『授業づくりネットワーク』一九九八年十二月号
環境教育の現在
「サイクル図」と「EM」
藤川大祐
1 「ジレンマ」としての環境問題
6年ほど前、私は「たまごの会環境教育プロジェクト」の一員として、「フロンガスのジレンマ」(『環境教育授業記録集1』学事出版、一九九二年)、「リサイクル社会の虚構」(『環境教育授業記録集2』学事出版、一九九二年)といった、環境教育の授業づくりに関わった。
これらの授業について、私たちは次のように述べていた(「環境教育のめざすべきもの」『環境教育授業記録集1』)。
┌───────────────────┐
│「環境問題はジレンマなのだ」という認識を│
│子どもが持つこと、これが環境教育の目的で│
│あると我々は主張したい。 │
└───────────────────┘
「ジレンマ」とは、二つの選択肢のどちらをとっても困った状態になるような事態である。「フロンガスのジレンマ」の授業では、フロンガスの使用を続ければオゾン層が破壊され、フロンガスの使用をやめれば生活が不便になるという「ジレンマ」を扱った。
私たちには、「フロンガスはよくないから使うのをやめましょう」「リサイクルを進めましょう」というように結論づけて落ち着いてしまうような授業への批判があった。環境問題はそう単純ではない。
たとえばリサイクルについては、本号にも執筆されている槌田敦氏が、次のように述べている(「科学技術への幻想と環境問題」『環境教育授業記録集1』)。
┌───────────────────┐
│ たとえば、再生紙リサイクルを考える。こ│
│こでは、使い古しの紙を業者に渡すとトイレ│
│ットペーパーが返ってくるから、資源を循環│
│的に使用し、森林資源を守っているかのよう│
│な錯覚が生ずることになる。 │
│ しかし、このリサイクルと呼ばれる工程で│
│は回収業者の向こうに現代工場が存在する。│
│そこでは大量の石油と水と化学薬品が消費さ│
│れ、その廃物が大量に廃棄されている。けっ│
│して、リサイクルではないのである。 │
│ 〔中略〕そして、最近まで隠されてきたが、│
│この工程では高濃度のダイオキシンが放出さ│
│れている。 │
└───────────────────┘
また、紙のリサイクルは、古紙価格の下落を招き、回収業者を苦境に追い込み、古紙を余らせるという結果をもたらしているという指摘もある(槌田敦『エコロジー神話の功罪』ほたる出版)。「リサイクルを進めましょう」などという結論に導くような環境教育は安易すぎる。紙の大量消費が続く限り、大量の紙資源をそのまま捨てるか、リサイクルで石油と水と化学薬品の大量消費及び有害物質の排出を行うかという「ジレンマ」は消えないのである。
もちろん、環境に関わる問題について、「本当にジレンマなのか」「他の選択肢はないのか」と問う姿勢は必要である。現に、フロンの問題は、それまでのフロンを全廃して他の物質(代替フロン)に切り替えるという形で、とりあえずの解決がなされている。だが、代替フロンにも地球温暖化への影響が指摘されているように、一つの問題が「ジレンマ」でなくなっても次の「ジレンマ」が現れてくる。環境問題を「ジレンマ」として捉えることは重要である。
2 リサイクルから「サイクル」へ
ここ数年、「教育技術の法則化運動」では、向山洋一氏を中心として、環境教育への取り組みが盛んだ。向山氏は次のように言う(『EMサイクル図の授業』明治図書、一九九六年)。
┌───────────────────┐
│ 日本で行われたすべての「環境の授業」は、│
│「環境問題に対する甘い認識」と「バラ色の│
│解決」で終わった授業である。 │
│ 「リサイクル」で終了する授業がほとんど│
│だが「リサイクル」で環境問題は解決しない。│
│そんな甘い問題ではないのだ。 │
└───────────────────┘
向山氏は私たちの「フロンガスのジレンマ」などの授業をご存知ないようだが、それはともかく、「『リサイクル』で環境問題は解決しない」という認識には大賛成だ。
向山氏が小学校5年生のクラスで行った環境教育の授業を見よう。
向山氏は、本来あるべき「サイクル」を、「サイクル図」で表現し、その中でどこが切れている(「プッツンしている」)かを子どもに問う。そして、ゴミが自然に戻っていないことや、自然から資源を取り出すことに限界があることを確認していく。(『EMを学び、教える』サンマーク出版、一九九六年、及び、前掲書)
ここで、「サイクル」という考え方は重要だ。紙のリサイクルのように、廃棄物を加工して再資源化するという方法では、環境問題の解決にはつながらない。これに対して、廃棄物を自然に戻すという「サイクル」が行われれば、廃棄物がいくらあっても問題は生じない。槌田敦氏も、自然の循環によって処理されるのであれば、廃棄物をいくら捨てても「廃棄することは別に問題ではない」と述べている。(槌田敦『エコロジー神話の功罪』)。
4 「EM」で語る「明るい未来」
向山氏は続けて、環境問題について、「どうやったら解決できるか、まわりの人と話し合ってごらんなさい」と言い、子どもたちに解決策を考えさせる。そして、簡単には解決しないということを確認する。
そして、向山氏は、「EM」を紹介する。「EM」とは、「有用微生物群」(Effective Micro-organisms)を意味し、琉球大学の比嘉照夫氏が開発したものだ。向山氏は、微生物であるEMが、廃棄物を分解して自然に戻してくれるということ、EMを植物にかけると収穫が劇的に増えること、EMが浄化槽や川をきれいにしてくれることなどを紹介し、最後に次のように話して授業を終える(『EMサイクル図の授業』)。
┌───────────────────┐
│日本で作られたこの方法は、先生は、ノーベ│
│ル賞級のものだと思います。そういった解決│
│方法もあるのだということを、みんなに伝え│
│たかったのです。〔以下略〕 │
└───────────────────┘
向山氏は、この「EM」を用いた環境教育について、次のように言う(『EMを学び、教える』)。
┌───────────────────┐
│ EMによって、子どもたちに明るい未来を│
│語ることが可能になったのです。 │
│ 当然、「環境教育」は一変します。子ども│
│たちに、現在の困難な状況を知らせ、解決の│
│方向を示し、明るい未来を語ることが可能と│
│なったのです。教師は(そして、すべてのお│
│となたちは)、このことをすべての子どもた│
│ちに語るべきです。 │
└───────────────────┘
この「明るい未来を語る」という言葉は、暗くしかできなかった環境教育に文字通り光明を与えているような印象を与える。そして、この考え方は、私たちの「ジレンマ」を中心とした授業への批判とも考えられる。「ジレンマ」を強調して解決策がないというのでは、何の希望もないではないか、と。
4 「EM環境教育」への批判
だが、向山氏のこの「EM環境教育」に対しては、私から逆にいくつかの批判をしなくてはならない。
第一に、「EM」自体の信頼性について。
ノンフィクション作家の斎藤貴男氏によると、「EM」について、比嘉氏の主張の「非科学性・非論理性」が、日本土壌肥料学会所属の農学者たちによって批判されている(『カルト資本主義』文藝春秋)。比嘉氏は「他の研究者が追試できるよう明示した論文」を学術雑誌に発表するようなことをしておらず、比嘉氏の報告は「EM」の効果を証明するものではないというのである。また、「EM」による生ゴミリサイクルから撤退する自治体もあるという。
もちろん、今後の研究によって「EM」の効果が立証される可能性はあるのかもしれない。しかし、現に批判がなされているものを無批判に紹介し、「明るい未来」を語ってしまうというのは、行き過ぎである。
第二に、環境問題の扱い方について。
仮に「EM」には全く害がなく効果が絶大だということが示されたとしよう。しかし、環境問題を考える際には、「全く害がなく効果が絶大」とされるものに対しても警戒が必要だ。
フロンの問題を思い出そう。フロンは、「全く害がなく効果が絶大」な「夢の物質」として発明された。ところが、使用開始から数十年たってはじめて、オゾン層の破壊という全く予想できなかった問題を引き起こしていることがわかった。「EM」は微生物であって人工物でないから問題はないはずと考えたくなるかもしれないが、微生物を人為的に利用しようとしたときに私たちが予想できないような問題が生じないとは言い切れない。環境教育では、「全く害がなく効果が絶大」であっても簡単に信じてはならないということをむしろ学ばせるべきだ。
さらに、「EM」によって生ゴミを堆肥化するためには、手間も費用もかかり、ゴミを出し続けるか、手間や費用をかけるか、という「ジレンマ」が残るということも意識されるべきだ。
第三に、授業方法について。
向山氏の授業は、子どもたちに環境問題の難しさを痛感させたところで、「EM」による希望を示す。子どもたちは暗い気持ちから明るい気持ちへと急激に心を動かしたであろう。
だが、急激に心を動かすのは危険だ。重大な問題であるのに、慎重な検討がなされない。たとえば、プラスチックや水銀なども「EM」は分解してくれるのか、資源枯渇の問題は「EM」によって解決されるのか、森林破壊はどうかというように、「EM」があるから環境問題は解決するなどと簡単には言えないはずである。しかし、子どもたちはこうしたことに気づけない。
慎重な検討なしに急激に心を動かすような授業はまずい。かつて、向山学級の子どもは、斎藤喜博の「出口」の授業を評して、次のように言っていたではないか(向山洋一『すぐれた授業への疑い』明治図書、一九八二年、東ようこさんの文章)。
┌───────────────────┐
│先生のいうことが正しいと断定するならば、│
│ありとあらゆる自分の考えを先生の言ったこ│
│とと比べ検討したときにできるのだと思う。│
│私たちのクラスでは、そうである。 │
└───────────────────┘
〈金城学院大学〉
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