(「偉人の名言」はその名の通り、偉人の名言をヒントにしたブログ記事シリーズです)
恩を与えた人が、相手から感謝されることさえも許さないとか、与えているときでも与えたことを忘れるほどであれば、その恩はどんなにか甘美であり、どんなにか貴重であろうか。(セネカ)
これ、名言です。ぼくはこのことばの意味を、身体的に理解できる人となら、とても仲良くなれそうな気がします。
恩を与えたことを忘れよう
生きていると、困っている誰かを採算度外視で助けることがあります。たとえば失職した友人に就職先の斡旋してあげるとか、有望な若者を弟子にして一人前まで育てあげるとか、ボランティア活動で地域の老人の手助けになったりとか、とか。
こうした行為自体は大変すばらしいものですが、ときに、この善意が双方にとって悪い結果を与えることがあります。それは、恩を与えた人間が、恩を与えたというそのことに、強く固執する場合です。
たとえば、「有望な若者を弟子にして一人前まで育てあげた」師匠は、弟子に対して無意識的に「恩を与えた」と感じるようになります。そして、苦労した分、「恩を与えた」ことを師匠は決して忘れません。師は生涯、「あいつは俺が育てた」という気分に浸りつづけるでしょう。
師が与えた「恩」は、成長して一人前になった弟子にとっては、そのまま「負い目」となります。すでに師が年老い、もう彼からは何も学ぶものがなくなったとしても、弟子は彼に尊敬の視線を注ぎつづけることが、暗黙的に求められます。
もし弟子が「今の自分があるのは、たしかに師匠のお陰だけど、最近の彼の傲慢さはかっこ悪いし、堪え難い」という気持ちを持ってしまい、それを嗅ぎ取られたが最後、師匠は「この恩知らずが!今のおまえがあるのは俺のお陰なんだぞ!」と怒り狂います。
師の言うことはたしかに一理あるものの、弟子は「今の彼」を尊敬することは、もうできなくなってしまいます。面と向かって否定することも、そっと距離を置くことも叶わず、弟子は師匠が死ぬまで、過去の恩に束縛されつづけることになるでしょう。一方で、師匠は死ぬまで「あいつは恩知らずなヤツだ」という怒りの炎をメラメラと燃やしつづけることになります。
恩を与えたことによって、恩の受け手と与え手がどちらも不幸になってしまう、というロミオもジュリエットもびっくりの、悲劇的な話です。
もちろんこれは誇張された物語ですが、みなさんもこの手のトラブルは経験したことがあるのではないでしょうか。
そこでセネカの至言に立ち返りましょう。
恩を与えた人が、相手から感謝されることさえも許さないとか、与えているときでも与えたことを忘れるほどであれば、その恩はどんなにか甘美であり、どんなにか貴重であろうか。(セネカ)
彼は恩を与えた人(師匠)が、相手(弟子)から「感謝されることを許さない」場合や、「恩を与えたことを忘れる」場合において、その恩は甘美で貴重なものになる、と言っているのですね。
こうしたケースでは、弟子は負い目を感じることもありませんし、師匠も「恩知らずだ!」と怒りを感じることもありません(そもそも恩を与えたことを忘れているので)。弟子はあくまで自発的に師匠に「恩返し」をして、師匠はその「意外な恩返し」に感謝する、というさわやかな関係性が生まれます。
ぼくは無償でNPO支援をしている関係で、たくさんの人に「恩」を与えている人間です。そんなわけで、ぼくは「恩を与えたこと」を積極的に忘れようとしていますし、なるべく感謝されないようにコミュニケーションを取るようにしています(「ぼくが好きでやっているだけなので、むしろこちらが感謝したいぐらいです」など)。
こうでもしないと、いずれぼくは、自分が与えた恩が原因で、不幸になってしまうのです。ぼくだけでなく、ぼくが目をかけたたくさんの人たちも、同じように不幸になってしまうでしょう。
さぁみなさん、これまでに与えた恩なんてものはさっさと忘れましょう。自分で自分を不幸に追い込むことはありません。「恩知らずに出会わない生き方」は、とても気持ちのよいものになると思いますよ。
その他の名言:「成功は人々を虚栄、自我主義、自己満足に陥れて台なしにしてしまう、という一般の考えは誤っている(サマセット・モーム)」