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聞いてみれば、何やら蟲が鳴いておる。
>本尊抄に大聖人は釈尊と釈迦を立て分けて書かれている。
何?
立て分けだ? 小笑。一体何の立て分けか。『立て分ける』という事は、そこに法義的に立て分ける
基準がある、という事である。果たして其れが在ると云うのであれば、其れを申してみよ。
よいか、日蓮大聖人はただ其の都度に於いて呼称を使い分けておられるだけである。
仍って、釈迦も釈尊も釈迦仏も釈迦如来も釈迦牟尼仏も、其の根底は同じという事である。
敢えて云うのであれば「釈尊」とは釈迦に対する尊称であり「釈迦如来・釈迦牟尼仏」とは応に仏と
しての称号であろう。つまり、釈迦を尊(たっと)れば釈尊となり、其の釈尊を仏と見給えば釈迦如来・
釈迦牟尼仏となるのである。仍って御本尊に於いて釈尊は「釈迦牟尼仏」と認(したた)められるの
である。つまり「本門の釈尊」こそは「釈迦如来」であり「釈迦牟尼仏」なのである。尚『釈尊』は
『釈迦牟尼世尊』の称号を略称したものである、とも云われているが、そうとなれば『釈尊』こそが
『釈迦牟尼仏(世尊)』という事になる。
因みに御遷化記録に於いては「仏は釈迦の立像」と記(しる)されている。
『仏』は「釈迦」…。 うむ。此の意味が解かれば、小生の申している事が理解出来ようて。
尚、法華経全般に於いて釈迦は「仏」「世尊」又は「仏世尊(ぶつせそん)」と尊称され、従地湧出品
及び如来寿量品に於いては「釈迦牟尼仏」であり、提婆達多品に於いては智積菩薩が、釈迦を指して
「釈迦如来」と号しておる。
>曼荼羅には「南無(釈迦)牟尼仏」とあり、脇士は釈迦であって、釈尊ではないだろ!
小笑。だから『本門の釈尊を脇士と為す』と読むは間違いだと云うのか。哀笑。
以下の御文をよく読みなさい。
観心本尊抄に曰く『塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏、多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩』と。
果たして、此の御文中に於ける『釈迦牟尼仏』と『釈尊』とは如何なる事か。
少しも小智慧が回れば、(釈迦)牟尼仏が釈尊を指している事など、容易に理解出来ようて。哀。
果たして、お前は一致派身延の片棒を担いで『曼荼羅には南無釈迦牟尼仏とあり、釈尊ではない!
だから脇士は釈迦であって、釈尊ではない!』などと叫んでおるが、上記本尊抄の御文は、まさしく
脇士たる釈迦牟尼仏をして釈尊とされているものであり、つまり(本門の)釈尊が脇士と為る、という
紛れもない御文証である。
仍って後文に曰く『本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし』と。
よいか、上記前文と以下の後文は、其の元意に於いて繋がっているのである。
ったく、御本尊に示された釈迦牟尼仏は釈尊ではない! なとど。
お主、大丈夫か? 頭。哀笑。
此に再度問おう!
果たして『釈迦』と『釈尊』を立て分ける、とは如何なる事か。加えて『釈尊』と『釈迦牟尼仏』を
立て分ける、とは如何なる事か。其の立て分けの基準を法義的に論証せよ。
更に加えて、御本尊の御相貌に於いて「釈迦牟尼仏」とは如何なる仏であるのか、加えて其の仏は
「本門の釈尊」とどう違うのか。お前の大好きな日蓮大聖人の御真蹟で其れを説明しなさい。
尚、小生に文句が有るなら、直接当室に来なさい。勿論、身元を隠匿する『串』は御法度である!
して、当室への投稿が適ったならば、先ずは、お主が所属する宗派教団と、其の信奉する本尊と教義
の正義を此に改めて顕示して貰おう。批判ばかりは馬鹿でも出来るのである。よろしいか。
追記
呆笑。其れにしても、御書全集に記載されている観心本尊抄の『此の時地涌千界出現して本門の釈尊
を脇士と為す』の御文が誤記とはのぉ。其れこそは身延の読み方を、日亨上人をして訂正されたもの
ではないのか。誤記と訂正とでは大違いぞ! 加えて、真蹟だ! 文証だ! と言いながら、都合に
よって、わざわざ疑わしき写本を持ち出すとは、何とも卑しい根性ではある。呆。
さても、お前は『この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊をこの
国に立つべし」の読み方こそが普通一般だ、と言うが、ならば、全創価学会員に詰問しよう!
お主ら創価学会員は、上記観心本尊抄の御文を、どの様に拝読しておるのか。其れを述べよ!!
事は、日蓮大聖人をして、曼荼羅正意であったか、それとも仏像本尊が正意であったかの重大な根論
である。つまり此の本尊義の正邪こそが、あらゆる枝葉論説を吹き飛ばす、仏法根幹の決着論である!
よろしいか! 全創価学会員は心して、上記の詰問に答える可し!
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