フリーランスになってそろそろ2年。昔から憧れていた「もの書き」というキャリアを絶賛邁進中です。まだまだ新人ですが、ここまで分かったことを書いてみます。
1. 高い解像度で世の中を見ること
もの書きという人種に求められる第一の資質は「解像度の高さ」です。
たまに驚かされるのですが、優れたもの書きと行動をともにすると、彼がいかに細かく、そして深く世界を見ているかに驚かされます。
たとえば散歩をしていたとき、老婆がハトにエサをあげている場面を見るとします。凡人クラスのもの書きは「のどかな風景だ…この街はいいなぁ」と感じるのがせいぜいですが、優れたもの書きは「老婆は化粧もせず、めかしこむこともなく、襤褸をまとって”生”の姿で世界に接し、鳩を相手に癒しを得ている。彼女は人生で得てきた様々なものを捨て、その漂泊した歴史の結果として、今わたしの目の前にいるのだ」なんてことをサラっと書けたりします。いや、例が悪いですね…ぼくが二流なので仕方ないです。
まぁ要するに、優れたもの書きは、同じモノを見て、人よりも多くのものを視認することができる、ということです。優れたもの書きは、あらゆる映像や体験をコンテンツ化できるのです。それは彼らの目の「解像度の高さ」によって実現されます。
解像度を鍛える方法は、まずわかりやすいのは世の中に対して疑問や好奇心を抱き、考えつづけることです。もう一つ大切なのは、膨大な知識のストックを持つこと。知識のストックがあれば、目の前の事象と自分が持つ知識のなかに「関連性」を見いだすことが可能になります。ぼくは本をたくさん読むようになってから、世界の見え方が多少変わりました。
2. 刺激を文章化する高速な回路
書きたいことを書くといっても、胸にたまっていたものをそのまま吐き出せばいいというものではありません。胸にたまっている混沌としたものが、しだいにある形を整えてくる。書こうとすることによって、より明確な形をおびてくる。あるいは書いているうちに、より明確な形をとる。それを待たねばなりません。思いが整い、言葉が整ってくる、という過程が大事です。
ジャーナリスト、辰濃氏の書籍より。彼が書いているように、文章は「思いが整い、言葉が整ってくる」という過程を経ないと出てこないものです。これをお読みのみなさんも、「よし、書こう!」と思い立ってたけど、なかなか文章にすることができない……という体験をしたことがあるかもしれません。
ぼくが見るかぎり、優れたもの書きというのは、この「書こう!→実際に書く」というプロセスの回し方が、異様に早い人たちです。「文章を書く」ということは基本的に苦労を伴うことですが、優れたもの書きは、まるで息を吐くように、文章をしたためることができます。
外界からの刺激をインプットし、それを文章というかたちでアウトプットするための「回路」が異様に発達している人種ともいえるでしょう。この回路の質の違いが、凡人と一流人の違いだとぼくは思っています。
回路を鍛えるためには、やっぱりトレーニングが大切です。作家の宇野千代は「文章を書けるようになる」ということについて、このように述べています。
書けるときに書き、書けないときには休むという言うのではない。書けない、と思うときにも、机の前に座るのだ。すると、ついさっきまで、今日は一字も書けない、と思ったはずなのに、ほんの少し、行く手が見えるような気がするから不思議である
毎日机に座って書いていれば、そのうち書けるようになる、というシンプルな話ですね。これはぼくの実感にも即しています。書けないからといって諦めてしまっては、いつまで経っても回路は育ちません。毎日トレーニングしないといけない、というのはスポーツ選手とかミュージシャンとも通じる話だと思います。
3. 割り切れないことを考え続ける繊細さ
優れたもの書きは、用意にものごとを割り切ろうとしません。次元の低いもの書きは、ほとんど無思考に、さまざまなことを断定して満足します。
そこには血が滲むような戦いはなく、ほとんど思い込みで断定します。深く考えずに、「死刑は廃止すべきではない」とか「子どもは親が育てるものだ」とか言っちゃう人たちです。世の中はそんなに簡単に割り切れないのにも関わらず。
一方で、「世の中は簡単に割り切れない」ことを知っている人のなかにも、「わかるわかる、世の中は複雑だよね」と、複雑なものを複雑として「諦め」、思考停止に陥る人もいます。これは言うまでもなく、もの書きとしては低次元でしょう。
本当に優れたもの書きは、世の中の割り切れなさに延々と向き合い、自分なりの答えを見つけつつも、断定的に語ってしまう自分に違和感を抱きつづける人たちだとぼくは考えています。
自分を優れたもの書きというわけではありませんが、たとえばぼくは「もの書きは読者に対して責任を取るべきなのか」という抽象的なテーマについて、ずっと考えつづけています。
今の答えは「責任なんか言い出したら文章なんて書いてられない。書き手が行う提言の妥当性については、読み手が判断することだ」というものですが、やっぱりどこか違和感がありますし、そう断定してしまう自分に嫌悪感を抱いています。
4. 下品なことをしているという自覚
最後に、もの書きは下品な商売であることの、自覚を持ちましょう。中島義道氏のことばはとても共感できます。
自分が傲慢に下品になることを恐れているあいだ、自分を他人を傷つけることを恐れているあいだは、もの書きにはなれない。もの書きとはあえて自覚的に傲慢と下品とを選びとった人々なのです。
ぼくは自分の文章はゲ○のようなものだと思っています。それでも、ぼくはピエロ的な側面があるので、やっぱり出してしまうのです。こんな商売、恥知らずじゃないとできません。どんだけ傲慢なんですか、と自分に対して突っ込みたい。でも書きたいから書いてしまうのです。露出狂と変わりません。
もの書きが崇高な仕事だと思い込んでいると、どこかで「無理」が出てくると思います。最初はそれでもいいですが、「一流」のフェーズになってからは、もうそういう妄想は通用しなくなるでしょう。神経を研ぎすませて文章を綴れば綴るほど、自分の傲慢さ、下品さに気づくことになるからです。
もうひとつおまけに、中島義道氏より。
とくに、出版するだけでも恥ずべきことなのに、さらにそれを鉦や太鼓で騒ぎ立てる人々の気持ちがわかりません。
いわゆる「出版記念パーティ」を開く人に対する罵倒なのですが、いやー、これホンッとに同感。ぼくは絶対できません。…とか書くと敵を増やしそうですね。あくまで「ぼくは気持ちがわからない」だけなので、罵倒しているわけではありませんよ。
というわけで、4つの資質について書いてみました。どうでしょうか。キャリア2年目にして気付いたことは、とりあえずこのくらいです。もの書きを続けていけば、また気付くことも増えていくでしょう。1年後あたりに、また同じテーマにチャレンジしてみたいと思います。
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