「あまりほめられたことじゃないんだよなあ」と思うようなことは、自分でも後ろめたい気持ちがちょっとあるから、それほど大きな失敗をしたり、人を傷つけたりすることはあまりないものです。
でも、いったん「これは正しい!」と思ってしまったことをするときには、気をつけないといけない。思考停止して暴走してしまいがちだからです。
たとえば、以前から「断捨離」みたいなことが流行っているでしょう。掃除ブーム。まだ使えるかもしれないものを捨てることには罪悪感が伴うものだけれども、無駄なものはどんどん捨てて環境をシンプルにするのはいいことなんだ、と。
それには僕も同感なんです。汚くちらかった部屋に住んでいると、潜在意識にも悪影響を与えるってことは、僕もずっと以前から講演でしゃべったり、本に書いたりしてきました。整頓とか、掃除とか、片付けとか、たしかに大切なことだと思うんです。
ただ、そう言った上でなんですけれど、いいことだからゆえに、もう考えもしないでそれでがんがん行っちゃって失敗することって、誰にでもあるんじゃないかと思うんです。
たとえば、家にお年寄りがいて、自分ひとりでは外出できない。目もあまり見えない。耳もずいぶん遠くなった。新しい活動をするにも、体力的にも、そして時間的にも限られてしまっている。
そういうお年寄りは、家族が断捨離に凝って家を片付けはじめると、寂しいような気持ちになるそうです。もちろんぜんぶのお年寄りがそうではないのでしょうけれど。
何年も使わなかったようなもので、そりゃあとっておいても役に立たないようなものでしょうけれど、そういうものには、昔の思い出が、いや、これまでの人生が染み付いている。
若い人たちは、捨てても捨ててもまだ新しいものがどんどん入ってくる。思い出だってこれからいっぱい創っていける。でも、もう先が短い自分にとっては、過去のものこそが自分の人生そのものみたいなところがある。
そうはいっても、住居スペースも限られているんだし、家族がせっかくはりきって掃除をしているんだから、「これはとっておいてくれないか」などと頼むのもわがままかなと思う。「いいよ、いいよ」と笑顔を作って、家庭に波風が立たないようにして、黙って捨てられていくのを見ている。
そういう気持ちも、ちょっと立ち止まって考えてみさえすれば、理解できる。気づいてあげられれば、思いやってあげることもできる。
だから、最初に書いたことをもういちど繰り返すと、あまりほめられたものでないことをするときには、それほど用心は必要ない。自分でも、よくないことだとわかっているから。
でも、「これは正しい」と思っていることをするときには、思考が停止してしまいがちだから、ちょっとだけ立ち止まって考えてみる。
正しいことだからこそ、ときに疑ってみることが必要なんじゃないか。
そういえば、ドストエフスキーの『白痴』という本に、「あなたは真実ばっかりで、かえって不公平になっている」というような言葉あったのを思い出します。
僕はそういう失敗をずいぶんしてきたなあと、ふと、そんなことを考えたわけです。