cianの追想・その10

僕と、僕らの夏

2003年6月17日

昨年末のことですが、“現実にある問題をゲームに取り入れる難しさ”というテーマで
Kenさんにメールを送ったところ、一定以上の評価していただき、「私の一言」に掲載
していただきました。そのこと自体は私にとってたいへん嬉しいことなのですが、掲載し
ていただいたことに内心驚いていました。
 と言いますのも、読んでいただいた方はお気付きでしょうが、これは未完成です。“現
実にある問題をゲームに取り入れる難しさ”を考えるにあたり、『ONE』、『僕夏』、『夏
日』を題材にしながら『夏日』しか述べておりません。『ONE』はともかく、最低限『僕
夏』に触れるべきではなかったか――内心忸怩たる思いを抱いておりました。

 幸いにして「敵を作る掲示板」にて追想シリーズを掲載させていただいておりますので、
これを機に「私の一言」では言及しなかった『僕夏』が内包する問題を、私なりに感じた
ことを述べたいと思います。
 発売は2002年2月、lightより。

●登場人物
 『夏日』ではメインヒロインに知的障害者という、それ自体が扱いの難しい問題である
ことを述べました。
 『僕夏』ではそのようなキャラは登場しません。多少のデフォルメはありますが、極端
にデフォルメしていない、現実にいてもおかしくない人間たちです。

 登場人物については後でもう一度言及するとして、先にテーマ面を。

●ダムに沈む村とその住人
 『僕夏』の舞台はダムに沈む村です。ダム建設の問題は深く追究するには難しい問題で
あります。

 ダム建設問題の難しさでまず思い浮かぶのは政治的なものです。自然破壊と取るか災害
防止と取るか……。そのような二元論だけでなく、経済効果や利権などの要素もあり、一
概に結論を求めるのは不可能でしょう。
 しかしゲームはあくまでゲームであり、ドキュメンタリーではありません。ゲームでこ
の問題を深く抉ることがゲームの魅力を際立たせるとは思えません。

 また主人公たちが未成年という、経験が少なく政治的に何の力を持たない少年達を配置
している以上、この面から深く追究することには違和感を感じます。ゲーム中でも政治的
側面からは深く追究していませんが、これは妥当なものであると思います。

 その一方で、ダム建設問題には「故郷を失う人々」がいることを指摘できるでしょう。
これは老若男女に関係なく、その地に住まう人々全てが直面する問題です。そして政治的
配慮を顧慮する必要のない主人公たちにとって、それこそが一番の問題であることは充分
に説得力があります。

 ゲーム中でもそのことが前面に押し出されており、来るべき別れを拒否する少年達の心
の叫びを見事に描ききっています。
 その際主人公である恭生の微妙な立場を見逃せません。村に愛着を持ちダム建設には反
対の姿勢を持ちながら、「よそもの」に過ぎない恭生。自分が「よそもの」に過ぎないこ
とを自覚し、「よそもの」であるが故にダム建設に明確な自己主張を出来ないでいます。

 さらにもう一人の主人公である貴理。貴理はメインヒロインとも言えますが、このゲー
ムでは二人の視点から交互に描かれており、また話の内容からもこの二人が主人公である
と思います。
 貴理は紛れもなくこの「ムラ」の人間ですが、父親がダム建設の責任者であるという、
本人は内心ダム建設に反対でも決してそれを口に出来ない立場にあります。

 この「内心はダム建設反対だが明確にそれを主張できない」二人を主役に据えたことが、
「故郷を失う」という感情論のみに走りがちな問題に、抑えを効かせる効果があったと思
います。

●環境とは無縁でいられない人間
 その一方で恭生と貴理を主役に据えたことで、「ムラの人間」と「よそもの」の溝をは
っきりと浮かび上がらせてしまったことも指摘できるでしょう。恭生も貴理もこの「ムラ
の構成員」に違いはありませんが、「ムラの人間」とは言い切れません。この微妙な構図
は、特にこのゲーム――ダムに沈む村の最後の夏物語――では良かれ悪しかれインパクト
を持っています。

 このプレイヤーにとって居心地の悪くなる“溝”を描くことは諸刃の剣と言えるでしょ
う。『僕夏』の村は「幻想としての田舎」ではありません。現実にあってもおかしくない
村です。
 「故郷を失う」ということは人間にとってもっとも直面したくない事柄の一つでしょう。
それをテーマに扱う際下手にデフォルメすることは、ただでさえ感傷的になりやすい問題
を演出過剰にし、かえって軽薄なものにさせると思います。一言でいえば逆効果である、
と。

 しかし扱いの難しい問題でリアルさを追求したことが、ユーザーに「生々しさ」を感じ
させた点も否定できません。

 どちらの印象をより強く持つか、それはそのプレイヤーにとって変わってくると思いま
すし、一概に結論づけることは無理でしょう。私個人の意見としては肯定派なのですが、
だからといって手放しで賞賛できるものではない、とも思います。

●現実では必ずしもハッピーエンドとはならない
 もう一つの問題として、「故郷を失う」という人間としてはもっとも避けたい事態に、
個人の力が無力であるという現実を際立たせる結果になった点も指摘できます。

 恭生や貴理の今後がどうなろうと、村が沈む現実は変わりません。そうなると登場人物
たちが、その限られた時間の中で何を求め、何を成し遂げたかが重要になってきます。ま
だ若く人生経験の少ない(それ故に感情的になりやすい)主人公たちの中に、村での生活
に人生のすべてがあった人物(本庄の爺さん)を据えたことは、上手なキャラクター配置
だと思います。
 このように主人公たちに限らず、登場人物たちが良い味を出していたことは、主人公た
ちの心情を演出するにあたり、優れた効果を発揮していると思います。

 と同時に、主人公たちがどのような行動をとろうと、村は沈むのです。その現実の前に
主人公たちは無力であり、それをプレイヤーに痛感させるのは娯楽メディアとして適切で
あるか、疑問は残ります。

●マルチエンドの問題点
 『僕夏』には3人の攻略対象キャラがいます。(貴理、有夏、冬子)
 貴理はともかくとして、有夏ルート・冬子ルートはそれぞれ、貴理ふられルート・恭生
ふられルートという方が適切でしょう。
 これは『僕夏』が、貴理と恭生の物語と思うからそう感じるのだと思います。

 逆の例として『Kanon』。『Kanon』では個別ルートに入ると、他のキャラは忘れ去られ
ます。忘れられたキャラは描写されませんが、それまでの経緯から考えて不幸になったの
でしょうね。(名雪除く)
 そのことにとやかく言うつもりはありません。ゲームとはそういうものですし、個別ル
ートに入って他キャラの不幸を描くのもどうかと思いますし。

 しかし『僕夏』では同じように出来ません。ゲームが貴理と恭生の視点で交互に描かれ
ていますし、ゲームの内容が普通の恋愛ものと違い「ヒロインと結ばれてハッピーエンド」
ではない以上、描写しないわけにはいきません。そしてそれこそが問題なのです。

 私は貴理シナリオこそがトゥルーシナリオだと思っていますが、それ故に他ルートが感
情的に納得できるものではありませんでした。
 ライターの力量とは別次元で、貴理シナリオに感情移入するほどに他ルートが白けてし
まうのは、マルチエンドのゲームとして良いことかどうか……。

●裏シナリオ
 表ルートをクリアすると、裏ルート(冬子の視点から見た『僕夏』)に入れます。裏ル
ートには2つのシナリオがあり、冬子の視点から見た貴理・冬子シナリオです。(有夏は
ありません)
 冬子というキャラも「ムラ」の中では微妙な存在で、「ムラ」の出身者でありながら
「ムラ」の構成員ではありません。(冬子の村に対する複雑な感情はゲーム中で描かれて
います)

 恭生にしろ貴理にしろ、村の愛着を持っています。そして互いを憎からず想っています。
純粋すぎるこの二人が結ばれていく過程は“美しい”のですが、村の住人全てが村に愛着
を持っているわけではありません。
 冬子は村を憎悪し、ダムの建設を内心で歓迎しています。冬子から見た貴理シナリオの
詳細は割愛しますが、冬子視点での貴理シナリオがあるからこそ、表ルートでの貴理シナ
リオが、つまりは『僕夏』がさらに魅力的になっていると思います。

 ただし、冬子の心理描写それ自体はかなり「痛い」です。キャラクターの設定上やむを
得ないのですが、『僕夏』がさらに魅力的になると同時にいたたまれなくなる――複雑な
気分ではあります。

●まとめ――というより、ふと思ったこと
 『僕夏』の長所と欠点を個々に述べることは、(個人的意見としては)あまり意味をな
さないと思います。

 人はそれぞれ性格が違いますし、ゲームから受ける印象もまた人によって違います。し
かし制作者側の意図は、ある程度プレイヤー側も共有できるのではないでしょうか。(そ
れが制作者側の意図とイコールかどうかはともかく)

 ファンタジーとしてのゲームならば、単に制作者の意図を推測するだけでも楽しい作業
でしょう。(面白いと感じた作品に限りますが)
 しかしリアルなゲームの場合、それだけでは済まないような気がします。現実にある問
題ということは、個人差はありますが「身近」な問題だということです。

 「身近」である以上、その問題を抉ることはプレイヤーに愉しみのみを与えるものでは
ないでしょう。程度にもよりますが、人は「身近」な問題には平静でいられません。
 しかし、この程度のことは今更私が指摘しなくても、制作者側も重々承知していると思
います。

 難しいのは制作者側がどういう視点で描くか、だと思います。リアルな問題を扱うこと
は、特にその問題を平静でいられない人がいる以上、中途半端な制作は出来ません。
 また、立場が違えば受ける印象や自分の主張が違ってくるのは当然ですから、万人受け
するエンディングを提示することが、良い評価につながるとは言えないと思います。

 結局はその問題を“誠実”に扱うことが一番重要でしょう。勿論どんなゲームでも“真
面目”に制作することが大事なのですが。
 ただリアルな問題を扱う場合は“誠実”に扱うことそれ自体が、いや、“誠実”に扱う
ほどに雰囲気を重くするのではないか――そのように考えています。

written by cian