「希死念慮」
初めにお断りしておきます。
精神状態に関する「重い」話が苦手だったり不快に感じたりする方、あるいはこの手の話を読むことによって御自身の精神状態が悪い方向に引きずられる危険性のある方は、ここで回れ右して以下の文章をお読みにならないで下さい。
お読みになって気持ちが重くなったり御自身の精神状態が悪化したとしても僕には責任を取ることができませんので御了承願います。
また、この文章は僕の個人的な気持ちを吐き出すことを目的としていますので、「共感」や「励まし」の類をお寄せいただいても僕にとっては全く意味や価値が無く、ましてや「甘ったれるな!」といった御批判や「死ぬ気でやれば何でも出来る!」みたいな精神論を振りかざされるのは不愉快で鬱陶しいだけですので、誠に勝手ながらコメントを受け付けない設定にさせていただきます。
当然、他のエントリにこの文章に対するコメントをお寄せいただくのも御遠慮願います(申し訳ありませんが削除させていただきます)。
…ということをくどいくらい念押ししてから本題に入ります。
実家の古いアルバムの中にあるこの写真↓を見るたびに不思議と涙が出てきます。
(少しぼかしを入れて不鮮明に加工してあります…無意味かもしれませんけれども)
なんて愛くるしい子だ…という自画自賛はとりあえず措くとして、この写真のこの表情を見るたびに「無邪気」という言葉が頭に浮かびます。
当時の僕を知る人からは異口同音に「天真爛漫で明るく朗らかな子だった」と言われます。
…それがどうしてこうなっちゃったかなぁ。
おそらくこの写真の頃は余計なことをあれこれ考えず「本気で泣いて」「本気で笑って」さえいればそれで十分だったのでしょう。
「本気で悩んで」とか「本気で生きて」みたいなことはこれっぽっちも考えずに済んでいたのだと思います。
幸せだったんだろうなぁ…と、両親や祖父母も文字通り「目に入れても痛くない」とばかりに可愛がって愛情を注いで育ててくれたんだろうなぁ…と、当時の状況を思い浮かべる(想像する)だけでなんだか無性に泣けてくるのです。
話せば長くなりますけれども、まぁいろいろあって物心が付く頃から徐々に性格や言動が変貌を遂げて現在に至るわけでして。
それでも根っこの部分は今でも「天真爛漫」「明るい」「朗らか」という言葉が当てはまる人間であるはずなんですけれども、経験やら知識やらその他諸々を吸収していくうちにさまざまな「捻じれ」が生じて、気が付いた時には手遅れになっていた…という残念な経緯を経て現在に至ります。
その最大の問題が「希死念慮」です。
もうずいぶん長いことこの縁起でもない言葉が僕にまとわりついています。
漠然とこういうことを考えるようになったのは中学に入って間もない頃でした。
具体的な根拠があったわけではありませんが、中・高・大と一貫して「オレは30歳までには死にたい」と思い続けてきました。
より正確に言うと「死にたい」というより「この世から消えたい(いなくなりたい)」という気持ちでした。
自分で言うのは気が引けますが(決して自慢ではなくあくまでも事実として書きます)、いわゆる東京六大学のひとつに含まれる大学を卒業して、おそらく(というか確実に)知らない人はいない大企業に就職しました。
家族を含め周囲から見たら順風満帆で前途洋々の幸せな人生を歩んでいるように思われていたはずです。
しかし、僕自身は常に「オレは30歳までには死にたい」と思い続けていました。
今にして思えばその原因はいくつかあって、それらが複雑に絡み合って積み重なって、年齢を重ねるに伴って徐々に修復不能な状態になってしまったわけです。
これだけのことを書いておいてその原因を伏せる(隠す)のも無意味な気がするので敢えて書くことにします。
- 同性愛
小学生の頃は「性」や「恋愛」などの問題に無頓着でしたが、中学生になりいわゆる思春期(第二次性徴)を迎えた頃から「自分は周囲の男子と感覚や考え方が違うのではないか…」という意識が芽生えました。思春期の男子にありがちな「女性アイドルの誰がタイプ(好み)か」みたいな会話や、クラスの女子の「品評会」(“胸”がどうとか…というアレです)に全くついていけないことに違和感と不安を覚えたからです。
そして、決定的だったのが、クラスのある男子に「恋心」を抱き、体育の授業でその男子が着替えている姿を見てドキドキしたことでした。今でこそ同性愛や性同一性障害に関する正しい情報と認識がある程度普及していますが(それでもやはりこれらの問題で悩みを抱える青少年がいるわけですけれども)、当時はこの手の情報に接する機会が全くなく、したがって知識もなく、ただただ「自分は異常なんだ…」という気持ちばかりが増していきました。
誰にも相談することができずひとりで悩み続け、家族に打ち明けることなど思いも寄らず(その後、社会人になってから母と妹には伝えましたが、母からはあからさまな「拒絶反応」を示されたため、以後この話をすることは避けています)、「バレたら人生の終わりだ…」とまで思い詰めていました。余計な詮索をされるのが嫌で男子の会話に加わることを避けるようになり、そのため腹を割ってなんでも話せる親しい友達ができることもなく、とにかく卒業までうまく取り繕うことだけを考えて表面的な付き合いしかしませんでした。
これは高校と大学でも同様で、恥ずかしながら中・高・大を通じて「親友」と呼べる存在はひとりもできませんでした。卒業したらそれっきり、同窓会に参加したことは一度もありません。当然、中学時代からの友人、高校時代からの友人、大学時代からの友人、という存在もひとりもいません。
- 不定愁訴
僕は中・高・大の頃によく原因不明の息苦しさを感じたり、首からこめかみにかけての筋肉が締め付けられるように強張ったりすることがありました。そのたびに掛かり付けの内科を受診しましたが、いつも「風邪だね」とか「扁桃腺がちょっと腫れてるね」という診断で済まされていました。
現在の主治医曰く今なら間違いなく精神科や心療内科の受診を勧められるべき症状(いわゆる心因性の「不定愁訴」)だそうです。つまり、僕は10代の頃から精神状態に何らかの問題を抱え、それが折々に「不定愁訴」となって現れていたわけです。現に今は抗鬱剤その他の薬を服用しているためこの種の「不定愁訴」はほとんど生じなくなりました。
当時はまだ心因性の症状に対する認識が医師の間でさえも確立されていなかったとのことで、掛かり付けの医師が「風邪」などと誤診したことを責めるつもりはありません。また、昨今の猫も杓子も何らかの精神疾患の病名を付けて患者を「増やす」ことに対して、主治医と僕の考えは懐疑的であるという点で一致しています。病名を増やすばかりでかえって本質を見失っているのではないか、患者側も何らかの病名を「与えられる」ことで安易に安心しているのではないか、などなど当事者のひとりとして思う所は山ほどあります。
- 就職
就職後はこの問題がより深刻になりました。学生時代に身に付いた「とにかく人間関係(表面的な付き合い)をうまく取り繕う」という姿勢がさらに極端になり、自分で言うのもアレですが「上司や先輩から可愛がられる」、「同僚(特に女性社員)に好かれる」という思わぬ副産物を得ることになりました。
しかし、それもまたメリットだけでなくデメリットも多く、お節介な上司から「お見合い」を勧められてしどろもどろになったり、同年代の女性社員からデートに誘われて(当時「逆ナン」という言葉が流行り始めた頃でした)困惑したり…ということが何度かありました。
「お見合い」はなんだかんだと理由を作って丁重に断り続けていましたが、一度だけどうしても断り切れなくて半ば強引にセッティングされてしまったことがあって、それがまた困ったことにお相手が僕のことを気に入ってくれて、気の早い上司が「またとない結婚のチャンスだぞ」だの「仲人をやらせてくれ」だの言い出して本当に困ったことがありました。すっかり盛り上がっちゃっている上司の顔を立てつつこの話を「御縁が無かった」ことにするにはどうしたらいいか迷い抜いた挙句、お相手に僕が同性愛者であることを正直に話してお相手から上司に「この話は無かったことに…」と伝えてくれるように頼み込んだのでした。上司から「残念だけど先方が気が進まないそうで…」と告げられた時のホッとした気持ちは今でも忘れることができません。と同時に、僕のせいでこんなことに巻き込んでしまったお相手に対して本当に申し訳なく思いました。
学生時代から積もり積もった悩みに加えて、職場でこういった経験をしたことが追い打ちとなって僕の精神状態に徐々に異変が生じ始めていました。
- 叔母の自殺
精神状態に異変が生じつつあったちょうどその時、大好きだった叔母(母の末妹)が自殺するという出来事が起きました。その数カ月前に祖父の法事で会った時は(表面上は)異変は見受けられなかっただけに文字通り「寝耳に水」の突然の出来事でした。僕だけでなく親族一同そして家族でさえ誰ひとりとして思い当たるフシが無く、また、遺書も無く、未だにどういう経緯で自殺に至ったのかが全く分かりません。
強いて推察すれば、叔母は祖父が亡くなるまで同居していて、節目の法事を終えてホッと肩の荷が下りて、と同時に疲労感や喪失感が生じて衝動的に自殺に至ったのではないか…ということくらいしか思い当たらないのです。
僕が叔母の自殺を知ったのは職場でした。当時まだ会社員だった父から初めて職場に電話があって、同僚から「お父さんから」と取り次いでもらった時に直感的に「不吉なことが起きた」と感じました。それからのことは何年経っても決して忘れることができません。すぐに上司に事情を説明して早退の許しをもらい、急いで実家の母の元に向かいました。その時は僕はもう一人暮らしを始めていましたが、とにかく母のことが心配で実家に駆け付けました。
自殺ということで葬儀はごく身内だけの密葬となり、叔母の亡骸を前に「まさか自分がこういう経験をすることになるとは…」と呆然としたことが忘れられません。それまでにも親しい人の葬儀に参列したことはありました。最初は母方の祖母で僕が小学校2年生の時でした。その後、父方の祖父、父方の伯父、母方の祖父、と死別しましたが、自殺となると受ける衝撃が桁違いです。そして、年間3万人と言われる自殺者のそれぞれの御家族や御親族が同様の経験をしているという現実が本当に辛く悲しいことだと思いました。
漠然と「オレは30歳までには死にたい」と思い続けていたけれど、実際に人ひとりが自殺するとこんなに大変なことになるのか…と身を以って実感するという、なんともいえない皮肉で不思議な巡り合わせのようなものを感じたのでした。漠然と「死にたい」と思う気持ちはその後も変わりませんでしたが、と同時に「オレが自殺したら叔母の時と同じ光景が繰り広げられるのか…」という一種の歯止めが出来てしまいました。自殺したら家族親族がこういう思いをする…ということを知ってしまったがゆえに、「死にたいけれど死ねない(同じ思いをさせたくない)」という厄介な状態になったわけです。
- 退職
叔母の自殺を受けて、僕の精神状態はますます乱れ始めました。職場にいても自分が何のためにここにいるのか分からなくなる瞬間があったり、布団に横になったとたん叔母のことを思い出して涙を流す夜が増えたり、今にして思えばこの時点で完璧に鬱病その他の精神疾患(障害)を発症していたのだと思います。
これはいまさら後悔してもしかたのないことですが、その時点で上司に相談していれば会社の心理カウンセラーのところに連れて行ってもらえただろうな…とか、精神科の診察を受けていれば「休職」扱いとなって社会復帰の芽が摘まれることもなかったかもしれないな…とか、どうしてあの時それをしなかったのだろう…ということがたくさんあります。
しかし、残念なことに、そして、不覚にも、僕はそれをやる勇気も無ければ精神状態に起因する病気に対する知識もありませんでした。もっと言えば精神科に対する偏見と若干の恐怖心があったことも事実です。今でこそ何かあったら精神科を受診してみるという流れが当たり前のように世間でも受け止められるようになってきましたけれども、当時はまだまだ精神科の敷居が高く感じられて「普通」の人が行く所ではないという感覚が強かったのです。
そして、とうとう会社に行けなくなるという最悪の事態を迎えました。それまで張り詰めていた気持ちがプツッ!と音を立てて切れたような感覚がして体が動かなくなってしまったのです。その日は風邪でお休みということにしてごまかしましたが、その後、無理をして出勤しても全く仕事が手に付かず、何もかもがどうでもよくなってしまって仕事に対するやる気が完全に失せてしまいました。
それに加えてちょうどその頃に異動の内示を受けて頭の中が真っ白になりました。もともと環境の変化に適応するのが得意ではなく、特に異動(転勤)によって職場環境や人間関係がガラッと変わることが非常に苦手だったからです。本当は一年前から異動の話があったのですが、なんとかして異動を避けたい僕と、僕を欠いたら困るという上司の思惑が一致して、上司が掛け合って異動を延ばしてくれていたのでした。しかし、一年経ってさすがにもうこれ以上は先延ばしすることはできないということになり、異動の話が現実のものとなって突き付けられたわけです。
僕はこれが耐えられませんでした。こんな精神状態で異動してまた一から人間関係を作り仕事を覚えるなんてとても無理だと思いました。そして、結果的にこれが本当に痛恨の判断ミスであり大きな分かれ道となったわけですけれども、僕は上司に精神状態のことを相談することもせずに「異動日を以って退職したい」と申し出てしまったのでした。上司は何事かと心配して慰留してくれましたが、僕はとにかく「逃げ出したい」という一心で必死に「一身上の都合」で押し通してしまいました。
- 精神科受診
退職後、少し休めば精神状態も元に戻るだろう…と甘く見て、転職先を探しつつ当面はアルバイトで過ごすことにしました。アルバイトであれば正社員と比べて精神的負担が格段に低いだろうと高を括っていたのです。そして、すぐにアルバイト先が決まりました。心機一転が功を奏してしばらくは精神状態がウソのように上向きになり、ほぼフルタイムそしてほぼ毎日残業という仕事を続けました。
企業での勤務経験があるだけにそこらへんはそつがないわけで、半年も経たないうちにヒラのアルバイトから契約社員に取り立ててくれることになりました。しかし、これがいけなかった。契約社員となって責任が増し、アルバイトのように勤務日(シフト)を自分で決められる自由も失われました。再び前職と同様の精神状態への揺り戻しが始まってしまいました。そして、あっという間に精神状態がにっちもさっちもいかなくなって、またしても逃げ出すように退職することになりました。
ここでさすがに「これはおかしい」と思い、勇気を出して精神科を受診することにしました。これが現在も通院している病院と主治医との出会いでした。初回は問診の後に心理検査(さまざまな質問にマークシート式で回答する)と血液検査を受け、その結果「鬱病の疑いが濃厚です」という診断を受けました。
それ以降、基本的に二週間に一度(月に2回)の診察を受け、症状の変化に伴って薬の量を増減したりいくつかの薬を組み合わせたり、その結果を見て再び組み合わせを変えたり…ということを繰り返して、効果を維持しつつ副作用が少なく僕の体質に合った薬の組み合わせを模索して現在に至ります。
- 通院医療費公費負担制度
2003年(平成15年)、主治医の勧めで通院医療費公費負担制度(Wikipedia参照)の適用を受けるための申請をしました。精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(いわゆる「精神保健福祉法」)の第32条に定められた制度でした。
区役所(保健所)に申請書類一式に主治医の診断書を添えて提出しました。
- 自立支援医療(精神通院医療)
上記の制度が2006年(平成18年)から障害者自立支援法に基づく自立支援医療(精神通院医療)(Wikipedia参照)に変更されて現在に至ります。申請手続きは「精神保健福祉法」第32条の時とほぼ同じで、区役所(保健所)に申請書類一式と主治医の診断書を添えて提出します。1年ごとの更新手続きが必要で、現在は2年ごと(1年おき)に主治医の診断書を提出する必要があります(制度が始まった当時は診断書を毎年提出する必要がありましたが、その後、2年ごとに改められました)。
僕は昨年は診断書が不要だったので今年は診断書が必要になります。
…ということを改めて振り返ってみて、初めて通院医療費公費負担制度の申請をしてから今年で10年目になることが判かって愕然としました。
もうそんなに経つのか…と、いつまでこの状態が続くんだろう…と、非常に複雑な気持ちです。
上述の通り僕は「オレは30歳までには死にたい」と思い続けてきました。
実際に30歳を迎えた時は「しまった!」と思いました(生き長らえてしまったではないか…という意味です)。
その後、これまた具体的な根拠があるわけではなく漠然と「35歳までには死にたい!」と思うようになりました。
30歳の「失敗」を繰り返さないように、かなり具体的に、そして綿密に「計画」を立てたこともありました。
「あれとこれは実家に預けて…」とか「これは事前に自分で解約して…」という具合に「身辺整理リスト」を作って、僕の「死後」にできるだけ家族に各種手続きなどの負担を掛けることのないよう考えました。
時にはそれをやりながら「死ぬのも簡単じゃないなぁ…」とウンザリしてバカバカしくなって気が紛れたり、時にはかなり真剣に具体的な方法を調べたり「死に場所」を考えたりしたこともありました。
人によっては「そんなことやってる時点で死ぬ気なんて無いんでしょう?」と受け止められることもあると思います。
本当に「死にたい」と思っている人はそんなことを考える余裕も無く後先考えずに自殺するものだ、と。
現に自殺する人の多くはそういう傾向にあるのだろうと思います。
せいぜい遺書を書くくらいで。
しかし、僕の厄介なところは、叔母の突然の自殺とその後の遺族の苦労(本人がいなくなった状態だと各種手続きが本当に大変です)を知ってしまっているがゆえに、仮に自殺するとしても家族に同じような手間を取らせることはしたくないという気持ちがあることです。
要するに自殺する側の気持ちと家族を自殺で失った人たちの気持ちの両方を知ってしまっているわけです。
自殺した叔母が気の毒でもあり「羨ましく」もあり、と同時に、遺された側の悲しみと苦労を僕の家族に味わわせるのは忍びないという気持ちもあり、文字通り「生きるも地獄、死ぬも地獄」状態に陥っているということです。
35歳の誕生日が迫るにつれ、30歳の時より深刻に具体的にあれこれ「身辺整理」のことを考えるようになりました。
ところが、ここで思いも寄らぬ「障害」が発生しました。
父の病気(再発)と入院、そして死でした。
まさに僕が35歳の誕生日を迎える頃に父が入院して、その後、何回かの手術と入退院を繰り返した末に亡くなりました。
さすがにここで僕が自殺なんてことになったら遺された母はどうなる…と思い留まってしまいました。
父の葬儀が済み、四十九日法要を終えた時、「とりあえず三回忌法要を済ませるまでは母を支えよう」と誓いました。
一周忌の時が36歳、三回忌の時が37歳、それ以降ならどうにかなるのではないか…と。
そして、いよいよ40歳という節目を迎える年になってしまいました。
正直、もういい加減に「潮時」なのではないか…と思い始めています。
これ以上のらりくらりと先延ばししたところで精神状態が改善する確証は無いし、ここまで来たらもう「母が…」とか「姪っ子が、甥っ子が…」という言い訳も余計なお世話なのではないか、と。
僕がいなくなったらいなくなったで母も妹もそれなりにやっていくだろう、と。
自殺した叔母の家族や親族(母や僕など)が未だに心の中に深い傷を負いながらも日常の生活を送っているのと同じように、そして、父を亡くした母の様子を見ても一周忌、三回忌と経て少しずつひとりでの暮らしに馴染んで友人・知人に囲まれて楽しく過ごしているように…。
であれば、「母が…」とか「姪っ子が、甥っ子が…」という言い訳は僕の取り越し苦労でしかないのではないか、という自分勝手な思いが頭に浮かんでくるのです。
「生きてるだけで丸儲け」などという能天気なことを言う人もいますが、僕みたいに「生きる」ことに魅力や希望を感じられない人間にとっては全く意味の無い言葉です。
「本気で泣いて」とか「本気で笑って」とかいう喜怒哀楽さえ面倒臭く感じてしまうこの感覚はいくら説明しても解かってもらえないでしょう。
「本気で悩んで」なんてもうウンザリするほど繰り返してきたので疲れました。
「本気で生きて」なんてこれっぽっちも魅力を感じません。
非常に不謹慎で申し訳ない言い草ですけれども、僕は病気で亡くなったり事件・事故・災害などに巻き込まれて亡くなった方のニュースを見るたびに、「気の毒に…」という思いと同時に「合法的に死ねて羨ましい…」という気持ちが湧いてきます。
日本でも「安楽死」が合法化されればいいのに…とも思っています。
こんな精神状態の人間に対して「生きてるだけで丸儲け」だなんて冗談でも言って欲しくありません。
とりとめもなく書いてしまいましたが、これが僕の現在の精神状態の実態です。
今すぐ「自殺」だなんだということはしないように気を張っていますが、これも正直いつまで持つか自分自身でもよく分かりません。
今週末に診察があるので主治医にこの気持ちを話します。
書いたり話したりするうちに気持ちが整理されることも多いのです(読まされたり聞かされたりする側はたまったものではないでしょうけれども…)。
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