人が人を支配する原始的な手段が暴力である。個人のレベルでも、集団のレベルでも、国家・国際のレベルでも、暴力は支配の有効な道具であり続けた。社会の秩序が形成され、権力構造が確立してくると、生の暴力による支配は、次第に権威や財力や法による支配に置き換えられていく。しかし今なお、暴力が人の人に対する支配の手段の根源にあることは変わらない。
人の人に対する支配と暴力とは分かちがたく結びついている。人の人に対する支配そのものが野蛮であり、その手段である暴力はさらに野蛮である。暴力をなくすこと、人の人に対する支配をなくすことが、文明の方向である。
人類の叡智は、人をすべて平等とする思想に到達して、人権という法思想を生みだした。人はすべて、尊重さるべき人格を持つ者として平等である。ならば、対等人格者に対するその意に反する支配も、暴力の行使も許されない。
家庭に児童虐待、夫婦にDV、学校にイジメ、教師に体罰、運動部にシゴキ、企業にパワハラ。社会に満ち満ちているこれら一切の暴力をなくそう。そして、人と人との対等性を取り戻そう。もちろん、国家の暴力である戦争こそ最たる野蛮、これもなくさねばならない。
女子柔道の選手15人が、全日本の園田隆二監督を暴力行為で告発したという。何とも痛快ではないか。監督は選手にとって、絶対的な支配者だ。反抗できない状態で、弱い立場の者に暴力をふるう。園田とは、かつての世界選手権者だそうだが、柔道人生でいったい、何を学んできたのか。
泣き寝入りせずに、告発に踏み切った15人の勇気と行動力に敬意を表したい。おそらくは、ここに至るまでに、秘められたドラマがあったことだろう。逡巡も、怯懦も乗り越えての団結には、清々しさを覚える。報復や、嫌がらせを許してはならない。
ところで、15人の告発状はどのように書かれていたのだろうか。代表者か、筆頭者を明らかにしたのだろうか。かつての一揆の首謀者たちは、唐傘連判状をつくった。誰が首謀者かを分からぬように、円形の放射状に署名する形式をとったのだ。今また、同様の配慮が必要なのだろうか。
さらに、オリンピックの柔道金メダリストに強姦罪で懲役5年の実刑判決のニュースである。国民は、強姦犯や暴力監督となる者のメダルに歓呼の声をあげた。愚かなること。東京オリンピック招致など即刻やめたがよかろう。
城郭の縄張りは、実戦の経験から厳重な防御の構造となった。天守・本丸は、外堀・内堀、いくつもの曲輪で守られている。だから、本丸の攻城には、外堀を崩し、内堀を埋め、三の丸を侵し二の丸を落とさねばならない。
昨日の衆議院本会議での安倍答弁に遂に出た96条改憲表明は、内堀を埋めようということだ。内堀だけ埋めて終わりということはありえない。もちろん、目指す本丸の天守は憲法9条、分けても2項だ。
恒久平和だけでなく、人権にも民主主義にも火をかけよ。あわよくば、強者の栄える世よ来たれ。天皇を戴く美しい国・皇国日本万歳。一君と忠良なる万民の、戦争のできる国こそめでたけれ。
危険な安倍の本心は、28日の所信表明演説では伏せられて改憲への言及はなかった。今夏の参院選を乗りきるまでは大人しくしているつもりかと思いきや、一転、維新・平沼赳夫の質問に、96条改憲の明言である。
本丸を大事に思うなら、絶対に内堀を埋めさせてはならない。泉下の淀殿と秀頼が、切歯扼腕の体でそう呟いている。
各紙各誌の新年号は改憲への警告に満ちている。昨日郵送された新宗連(公益財団法人新日本宗教団体連合会)の機関紙「新宗教新聞」1月号もその一つ。第1面の全頁を割いて「高まる憲法改正論議」「信教の自由・政教分離 脅かす問題も」「前文と9条は全人類の願い」と、憲法改正についての報道と解説が詳細である。
同紙の解説によれば、新宗連の定款(かつての財団法人の「寄付行為」は、現在「定款」と用語が改められている)の目的規定には、「信教の自由の精神を高揚し」「世界平和の実現に貢献する」と明記されているという。しかも、新宗連設立当時の「要覧」には、「戦争に絶対反対のものは宗教者である」と記されていると紹介もしている。良く知られているように、新宗連は信教の自由・政教分離を擁護する立場から、靖国神社国家護持への反対、靖国神社公式参拝反対、多くの政教分離訴訟の支援の大きな国民運動の一翼を担ってきた。私は岩手靖国訴訟で当時の同紙編集長と昵懇になって以来、同紙を読み続けている。
同紙の改憲問題への真摯な取り組みに敬意を表したい。ここにも、憲法を支える多くの人がいることを心強く思う。
しかし、その報道と解説に、私としては、やや物足りなさを覚える。それは、自民党改憲草案21条2項の危険性に触れていないこと。信教の自由の条項ではなく、表現の自由の条項の改正だからであろうが、宗教団体には絶対に軽視しえない問題だと思う。
自民党改憲草案21条1項と2項とは、次の文言である。
1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2項 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
1項は、現行憲法のとおり。これにつけ加えられる2項には、不吉な臭いが漂う。どこかで見覚えがあるはず。そう、治安維持法の条文と瓜二つなのだ。
1925年制定当時の治安維持法の条文は以下のとおりである。
「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
治安維持法は、「国体の変革」(天皇制打倒)、「私有財産制度の否認」(社会主義・共産主義)を目的とした結社を禁じた。自民党草案は、さらに広く「公益及び公の秩序を害する」結社を禁じる。さらに露骨に「公益・公秩を害する行為」の禁止までも定めている。
なお、治安維持法が2度の大改正を経て、最高刑は死刑、目的遂行に寄与する行為までを処罰するようになったことは周知のとおり。
治安維持法は、成立当初は共産主義・社会主義運動、労働運動、農民運動への弾圧法規であった。しかし、「国体の変革」を目的とする結社の概念は、天皇神格化に抵触する教義をもつ宗教団体の弾圧法規となり得る。現に、1935年の第2次大本弾圧を嚆矢に、治安維持法は宗教団体弾圧に猛威をふるった。
「最後にナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから、ようやく立ちあがって行動にでたが、そのときはすでにおそかった」という、あのニーメラーの独白は、日本にもあてはまる状況だったのである。
改憲の恐ろしさは、歴史に学ばなければならない。痛切にそう思う。
全国には52の弁護士会がある。各地方裁判所の管轄区域ごとに1弁護士会が原則(弁護士法32条)だが、東京だけが例外で3会(東京・第一東京・第二東京)を擁する。
その52の弁護士会のうち42会と、日本弁護士連合会(日弁連)とが、本日閣議決定(予定)の生活保護基準引き下げに反対する声明や意見書を発表しているという。昨日の赤旗が「日弁連の集計でわかりました」と報道していること。
いうまでもなく、弁護士の使命は「基本的人権を擁護し、社会正義を実現すること」(弁護士法1条)にある。その弁護士の使命に照らして、生活保護基準の引き下げには反対の意思表示をせざるを得ない。生活保護受給権は恩恵ではなく基本的人権の一つであり、社会の矛盾のしわよせに喘ぐ人からその給付を減らすのは、社会正義に反するからである。
3年間で生活扶助費など総額で740億円(7.3%)減額するという。一方では、物価を2%上げると言っておいてである。しかも、この影響は生活保護受給者にとどまらない。各種給付金や公的サービスの対価の負担軽減が、生活保護の水準にリンクしていることから、低所得層一般に影響が大きい。就学援助の打ち切りにも、最低賃金の抑制にもつながる。
あらためて、25日付の日弁連山岸憲司会長声明に目を通した。結論は、「生活保護基準の引き下げに強く反対する」であるが、政治的な宣言にとどまるものではない。もっと、法的に踏み込んだ内容となっている。
政府・与党の生活保護基準を引き下げの口実とされているものは、厚生労働省が設置した社会保障審議会生活保護基準部会の報告書(本年1月18日付)である。しかし、この報告書の検証結果は、けっしてそのような口実に使われるべき内容となっていない。むしろ安易な生活保護基準の引き下げには慎重な姿勢を示しており、貧困が親から子へと連鎖することを防ぐ観点から、同報告は子育て世帯に対する大幅な引き下げに「明確な警鐘を鳴らしている」と指摘している。
そのうえで、生活扶助の老齢加算廃止を内容とする保護基準改定の違法性が問われた訴訟における昨年4月2日最高裁第二小法廷判決を次のように紹介している。
「(厚生労働大臣の)裁量判断の適否に係る裁判所の審理においては、主として老齢加算の廃止に至る判断の過程及び手続に過誤、欠落があるか否か等の観点から、統計等の客観的な数値等との合理的関連性や専門的知見との整合性の有無等について審査されるべきものと解される」と述べたうえ、「原判決(福岡高裁)にはこの点に関する審理不尽があるとして審理を差し戻し、現在、福岡高裁における差戻し審が係属中である」
したがって、「上記最高裁判決に照らせば、その内容において基準部会の報告書とおよそ整合せず、矛盾する生活保護基準の引下げが行われた場合、厚生労働大臣の判断には裁量の逸脱・濫用があり違法であるとの司法判断がなされる可能性がある」との指摘されている。
今回の生活保護基準の引下げが実行されれば、政治的に不当、憲法の理念に反する、というにとどまらず、法的に違法でもありうるとした踏み込んだ指摘であり、読みようによっては、被害者への「提訴の勧め」でもある。
大阪市長や規制改革担当相の輩ばかりを弁護士と思っていただいては心外である。私は、日本の弁護士であることに誇りを持ち続けられることを幸運と思う。
田中耕太郎という人物がいた。帝国大学の商法の教授で貴族院議員になって終戦を迎え、文部大臣になり最高裁の裁判官になり、最高裁長官を長く務めた。
戦後、日本の裁判所は、保守政治や行政に追随することのない、憲法が想定するまっとうな道を進む選択肢があったと私は思う。しかし、日本が独立した後、最高裁判所はあえて非常に強力な反共的姿勢を明確にし、国民の自由や人権に与しない立場をとった。そのアンシャン・レジームを作り上げた人である。
田中耕太郎は、東西冷戦の中で、わが国を「民主社会・自由社会の一員とし、『裁判所時報』で、東側を「赤色帝国主義」と言った。松川事件で、有罪意見に与しただけでなく、国民的な裁判批判に対して、「雑音」と言ってのけて、有名になった。
その田中耕太郎が「教育の自由」に言及している。『ジュリスト』の創刊号(1952年1月1日号)の巻頭論文「教育基本法第1條の性格−法と教育との関係の一考察」というもの。今読み直して、なかなかのもの。彼は、反共ではあるが、リベラルでもあったのだろう。
彼は問いかける。「国家は教育に対し立法的又は行政的手段をもって干渉することができるか。もし、できるとするならその理論的根拠如何。第2にその干渉の範囲、限界が如何なるものであるか」
答えて言う。「本来教育は、芸術的技術的活動と同じく、その性質において文化的なものである。」「その限りにおいて、教育は教育者とその対象者との間の内的個人的関係であって、国家社会の干与の外にあるところのものである。」「教育のかような性質、即ち、教育者が被教育者に創造的に働きかけるところの、二人格者の間の内的影響関係は、家庭における両親と子女との関係においてのみならず、家庭外における個人的な師弟関係及び学校教育においても均しく存在するところのものであり、そうしてこの種の関係が本来国家の干渉の外にあるべきものであることも家庭内の教育関係と異なるところがない」
彼の立論は、次のようにかなり徹底している。
「教育は恰も司法のごとく、一般の行政活動とはちがって政治から独立し、又教育者には独立して教育を行うことが保障されなければならない。」「本稿の主眼とするところは、教育の理念目的についての国家権力の限界を明確にすること、即ち、この範囲においても一般文化についての不干渉主義の原則が確立されなければならない」
国旗国歌への敬意表明の強制は、政治や国家による教育への干渉以外の何ものでもない。田中耕太郎でも、これを容認することはあるまい。
本日は目出度く初場所の千秋楽。三役揃い踏みに独特の雰囲気が漂う。
大相撲には、子どものころから馴染んできた。しかし、天覧相撲だの、千秋楽の「君が代」だの、どうしても馴染めない部分も残ったまま。
「文藝春秋」1952年3月号に寄せたNHKアナウンサーの一文によると、巣鴨刑務所内で戦犯慰問の大相撲が開かれ、その際に次のような相撲甚句が披露されたという(井上清・「天皇制」、東大新書)。
「血をもて築きし我が国も、無情の雨にさそわれて、今は昔の夢と消ゆ。されど忘るな同胞よ、あの有名な韓信が、股をくぐりしためしあり。花の司のぼたんでも、冬はこも着て寒しのぐ。与えられたる民主主義、老いも若きも手をとりて、やがて訪ずる春を待ち、パッと咲かせよ桜花」
しかもこのアナウンサー氏は、「歌い終わったときに起こった熱狂的な拍手と喚声を、私は忘れることができません」と書き添えているそうだ。収容中の戦犯の「熱狂的な拍手と喚声」への共感を隠さない。戦犯の本音に、大相撲とNHKとが卑屈におもねっている構図である。
「今は冬のとき。じっと耐えて、やがて訪れる春には、『与えられたる民主主義』をかなぐり捨て、パッと桜花を咲かそう」というのだ。桜花は、「与えられたる民主主義」に対置する価値とされている。井上清は、これを「軍国主義」と解しているが、文意だけからならば、「国体」(あるいは「国体の精華」)と解すべきであろう。民主主義なんぞは外国思想、天皇制こそわが国本然のあり方。押しつけられた憲法を改正して、天皇の御代をもう一度。占領終了直前において大相撲は、岸信介ら戦犯に向かって、そう呼び掛けたのだ。さてその体質、今は変わっているのだろうか。
ところで本日、幕内優勝はダワーニャム・ビャンバドルジ。十両優勝はアディヤ・バーサンドルジ、幕下優勝はウルジーバヤル・ウルジーシ。序二段優勝も外国人力士(ロシヤ)だった。外国人力士の採用制限をしてのこの結果である。彼らには、天皇制に何の思い入れもあるまい。いささかの小気味よさを覚える。
日本は法の支配が貫徹している(はずの)国である。立憲主義国家でもある(はず)。ところが、憲法9条2項が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明確に定めているのに、どうして自衛隊という実力組織が存在するのか。国家はどうして憲法を遵守しないのか。
これに対する辻褄合わせの法解釈が、「自衛隊は戦力ではない」という論法である。9条2項にいう「戦力」の定義を恣意的に定めてハードルを高くし、「わが国の自衛隊は戦力にはあたらない。だから、違憲の問題はおこらない」という。最高裁がこの判断の間違いを裁くことはない。
1952年に保安隊ができたとき、政府は「戦力とは近代戦を有効に遂行しうる実力」と定義した。で、保安隊は戦力ではないこととされた。1954年に自衛隊ができてからの政府見解は以下のとおりである。
「わが国が独立国である以上、この規定は主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。政府は、わが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています」
つまりは、「自衛のための必要最小限度の実力」である限りは、憲法が禁止する戦力にはあたらないという理屈である。われわれがその解釈の不当を指摘し、一貫して、異を唱えてきた法解釈である。
「自衛のための必要最小限度実力説」は、自衛隊存在の合憲性を獲得するための、ぎりぎりの法解釈であった。ところが、次第に、この解釈は保守政党やアメリカの許容しがたいものとなってきた。彼我ともに痛し痒しなのである。
政府は明言している。
「わが国が憲法上保持し得る自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないと考えています」
「わが国は、日本国憲法の下、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として、実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています」
「自衛のための必要最小限度の実力の具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面を有していますが、憲法第9条第2項で保持が禁止されている「戦力」に当たるか否かは、わが国が保持する全体の実力についての問題です。自衛隊の保有する個々の兵器については、これを保有することにより、わが国の保持する実力の全体がこの限度を超えることとなるか否かによって、その保有の可否が決められます」
「個々の兵器のうちでも、性能上専(もっぱ)ら相手国の国土の壊滅的破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、これにより直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されません。したがって、例えば、ICBM(Intercontinental Ballistic Missile)(大陸間弾道ミサイル)、長距離戦略爆撃機、あるいは攻撃型空母を自衛隊が保有することは許されない」
安倍右翼政権がこれで納得するはずがない。
そして、政府見解についてのせめぎ合いの焦点は、以上の理屈の帰結としての集団的自衛権否定論の是非である。集団的自衛権についての政府解釈は、以下のとおり明確でもあり論理の貫徹性も備えている。
「わが国が、国際法上、集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然です。しかしながら、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないと考えています」
当面、このレベルで、集団的自衛権否定論の世論を糾合しなければならないのだと思う。
「原発と人権」ネットワークは、法律家を中心に、ジャーナリストと科学者の連携を得て、人権の観点から原発問題に取り組もうという運動体。日本民主法律家協会もその事務局団体として関与している。
原発に関わる人権問題は多面に及ぶが、2方向に収斂する。その一つは、原発が人間の尊厳と相容れないところから、これを廃絶する課題。そして、もう一つは現実に生じた事故への対応の課題。被害をキーワードに、被害の根絶と、被害の回復と言ってもよい。
本日(25日)はそのネットワークの発足を記念しての「原発のない社会を目指して」と題する集会。鎌田慧さんの記念講演「核支配体制からの脱却ー原発はなくすことができる」が、企画の目玉。ほかならぬ鎌田さんが、「こうすれば原発をなくして、核支配体制からの脱却が可能だ」と話すのだ。万難を排しても、聞かねばならない。
鎌田さんは、3・11事故の深刻さから語り始めた。ひとつの自治体が丸ごと「さまよえる民」とされたその深刻さ。自然や生態系全体を壊すことの罪の深さ。そして、この被害をもたらした原発を誘致した際の電力会社の非倫理性、非人間性を怒りを込めて詳細に語った。
鎌田さんは言う。
「今、再稼働を唱える陣営の理屈は原発建設時のものと変わるところがない。「電力が不足している」「原発は安価だ」、そして「原発は安全だ」。これ以外にはない。
これに対して、技術論として反論を対置する以前に、もっと根源的な人間的価値に関わる反論を対置すべきではないだろうか。原発というシステムの非人間性を明確にし、自然や生態系や人間としての生活を喪失するこのリスクの深刻さが強調されるべきではないか」
鎌田さんの講演に意を強くした。
原発には、人権を対置しよう。人権は原発を駆逐せねばおかない。人権は事故以前の状態への現状復帰を求める武器になる。
自民党は、2012年総選挙の政策として、「日本の平和と地域の安定を守るため、集団的自衛権の行使を可能とし、「国家安全基本法」を制定します」と明記した。集団的自衛権の行使が、公約となっている。
この公約以前に発表されていた「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日)は、現行憲法第2章「戦争の放棄」を、「安全保障」と看板を掛け替える。もちろん、看板だけはなく、中身もすっかり変えてしまおうというのだ。
自民党自身の解説(「Q&A」)によると、集団的自衛権は、改憲草案9条2項に規定されているのだという。改憲草案は、9条1項をそのままに残して現行9条2項を全文削除して、その替わりに入れようというのが、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」という新たな第2項。
自民党解説によれば、「主権国家の自然権(当然持っている権利)としての「自衛権」を明示的に規定したものです。この「自衛権」には、国連憲章が認めている個別的自衛権や集団的自衛権が含まれていることは、言うまでもありません」とのこと。つまり、「自衛権の発動」とは、当然に集団的自衛権の発動を含むのだという。
では、明文憲法改正を阻止して9条2項の差し替えを許さなければ、集団的自衛権の行使を防ぐことができるだろうか。自民党にとっても、憲法改正の実現は先の話。だが、集団的自衛権の行使は喫緊の課題。そこで、現行憲法下での「国家安全基本法」の出番となる。
自民党総務会で正式に党議決定されたという「国家安全保障基本法(案)」第10条は「(国際連合憲章に定められた自衛権の行使)」と標題されている。その柱書きは「我が国が自衛権を行使する場合には、以下の事項を遵守しなければならない」として、その第1号が「我が国、あるいは我が国と密接な関係にある他国に対する、外部からの武力攻撃が発生した事態であること」と、個別的自衛権と集団的自衛権の両者を併記して、集団的自衛権行使に明確な道をつけている。
では、「国家安全保障基本法」の制定を阻止できれば、危うい集団的自衛権の行使の道を閉ざすことができるのか。実は、そうではない。
政府の有権解釈を変更するだけで可能なのだ。具体的には、政府の法律顧問というべき内閣法制局が解釈の変更を認めれば良いことになる。もとより、最高裁判例はない。
内閣法制局の見解は以下のとおり。
「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然である。しかし、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」
歴代の自民党内閣が、内心はともかく、この見解を尊重してきた。国民世論の許容の範囲を超えることはできないとの判断によるものだろう。安倍内閣が、蛮勇をふるうことができるか否か。すべては、国民世論の動向に対する、読み如何にかかっている。