西安事変 張学良の功罪

コラム2001/11/29(木) 06:14 
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 10月14日、ホノルルで100歳の生涯を閉じた張学良をめぐる盛んな論評は、今も中国語メディアを中心に繰り広げられている。大陸、台湾、香港だけでなく、アメリカや日本などの華僑系新聞にも特集記事や論文は頻繁に登場している。これは彼に対する歴史的な評価が両極端に分かれているからだ。

 張学良氏の人生について、よく「波乱万丈の100年」という表現が用いられているが、むしろ36才から50年以上の軟禁生活を余儀なくされ、自由を得た後も全く政治的な活動をしなかったという「人生の空白」の時間の方が長かった。そして、青春時代も満州に割拠した軍閥の父張作霖の七光りで若くして将軍になったものの美女狩りや麻薬吸引に余念のない放蕩息子であり、政治でも軍事でもさほど重要な役割を果たしたことはなかった(張学良批判者は彼が多くの戦闘で負け続けたことを厳しく指摘している)。

 したがって、1936年12月に起きた西安事変だけが彼が歴史的に脚光を浴びた唯一の瞬間であり、彼に対する評価は現在でもこの事件に対する見方のみに大きく左右されているのである。

 中国の江沢民国家主席は、張学良氏遺族への弔電で張学良氏を「偉大な愛国者」、「中華民族の永遠の功臣」と称え、「65年前の民族滅亡の危機に際して、楊虎城将軍と共に愛国精神、抗日と民族滅亡阻止の大義を掲げ、西安事変を発動し旧日本軍に対して中国共産党との共同抗戦を訴えた。更に10年にわたる内戦を集結させ、第2次国共合作を促し、全民族の抗戦に歴史的貢献をした」と絶賛した。

 共産党側からすれば、西安事変によって国共両勢力が再度手を結び大陸の内部まで攻めこんだ日本軍と戦ったが、それよりも蒋介石に追い詰められていた窮境から脱出することができたことが数年後の蒋介石率いる国民党を台湾に追い出し、政権を奪還することにもつながったのである。ある意味で、張学良は逆境にあった共産党の救い主とも言える。

 しかし一方で、張学良ら謀叛の行動によって蒋介石の抗日戦略が乱れ、十分な対抗力がないまま勢いづく日本軍と正面衝突したため、計り知れない犠牲を強いられたと西安事変を否定する意見も強い。当時、米英やソ連は日本軍の中国侵略に対しては傍観的な態度をとっていたため、中国は国際的にも事実上孤立無援だった(米国の本格的な参戦は5年後の真珠湾事件が勃発してからだった)。したがって、彼は中華民族の功臣ではなく、罪人だと言う人も多い。そしてこのような見方をする人には、同時に反共産主義者も多い。西安事件をきっかけとして最終的に中国の政権が共産党の手に落ちることになったと彼らは一様に張学良を非難している。

 西安事件が解決し、南京に戻った蒋介石は約束を破り同伴していた張学良と西北軍司令官の楊虎城将軍を監禁した。数年後楊虎城は銃殺されたが、張学良は蒋介石やその息子の蒋経国が死ぬまでずっと軟禁生活を強いられていた。もちろん、この間彼は過去について公で発言する機会を奪われていたが、その後自由の身になってからも、彼は西安事変の功罪についてはっきり意思表示したことはなかった。

 蒋介石が1975年に亡くなった時、張学良は「関懐之慇 情同骨肉、政見之争 宛若仇讎」(至れり尽せりのお世話は肉親のようだが、政見の争いとなれば仇敵になる)という弔文をしたためたという。張学良が始終蒋介石に畏敬の念を抱いていたことはこの弔文からでも伺うことができる。しかし、果たして彼は最後まで西安事変が「政見の争い」によって引き起こされたと思っていたのだろうか。

 来年中には、張学良の口述自叙伝が出版される予定だ。彼がここで本当の気持ちを語るのではないかと期待する近代史学者も少なからずいるようだ。(2001.11.23)

(文彬)

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