ihayato.書店店長、今日はのんびり「遊び」と「仕事」について考えてみます。
「本気」と「遊び」という対立軸
相変わらず為末さんがすばらしいツイートを投稿しています。まずはこちらをお読みください。
スポーツの語源はデポルターレと言われている。それは何かを表現、発散するという意味。歌を歌う事も当時はデポルターレだった。日本のスポーツの定義はあまりに狭義に押込められていて、多くの人がいうスポーツはチャンピオンスポーツという、ほんの一部の事をさしている。
— 為末 大さん (@daijapan) 2013年2月4日
だから語源からしてスポーツは遊びから派生している。僕が初めて五輪に行ったとき、これは壮大な遊びの祭典、見せ付けの祭典だと思った。4年間の自分の努力の成果を見せ付ける日。僕のおばあちゃんが俳句を練習して発表する日。根本でその二つには何の違いも無い。
— 為末 大さん (@daijapan) 2013年2月4日
【終わり】本気と遊びという対立軸で育てられた人は、本気で遊ぶという子供には当たり前の世界がわからない。夢中で公園で遊んでいたら一人また一人と友達がいなくなりそれでも続けていたら日が暮れて母親がもう家に帰るよと呼びにくる。僕の25年の現役生活はそういう感じだった。
— 為末 大さん (@daijapan) 2013年2月4日
為末さんの感覚では、スポーツは「本気の遊び」だったということですね。
あえて引用はしませんが、注意深く彼へのmentionを見ていると、どうも「遊び」ということばに不埒さというか、不純なものを感じている人が少なくないことにも気付かされます。「プロのスポーツ選手が遊びとはなんだ!そんな不真面目な態度でいいのか!」みたいな怒りです。
為末さんになぞらえるのも恐縮な話ですが、ぼくもまた、自分の仕事は「遊び」だと考えています。
ぼくが仕事として行っている、コンサルティングも、NPOの支援も、こうして文章を書くことも、究極的には「遊び」です。たとえば、この文章を書いているのは午後9時なんですが、楽しいからこうして書いているわけです。ぼくは土日問わず仕事をしていますが、それは「遊び」だから、楽しく取り組めているのです。
こういうことを言うとやっぱり、「仕事が遊びだなんてけしからん!」と叫ぶおじさんが出てくるのでしょう。特に「コンサルティングが遊びだ」なんていうと、広告業界のおじさんたちが怒り狂いそうですね。
が、ぼくはどう考えても「遊び」としてやっているので、残念ながらこれからも「遊び」としてこれらの仕事に取り組み、金銭的な対価を得ていこうと考えています。
「仕事と遊びは両立しない」=工場労働時代の考え方
そもそも、仕事と遊びが両立しないという考え方が、前時代的なのです。「モダンタイムス」のような、「上から言われたことをこなすだけ」の工場型の労働においては、たしかに仕事と遊びは反対語の関係にあったでしょう。20世紀前半の仕事です。
ですが、これからの時代に必要なのは、創造性に富んだ仕事です。ゼロから何かを生み出したり、たくさんの情報や人材を「編集」し、新しい価値を生み出す仕事です。
言われたことをただこなしているだけでは、代替可能な人材にしかなりえません。アーティストのような「代替不可能性」を、ぼくらはビジネスパーソンとして持つべきなのです。
そんな新しい時代の労働においては、創造力を発揮するために、「遊び」を仕事に取り込んでいく必要があるとぼくは考えます。
「好きこそ物の上手なれ」とはよく言ったものです。「仕事」を本気で楽しめる「遊び」に昇華することができれば、あれこれと試行錯誤し、失敗し、そしてじわじわと成長する、といったプロセスに、自分を入り浸らせることができるようになります。
遊びとは到底思うことができない「言われたことをこなすだけの仕事」においては、人は試行錯誤をする気にはなりません。挑戦をしないので、失敗を経験することがありません。それゆえ成長することはできず、結局「代替可能なコマ」のような人材に成り果ててしまいます。
仕事のなかに「遊び」を取り込むことに罪悪感を覚える人は、真に創造的な仕事をしたことがない人だと、ぼくは断定します。
創造性を大切にする人なら、仕事と遊びを相反するものとして捉えることはまずありません。
堂々と、自分は遊びとして仕事をしていると、言い張れるようになりましょう。「仕事」の反対語は「遊び」ではありません。「仕事」はむしろ、「遊び」に含まれるものです。こうした認識を持つことこそ、これからのビジネスパーソンに求められることだとぼくは思います。まぁ難しいのは事実なんですが…。
関連本。「ネットで好きを仕事にする」をテーマにした一冊。「好きこそものの上手なれ」の世界を実感できる本です。