この話はフィクションです。細部をちょこちょこ作っています。

そんなわけで、私は現実生活ではこれまでに人の死に居合わせたことは、祖父母が亡くなった時と、交通事故に出くわしたとき、山手線で投身自殺に出くわしたときの4回しかないのだけど、主観的には、大勢の死を目撃してきた気がする。

夢の中の出来事ではあるけども、飛行機事故の遺体回収現場で、大量のボディバッグがずらっと並んでいる光景に出くわしたり、爆弾テロから逃げたり、日替わりでいろんなバリエーションの修羅場を経験した気がする。家族に「凄惨な悪夢に悩まされてつらいの」と打ち明けたところ、「夢と現実の区別もつかないのか」と呆れられた。一般人が理解できないのは仕方ないとして、精神科医や臨床心理士も理解してくれなかった。

それが夢の中の出来事であれ、誰も信じてくれなくても、その主観的な経験のせいで、現実に傷ついていたり、前に進めないのなら、それは本人にとっては大きな問題だと思う。

Mさんに以前、こんな例え話をしたことがある。

私に子どもがいるとして、子どもがある日、万引きをしたと店から連絡を受けたとする。子供は「ぼく、やってないよ」と真剣に言い張っていて、どう見ても嘘をついているようには見えない。でも店員は「たしかにお宅の息子さんがやりました」と言っている。子どもと店員、どちらの主張を信じるべきか?

私はその場はお店の人に謝るけども、帰宅したあとは子どもの言い分を信じる、と言った。例えば、クラスメイトがうちの子を陥れようとして、子どものかばんにこっそり商品を入れた、なんてこともありうるわけじゃない?

Mさんが私に嘘をついていようと、本当のことを語っているにしろ、本人にとっては大きな問題らしいのだから、信じるしかない。彼がついている嘘はひとつやふたつではないだろう。実際、いくつかは露見しているし(まず、年齢をサバ読んだよね。名前も偽名だった)、自分でサイコパスと自称してもいるのだけど、切実な問題をかかえているらしいのだから、信じるしかない。

戦場のこと思い出してつらいんでしょう。
私は言った。「死んだ人のことはもうしょうがない。生きている人間のQOLを上げるしかない」
Mさんも同意した。

しばらく沈黙が続いた。たがいの呼吸音や紅茶を飲む音だけが続いた。
「お前、修羅場くぐってんなあ。こういうとき、うるさく話されたくないんだよな……」
とMさんは言った。

それから積もる話を聞いた。昨秋、急激に体調が悪化して、やむなく社長の座を後任に譲り渡したそうだ。ちょうどその頃、スイスのUBSで大量解雇があり、優秀な人をリクルートできたらしい。

集中力が落ちていて、計算ができないんだ、と彼は苦りきった。
「九九はできるんだけど二桁のかけ算ができない、21×15ができない。我々の仕事はかけ算ができなくなったらおしまいなんです。会社は公器です、我執で腐らせてはまずい。3%下がったら売るというのが僕たちの業界では常識です。僕たちは損失のみコントロールできる、利益のほうはコントロールできない。経営も引き際です。自分が経営者として不適格であると判断したら潔く引くこと、それが最大のロスカットです。これから会社を大きくするという時に代表をひかざるを得ない、この忸怩(じくじ)たる思い……」
無念そうに語った。

「体調悪くなったのいつなの?」と聞いた。「11月後半」と彼は言った。――記憶がほとんどないんだ、サインする手が震えて、最後のほうはまわりもやれやれという感じだったと思う。引き継ぎも充分できなかったから、今頃混乱してるんじゃないかな。

後任人事の選定や度重なる会議、引き継ぎなど、膨大な残務処理を想像して気が遠くなった。私は会社というところではあまり働いたことがないけども、大変なのは想像がつく。こりゃ過労による抑うつ状態だ。

「誰か頼れる人、まわりにいないの?」
「一人、古株の秘書でおかんみたいなのがいてな、銀行時代の元上司なんだが――『お休みになられてはいかがですか』と言われた」
「私が助けてもいいけど、その人を頼るわけにいかないの?」
「いや、今頃は新社長の元で忙しいと思う。こんな時にお前しか電話する相手がいないというのが俺の人生の総決算だ……」
そのとおりだ。いままで、誰かと真剣に深い絆を作ろうとしてこなかったMさんの側の問題だ。私のほうはオファーはしたのに、向こうが蹴っただけだ。 昨年八月からずっと人間関係を継続していれば、今頃は友人関係ぐらいにはなっていたはずだ。

「いまどこにいるのよ?」
「地方のビジネスホテルだ。人と会う用事があるというのも嘘だ」
「何県にいるの? 東京からみて北か南かぐらいは教えて?」
「昇龍県」
自殺の危険性はなさそうだ。「――まじめに答えて」
「割引県にいる」
 ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉があったが、「中年になったからオヤジになるのではない、オヤジギャグを言うからオヤジなのだ」という言葉が頭に思い浮かんだ。
「あなた、最近誕生日だったでしょう。いくつになった?」
「――47だ。おじさんだよ……僕はおじさんだよ……」Mさんは苦悩した。
彼は年齢がコンプレックスだというのは前述したけども、その理由は、「今から子どもを作ったとして、子どもが二十歳になったときの自分の年齢を考えたとき、自分が生きているかどうかわからない」というものらしい。部下のトレーダーたちにも四十過ぎて独身のトレーダーがゴロゴロいて、皆さん稼ぎはとびきりいいんだけど、もう合コンの声がかかる年齢ではないし、合コンに行っても女性から「子どもが二十歳になったときに生きていないかもしれない」という理由で敬遠されるらしい。世の中、お金で解決できない問題のほうが多い。

バカだなあ。世の中には、政治家やら人間国宝の歌舞伎役者とかで、六十過ぎて子ども作りましたなんてのも、ザラにいるじゃないのよ。ましてやあんた、スポーツマンなんだから、百歳スキーヤーの三浦さんを目指せばいいじゃないのよ。
「今度バレンタインデーだから、特製のチョコあげるよ。知人で町工場やってる人がいて、三次元CADとマシニングセンタで、オーダーメイドのアルミ金型作ってくれるのよ。あんたこういうの好きでしょう。元カレに作ってあげたのはこれ。私、みみっちいから使い回しを考えて、元カレの名前じゃなくMon amour(私の愛しい人)って入れてもらったのよ。なんて書いてほしい?」
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「――バレンタインデーか、昔、金融日記でバレンタインデーをネタにしようとしたことがあったなあ……」
自分自身がチョコレートをもらえるということよりも、まっさきに思い出したのは愛してやまない金融日記のことらしい。
「金融日記のロゴはやめてくれ。あれは俺の黒歴史だ」
「えっ」私は、予想の斜め上を行く答えに意表を突かれた。その発想はなかった、その発想はなかった――。