もともと日本の演歌は、明治時代の自由民権運動の産物でした。壮士演歌ともいって、藩閥政府に対する批判、政治宣伝のために歌われました。歌は一過性ですから、歌ってしまえば終わりです。弾圧、処罰を逃れられるということで政治主張を歌で表現したのです。添田唖蝉坊(あぜんぼう)(1872〜1944)などが有名です。
やがて、壮士演歌から書生節に変わっていき、内容も政治批判だけではなくなってきます。特に日露戦争前後になってきますと、政治的なメッセージよりもニュース的なもの、恋愛事件や心情的なものを主題とした艶歌に変わってくるのです。
艶歌の「艶」というのは、心情、情緒的なものをあらわしています。このころの艶歌は、音楽的には確立しておらず、メロディーは日本の俗謡、教会の賛美歌や外国の行進曲などから借りた代用の時代です。
艶歌は、当時のいわゆる流行歌ですが、その流行歌を、大正時代に入って、中山晋平(1887〜1952)が近代化します。この場合の近代化とは洋楽の手法で作曲することです。中山晋平は現在の東京芸術大学ピアノ科の卒業生で、島村抱月の書生をしながら苦学しました。芸術座公演の劇中歌・「カチューシャの唄」、「ゴンドラの唄」などを作曲し、人気を博します。西洋音楽の技法で日本人の心情を旋律にしたことは画期的でした。
その後、野口雨情とコンビで「あの町この町」、「雨降りお月さん」など数々の童謡を作曲しますが、「船頭小唄」(大正10年)で歌謡曲の原型を作りました。さらに、「波浮の港」(大正13年)などを次々と発表し、「東京行進曲」(昭和4年)は佐藤千夜子((1897〜1968 東京芸大声楽科中退)が歌って25万枚と大ヒットします。昭和流行歌は中山晋平の「新民謡」や流行歌で幕を開けたのです。
中山は、日本各地に残っていた民謡、俗謡などを調査し、日本人がもっている郷愁、その音律を洋風のメロディーにしました。ですから「新民謡」といわれたのです。中山晋平以後、日本人が西洋音楽を咀嚼して日本の大衆歌を作曲したことを皮相な和洋折衷と批判せずに積極的に評価すべきだと思います。
「船頭小唄」は、西洋音階の四度(ファ)と七度(シ)を抜いたヨナ抜き五音短音階でつくられています。日本人がファとシの音を出しにくいので、学校唱歌を作る時などにはヨナ抜き音階が多く使われました。中山晋平以後、その手法で流行歌を作るようになると、和音とハーモニーが薄くなるという批判もでました。
西洋音階は平均律ですから、例えば、ドとレの間は、半音が上がるか半音下がるかの音があるだけで、表現できる音は一つしかありません。鍵盤で示せば白と黒で決まっているわけです。ところが、邦楽などに使われる日本の音階は西洋音階と違って、たとえば、ドとレの間に無数の音があります。ですから、日本の音は、ピアノなどはっきりと平均律で決められた楽器では表現しにくいところがあるわけです。日本の民謡を正確に五線譜に書けない場合があるのはそのような理由があるからです。
中山晋平は、クラッシク音楽の教育を受け、日本人の根底にある心情を洋風のメロディーで表現しましたが、街頭演歌手の立場から洋風の艶歌を確立したのは、「籠の鳥」(大正11年)を作曲した鳥取春陽(1900〜1932)です。鳥取は添田唖蝉坊に師事し、街頭演歌師として活動を始め、独学で作曲を修得しました。
鳥取は昭和に入るとジャズのリズムなどを取り入れて、斬新なメロディーを作り、たとえば、「籠の鳥」は古賀政男より早く、3拍子のリズムを使いました。この人が残した楽譜から大村能章、江口夜詩など、多くの作曲家が影響を受けました。
大正時代の流行歌は、街頭演歌手が歌っている歌をレコード会社の人が聴いてレコードに吹込ませるという形をとっていました。早速、レコード会社は、洋風の街頭演歌を作って歌う鳥取春陽に眼をつけたのです。その意味でも鳥取の「籠の鳥」は画期的でした。
中山晋平作曲の「船頭小唄」も、鳥取の歌で広まりました。鳥取がヒコーキ印の帝国蓄音器で吹込んだレコードでは新しい伴奏形式も試みています。大正11年から13年の頃に「船頭小唄」は各レコード会社でいろいろな演歌師によってレコードに吹込まれましたが、鳥取春陽のレコードは、それまでのバイオリン1本の録音ではなくて、昭和に入ってからの完全なオーケストラ伴奏ではありませんが、小編成のオーケストラ伴奏をつけたのです。<2006.10>
(つづく)
注) 「唖蝉」の旧字はパソコンの環境によって、正しく表示できない恐れがあるため、文中では、やむを得ず新字を使用しています。ご了承ください。 |