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January 31, 2012

勉強会について

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すでにご存知かもしれませんが、今年から、東京と大阪で月に一回、勉強会をやろうと思っています。

いろんなところから噂をお聞きになって、たくさんの方々からお問い合わせをいただいていますが、今回は僕ひとりでいろいろと準備を進めていますもので、なかなか一応の形になるのにも時間がかかってしまっています。おまたせして申し訳ありません。

最新の進捗状況について、今週金曜日にまぐまぐのメルマガで流す予定ですので、ご関心のある方は登録しておいてください。

●石井裕之オフィシャルメールマガジン(まぐまぐ発行)
http://www.mag2.com/m/0000215445.html

January 29, 2012

正しいことほど疑ってみる

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「あまりほめられたことじゃないんだよなあ」と思うようなことは、自分でも後ろめたい気持ちがちょっとあるから、それほど大きな失敗をしたり、人を傷つけたりすることはあまりないものです。

でも、いったん「これは正しい!」と思ってしまったことをするときには、気をつけないといけない。思考停止して暴走してしまいがちだからです。

たとえば、以前から「断捨離」みたいなことが流行っているでしょう。掃除ブーム。まだ使えるかもしれないものを捨てることには罪悪感が伴うものだけれども、無駄なものはどんどん捨てて環境をシンプルにするのはいいことなんだ、と。

それには僕も同感なんです。汚くちらかった部屋に住んでいると、潜在意識にも悪影響を与えるってことは、僕もずっと以前から講演でしゃべったり、本に書いたりしてきました。整頓とか、掃除とか、片付けとか、たしかに大切なことだと思うんです。

ただ、そう言った上でなんですけれど、いいことだからゆえに、もう考えもしないでそれでがんがん行っちゃって失敗することって、誰にでもあるんじゃないかと思うんです。

たとえば、家にお年寄りがいて、自分ひとりでは外出できない。目もあまり見えない。耳もずいぶん遠くなった。新しい活動をするにも、体力的にも、そして時間的にも限られてしまっている。

そういうお年寄りは、家族が断捨離に凝って家を片付けはじめると、寂しいような気持ちになるそうです。もちろんぜんぶのお年寄りがそうではないのでしょうけれど。

何年も使わなかったようなもので、そりゃあとっておいても役に立たないようなものでしょうけれど、そういうものには、昔の思い出が、いや、これまでの人生が染み付いている。

若い人たちは、捨てても捨ててもまだ新しいものがどんどん入ってくる。思い出だってこれからいっぱい創っていける。でも、もう先が短い自分にとっては、過去のものこそが自分の人生そのものみたいなところがある。

そうはいっても、住居スペースも限られているんだし、家族がせっかくはりきって掃除をしているんだから、「これはとっておいてくれないか」などと頼むのもわがままかなと思う。「いいよ、いいよ」と笑顔を作って、家庭に波風が立たないようにして、黙って捨てられていくのを見ている。

そういう気持ちも、ちょっと立ち止まって考えてみさえすれば、理解できる。気づいてあげられれば、思いやってあげることもできる。

だから、最初に書いたことをもういちど繰り返すと、あまりほめられたものでないことをするときには、それほど用心は必要ない。自分でも、よくないことだとわかっているから。

でも、「これは正しい」と思っていることをするときには、思考が停止してしまいがちだから、ちょっとだけ立ち止まって考えてみる。

正しいことだからこそ、ときに疑ってみることが必要なんじゃないか。

そういえば、ドストエフスキーの『白痴』という本に、「あなたは真実ばっかりで、かえって不公平になっている」というような言葉あったのを思い出します。

僕はそういう失敗をずいぶんしてきたなあと、ふと、そんなことを考えたわけです。

January 28, 2012

前回の続き

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さて、前回のブログの続きです:

スポーツ選手とかが、勝つのが当たり前だと思えるまで練習するといいますね。「これだけ練習したんだから、負けるわけがない」って、そう信じられるまで練習する。

受験指導とかでもよくいいます。「徹底的に勉強すれば、これだけがんばったんだから合格するに決まってると思えようになるぞ」って。それが自信につながるんだ、だからがんばれ、って。

でも、僕は大いに不満なんです。そういうアドバイスが。

「そう思って努力できる人は、だってもともとポジティブな人でしょう」って、そんなふうに考えてしまう。僕だったら。

「いっぱい努力すれば実現するのが当たり前だと思える」って、それはわかるけど、それ以前に、「実現するのが当たり前だ」と思えないからそもそも努力を継続できない。

そうじゃないでしょうか?

まず「実現するのが当たり前だ」と思えるからこそ、それが先にあるからこそ、目に見える結果がなかなか出なくても努力を続けられる。僕らのような凡人は、そういう順序じゃないでしょうか。すごい人たちは別として。

だから、やっぱり、「信念とか自信は、努力によってできあがる」という理屈は、僕にはどうしても「成功者のための成功法則」だと思えてならないんです。

ろくな成功体験もなく、才能も実力も根性もなく、いつも自分にがっかりしてばかりのヘタレ凡人の僕らが、「できるに決まっている」と思えるようになるには、もうたったひとつしかない。

それは、「開き直る」ということです。そうです。開き直るんです。

「これほど求めていることが叶えられないのが人生だとしたら、それが人生のしくみなのだとしたら、そもそも人生には価値なんかないことになる。そして、人生そのものに価値がないなら、その価値のない人生の中で抱く願望が叶うか叶わないかなんてことは、どうでもいいことになる。だから、叶ってもよし、叶わなくてもまたよしだ」

この考え方を、感情をこめて自分に浸透させてみるんです。そうすると、余裕が出てくる。「なんだそんなことか」と馬鹿にしないで、ぜひやってみてください。

(潜在意識に詳しい方も読んでくれていると思うので、蛇足ながらいちおう理屈を説明すると、要するに、問題の焦点を「自分の能力」から「人生そのもの」に拡大することによって執着や焦りを拡散させる、というテクニックです。パーソナルモチベーターのスキルとしては、これを「拡大法」と呼んでいます。また、人生そのものに価値がないとあきらめている人が、そもそも願望なんかもつはずはないので、「ダブルバインド」にもなっていることにもお気づきでしょう。だから潜在意識は「じゃあ、叶うんだな」と理解するわけです)

ほんとうは、もっともっと書きたいことがあるのですが、ブログでは限度があるし、そろそろまたおなかも減ってきたので、このへんにしておきます。

January 26, 2012

「願う」ということの難しさ

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名は体をあらわすというけれども、名前とその人の性格とは、どうも滑稽なくらい相反するものであることが少なくないようです。

たとえば、(もちろん特定の誰かのことではありませんが)、がりがりで青白い顔をした男性の名前が「猛」だったり、地味で目立たない女性が「麗華」だったりするというのは、よくあることです。

僕は「裕之」で、これは悠々とした広い道を行くというような意味でしょうけれど、実際のところ僕は、せせこましい、器の小さな、神経質な男です。

名前というのは、たいていは親がわが子の人生に願いをこめてつけるものだけれども、そもそも願うということからして、現実にはそうならないかもしれないという不安があるから願うのでしょう。

自分の娘はしあわせになるに決まっていると信じていたら、なにをわざわざ「幸子」などという名前に願いをこめる必要はないはずです。

つまり、名前には、親の強迫観念のような匂いが染み付いていると言ってもいいのではないか。だとすると、そんな親の心配を敏感に察知して、僕らは、その心配どおりの人間になっていくのかもしれません。

だから、名前と実態とが真逆になっていたとしても、さほど怪しむにはあたらないでしょう。

さて、僕がいいたいのは名前のことではなくて、この「願う」ということの微妙な作用について。

「願いが強ければ強いほど願望が実現しやすい」ということがいわれる。でも、その「強さ」というのがくせもので、それは「信念」という意味での強さでなくてはならず、強迫観念や執着であってはならないということです。

だから信念のある状態というのは、恐い顔をして力んでいるような状態ではなくて、「そうなるのが当たり前」だと、ふんわりと構えていられる状態。そういうことがいえるのではないでしょうか。

さて、ここまでは、セラピストでなくても、誰にでもいえるような話です。

問題は、「どうやったら『当たり前』だと思えるようになるのか?」ということでしょう。ですよね。切実な人なら当然、そういう疑問が出てくるはずです。もちろん、問題はそこです。

ぜひ、考えてみていただけますか。

ここまで書いておなかがすいたので、僕なりの答は、次回のブログに書くことにします……。

January 25, 2012

いっしょに汚れていこう

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僕のような安っぽい人間は、骨董やアンティークなどの高尚な趣など、到底わかりはしない。それでも、若いころにくらべると、古いものに魅力を感じることが多くなってきました。

傷まないようにケースに入れてコレクションされているものよりも、道具として使い込まれて、使う人の汗や手垢のにじんだような、そんな感じのするものが素敵だなと、そんなことを考えることが多くなりました。

人間はどうだろう? そんなふうに、素敵に汚れることができるものなんだろうか。

がんばって自分を磨いたつもりでも、気づくと、やっぱりちっとも変わっていない汚らしい自分がいる。

いや、汚らしいなんていいながらも、ほんとうはそうやって謙遜できる自分は立派なもんだろうだなんて思ってる。奢っている自分がいる。いやいや、そういう自分の傲慢に気づいているようなことをいっていること自体がいやらしいのだ……などと、どんどん深みにはまっていく。

どこまでいってもきれいな自分には会えない。会えそうもない。

こんな屁理屈を考えることもなかった子供のころは、それでも、少しはきれいだった自分がいたような気がする。利害を超えて、誰かのためにこっそりと自分を犠牲にできた自分が、いたような気がする。「そうすることが正しいから」という理由だけで、行動できた自分がいたように思う。

そんな自分を懐かしく、いとおしく思うこともある。

しかし、きれいなまま生きてはいけない。それが凡人の凡人たるゆえんだろう。きれいに生きていけると思うとしたら、それはきっとどこかに嘘がある。

どうせ汚れていくのが生きることなら、願わくば、魅力的に汚れていきたい。そういう努力をしたい。使い込まれて、手垢のついたあの道具のように。

でもそれは、「素敵に歳を重ねる」なんていうのとはニュアンスが違う。そんなきれいごとを言いたいんじゃない。

きれいに清まることよりも、一生懸命に生きてそれゆえに汚れていくことのほうが、きっと立派なことなんじゃないか

そんなことを、ふと考えたからね、いっしょに汚れていこう。素敵に汚れていこう。

January 24, 2012

DM6のページがリニューアル

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今日から「ダイナマイトモチベーション 6ヶ月プログラム」のセールスページが新しくなりました。

ページを2/3くらい下にスクロールしていただくと、久しぶりに石井がしゃべっている動画があります。なんかバブルっぽくクルーザーの中での収録でしたが、海とか実に似合いませんね、僕は(笑)

それから、もうちょっと下のほうを見ていただくと、DM6のユーザーのみなさんのインタビュー動画があります。実はこれ、昨年の夏に横浜で収録したもの。たいへん暑い中での収録でしたが、みなさん嫌な顔ひとつせずに協力してくれました。せっかくリゾートっぽい収録だったので、もうちょっとみんなと遊びたかったなあ、と思うくらい楽しかったです。

それで、1月31日までフォレスト出版のポイント10倍還元キャンペーンだそうで、このDM6も対象商品ですので、「今年こそDM6ユーザーに!」と年初に誓った方も、そうでない方も(笑)、ぜひこの機会に。

January 22, 2012

ホドロフスキー

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Psychomagic: The Transformative Power of Shamanic Psychotherapy

もし、「もっとも優れたセラピストだと思う人を5名挙げてください」と訊かれたら、僕は迷わずホドロフスキーの名前を挙げます。

アレハンドロ・ホドロフスキーといえば、『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』などのカルト映画や、『アンカル』などの漫画の原作者として有名ですが、実は、セラピストとしても稀代の天才なのです。

彼は自分のセラピーを「サイコマジック」と呼んでいて、俗っぽくいえば、潜在意識心理セラピーと魔術(シャーマニズム)の融合といった感じでしょうか。融合というか、深いところではもともと同じものだといえるでしょう。

彼はスピリチュアルな人なのですが、決して迷信的に流れない地に足のついたスタンスは、まったくすごいと思います。

それで、ここからが面白いところなのですが、石井の私見ですが、サイコマジックのセラピーは、実質的にはミルトン・エリクソンのセラピーそのものといってもいいと思うのです。バックグラウンドは異なるにしても、手法が驚くほど共通している。ミルトン・エリクソンはスピリチュアルな立場をとらなかった人ですが、ホドロフスキーの Psychomagic: The Transformative Power of Shamanic Psychotherapy を読むと、謎だったエリクソンのセラピーの「しくみ」が腑に落ちるところがあります。

現時点で翻訳が出ているかどうかわかりません。英語ができる方はぜひチャレンジしてみてください。潜在意識やセラピーに興味のある人にとっては、もうめちゃくちゃ刺激的で面白い本です。僕も、「あっ、そういうことだったのか!」と、びっくりするような気づきがたくさんありました。

また、セラピーにタロットカードを使うことも、ホドロフスキーの魅力のひとつです。僕はタロットが好きでたくさんコレクションしているので、これはもうたまりません。ホドロフスキーは、タロットリーダーとしても有名で、カモワン・タロットとして知られているタロットを作った人物として彼の名前を知っている人も多いでしょう。

The Way of Tarot: The Spiritual Teacher in the Cards

彼のタロットの本、The Way of Tarot: The Spiritual Teacher in the Cards は、一般的なタロット本とはかなり異なるものですが、タロットに関心はなくても潜在意識には興味があるという人にとっても非常に参考になると思いますので、イントロダクションだけでも読んでみることをお勧めします。

January 21, 2012

サブリミナルテクニックの使い方

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カリスマ(文庫版)

昨年の暮れにご案内しました『カリスマ 人を動かす12の方法』の文庫版が、ようやく発売になりました。

以前のブログでは、テクニックとしてではない側面から読んでほしいみたいなことを書きましたが、今日はあえてテクニックを実践する上でのヒントをひとつ。

それは、「テクニックが効果を発揮するのは、それがテクニックであることをやめたときだ」ということです。

どういうことかというと、たとえばコールドリーディングやサブリミナルテクニックを勉強した人が、それを誰かにやってみる。そうすると、ほとんどみんな、いわゆる「ドヤ顔」になってしまうのです。「さあ、テクニックをしかけたぞ。ん~、どうだ? どうだ? 結果は出るかな~」と、ものほしそうに相手を見てしまう。自分でも気づかないうちに、です。

そうなってしまうと、相手は潜在意識的にその感じを察知し、防御してしまう。潜在意識の「現状維持メカニズム」がキックしてしまうわけです。

僕は、セラピーの中で実践してきたサブリミナルテクニックを、もう二十年近く前から勉強会などで教えてきましたが、ほとんどみんなこの間違いをおかしてしまいます。

僕がお話ししているテクニックは、あくまでもサブリミナル的であってこそ効果のあるもので、サトルティ(さりげなさ)として活かさないとまったく逆効果になってしまう危険があるわけです。相手の潜在意識をかえって警戒させてしまう。

それではどうしたらいいかというと、この『カリスマ 人を動かす12の方法』を読んでいただいたら、紹介されているたくさんのテクニックの中から、自分ができそうなどれかひとつでいいから、テクニックを意識せずに(=効果を期待せずに!)さらっと当たり前のように実践できるまで、徹底的に使い込んでみる。たったひとつでもそんなふうに自分のものになれば、ほかのテクニックも簡単にマスターできるようになってきます。子供でも、一教科だけ得意になれば、自然に勉強の面白さややりかたがわかってきて、ほかの教科も伸びてくるでしょう。あれと同じことです。

たしかに、テクニックの内容から言えば『カリスマ 人を動かす12の方法』の600円はありえないくらい安いと思います。でも、たださらっと読んだだけで、「なかなか面白かったな」というだけなら、エンターテインメントとして、まあ600円でも妥当でしょう。

けっきょく「価値」というのは、それを活かす人しだい、ということ。すべての価値は主観的なものでしょう。どんなことにも共通することですね。

January 16, 2012

最近のお気に入り

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Mantras of the Sanskrit

最近のお気に入りは、サンスクリット語の般若心経を中国っぽいメロディーにのせた、Mantras of the SanskritというCD(2番目のトラック)です。

お経とかマントラというのは、言葉の意味はわからなくても、そのリズムがエーテルに響くのです。心が安らぐのですね。

とはいえ、これは僕の個人的な感じなんですが、お坊さんが唱えるお経って、威厳がありすぎてというか、「どうだありがたいだろ」みたいなというか、どうもはるか上のほうで響いている感じがしてしまう。

でも、このCDのイミー・ウーイさんという女性のアジアンな素朴な声は、寄り添うように、語りかけるように、僕の心に浸透してくるのでした。

January 15, 2012

我、パーソナルモチベーターなり

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切ないことに僕には何の報告もいただけなかったのですが、PMアカデミーが昨年で解散したそうです。森下さんからの年賀状に、「解散しました」と一筆、事後報告があっただけで。

きっと、僕には何の関係もないのでしょう。

いまさらですが、パーソナルモチベーターということを言い出したのは僕ですから、どうしても親心みたいなものがある。だから、がまんしていても、つい苦言を口にしてしまったこともありました。それに対して、「PMのことに口出しするより、ご自分のことをお考えになっては?」とある方に言われたこともありました。

そのとおりなのかもしれません。

石井がいまさら何か言えば、不快に思われるPMの方々がいてもそれは十分に理解できます。

でも――

震災や原発の悲劇を経験したいまだからこそ、あらゆる価値観が揺らいでいるいまだからこそ、パーソナルモチベーターというものが求められているのではないか。

自殺者が年間三万人を越える。誰にも苦しみを理解してもらえず、孤独の中で死んでいく人たちがたくさんいる。

どうして、へらへら笑っていられるのか。

自分の人生に火の粉が降ってこなければ、今日もハッピーハッピーツイテルツイテルと喜んでいられるのでしょうか。それがポジティブな生き方なんですか?

カウンセラーの増員が必要だとか。心理学を志す学生が増えているのだとか?

冗談じゃない。

政府の政策や、文部科学省の方針なんかで、人の心が救われるものか。学校やセミナーや講習で、人の心を救ってあげられるものか。

大切なのは、誰かが苦しんでいるとき、なんとか力になってあげたい。そういう気持ち。自分には何にもしてあげられないけれど、なんとか、なんとか力になりたい。そういう、やむにやまれぬ気持ち。

大切なのは、そういうふうに、相手の苦しみを自分の苦しみとする心であって、スキルなんてものは、どうでもいい。プロのセラピストとして僕は断言できる。スキルなんて、どうでもいい。

心理セラピストやカウンセラーを増やすことより、そんな自己啓発セミナーがぽこぽこ開催されるより、もし、ごく普通のみんながそれぞれ、誰か近くのたったひとりの人のパーソナルモチベーターになってあげられたら。ひとりがひとりのモチベーターになってあげられたら。そんな世の中になったら、どんな不条理な不幸も苦しみも、力強く乗り越えていけるのではないか。

それが僕の願いでした。

もし、そんな僕の想いに共感してくれるパーソナルモチベーターたちがひとりでもふたりでもいれば、彼らのための居場所(せめて心の居場所)が、やっぱり必要なのではないか。

何らかのかたちで。

だから――

今年、何かやります。まだまったく何も決まっていませんが、やります。

僕が、やります。

パーソナルモチベーターのみんな。もうちょっとだけ、待っていてください。

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