科学と疑似科学の境界線は恣意的である。

 ニセ科学批判クラスタのサブリーダーである、なとろむ氏が早川教授と議論しているのを見つけた。しきりに、なとろむ氏は、ニセ科学批判批判者である私の議論を薄っぺらいと批判している。
  http://togetter.com/li/69786
  http://togetter.com/li/77766
 しかし、ニセ科学批判の本質が科学主義を利用した通俗道徳主義であるという私の分析は、いまや多くのニセ科学批判批判者たちが共有している認識であり、社会学的にも正しいと考えられる。社会運動論的には、菊池派のニセ科学批判は科学主義と通俗道徳という二重構造をもつことで、議論に負けない正論となっており、その正論にのっかりたがるネット論客たちが菊池氏のもとに参集し、現在のニセ科学批判クラスタが生成した。正論に安住してネット議論できるニセ科学批判という思想は、ネット議論好きの人たちが寄生するネット思想として急速に流布していき、彼らの自尊心の拠り所となった。ここまでの分析は、普通の社会学者なら誰でもわかる部分である。
 そしてさらに「ニセ科学批判」とか「ニセ科学批判批判」という言葉が多くのブロガーにコミュニケートされ、これらの言葉に多くの意味が付与されるようになり、ニセ科学批判議論は一つの確立したジャンルを形成してきた。このような思想伝達のコミュニケーション過程を分析するのが社会学の役目である。ニセ科学批判者たちが自分たちと反発する論者と議論することにより、第三者=世間の観察に晒され、好むと好まざるに関係なく、ニセ科学批判の一定の社会的なイメージが構築されていくわけである。私はニセ科学批判について自己のブログで言明することで、このような社会的過程を促進させたと思っている。
 多くの人たちにコミュニケートされて出来上がったニセ科学批判という言葉にまつわる意味や価値を受容できない者はニセ科学批判から卒業していった。それがTAKESAN氏である。同氏は、ニセ科学批判がコミュニケートされる社会過程が自分たちの意図せざる方向に暴走する恐ろしさを嗅ぎ取り、ニセ科学批判という言葉から距離をとったと思われる。
 また、ちなみにニセ科学批判クラスタが平川氏のSTSに噛み付く現象も興味深い。STSにはニセ科学批判クラスタたちを脅かす要素が隠されていると見ている。

 さて、なとろむ氏は科学と疑似科学の境界線について以下のように疑問を呈している。
   http://twitpic.com/3egpj3
 ここでは、グレーゾーン論の例として、白と黒の明度のスペクトラムが取り上げられている。結論からというと、限定付きで線引きは可能である。まず、任意の二つの明度の比較は可能だと考えられる。異なる明度Aと別の異なる明度Bを比較し、どらちが黒に近いか比較することができ、その中間点に線引きすれば分けることができる。比較できるということは、比較するための判断基準があるからである。それは光の反射量である。光の反射量という連続性尺度が隠蔽されているのである。科学と疑似科学が連続的であっとしても、比較する判断基準が必ず隠されているのであり、任意の二つの点を比較することで区別可能となる。
 さらに、実は、ニセ科学批判者が採用するグレーゾーン論は、より科学的かどうかを比較する判断基準そのものが論者によって異なり、曖昧であるという事実を隠蔽する手段である。逆にいうと、曖昧な量的な思考で科学と疑似科学を分けているだけであり、はなから質的な二分法で分けるという発想を理由なく排除している。ニセ科学批判者は、科学であるかどうかの問題について、量の問題として捉え、質の問題として捉えることを避けているのである。例えば、どこまでが明るくてどこまでが暗いのか、どこまでが寒くてどこまでが暑いのかという量の問題は、それを判断する主観に委ねられる。同じく、科学であるかどうかを量の問題として捉えると、どこまでが科学でどこまでが科学でないかは、それを判断する主観に委ねられる。科学を量の問題として捉える限り、科学と疑似科学の境界線は、ニセ科学批判者の主観すなわち恣意性に委ねられることになるのである。そして、自分たちの恣意的な判断を客観に見せかけて、非難対象にレッテルを貼るのがニセ科学批判者の常套手口である。
 そもそも、ある現象に対して、観察道具として連続性尺度を採用するか、質的二分法を採用するかは、観察者の全くの恣意的な事柄である。ニセ科学批判者は、科学という知識に対して、連続性尺度を適用する必然性があるかのように装っているわけである。連続性尺度の場合、任意の点を基準にして、白黒の区別をつけることになる。つまり、任意の基準点は、判断者の恣意性や価値観に委ねられることになる。ニセ科学批判者による科学と疑似科学の区別は、恣意性や価値判断が混入しているので要注意である。恣意性に科学という名前を使うことで正当性があるように見せかけているのである。
 ニセ科学批判者は、科学とは何にかという本質的問題から逃避し、非難対象にニセ科学のレッテルを貼ることで我こそは正当科学だと自己満足しているのである。

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by merca | 2012-02-25 09:58 | ニセ科学批判批判 | Trackback | Comments(0)
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