『姉妹研究会の乱 後編』 作:酒井シズエ 姉妹研究会の部室である薔薇の館は、メタ女の有力他部がそうであるように、世間一般の『部室』のイメージからはかけ離れた存在である。スケールからしてケタ違いで、部壁に囲まれた広大な敷地内に複数の建造物が立ち並ぶその眺めは、ほとんど小さな街を思わせる。部員が寝泊りする寮、マリア像が微笑む公園、美しいシルエットの教会、そして中央には、小規模ながら三階建ての校舎すらあった。 「――雨が来そうね」 その最上階の教室にいま、ふたりの生徒の姿がある。ひとりは、あでやかな黄金の髪とその名に違わぬ透き通るような白い肌を持つロサ・ギガンティア。窓際の席に座って、どこか物憂げに外の景色を眺めている。いまひとりは、その真後ろに立って愛しげに姉の豊かな髪を梳いている白薔薇のつぼみ、槙野耀。ショートカットと小柄でしなやかな身体つきが、活発な印象だった。 「ロサ・フェティダが、お隠れになったそうです」 「そう」 表面上は微塵も動揺したそぶりを見せず、ロサ・ギガンティアこと物部エリザベツは軽く頷いた。部室外に展開する部隊を率いるのは、本来ならばエリザベツの役割だった。それを譲ってくれと言われた時から、覚悟していた結末ではあった。決して泣かないと決めていたが、じわじわと妹の言葉の重みが心を押しつぶしてゆく。 (悔いなく眠っていてくれればいいのだけれど) 窓ガラスの向こうには、彼女が設計し、皆で苦心して創り上げた施設の数々が見える。ここから正部室門へと続く銀杏並木は、スール制度の元となった学校にも同じような並木があったという話を聞いて計画に取り入れたものだ。避難の済んだ今は、どこにも人影は見当たらない。 既に滅びたものを含めて200以上の言語を習得するエリザベツは、その風貌にそぐわぬ流暢な日本語で妹に問いかけた。 「初めて会ったときのこと、覚えていて?」 「忘れるはずないです。遅刻寸前のボクが食パンくわえてだーっと走ってたら、がーっと前を歩いてたお姉さまにどかーんってぶつかって。落とした食パン弁償しろって言ったら、親衛隊の人たちに全殺しにされました。全治4ヶ月」 鼻の頭をかきながら、第一印象最悪でしたよね、と耀ははにかんだ。 「それが今では姉妹なのだから、人の縁は不思議ね」 この子の喋り方は、結局最後まで直せなかった。いまエリザベツに心残りがあるとすれば、それは未来の耀が立派な白薔薇として姉妹研究会を――いや、メタ女全校を仕切る姿を見ることが出来なくなったことだった。 もう少しで涙が零れそうになり、急いで意識を他のことに切り替える。 「あの子たち、きっと許してはくれないでしょうね」 誰について言っているのか理解した耀が、神妙な顔でこくんと頷く。藤田美咲、柳井沙希、栗原七海。薬入りの紅茶で眠らされた紅白黄のつぼみの妹3名は、今朝方秘密裏に脱出ポッドに乗せられチグリス川に流されていた。 「誰かが山百合会を継がなきゃいけない。それは、理屈ではよーくわかってますけど、同じことされたらやっぱりボクも怒ります。死ぬのは怖くない。けど、お姉さまに置いていかれるのは、ものすごく――」 背後で言葉を詰まらせる最愛の妹の頬を撫でてやるために、エリザベツは立ち上がった。 「あの子達のぶんまで、闘い抜きましょう。きっとこの戦で、メタ女は変わるわ」 「お姉さま……」 エリザベツは耀をかき抱き、そして、すぐに身体を離した。 「お姉さま、どーしたんですか?」 戸惑う妹に、外への視線で答える。はるか銀杏並木の先には、先刻とうとう正部室門を破って部室内に攻め入った討伐軍が、黒雲のような大軍でもってこちらへ近づいていた。無人の敷地をひと飲みにしてゆくその光景はまさに、肉体の波濤。 「名残惜しいが、ここまでだ。出るぞ」 「はいっ!」 窓ガラスを派手にぶち破り、当然のように三階から飛び降りるふたり。常人の理解を拒む異様な軌跡で数回転した後、耀は落下するエリザベツを空中でがっちり抱き止め、そのまま校庭に着地した。と、ふたりの周囲に10人ほどの姉妹研究会勢が現れる。決死の任務に志願した、白薔薇親衛隊の精鋭達である。 「ざっとひとり千人というところか。皆、頼む」 愛用の魔術杖を取り出し、隊長としての口調に切り替えた白薔薇は、勝つぞとも倒せとも言わず、ただ皆に最後の願いをかける。 「へなちょこ生徒会ごとき、何人いようと楽勝です!」 「生物部、天文部にも一泡吹かせてやりますよ」 親衛隊の面々はロザリオを高く掲げて、気勢を上げる。一騎当千の古強者達の心は、瞬く間にひとつにまとまった。 (最後まで一緒です、お姉さま) 片手に鋼のマーヴァ球を持った耀は、そう囁きながらもう片方の手をそっと姉に差し出した。ええ、とエリザベツも小声で答え、マーヴァだこのある妹の手のひらを握りしめる。 「――Composite Entityパターンで行く。出来る限り、敵を足止めする!」 「はッ!」 もとよりこの戦いに勝ちの目はない。ならば、大軍を相手にあたう限り踏みとどまり、一秒でも長く我々の抵抗をメタ女全校の生徒に焼き付けることこそが勝利だ。ここにいる誰もが一片の迷いなく、己の意思で、その大義を全うしようと考えている。美しく、それゆえに儚い理想という名の幻想が、いまこの場所に確かな形をとって存在していた。物部エリザベツはいま、生涯で最高の幸福を噛みしめていた。 地上から遠く離れ、一条の光すら届かない筈のそこには、一面に鮮やかな大輪の薔薇が咲き誇っていた。人の手で丹念に育成され、人工の照明と空調で見事に育成された紅白黄、色とりどりの薔薇たちは、野生の荒々しさを失ったかわりに美しい調和を得て輝いている。 その地下温室とでも言うべき巨大な空洞のかたすみに、日本刀を携えたひとりの少女が佇んでいた。いまだつぼみの身でありながら、その肩まで届く濡れ羽色のつややかな髪と立ち姿の清冽さは傍らの薔薇をも凌ぐ――紅薔薇のつぼみ、三条由利恵である。だがいま、彼女の瞳は苦悩に満ちていた。 この部屋の奥には薔薇の館すべての機能をコントロールする最重要施設『山百合の間』がある。ここを敵に掌握されれば、戦いは終わりだ。それを防ぐための最後の護りとして、彼女はここにいる。しかし。 (――何故。何故、いらっしゃらないの) 共に戦うはずだった彼女の姉、ロサ・キネンシスはいまだに姿を現していなかった。もちろん彼女は敬愛する姉がいまさら臆病風に吹かれたなどということは微塵も考えていない。考えていないがゆえに、最悪の事態に巻き込まれたとしか思えず、焦りを募らせていた。 今すぐ探しに行きたい。が、持ち場を離れるわけにはいかない。思考はくるくると堂々巡りを繰り返す。 そんな精神状態にあっても、彼女は部屋に侵入してきた人物の気配を見逃さなかった。 「そこの人。隠れていないで、出ていらっしゃい」 やれやれ、という小さなぼやきと共に、薔薇の園を挟んだ向かい側に天文部の戦闘制服を着た少女が姿を現した。 「さすがは山百合会の幹部。簡単にはいかんな」 脳髄に叩き込んだ敵勢力の資料では馴染みの顔だった。天文部外務長官にして本部付きの軍師。敵部長の懐刀、山田卓美だ。 「あなたこそ、外務長官のくせに諜報部員の真似事かしら。天文部はよほど人材難のようね」 「なに、昔とった何とやらだ。こちらも少しばかり事情があってな。部下には任せておけなくなった」 言い捨てて、鞘から幅広の短剣を抜き放つ。応じて、由利恵も抜き身の刀を正眼に構えた。静かな、底の見えないプレッシャーが由利恵にのしかかる。これでやっと、私も戦いらしい戦いが出来る。由利恵は心中密かに卓美に感謝していた。 「おまえには聞きたいことがある。命までは取らん」 「奇遇ね。私も、あなたにお尋ねしたいことが」 薔薇を蹴散らし、花びらを舞い上がらせて両者が激突する。 「――たくさんあるわ」 初撃は、まったくの互角。相手の力量はそれで知れた。 (話は聞けなくなるが――殺すつもりなら、勝てる) 刃を交える回数が増えるたびに、得物のリーチと立ち回りの洗練度で勝る由利恵の有利が明らかになっていく。舞い散る花びらさえ両断する鋭利で華麗な打ち込みを紙一重で避け続け、じりじりと後退を繰り返す卓美の粘りも瞠目に値したが、勝負の行方は明らかにみえた。何十回目かの由利恵の打ち込みで、遂に耐え切れなくなった卓美が大きくバランスを崩す。 「殺った!」 全力で踏み込む由利恵。瞬間、体勢を崩していた筈の卓美が、人間離れした動きで思い切り後方へ飛び退く。その左手には、散布された位相子のせいで魔術以外の火気使用が極端に制限されるメタ女にあって、最も効率的な飛び道具である小型のボウガンが握られていた。身体を浮かせ、倒れ込みながらも、由利恵の攻撃が届かない間合いから正確に心臓めがけて矢が放たれる。 (織り込み済み!) 得意武器は『弓』。そんな基本的な情報を失念するはずがない。しかし飛来した矢を斬り捨てたとき、由利恵は己の失敗を悟った。魔術じみた手際で卓美の右手にもう一張のボウガンが現れていたのだ。そして今度こそ、本命の得物から本命の矢が放たれた。 「くっ……!」 先程までの戦いは、すべてこの一撃のための布石。理解するよりも、後悔するよりも先に、身体が動いていた。振り下ろした体勢からは、刀による防御はとても間に合わない。思い切り上体をひねり、回避を試みた。撃った者も異能なら、避ける者もまた規格外。卓美渾身の一撃は、脇腹をかすめ、戦闘制服を切り裂いたのみで終わった。しかし、それはむしろ卓美の望むところ。 「痺れ……矢」 がくりと薔薇たちのなかに膝をつく由利恵。その腕が、細かく痙攣している。 「やはり殺すつもりで撃って正解だったな。中途半端な気構えでは、かすめすらしなかっただろう」 惜しいな、と呟いて由利恵のほうへ近づいていく。無抵抗のつぼみの顎をくいと持ち上げ、卓美は問うた。 「では、教えてもらおうか。 ――トポロジー爆弾はどこだ?」 名も知れぬ幾多の屍の血潮でどす黒く染まった校庭に、煙るような小雨が降り続いていた。あれから、3時間。物部エリザベツとその部下たちの戦いぶりは、白薔薇の名をメタ女の戦史に刻み込んで余りある鬼神のごときものだった。片山某という隊長が率いる生徒会の部隊を一蹴したのを手始めに、部室になだれ込んだ数千にのぼる討伐軍の侵攻を、いっときとはいえたった十数人で食い止めてみせたのだ。親衛隊員はそのひとりひとりが他部でいう少将・大佐クラスに匹敵する手練れのうえ、彼女らが振り回すロザリオに気を取られていると、エリザベツの放つ超極大の効果範囲を持つ雷術『青竜雷改』や、禁断の魔術と言われる召術『無限の妹製』までもが討伐軍の頭上に降り注ぐ。それらの魔術は常に、親衛隊員たちによって巧妙に誘導された敵部員が密集したところへ正確に発動された。そして、そんな華麗な連携とは別のところでひとり、剣だろうが矢だろうがただひたすら攻撃をかわし、ただひたすら目に入るものに鉄球スパイクをぶちあてまくる予測不可能で非常識極まりない耀の姿がある。セオリーとファンタジーが混交する白薔薇部隊の戦術。11基のロザリオ、1個の鉄球、1本の杖が織り成す変幻自在のコンビネーションの前に、数で圧倒的に勝るはずの討伐軍は大苦戦を強いられた。 しかし、所詮は多勢に無勢。1時間も戦い続けたころ、親衛隊員に最初の戦死者が出ると、さらに立っている味方はひとり、ふたりと減っていき、気がつくと白薔薇部隊はエリザベツと耀を残すのみとなっていた。背中合わせに武器を構えるふたりの周囲を、生徒会の部隊が十重二十重に取り囲む。 (ここまで……か) 返り血で汚れ、長い髪を振り乱した白薔薇の姿は、ある種凄絶な美を感じさせた。いまはそれが最後の盾になっているが、その『魔法』の効力もすぐに切れるだろう。魔力もとうに底をついている。エリザベツが奥歯に仕込んだ自決用の毒薬カプセルに意識を向けたとき、その声は聞こえた。 「白薔薇の名は伊達ではないな。僅かな戦力でよくも持ちこたえたものだ」 人の壁が左右に割れ、ひとりの人物が姿を現す。現生徒会副会長、デビルヒデ子だった。 「東堂の腰巾着が、いったい私に何の用だ」 構えた杖を地面に放り投げつつも、エリザベツは闘志を失ってはいない。 「フッ、あまり私を怒らせないことだな。貴様の態度次第では、そこの愛しい『妹』の命が助かるかもしれんぞ」 思いがけない展開に、この戦いを通じて初めて、エリザベツは激しく動揺した。 「……条件を聞こう。耀、武器を捨てなさい」 「駄目です、お姉さま! どうせそんなの……」 いちどは抵抗した耀だったが、万言に勝る姉の視線に射すくめられて黙り込み、しぶしぶ鉄球を手放す。 「フハハ、姉妹研はやはりそうでなくてはな。実に美しい姉妹愛、だ」 蔑みと哀れみをたっぷりと含んだ皮肉を投げつけてから、ヒデ子は本題に入った。 「簡単な条件だ。貴様にひとつ、聞きたいことがある。素直に答えれば、そこの妹――槙野耀の命は保証しよう」 エリザベツは無言で頷いた。 「いい子だ。では、教えてもらおう。貴様らが仕掛けたトポロジー爆弾の正確な場所を」 だが、エリザベツはその問いに望むような答えを返せなかった。何故なら――。 「トポロジー爆弾、ですって」 繕いようもない心からの驚愕に、エリザベツの表情が塗り潰されていく。 何故なら彼女もまた、爆弾のことを知らなかったのだ。 「トポロジー……爆弾……」 同時刻、はるか地の底の薔薇園でも、驚きとともに同じ山百合会のメンバーの口から同じような台詞が呟かれていた。 「やはり、知らなかったか」 特に落胆した風もなく、卓美は右手を顎に当てて考え込む仕草をする。 「やはり……ですって」 「情報を掴んでから、ずっと気になっていた。メタ女の恒久平和を目指す山百合会の思想と広域破壊兵器を使った今回のやり口は、どう考えても相容れない。何しろ姉妹の楽園となるべきメタ女そのものがあとかたもなく消し飛んでしまうのだからな」 「では、誰が……」 うつろな瞳で地面を見つめる由利恵の背に、聞き慣れた、だがこの場で聞こえるはずのない声がかけられる。 「やったのは私です」 ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール。地下温室の端に影のようにゆらめくその姿は確かに、紅薔薇のつぼみの妹、藤田美咲だった。 「ごきげんよう、お姉さま」 「美咲……あなたが」 大きな疑念とそれに数倍する衝撃が、由利恵を打ちのめす。人一倍理性的な筈の由利恵が、完全に呆けて思考停止に陥っていた。卓美もまた、異なる理由から由利恵に劣らず衝撃を受けていた。 (まったく、気配を感じなかった) 特別に戦闘者として鍛えられているわけではないのは、ひとめでわかる。魔術を使う様子もない。だがこの背筋を這い上がる強烈な不快感は、何だ。込み上げるえずきを精神力でねじ伏せ、卓美は立ちつくす美咲に話しかける。 「情報では、つぼみの妹は三人とも脱出したと聞いていたが」 本当に今までまったく目に入っていなかった、という風に卓美を眺めてから、美咲はゆっくりと吐き捨てた。 「私はお姉さまと話をしているの。あなた、邪魔よ」 小柄なつぼみの妹が首にかけたロザリオを掲げたのに反応して、ボウガンを構えた――ところまでは覚えている。それから何故か、本当に何故かいきなり酷い見当識喪失に陥った。 私はこんな所でいったい何をしている? 何か……何かとても大切なものを信じて行動していたような気がするが、どうしても思い出せない。何故、こんな弓を持っている? そもそも――私は誰だ? 自分を取り戻したのは、鳩尾のあたりに焼けるような痛みを感じてからだった。美咲が、両手に握ったバタフライナイフを、卓美の腹部に深々と突き立てていた。 「馬鹿……な」 「このロザリオはね、メタトポロジー理論を人の精神に応用した、『心のかたち』に干渉する装置なの。あなたの精神のトポロジー、随分脆かったわ」 その声に反応することもできず、卓美の身体は崩れるように密生する薔薇のなかへ没していった。 「さあお姉さま、邪魔者はいなくなりました」 ふたりきりになり、どこか危うい笑みを姉に向ける。しかし、由利恵は無反応のままだ。構わず、美咲は両腕を広げて喋り続ける。 「それにしてもひどいですお姉さま、私たちを除け者にするなんて。私は気付いてたから、紅茶を飲んだふりをしてましたけど」 「……ふたりは……どうしたの……」 いまだ身体の自由を奪われたままの由利恵は、搾り出すように苦しげな問いを発した。 「沙希さんと七海さんのことですか? 後で追ってこられると面倒だから、ふたりとも眠ってるうちに殺してきました」 プティ・スールは天気の話をするような気安さで、同部殺しを告白する。 「なんて……こと……」 「不思議ですか、お姉さま。みんなお姉さまのせいなんですよ」 苦しげに顔を上げる由利恵。 「スール制度と、山百合会のことを知って、そしてお姉さまをひとめ見てからずっと、この人の妹になりたいって、それだけを願ってきました。この際だから白状しますけど、けっこう裏技も使ったんですよ。妹候補の人にお願いして、転校してもらったり」 心当たりがあるのか、由利恵は複雑な表情になった。訳も言わずに、酷く怯えながら転校していった少女がいた。もしあれが美咲の仕業ならば、到底『お願い』というような生易しい代物ではなかった筈だが。 「念願かなってお姉さまの妹になれたとき、私、とっても嬉しかった。お姉さまは綺麗で、気高くて、容赦なくて、気分屋で、鈍感で、優しくて。本当に、思っていた通りの人でした。でも」 心底悔しそうに由利恵を睨み付け、美咲は唇を噛む。 「お姉さまの心は、お姉さまの姉――ロサ・キネンシスのものだった」 「……まさか」 今まで無意識に考えないようにしていた可能性だったが、もはや無視することはできなかった。 「ええ、お姉さまの考えている通りです。ここに来る途中で、あのアバズレも私が始末してきました」 「ああ」 「おもしろいですよね。あの女、お姉さまのほかに何人もとっかえひっかえしてるのは必死で隠してるのに、そのほかはてんで無防備なんですよ。私のでまかせを簡単に信じて、背中を向けたりして」 うなだれる姉に、美咲はさらに追い討ちをかける。 「お姉さまは――紅薔薇のつぼみは、完璧でなければならないんです。あんな下衆に依存するような、弱い人間であってはならないんです。でも、現実は違った。完璧な、私の思い描いた通りのお姉さまがいない世界なんて、意味ありません。だから」 徐々に狂気を滲ませていく美咲を止める者は、もう誰もいない。 「――こんな学校、消えちゃってもいいなって、そう思ったんです」 だん。 静まり返った地下温室に、異様な打撃音が響く。 だん。 その音は山百合の間とは反対側の、地上へと続く扉から聞こえていた。音がするたびに、硬そうな扉がみりみりと歪んでいく。突然の事態に、美咲は呆然とそれを眺めていることしか出来ない。 幾度目かの打撃音とともに、遂に扉は派手に吹き飛び、外にいた人影が姿を現す。 「天文部西支部のツートップ、ただいま参上ッ!」 「乃理子……」 両拳を前に突き出して吼える重装甲の戦闘制服をまとった天文部員の横で、長い髪の天文部員が呆れたように首を振っている。見たところ、そのふたりだけのようだった。 「そんな。18インチ砲の直撃にも耐える、ハイ・サタニックメタル製なのに」 「あー、何だか知らねえがヤワな扉だったぜ? 肩慣らしにもなりゃしねえ」 首を鳴らしながら、乃理子は現在のこの部屋の主に平然とそう言ってのけた。 「悪ィな真由美、こいつは俺に任せてくれ」 「わかった。私は長官殿の手当に回るわ」 僚友に何か考えがあることを見て取った真由美は、素直に頷いた。乃理子は片耳につけていたイヤホンを外すと、木刀を握っていないほうの手で弄びながら、美咲に話しかける。 「長官殿の制服のボタンに仕込まれた発信機を通して、ここでの話は全て聞かせてもらった。どうやらお前の性根を叩き直さないことには、話が先に進まねえらしいな」 非常識な馬鹿力を見せつけられて毒気を抜かれていた美咲は気を取り直し、ふてぶてしくそれに応じた。 「ふん。やれるものならやってごらんなさい」 持っていた木刀を地面に突き刺すと、乃理子はステゴロのまま美咲に近づこうと最初の一歩を踏み出す。自殺行為とも思える無謀さに、美咲は薄く笑った。 「馬鹿ね」 卓美のときと同じようにロザリオを掲げる。そうして、卓美のときと同じように乃理子の動きが止まった、かに見えた。 「――なんてな」 にかっと歯を見せて、再び距離を詰めだす乃理子。 「嘘よ」 近づくにつれ、美咲の血の気が失せ、全身が細かく震えだす。 「干渉できない。トポロジーが、変わらない」 「実はな、お前の話を聞いてて、ちょっと嬉しかったんだ」 腰の高さの薔薇を掻き分け、ゆっくり歩を進めながら、乃理子は楽しくてたまらない様子で話し続ける。 「正直言うと、俺は大義だとか平和だとか、そんなもののために闘っている連中がうさんくさくてしょうがねえんだよ」 「あなただって、天文部の大義のために闘っているんでしょう」 「いや」 迷いなく首を横に振る。 「俺はもっと、身近なもののために闘う。ダチを守りたい。ツレと馬鹿できる場所を守りたい。それ以上のことは考えちゃいねえよ。だからな」 「駄目。精神がシンプル過ぎる!」 「嬉しかったんだ。理想まみれの山百合会にもこんな人間臭い奴がいたんだ、ってな」 「嫌。こ、来ないで」 「お前の言ってること、よくわかるぜ。だから、お前を止めるのは俺の役目だ」 美咲が震える両手で握りしめていたナイフを、乃理子はやすやすと叩き落す。そして温室じゅうに響き渡るほどの勢いで、美咲の頬を平手打ちした。 「あ」 「お姉さまが、本気で好きだったんだろ?」 目を見開き、片頬を押さえたまま、美咲はしばらく動きを止めた。それから突然、内部に篭っていた感情を一気に吐き出すかのように号泣しだした。膝をつき、身も世もなく顔を歪めるその姿は、年齢相応の少女のものだった。 「さあ、爆弾を止めるんだ」 諭すように、やさしく乃理子が言う。だが美咲はまだ自分の感情を制御できないのか、すすり泣くばかりだ。乃理子はじっと辛抱強く、美咲が落ち着くのを待っている。と、見守る乃理子の前で、すすり泣きはいつの間にか冷笑に変わっていった。 「なんだ。なんで笑う」 「そんなの無理だからよ。たったいま、臨界を越えたわ。私の勝ち」 腕時計を確認しながら、先程までとは人が変わったように悠然と立ち上がる。 「なんだと。まだ1時間は余裕があるはずだ」 「ほんの少し威力を落とすかわりに、臨界を早めたの。あと1分で、メタ女はこの世から消えてなくなる。もう、誰にも」 その笑みは、誰に向けられたものだったのか。おそらく美咲は、もう誰も見てはいなかった。 「――止められないわ」 応急処置を施した卓美を抱え、外に出ようとしていた真由美。懸命に身体の自由を取り戻そうとあがいていた由利恵。そして、黙って美咲を睨み付ける乃理子。美咲以外のすべての人物が、このとき動きを止めた。 「お姉さま。これで私たち、永遠に一緒です」 「美咲……」 咲き誇る薔薇のなかで、姉妹はいつものように寄り添って最期を待った。奇妙な安息と、諦念とともに。 一生にも匹敵する、長い、長い濃密な時間が流れた。だが、予告された1分を過ぎても爆発が起こった気配はない。最初は誤差だと思っていた美咲も、時間が経つにつれて慌て始めた。 「どうして。何故爆発しないの」 そのひとことが合図となって、ふたたび皆の時が動き出す。このときようやく残党の排除を終えた西支部の部隊が、地下温室に降りてきた。 「こんなのおかしい。何かの間違いよ」 「認めなさい。あなたは、利用されたのよ」 衛生班に卓美を委ね、美咲と由利恵の拘束を指示しながら、真由美は支部長の顔でそう言った。 「取調べでじっくり話してもらうわ。あなたにトポロジー爆弾を提供したのは、いったい誰なのか」 「わ、私、わたし――」 そのとき、突然美咲は胸を押さえて苦しみだした。戦闘制服が破れるほどの力で胸のあたりを掻き毟り、限界まで拡張した瞳孔で虚空を見つめ、遂に赤黒い血液の塊を吐いて地面に倒れ込む。 「衛生班!」 すぐに幾人かの一般部員が駆け寄り、蘇生を試みる。だが、それは徒労に終わった。 「……死亡しました」 真由美が眼前で起こった出来事を消化できないでいるうちに、もうひとりの衛生部員から追い討ちの如き報告が入る。 「紅薔薇のつぼみも、死んでいます。自決用の毒薬を仕込んでいたようです」 後に『姉妹研究会の乱』と呼ばれることになる戦いは、こうして多くの謎と後悔を残したまま、ここに慌しく終結したのである。 それから、ふた月が経った。 「たりィ〜」 「文句言わないの。見回りが来るよ」 建造物がひとつのこらず瓦礫と化した薔薇の館跡地で、作業着姿のふたりの生徒会員がシャベルとネコ車で整地作業を行っていた。 「ああ、見張りをサボってカジノになんか行くんじゃなかった……」 「収容所送りで済んだのは幸運よ。本当なら即刻ギロチンだったんだから」 それからまた、ふたりは黙り込んで一心に仕事を続ける。邪魔な石くれをネコに載せて運び、また戻ってくる。行っては戻り、また行っては戻る。骨が折れる割に創造性皆無で単調な、つまりは苦行以外のなにものでもない作業だった。 あの戦いの後、薔薇の館があった場所は高度に政治的な調整を経て生徒会の直轄地となり、いまは問題を起こした部員の収容所がわりに使われていた。 「そういやここ、姉妹研の本拠地だったんだよな。実はおいらさ、白薔薇さまのファンだったんだ」 あながち仕事の辛さを紛らすためばかりでもない様子で、かたわれの巻き毛の少女が口を開く。 「なに、隠れ姉妹だったの」 「そんなんじゃないけど。あの人はさ、薔薇さまのなかでもなんか、違ってたから」 「ふーん。もうスールごっこも覚えてる人少ないのに、あんた貴重ね」 そこで会話は途切れ、ふたたび無言の労働が続く。次に話を切り出したのは、相方のおでこの広い少女のほうだった。 「……あたし、見てたよ。白薔薇さまって人の最期」 巻き毛が、目を丸くしておでこを見た。 「ほら、あたしデビル様の部隊だったから。な、何よその目は」 期待に満ちた巻き毛の視線を受けて、おでこが続ける。 「いや、そんな劇的なもんじゃなかったって。デビル様となんか話して、なんかボーゼンとなって、なんか妹に話しかけて、それから急にふたりとも動かなくなっちゃった。それで終わり」 「話の中身、聞こえたか」 「ううん、役員の人たちがぐるっと取り囲んでたから。ただあの人、妹に『みさき』がどうこうって言ってたような気がする」 「みさき、か。どこの岬だろう。いや、人の名前かもな」 「山百合会にそんな名前の子がいたらしいけどね」 「そうか。そんなことが……」 ムチを持った監視員がやって来たので、会話はそこで途切れた。奇跡的に難癖をつけられることなく無事にやりすごすと、今度はさほど時間を空けずに巻き毛が呟く。 「そういやさ、爆弾の噂もあったよな」 「何それ」 すかさず、おでこが食いついてくる。 「あの総攻撃のときさ、薔薇の館の地下でトポロジー増殖爆弾が起動してたって話」 「げー、あたしらそんな物騒なモンの上で戦ってたの」 「総攻撃が早まったのはそのせいだって。ま、あくまで噂だけどな。実際何も起こらなかったし」 「火のないところに……って言うじゃない。もしかしたら、白薔薇さまが止めたのかもよ」 「なわけあるかよ」 おでこの突拍子もない説に、巻き毛が苦笑する。そのとき、地面を穿ったシャベルの先に、何か硬いものが当たる感触があった。 「ん、なんだろ」 巻き毛が周囲の土を掘り返してみると、筆入れほどの大きさの金属の箱が出現した。持ってみると案外軽い。 「それ、開くんじゃない」 「そうだな。開けてみるか」 ばちりと留め金を外すと、青いビロードの上に真新しいロザリオが鎮座していた。 「げえー、やめときゃよかった」 「すっごい怨念こもってそうだよねー。あれ、なんか一緒にカード入ってるよ」 おでこがその落ち着いた装飾が施された紙片を取り出してしげしげと表面を眺める。 「MからHへ、だって。このMさん、たぶんロザリオ渡せなかったんだね」 「ああ……」 しばらくじっとロザリオを見つめていた巻き毛が、ふいに箱を握り締め、持ち場を離れて歩き出す。 「ちょっと! どこ行くのよ」 「供養にさ」 「えっ」 対岸が霞んで見えるチグリス川のほとりに立った巻き毛は、もう一度箱に目を落とした。 「いつか、変わるさ」 そう呟いてから、中身もろとも川面に思い切り放り投げる。小さな波紋が消えると、後には雄大なチグリスの流れがあるばかりだった。 (了) |