キャンディーズ代表曲の衣装と振り付けを再現した食玩。期間限定でコンビニが販売した |
女優で元キャンディーズの「スーちゃん」こと田中好子さんが4月21日夜、乳がんのため死去した。突然の訃報に多くの人が驚き、哀悼の意を捧げた。
キャンディーズ――活動期間わずか4年半、そして解散からすでに33年が経過していながら、その名は忘れられることなく、その歌は今もあちこちで口ずさまれている。なぜキャンディーズはこれほどまでに人々の心に刻みこまれているのか。
2008年、解散から30年を機に復活した、自主運営のファン組織「全国キャンディーズ連盟(全キャン連)」の代表を務める石黒謙吾氏に聞いた。彼はその答えがキャンディーズの「熱さ」にあると指摘する。
スーちゃんの訃報が伝えられた夜、僕は7時ごろから12時過ぎまで、人と会って話しこんでいました。帰りの電車に乗って携帯を見たらものすごい数の着信です。メール、ツイッター、mixiにもメッセージが大量に入っていた。電車を降りてすぐに全キャン連の中心的な人物の一人に連絡しましたが、とにかく相手も自分も混乱していましたね。翌日は取材の申し込みや知人からの連絡で電話が鳴りっぱなしです。3日間ぐらいは現実を受け止める余裕すらなく、目の前のことに対処するだけで精一杯でした。多くの取材に応え、告別式に参加して、数日が経った今でも、正直まだ実感がないようなところもあります。
――このニュースの反響は大きかったですね。
しばらくはテレビも見られなかったし、世間の動きを気にかける余裕もなかったんですが、取材に来る人の口ぶりや、仲間たちが「もう国民的な関心事になってるぞ」と話すのを聞いて、次第にその大きさを感じるようになりました。
キャンディーズは「王と長嶋」で言えば長嶋タイプ。レコード売り上げなどの記録を見れば他にもっと上をいく人たちがいるが、より人々の記憶には残る存在でした。それがこの大きな反響につながったのだと思います。
石黒さんの本棚に飾ってあった3人の写真 |
――なぜキャンディーズは記憶に残る存在になれたのでしょうか。
まず、彼女たちそれぞれの資質です。その後登場した女性3人のグループと比較して、何が違うかと言われても明確な答えは出てこない。時代背景というようなものでは説明がつかない。となるとそれは個々の資質の差、と言うほかはありません。そしてグループとしての力量。これは、スクールメイツ時代からずっと一緒に練習してきて、完璧なコミュニケーションができているからこそ発揮できたものです。実は、Perfumeにも同じことが言えるんですけどね。
あと、彼女たちは他のアイドルグループと比較して、商業的に作りこまれた感じが全くなかった。“がっついてない”というか、芸能活動というより部活で頑張っているような雰囲気があって、それが「カッコいい隣のお姉さん」のような親近感を与えてくれる。そこが響いたんでしょう。
そしてもうひとつ。キャンディーズのファン層では、大学生を中心として、高校生など熱い人たちがその「核」を形成していたことが大きかった。
――全キャン連をはじめとする皆さんですね。
石黒氏が往年の技を披露。まず上の写真のように、キラキラ光る紙を細かく切っておく。それを下のように紙テープのうまい位置に押し込んでおくと、投げた時にちょうどキャンディーズの上空で光るフレークが舞うという |
大勢で声を揃えてコールしたり、紙テープを大量に投げて応援するコンサートの「熱さ」は、キャンディーズを語る上で欠かせません。その部分はテレビには映りませんから、メディアを通じてしかキャンディーズを見たことがない人が、ライブに参加するとびっくりします。かわいくて面白い子たちだな、と思っていたら、コンサート会場はこんなに熱いのか。その驚きが口コミで広がっていく。これがキャンディーズ人気の、ある意味で本質的な部分だったと思います。
もちろん、すべてのファンの人がコンサートに行けたわけではありません。しかし、キャンディーズの活動の中心が熱いライブだったことが、彼女たち自身の魅力にもつながっていたのは間違いありません。キャンディーズ3人の熱さに、僕たちも熱くなって応えていく。2008年、僕がランちゃん(伊藤蘭さん)にインタビューする機会に恵まれたのですが、そのときも「温度の高い目線を感じ、それに応えようとしていた」と語っていました。
2008年、石黒氏が伊藤蘭さんに初めて取材して書いた記念すべき記事。1時間半以上みっちり聞けたという |
――石黒さん自身、コンサートにはどのくらい参加したのですか。
高校入学の直前から、2年間で100ステージ以上です。当時金沢に住んでいて、アルバイトに精を出してチケット代や交通費をまかなっていました。さらに紙テープ代もかかります。紙テープは1本50円でした。でも1回のステージで100本ぐらいすぐ投げきってしまう。仲間同士で問屋からまとめて箱で買い、単価を30円に下げたりしていました。
77年7月17日、突然の解散宣言の日はその場にいませんでしたが、発表に居合わせた友人が夜行列車で金沢に戻ってくるのを待ち、早朝に仲間内で集まりました。集まったからといって何ができるわけではないけれど、そうしなければ不安だった。みんな解散して欲しくない、という気持ちは一緒でしたが、もう解散は決まってしまった。残された選択肢は「残された期間、死ぬ気で応援する」ことしかなかったんです。
その後も各地のコンサート会場で応援を続けました。解散ツアーは全国6カ所に行き、高校3年生になった78年の4月4日、後楽園球場の「ファイナルカーニバル」に参加しました。
――「全キャン連」は全国に支部がある大規模な団体でしたが、その組織力はどこから出てきたのでしょう。
「連盟」という響きや、大学生が中心になっていたことで、学生運動とのかかわりを指摘する人もいますが、これは全然違います。全キャン連は、各地で自発的に形成されたファンクラブの集合体で、あくまでボトムアップの組織でした。コールの仕方などは、中心メンバーが企画して各支部に連絡したりしていましたが、組織そのものは誰かの指示で動くようなトップダウンではなかった。
コンサートに通ううちに、自然と誰かと知り合いになる。全キャン連的活動は、そういう場です。自分も全国各地に友人ができました。名前も知らないけど、コンサート会場ではいつも一緒になる、という人も多かった。そんな仲間たちと声を合わせ、紙テープを投げ、一体感を味わう。それは本当に熱い、そして楽しい時間でしたね。ここだけの話、コンサートが毎日続いている時など、客席ばかり気になってステージをあまり見ていないときもありました(笑)。
フィギュアの奥には、復活した全キャン連で作ったシールや「美樹」「蘭」など名前入りのリストバンドも見える |
――全キャン連が復活できたのも、その熱さがあったからでしょうか。
熱い時間を共有した人たちは、その快感を知っています。全キャン連は2008年に、後楽園球場跡地である東京ドームシティ内のホールで開催したフィルムコンサート「全キャン連2008大同窓会 CANDIES CHARITY CARNIVAL」から復活したわけですが、このイベントには約2000人が集まりました。キャンディーズ本人の出演はないのに、です。みな、ただ見て昔を懐かしむために集まったわけではない。かつて味わった連帯感をもう一度体験したかったんです。
キャンディーズが駆け抜けた70年代には、「列島改造ブーム」や、僕もハマっていたマンガ「嗚呼!! 花の応援団」(どおくまん)みたいに、賛否はともかくパワフルにつき進んでいくものがたくさんあった。若者たちの間にも、まだ熱いものにぶつかっていこうという欲求、そして携帯もメールもないから対面の密度の高いコミュニケーションの心地よさがありました。
フィギュアは右から「わな」、真ん中が「アン・ドゥ・トロワ」、左が「年下の男の子」… |
――「熱い」ことが恥ずかしい、とは言われない時代でしたね。
恥ずかしい、なんて思ったことは一度もありません。熱いことに冷ややかな視線を送っているのは、自分に自信がないからですよ。でも、最近少し「熱さ」を見直す動きがあるようにも感じています。今の若い世代は一時ほどシラけていないんじゃないかな。自分をしっかり持っていて、いらないものはいらない、とはっきり言えるし、友達や地元を大事にする。USTREAMなど、ネットでもライブ性のあるサービスが注目を集めています。
キャンディーズの解散から今年で33年。みんな命が続く限り現在の活動を続けていきたい。とりあえずの節目、50周年の時は自分は67歳ですが(笑)。70周年には生きていられるか微妙ですが、でもきっと、現役時代を全く知らないのにファンになった若い人たちがやってくれるでしょう。キャンディーズと僕たちが作ったあの熱さは、すでに多くの若い人に伝わっています。
今は日本全体が元気を出さなければいけないとき。キャンディーズの歌で、多くの人に熱くなってほしいですね。(2011年5月9日・I)