「ぱふ」漫画家訪問-中沢啓治インタビュー 漫画家は描きたいものがあるから描くんじゃないですか |
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「ムッソリーニの死骸を町の中を引きずって逆さ吊りにしている人々の気持ちを僕はものすごくわかるんだな」 「はだしのゲンの中でゲンのおやじと弟と姉が原爆の爆風でつぶされた家の下敷きになって、燃えて死んでいくのを母と見ていてどうすることもできなかったのは実際の体験ですよ」 ▲爆心地から1キロほどの地点で原爆を受けた中沢氏自身の体験をもとにして描かれた 「はだしのゲン」が4巻の単行本として汐文社から出版された。 この「はだしのゲン」や「黒い雨にうたれて」など一連の原爆漫画を描き始めるきっかけになったのは、原爆病院に入っていた母の死だった。 遺体を火葬したあとには白い粉だけで骨が拾えなかった。ひどくくやしかったという。 「戦後30年経って、戦争のことはすべて語り尽くされたというような風潮がありますがとんでもないですよ。広島にしたって、キノコ雲と瓦礫の廃虚のだけで、 説明されてますけど、実際はそんなもんじゃない。 人間の皮膚にわいたウジ、青臭いウミ漫画の中で皮膚をたれ下げて幽霊のような格好をした人間が歩いていますが、あれは本当なんですよ。 ズルリと皮膚がはげて、指の爪に引っかかって、垂れ下がっている。無意識のうちに地面につかないように腕を上げて、ちょうど幽霊のような姿勢になっているんです。ふんどしかと思ったら、背中の皮膚が垂れ下がっている。影のように足の皮膚を引きずっている。そんな光景はちっとも知られていない。原爆記念館なんて、甘いですよ。」 |
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▲母の死をきっかけに、こうした原爆の実態を伝えようと原爆漫画を描き始めた。しかしそれまでに原爆という言葉を聞くのも恐ろしかった。新聞をよむのも、原爆という言葉のついた本も怖くて、逃げていた。という。 「はだしのゲン」では原爆の悲惨さと同時に戦争中の日本人にも批判の目が向けられている。 中沢氏の父は終始、戦争を反対していた。「おやじはいつも、戦争は悪いことだ、あと何年かすれば終わって、こうなる」というようなことを言っていましたね。実際、そのとおりになりましたがね。」 ▲だから戦争中は村八分にされ、食糧をわけてもらえなかったり、父が戦争反対者として特高に逮捕されたり、非国民とののしられたりしていた。 その先頭に立っていたのが、町内会であり、教師だった、という。 ゲンの姉が盗っ人扱いだれて、裸にされて職員室で調べられたのも、実際の体験である。 |
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「ドイツやイタリアの戦争指導者はきびしい追求をうけて、処刑されているのに、日本では戦犯が総理大臣になるんですからね。日本は神の国で、天皇陛下のために死ねと戦争教育をしていた教師は、戦争が終わったら何もなかったような顔をしている。だから僕はものすごい教師不信がありますよ。村八分にした連中も平然として何も責任をとってない。みんなが悪かったではすみませんよ」 ▲ゲンのお母さんが借家を追われてぼう然と立ちすくみ「日本人のいやらしさをつくづく思い知らされた。」とつぶやく場面もある。 |
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▲こう紹介すると「はだしのゲン」は暗い、重苦しい漫画と思うかもしれない。ところが実際の「はだしのゲン」は暗さを感じさせないばかりか、妙に明るいところがある。ストーリーの巧みな展開でどんどん引き込まれる。 「人間は絶望すると、うつ向いて暗くなるかというと、そうじゃないんですよね。逆にもう下がらないから、上を向いて楽天的になる。なにしろ夢中で生きているんですからね。それが第三者が見ると、滑稽にみえたりするんです。」 ▲もう一つに理由があるような気がする。まわりの、村八分、非国民呼ばわりの中で、かえってかばいあう親子の情愛が鮮やかに浮き上がる。人間批判と同じくらい、ヒューマニズムがある。 「僕はストーリーを非常に大切にします。ふきだしに時間をかけるんですよ。今の漫画はストーリーは薄いものが多いようですね。何を言いたいのかわかりませんね。描きたいものがあるから、描くんじゃないですか、漫画はコマ埋めじゃないと思いますよ。」 ▲「はだしのゲン」は現代ぷろだくしょんで映画化されることが決まっている。ゲンは地元・広島で公募して決定され、映画の公開は来年秋に予定されている。 また「はだしのゲン」4巻は少年ジャンプに連載したものを単行本としたものだがこの続きは、小田実、日高六朗氏らが中心となって編集している「市民」の復刊号に連載される予定である。 1979年8月号まんが専門誌「ぱふ」掲載分 (インタビュー実施時期は75年) |