『インターナショナル・ビューポイント』のフェミニズム特集によせて
かけはし1998.4.6号

キャサリン・マッキノンの擁護

岡崎 等

はじめに

 キャサリン・マッキノンは、アメリカの著名なラディカル・フェミニストであり、1970年代にセクシュアル・ハラスメントを法的に規制する立役者となり、80年代以降はポルノグラフィの問題に取り組み、アメリカで最も論争の的になっている人である。
 その彼女が、1995年に来日し、各地で講演会を行なった。講演の一つを主催したのは日本の自由人権協会であり、その講演の一部は、本紙の95年11月20日号に「ポルノグラフィと表現の自由」という表題で掲載された。
 ところが、皮肉なことに、アメリカにおいて最も激しくマッキノンを攻撃しているのは、アメリカの自由人権協会なのである。とくにその会長であるナディン・ストローセンは『ポルノグラフィの擁護』という大部の著作を出版し、その中で、マッキノンとその同僚であるアンドレア・ドウォーキンを口汚くののしっている。
 ストローセンは、マッキノンとドウォーキンを縮めて「マック・ドウォーキン」と呼び(スターリニストがトロツキストのことを「トロ」と蔑称したように!)、両名を「言論の自由」の敵、保守派の走狗、反セックス十字軍、ヴィクトリア朝フェミニスト、等々として描きだしている。マッキノンとドウォーキンの理論や、また彼女らの起草した「反ポルノグラフィ公民権条例」をめぐって、これまでも無数の非難や中傷が出されてきたが、この著作はその集大成とも言うべきものである。
 だが驚くべきなのは、このひどい著作を天まで持ち上げる書評(筆者はキャシー・クローソンで、ソリダリティ・グループのメンバー)が、アメリカのラディカル派左翼の機関誌である『アゲンスト・ザ・カレント』に掲載され、あろうことか、『インターナショナル・ビューポイント』の最新号(98年3月号)に転載されていることである。
 『ビューポイント』編集部の基本的スタンスは、アメリカにおけるポルノ論争をさまざまな立場の人に論じてもらうというものであり、けっしてこの書評を推薦しているわけではない。マッキノンらと立場の近いダイアナ・ラッセルのインタビューも転載されている(なぜマッキノンやドウォーキンに直接インタビューしないのだろう)。しかしながら、特集冒頭のリードにおいて、編集部はマッキノンとドウォーキンを「検閲を支持」する立場として不正確に紹介しており、また、転載している三つの記事のうち、二つが明確にポルノ擁護派のものであり(注1)、全体として、反マッキノン派に与しているという印象をぬぐえない。

男性一般を敵視しているというウソ

 ストローセンの著作も、クローソンの書評も、マッキノンとドウォーキンに対するデマゴギーと誹謗中傷、侮蔑的非難に終始している。たとえば、クローソンは何度も何度もマッキノンらの立場を「反動的」と記述し、「哀れなアンドレアとキャサリン」とわざわざファーストネームで呼んで嘲笑し、「気違いじみた(rabid)」、「とち狂った(to madness)」と繰り返し差別用語を使って罵倒している(Cathy Crosson, The Sex censors, International Viewpoint, no.298, March 1998, pp.23-24)。
 クローソンらの論点は主に2つあって、一つは、マッキノンとドウォーキンの一般的な理論的立場を歪曲して攻撃するものであり、もう一つは、ポルノ規制を盛り込んだ彼女らの「反ポルノグラフィ公民権条例」が国家による検閲を要求するものであり、表現の自由を犯す反動的なものであるという批判である。
 まず第一の点に関して、ストローセンおよびクローソンは、マッキノンらが男性一般を敵視していると論難する。これは、マッキノンらに対しこれまでさんざん浴びせかけられた誹謗中傷の再現でしかない。しかも、その証明はきわめて杜撰である。たとえばクローソンはストローセンにならって次のように言う。
 「『オンリーワーズ』という著作の中でマッキノンは、男性を攻撃用の犬(attack dogs)に見立てており、男性をポルノグラフィにさらすことは『訓練された番犬に「殺せ」 と言うようなもの』だと論じている」(ibid., p.24)。
 『オンリーワーズ(単なる言葉)』は、『ポルノグラフィ――「平等権」と「表現の自由」の間で』という表題で明石書店から翻訳出版されている。クローソンが引用したのは、その翻訳書の29頁の部分だが、その部分を前後の文脈から切り離さずに素直に読むならば、この部分から「マッキノンが男性を攻撃用の犬に見立てている」という非難は出てこようもない。
 「女を犯せ! 縛れ! 切り刻め!」と絶えず扇動しているポルノグラフィを「表現の自由」の名のもとに擁護することができるとすれば、かつて60年代の公民権運動において、デモ中の黒人たちにドーベルマンをけしかけた白人警察官の「殺せ!」という言論を、「表現の自由」の名のもとに擁護することもできるのではないか、そのような言論は「単なる言葉」ではなく、明白な実践であり、行為である、というのが、この部分でマッキノンの言いたかったことである。男性一般を「攻撃用の犬」に見立てることなど、まったく論外である。
 一事が万事この調子である。文脈から一部の文章を切り離して引用し、そこに勝手な解釈を加え、相手の主張を歪め戯画化し、その上で相手を論難するという手法は、スターリニストをはじめとして多くの偽造学派たちが好んで用いた手法だが、ストローセンとクローソンのやっていることは、まさにそれである。
 そもそもマッキノンらが、生物学的な意味での男性一般を女性の敵として描くような立場に立っていないことは、彼女らの著作を偏見なしに読めばまったく明白である。それどころか、マッキノンは、男性を生まれながらに「女性の捕食者」として描きだしているスーザン・ブラウンミラーの立場を「生物学主義」として厳しく批判しているほどである(MacKinnon, Toward a Feminist Theory of the State, Harvard University Press, 1989, p.56)。
 だが、いずれにしても明らかなのは、隅々まで性差別が浸透している現代社会において、男性一般が性差別主義的イデオロギーや実践から完全に免れたり、とりわけセクシュアリティの性差別的歪みを経験しないですむということは絶対にありえない、ということである。その意味で、マッキノンらが「男性的なものの見方・行動・セクシュアリティ」を性差別的であるとして厳しく攻撃するとき、その非難は――この文章の筆者を含めて――99%以上の男性にあてはまる。

セックスとレイプを同一視したというウソ

 ストローセンとクローソンの好むもう一つのマッキノン攻撃は、マッキノンらが、セックスをレイプと同一視しているというものである。これは、アメリカの『プレイボーイ』と『ハスラー』が繰り返しマッキノンらに加えてきた中傷とまったく同じである。
 そして、その証明はまたしても杜撰である。一例を挙げておこう。クローソンは、いかにドウォーキンが性交そのものを否定していたかを証明しようとして、次のような文章をドウォーキンの『ポルノグラフィ』から引用している。
 「妊娠は、女が犯されたことを確証するものである。……妊娠は、女がセックスに参加したことへの罰である」。
 この引用文は、翻訳の『ポルノグラフィ』(青土社)の383〜384頁にある。この文章だけを見て読者はどう思うだろうか。明らかにドウォーキンが妊娠そのものを否定し、したがって性交そのものを否定しているまぎれもない証拠に見えるだろう。だが、この文章は、いわゆる「妊婦ポルノ」が描きだす妊娠像ないし妊婦像を指摘している文脈の中にある一文なのである。すなわち、妊婦ポルノを製作する者、あるいは、妊婦ポルノを見て興奮する男性にとっては、「妊娠は、女が犯されたことを確証するものである」という意味なのであり、「妊娠は、女がセックスに参加したことへの罰である」という文言もこの流れの中でのメタファにすぎない。またしても、一事が万事この調子である。
 ドウォーキンは『インターコース』の中で次のように書いている。
 「レイプと売春は、自由としてのセックス――十分に人間的である者が、十分に人間的な自由をもって選択する経験――を著しく妨げる制度とみなさなければならないだろう。強姦と売春は、女にとっての自己決定と選択を取り消すものである」(『インターコース』、青土社、247頁)。
 ドウォーキンにとってレイプとセックスがそもそも同じものなら、以上のような文言はまったく意味不明になるだろう(注2)。
 またマッキノンは、異性間性交そのものを「女性の侵害(invasion)」であるとするレズビアン分離主義者の理論とその解決方法(男性との性交の拒否とレズビアニズム)を誤った「生物学的問題設定」の「生物学的解決」として厳しく退けている(Toward a Feminist Theory of the State, p.57)。
 だだはっきりしているのは、男女が構造的に不平等で、男性が支配的な地位にあるこの社会において、セックスのときだけ男女が完全に平等になれると考えるのはナンセンスだ、ということである。この苦い真実をマッキノンとドウォーキンはきわめて鮮烈な言葉で表現したために、セックス一般とレイプを同一視しているという非難を招くことになった。だが、マッキノンらが言ったのはせいぜいのところ、この性差別社会の中ではセックスとレイプとは連続しており、両者の間に万里の長城はないということだけである。だがこのことと、セックスはすべてレイプである、という命題とは同じではない。
 マッキノンは言う。「セックスはすべてレイプであると私……が言ったという主張は、政治的中傷であり、事実の歪曲である。……私たちが実際に言ったのは、性的なもの(セクシュアリティ)がジェンダーの不平等という文脈の中で起きているということだけである。そして、この事実は、いかなる憎悪扇動家たちでさえいまだ反駁しようとしたことはない」(MacKinnon, Pornography Left and Right, Harvard Civil Rithts-Civil Liberties Law Review, vol.30, no.1, 1995, pp.144-145)。

国家による検閲を主張したというウソ

 ストローセンとクローソンがとくに怒りを露わに糾弾しているのは、第二の論点、すなわちマッキノンとドウォーキンが起草した「反ポルノ公民権条例」である。
 マッキノンらは、あからさまに人種差別的な言論を大っぴらにメディアや公的場面で宣伝することが規制されているように、ポルノグラフィを通じたあからさまに性差別的な扇動を法的に規制する道を探った。
 ことが「表現」にかかわるだけに、マッキノンらは慎重に条例案を練り、国家権力が主導権をとる刑法としてではなく、ポルノによって直接被害を受けた女性が主導権をとれるように、民事訴訟を可能にする公民権法として起草した。さらに、その法案において、ポルノグラフィを「性表現一般」や「わいせつ」としてではなく、「文章や写真や映像を通じて、性的にあからさまな形で女性を従属させる[貶める]表現物」として具体的に規定し、かつそれに該当する内容を具体的に列挙した。
 しかしながら、この条例案は、「表現に対する国家権力の検閲」を要求するものだと歪められ、反対派たちはマッキノンらに「検閲派フェミニスト」というレッテルを貼って、反対の大キャンペーンを展開した。しかしながら、この条例案が「検閲」を要求するものでも、あるいはそれを招くものでもないことは、よく読めば明白である。
 マッキノンを「検閲派」として糾弾する人々の論理は、結局のところ、ブルジョア・リベラリズムの論理である。この社会で最も悪いのは、資本の権力でもなければ、男性至上主義の権力でも、人種差別主義の権力でもなく、国家の権力であり、この権力からさえ自分たちの「表現」が守られれば、「表現の自由」は安泰であるというのが、こういう人々の根底にある発想である。
 それに対してマッキノンは言う。ポルノグラフィが、「女性は強姦され、縛られ、殺されることを実は望んでおり、その中で真の快感を覚えるのだ」と、毎日のように大量宣伝し、その通りに女性を扱うよう男性を扇動しているこの社会の中で、女性の「言論の自由」がいったいどこにあるのか。「私は強姦されたくないし、強姦になど快感を覚えない」と語る女性の言論が、ポルノグラフィのせいで社会的に信じられなくなっている状況のもとで、どうして女性にそもそも「自由」や「自己決定」が存在するのか。
 このマッキノンの主張は深く真実であり、まともな左翼なら絶対に否定できないはずである。

マッキノンとドウォーキンの擁護

 マッキノンとドウォーキンは、フェミニズムに新しい地平を切り開いた。彼女らは、60年代の黒人解放運動においてマルコムXが果たしたのと同じ役割を、80〜90年代のフェミニズム運動において果たしている。マルコムXも当時、「憎悪扇動者」、「白人を敵視する危険人物」、「黒人解放運動を混乱に陥れる反動家」などと、主流のリベラル派公民権運動家と階級還元主義的マルクス主義者の双方からののしられた。
 その時、アメリカ社会主義労働者党(当時は第四インターナショナル・アメリカ支部)とその中心的理論家であったジョージ・ブレイトマンは敢然とマルコムXを擁護し、かくして、アメリカのラディカル左翼の中で真に名誉ある地位を確保した。メッカに行く前のマルコムXが「白人はすべて悪魔である」と言い切っていたにもかかわらず、である。
 一方、「男はすべてレイプ魔である」と言ったわけでも書いたわけでもないマッキノンとドウォーキンは、マルコムX以上の非難と中傷を浴び、彼女らを敢然と擁護するマルクス主義者はどこにもいない。それどころか、『アゲンスト・ザ・カレント』は反マッキノン派の誹謗中傷をそのまま繰り返す書評を無批判に掲載する始末である。
 マッキノンとドウォーキンに対する八〇年代半ば以降の猛烈な攻撃は、実際にはバックラッシュの一環であり、社会の右傾化の一表現である。ラディカル派左翼がその攻撃に加担したことは、その名誉を徹底的に失墜させる行為である。はたして九〇年代のトロツキストは、左翼の名誉を救い、マッキノンとドウォーキンのような真に革命的なラディカル・フェミニストの信頼を勝ち取ることができるだろうか。
1998年3月22日
(注1)典型的にリベラル・フェミニズムの立場になったクローソンの書評と、もう一つは「社会主義」フェミニズムの立場からするポルノ擁護論(ナンシー・ヘルツィヒとラファエル・ベルナベ)である。後者に対する詳しい批判は、紙幅の制限上、割愛させていただく。
(注2)ナンシー・ヘルツィヒも、このポルノ特集の前に掲載されているもう一つの論文において、あたかもドウォーキンが『インターコース』の中で、「男女間におけるすべての性的交わりは事実上レイプであると結論づけている」(Nancy Herzig, The New Orthodoxy: Women and Sex, International Viewpoint, ibid., p.18)かのように書いているが、その証拠を何一つ提示していない。