で (八十島 稔/飯田 信夫)
Hあゝ紅の血は燃ゆる (野村 俊夫/明本 京静)
I勝ちぬく僕等少國民 (上村 数馬/橋本 國彦)
J朝はどこから (森 まさる/橋本 國彦)
K三日月娘 (藪田 義雄/古関 裕而)
L山小舍の灯 (米山 正夫/米山 正夫)
Mアカシヤの花 (松坂 直美/橋本 國彦)
Nさくら貝の歌 (土屋 花情/八洲 秀章)
Oあざみの歌 (横井 弘/八洲 秀章)
P白い花の咲く頃 (寺尾 智沙/田村 しげる)
Q森の水車 (清水 みのる/米山 正夫)
Rみどりの馬車 (丘 灯至夫/古関 裕而)
S登山電車で (丘 灯至夫/古関 裕而)
2002年2月4日(月) 7時開演〜東京文化会館小ホール
お問合せ:オフィス小野寺 03-5649-2525
心のふるさと(昭和11年4月29日)大木惇夫+江口夜詩
初めての演奏会は五年前。その時に新聞記事をご覧になった方々が往時の楽譜やSPレコード、週報などを寄贈して下さったお蔭で、2月の『國民歌謠〜ラジオ歌謡を歌う』コンサートがシリーズ化できた。
しかし、皆様から、お便りやアンケートでさまざまな歌を教えて頂きながら、もともとピアノ譜が出版されていないのか、《さうだその意気》(西條八十・古賀政男)、《月月火水木金金》(高橋俊策・江口夜詩)、《父母のこゑ》(与田準一・草川信)など、未だにメロディー譜しかなく、演奏不能の作品も少なくない。
今回は、単に放送年月日順に演奏するのではなく、作曲家ごとに敗戦前と後の作品を比較してみたいと考えたのだが、実際には、江口夜詩、服部良一、古関裕而の作曲しか揃えられなかった。橋本國彦作品は、すでに《大日本の歌》《勝ちぬく僕等少國民》《朝はどこから》等を取り上げているし、御要望の多い高木東六作曲の《空の神兵》(昭和17年4月/ビクター)は、『國民合唱』としては放送されていない。また、古賀の《春を待つ》(昭和13年)、《さうだその意気》(昭和16年)、《いさをを胸に》(昭和19年)のスコアは見つからなかった。
わずか五、六十年前の作品すらきちんと保管されていないという事実は、わが国の文化レヴェルを象徴するものだが、時代を経るごとに調査・研究が難しくなるため、安穏とはしていられない。
皆様方からの情報及び資料提供を切にお願い申し上げたい。
昭和11年4月29日放送の『新歌謠曲』で発表後、『國民歌謠』や『ラジオ歌謡』でも取り上げられた。海軍軍楽隊出身の江口夜詩の作品では、『われらのうた』(昭和16年)の時間にも放送された昭和15年の新譜《月月火水木金金》がよく知られている。
山田耕筰の弟子で、霊南坂教会のオルガニストだった大中寅二の作曲。戦後の教科書に掲載されたため、『國民歌謠』『ラジオ歌謡』世代以外にもひろく浸透している。
この詞に詠われた「尊き人柱」とは、日露戦争の犠牲者のことであろうか。国境付近に眠る兵の霊に「祖國を護れ亡き友よ」と祈る詞に、服部良一が、"マーチよりおそく"とのテンポ指定で作曲。
大中と同じ山田耕筰門下の宮原禎次が作曲した歌曲風の子守唄。題や詞のイメージに比べて、テンポ設定が速く、強弱記号も最終音のp以外、ほとんどmfかfに設定されている。
《心の子守唄》と同じく歌曲的要素の強い作品。昭和9年から12年に至る欧米留学から帰国したばかりの橋本國彦がNHKの委嘱で書いた『國民歌謠』で、"搖籃曲のテムポで、やさしく、穩かに"との指定がある。戦後、3番の歌詞が削除された。
インドネシアのスカルノ元大統領が「ブンガサクラ」のタイトルで自国語に翻訳して歌っていたという話はあまりに有名。「銃後を守る」女性の姿を古関裕而が2拍子系のワルツで歌い上げた。
戦時中、準国歌的役割を担わされたために、戦後はほとんど演奏される機会がないが、信時潔の作曲は、彼らしい剛直さに貫かれ、微塵の揺るぎもない。《海道東征》を含めた信時の全作品の再評価が待たれる。
この歌のテーマは、第5節の「軍馬になって行く日にはみんなでバンザイしてやるぞ」にあるが、戦後、《もずが枯れ木で》などの反戦歌を書いたサトウ・ハチローは、この詞を改作してしまった。
サトウと同じく、戦後は左翼に近い立場をとった清瀬保二が作曲した『國民合唱』。清瀬の作曲には、ほかに『國民歌謠』の時間に放送された《船出の歌》(昭和15年1月)があるが、いずれも彼らしい素朴な作品に仕上がっている。
「一億總蹶起の歌」という副題でもわかるように、当時の戦況を反映して、悲壮感溢れる短調のマーチとして作曲されているが、後半部分を長調に転じた所に、古関の複雑な心境が窺われる。
戦時中、請われるままに勇壮なマーチを作曲し続けた古関は、戦後その呪縛から逃れるかのように、《雨のオランダ坂》《三日月娘》と、たて続けに3拍子の曲を書いた。
昭和12年発売の古賀メロディーだが、昭和22年12月に『ラジオ歌謡』として放送された。しかもこの歌は、そもそも『國民歌謠』として作られたらしい。その裏づけとして、百田宗治と古賀政男のコンビによる作品がこの1曲しかない点、古賀メロ独特の「五音音階」ではなく、西洋的な「七音音階」で作曲されている点を挙げておきたい。
江口夜詩の『ラジオ歌謡』第1作で、早朝の牧場の様子を鮮やかな転調で描き出している。
古賀政男は、日本コロムビアの作曲陣のうち、江口夜詩と古関裕而をライバル視していたそうだが、たしかに、この3人の筆力は、戦前・戦後を通じて安定していた。
昭和21年発売のレコードを、昭和23年7月に『ラジオ歌謡』として放送したもの。服部良一が全編タンゴのリズムで作曲している。
『ラジオ歌謡』の放送が始まった当初は、『國民歌謠』時代から活躍していた詩人や作曲家の作品が多かったが、この頃になると、ようやく中田喜直、團伊玖磨といった若手が台頭してきた。
《白い花の咲く頃》で成功した寺尾・田村夫婦による『ラジオ歌謡』で、ハバネラ風のリズムが作品をより印象的なものにしている。
内村直也脚本『えり子とともに』の劇中歌として第1節のみ放送し、好評を得たため、2、3節を加えて『ラジオ歌謡』としたもの。
同じく中田喜直の作曲による『ラジオ歌謡』。サトウ・ハチローがフランス語の春をテーマに書いた詞を、中田がシャンソン風に仕上げている。
昭和4年から7年にかけてパリに留学し、瀟洒なスタイルを身につけた高木東六が書いたポルカ。高木の作曲した『國民歌謠』は、《空軍の花》(昭和12年)、《ヒュッテの夜》(昭和14年)の2曲のみ。対して『ラジオ歌謡』は33曲にも及ぶ。
2001年1月29日(月) 7時開演〜仙台市青年文化センター
お問合せ:仙台リビング新聞社 022-265-2511
お問合せ:オフィス小野寺 03-5649-2525
NHK國民歌謠(昭和11年6月〜)〜ラジオ歌謡(昭和21年5月〜昭和37年3月)
昭和11年の「國民歌謠」から現在の「みんなのうた」に至るまで
60年以上も続いています。
一つの媒体(放送局)が「歌謡曲」という言葉を作ったり
自国の歌の歴史にこれほど深く関わってきた例は
世界でも珍しいのではないでしょうか。
NHKから生まれた歌で「激動の昭和史」を辿ってみたいと思います。
日本人は歌の好きな民族だ。わが国では、伝統的に見ても、純粋器楽より声を伴う音楽の方が発達してきたし、明治の洋楽輸入後もそれは変わらなかった。日本人が五線譜を用いて作曲した声楽作品の数は、器楽作品とは比べものにならないほど多いのである。
その要因としては、たとえば
@明治初期に、学校の教科目として「唱歌」が導入されたこと
A昭和11年に「國民歌謠」というラジオ番組が始まったこと
が考えられる。「唱歌」は、学校教育の成果によって国民の共有財産となり、近代日本の歌の土台を形成したし、電波を利用した「國民歌謠」は、短期間で全国に浸透していった。
しかし、歌は、それゆえに、しばしば過酷な役目を担わされることにもなった。
そもそも、巷に溢れるエロ・グロ・ナンセンス的な「流行歌」と一線を画すべく始められた「國民歌謠」だが、昭和12年7月以降は次第に軍国調のものが増え、ラジオからは戦況を伝える「ニュース歌謠」も流れるようになった。「國民歌謠」は、戦争の激化とともに、昭和16年に「われらのうた」、17年に「國民合唱」と番組名を変えて敗戦まで続いたのである。
そして敗戦後、NHKは昭和21年に歌番組を復活させた。それが「ラジオ歌謡」で、テレビ時代になると「みんなのうた」としてラジオとテレビで放送されるようになった。
このように、一放送局が60年以上にわたって歌番組を制作し続けるということは、世界的に見ても珍しい現象といえるだろう。しかも、これら一連の歌は、放送局の制作ということで、作詞・作曲・演奏に至るまで、クラシックとポピュラーの区別なく、レコード会社の専属制度の枠をも越えて創作されてきたのである。
にも拘わらず、この歌の系譜は、日本の音楽界で不当にも軽視されている。その理由は、NHKが戦後、戦時中の音楽をタブー視し、「國民歌謠」から「國民合唱」の歴史を回顧しようとしないことが大きいだろう。
かくいう私も、日本の歌の研究者でありながら、以前はその時代の歌を避けていた。だが、次第に、「日の丸」「君が代」、軍歌、戦時歌謡といったものに戦争責任をなすりつけるだけで、人間そのものの罪や、歴史的事実を検証しようとしない姿勢に疑問を抱くようになった。
激動の昭和史の中で歌はどんな役割を果たしたのか。NHKが作った歌の歴史を辿ることでそれを探ってみたい。こうして私は戦時下の作品にも取り組むようになった。
たしかに、いつ死んでもおかしくないといった極限状態で書かれた戦中の作品には得も言われぬ緊迫感が漂っているし、敗戦直後の歌には、茫漠とした喪失感がある。が、その一方で、《めんこい小馬》や《お山の杉の子》のように、詩を改作して戦後も歌い継がれている作品もある。歌詞はともかくとして、音楽そのものが戦争に利用されたことが裏付けられるのだろうか。
たとえば、橋本國彦が作曲した《大日本の歌》(昭和13年)と《朝はどこから》(昭和21年)、古関裕而が作曲した《南進男兒の歌》(昭和15年)と《栄冠は君に輝く》(昭和24年)の音楽はきわめて似通っており、音楽だけで、どの時代の作品かを判別することは困難である。
さらに言うならば、歌詞ですら、「勝って来るぞと勇ましく〜」と歌いつつ心の中で涙し、「死んで還れと励まされ〜」の一節に、必ず生きて還れとの思いを込めることも可能である。
歌は人々の心に何をもたらしたのであろうか。かつて「懐メロ」と呼ばれた歌が前世紀の遺物になろうとしている今こそ、われわれは、簡単に戦時中の歌を全否定するのではなく、歌の本質や役割について冷静に考えてみる必要があるのではないだろうか。
@椰子の實 (島崎 藤村/大中 寅二)
昭和11年7月13日に東海林太郎の歌で放送された國民歌謠。戦後は教科書にも取り上げられている。
西宮駅近くの北口市場の様子を描いた國民歌謠で、昭和12年3月1日に月村光子の歌で放送。『椰子の實』同様、戦後の教科書にも採用された。
昭和12年10月18日に渡辺はま子の歌で放送された國民歌謠。昭和17年に松竹大船で映画化された。インドネシアのスカルノ元大統領の愛唱歌でもあった。
昭和12年10月13日にNHK國民唱歌として放送後、11月22日の國民歌謠の時間に再放送された。文部省と大政翼賛会が昭和18年2月より儀式に用いることを決定。
従軍看護婦を謳った西條八十の詩に、『椰子の實』で世に知られた大中寅二が作曲した國民歌謠。昭和13年11月21日に高島屋女子合唱団の演奏で放送された。
大日本雄弁会講談社の公募当選歌だが、陸軍省撰定として國民歌謠でも取り上げられた。曙合唱団の演奏で昭和14年11月13日に放送。
昭和15年に組織された「隣組」の普及のために漫画家の岡本一平が作詞した國民歌謠。その滑稽味は暗い世相の中で際立っていた。6月17日、徳山lの歌で放送。
昭和16年10月25日のわれらのうたで放送後、昭和17年2月24日に國民合唱でも再放送された。戦後、NHKが歌詞を変えて放送し、教科書にも掲載された。
昭和18年の學徒出陣、昭和19年の學徒勤労令を受け、學徒動員の歌として作られた國民合唱。昭和19年6月26日、日本放送合唱団の演奏で放送された。
昭和20年1月21日に東京放送合唱団・東京放送児童合唱団の演奏で放送された國民合唱。レコードは戦災で生産不能に陥っていた。
昭和21年の朝日新聞懸賞募集当選歌。同年5月1日に開始されたラジオ歌謡の第二弾として、5月12日より安西愛子の指導、東京放送合唱団の演奏で放送された。
昭和21年8月18日に松田トシの指導、東京放送合唱団の演奏で放送されたラジオ歌謡。レコードは南方から復員してきた藤山一郎の吹き込みによる。
昭和21年に復員した米山正夫が戦前のポリドール専属時代に書いた歌を近江俊郎に託し、それがラジオ歌謡として採用された。昭和22年10月6日放送。
松坂直美が石川啄木の足跡を辿って北海道を旅行した時の思い出を書いた詩に、病臥中の橋本國彦が作曲した。昭和23年1月11日放送のラジオ歌謡。
恋人を病で失った八洲秀章が詠んだ「わが恋の如く悲しや桜貝かたひらのみのさみしくありて」を元歌とする、昭和24年7月4日放送のラジオ歌謡。
『さくら貝の歌』のヒットにより、急遽、横井弘が復員後に書いた詩に作曲したラジオ歌謡。昭和24年8月8日に作曲者自身の歌で放送された。
寺尾智沙・田村しげる夫妻が昭和24年に書いた『さよならと云ったら』を、ラジオ歌謡『白い花の咲く頃』として昭和25年5月8日に放送。
アイレンベルクの管弦楽曲『森の水車』をヒントに作曲、昭和17年9月に発売されたが、戦時にそぐわないとの理由で発売中止になった。昭和26年4月9日にラジオ歌謡として放送。
丘灯至夫(当時・十四夫)としては初めてのラジオ歌謡。『白い花の咲く頃』と同じく岡本敦郎の歌で、昭和28年5月25日に放送された。
デンツァ作曲の登山電車のコマーシャルソング『フニクリ フニクラ』を意識して作った丘・古関コンビのラジオ歌謡。岡本敦郎の歌で昭和32年6月24日に放送された。