犠牲の連鎖を断つためのイエスの死 − 我慢やあきらめと他者を十字架に磔にすることからの解放 −
カトリック相模原教会 浜崎眞実神父
<十字架> それに対して聖書には「自分の十字架を担って」とか「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」(マタイ10章38-39節参照)などと書いてあるから自己犠牲は当然との反論も出てくるでしょう。そこでヨハネ福音書からイエスの死に至る経緯や十字架についてどのように描かれているのかを見ながら、考えてみたいと思います。 <カイアファの論理> イエスが死に追い込まれていくありさまをヨハネ福音書はその年の大祭司 カイアファの口を通して語らせています。最高法院を招集してその場で「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか」(ヨハネ11:50)と彼は言います。十年以上前のある研修ではこの考えを「カイアファの論理」と名づけていました。この「カイアファの論理」はイエスが弟子たちと最後の晩餐をした後、ユダの裏切りによって 捕らえられ大祭司のところに連れて行かれる場面でも「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」(ヨハネ18:14)という地の文で出てきます。 <どんな一人も犠牲になってはならない> イエスを捕らえようとする同じ場面で、ユダは兵士までも引き連れ、武器まで持っていました。その人たちに向かってイエスは無抵抗で自らを差し出すようにして連れていかれるのですが、それはユダが連れてきた一群とイエスとその弟子たちとの間に衝突が起こり殺戮につながるのを避けるためのように描かれています。そこでヨハネは「それは『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」(ヨハネ18:9)と記しています。すなわちここでは「カイアファの論理」と「どんな一人も犠牲になってはいけない」という考えが衝突しています。 <女性たちの視座> <十字架からの呼びかけ> みんなのためには誰かが犠牲になるのは仕方がないという考えで社会の安定を保とうとする「常識」を自ら十字架にかかることによって否定し、どんな一人も見捨てられることはない、すなわち「生きるに値しないいのちなんてない」というのが神の思いであること、そしてその実現をイエスは十字架から呼びかけ弟子たちに託したのだと思います。「生き残れるのは誰か」という発想から「みんなで生き残るにはどうすればいいのか」へと救いの枠組みを変えるようにとの招きがイエスのメッセージの核になるものではないでしょうか。そしてそれをきちんと聞き届けたのは十字架の下に立っていた女性たちであったのだと思います。その意味で現代社会でもわたしたちは十字架にかけられている イエスからのメッセージをどの立場で受け取るのか問われていることなのです。 ※このページのクリップアートは、いのちのことば社「教会用クリップアート集U」を使用しています。 画面をスクロールする時は、メッセージ一覧の外を一度クリックしてください。 |
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