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著名な柔道家インタビュー
園田隆二氏 全日本柔道女子ナショナルチーム監督インタビューその1
グランドスラム・東京2009で、好調な結果を残した日本女子。
2008年11月、日蔭監督から引き継ぎ、選手とのコミュニケーションを大事にしてきた若き監督・園田氏に、選手のことや、ロンドンオリンピックに向けての対策などをお伺いしました。
まずは勝つプラスαで一本を取れる柔道
自分がポイントを持って有利な場合は、必ず出てくる相手に対して、守りながらしっかり組みとめて、相手が無理してかけてきたところを狙えばいいんです。
だから、守ろうということに固執し過ぎると試合の流れが変わってしまう。「技ありが取れたら、あと半分」、「有効を取っていたら、次に一本取ろう」と、流れが自分にきていると思えば、下がらず、受けて投げる。相手が出てきたら、自分が投げるチャンスが増えると考えるべき。
それなのに、セイフティに逃げようとするから、流れも変わってしまう。だから、前に出なさいと言っています。「前に出ていく」とは、気持ちの持ちようだけの、ちょっとしたことです。もちろん、行き過ぎてもいけない場合もある。その兼ね合いは、やはり格闘技のポイントだと思う。
また、選手自身には、もっと自分に自信を持ってってもらいたい。
女子にはトップレベルの選手がいます。それだけに、どの試合にも100%の力を出す必要がある。それが評価にもなり、代表の選出に繋がります。負けたとしても評価できる内容の試合もあるので、選手たちはそれぞれに持っている力を出せばいい。
そこを逃げて有効を取るだけの勝ち方をしても、決して評価はしません。逃げて勝てる試合もあるかもしれないが、オリンピックや世界選手権では通用しない。大きな舞台になればなる程、プレッシャーがかかるからこそ、逃げるな!下がるな!気持ちの面を強くしてほしい。
究極論は一本を取りにいく柔道が理想です。だけど、段階的に技術も力もない状態で、一本ばかり狙ってもだめ。一本を取りにいって、一本で負ける試合ではだめなんです。まずは勝つ、プラスαで一本を取りに行く柔道を目指して、さらに頑張ります。
尚武館で過ごした小中学時代
柔道との出会いは、小学一年生のときの近所の友達が習い始めたのがきっかけです。いつものように遊んでいたら、夕方になって、「柔道に行くから」と言ったので、「じゃ、おれも」と、遊びの延長のような気持ちで尚武館に行ったのが最初です。
小学校時代は楽しさも感じつつも、稽古は厳しいし、野球とか別のこともやりたくなったりして、止めたいと言ったこともありましたね。でも、道場の人が怖くて止められなくて…。
中学生以降は止めたいと思ったことは一度もないですね。入学した中学校には柔道部がなかったのですが、中体連(中学体育連盟)主催の大会に出場させてもらうため、学校に名前だけ柔道部を設置して頂きました。相変わらず稽古は道場でしたが、試合には、顧問の先生や体育の先生に付き添って頂きました。
恩師との充実した高校時代とショックを受けた大学時代
柳川高校での一番の思い出は、やはり恩師・河野(満男)先生との直接稽古です。当時は先生自身も練習をされていたので、多くの相手と4分×10本の乱取り稽古(元立ち稽古)を2セット行ない、そのうちの1セットは河野先生とずっと40分間練習させて頂きました。
毎日大きな相手と組めるうえに、稽古量も多かった分、この間に力も付きましたし、体もできましたね。入学時に58kgの体が2年生のインターハイ出場時には68kgになっていた程です。
明治大学での柔道には、初めかなりショックを受けました。そこそこに強いと思う選手がいた高校時代とは打って変わって、大学では、周りのみんなが強過ぎて誰と組んでも敵わない。練習量も質も厳しさも、「これは持たない。やっていけるのか?」と思いました。そんな環境だっただけに、自分が一番成長した時期だと実感できますね。
「世界の一番を目指す柔道」が信条
柔道で一番嬉しいことと言えば、なんといっても「勝つ」ことです。表彰台の一番上で日の丸を聞くことの快感は、大学二年で世界チャンピオン(1993年カナダ世界柔道選手権大会)になったときに実感しましたが、やはり最高の瞬間ですね。そこまでの道はものすごくキツいけど、達成感が一番得られる瞬間です。もう一度その場に立ちたい。その快感を味わいたいと思う。だから、どの選手も現役であり続けたいのだと思います。
オリンピック(1996年アトランタ)で一区切りだと思っていて、その後は1階級上げようと思っていました。減量はキツかったですね。もう少し時間をかけて落とすべきですが、自分の性格上、試合前には飲まず食わずの方法で落としていました。今思えば長く続かないやり方だと、そこは自分で反省する点ですね。
ただ、減量失敗は一度もないです。体重を落とせないってことは、舞台に立てないことだから、どんなことがあっても計量オーバーはありませんでした。
23歳のとき、全日本選抜柔道体重別選手権大会で、野村(忠宏)に負け、オリンピックに出られなかった翌年、65kg級に転向しました。そこには、同じ九州の中村行成(ゆきまさ)がいて、彼には子供時代から一回も勝てなかったんです。今のように代表2名がオリンピックに出られるのであれば、もしかしたら続けたかもしれないとも思うこともありました。
けれど、自分の中で「柔道は一番じゃないと意味がない」「世界の一番を目指すのが柔道だ」と思っていました。だから、負け続けているようでは駄目だと。自分の限界を知るのは自分自身でしょうし、自分にけじめを付けたいと思い、引退を決めました。良く言えば「潔い」、悪く言えば「弱かった」のです。
一番残念なことは、やはりオリンピックに出られなかったこと。その悔しい思いと、表彰台の上で味わう晴れがましい気持ち。どちらの経験も監督業に活かしていきたいです。
※2010年1月現在