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2007年01月26日

●周防正行『それでもボクはやってない』

実家が田舎の素封家で、一流企業のサラリーマンで、おまけに顔が美形なオトコが仲間ちゃんに甘えかかっているのを見ているだけで、なんだか腹が立ってくるので、毎回20分くらい視聴したところで耐えられなくなってしまうのですよ>「エラいところに嫁いでしまった!」
それより「ヒミツの花園」の寺島進と真矢みきの恋?の行方のほうが感情移入できるのは、もちろん年齢のせいだ。
なんか釈由美子ちゃんが夕刊紙であることないこといろいろ書かれたらしいけど、例え顔面整形してたって全然いいじゃん。
というか、日本女性にはすべからく整形治療費を政府が保証してやりゃいいじゃん、くらいに思うのだ。
なんせ「美しい国」なんだから。
ていうか、いっそ外科的整形でなく、遺伝子レベルの整形で全員が「美人」な世の中になったら、たぶんとっても楽しい。
「美」であることが平凡化したら、「美」という概念そのものに意味がなくなってしまう訳で、もし「美」が存在しない世の中になったら、それはそれで間違いなく人類の精神的な進歩である。

(以下ネタバレあり。注意)

『ファンシイ・ダンス』以降の周防映画のプロットはすべて「捲き込まれ型」に当たるが、「究極の捲き込まれ型」ともいうべきこの映画は、痴漢事件の被告となる主人公(加瀬亮)がすでに逮捕されているシーンから始まる。
(正確には、別の痴漢事件の犯人(らしい)男が、まるでフェイクのように逮捕されるシーンが冒頭にあって、これが映画批評ならばこのシーンの機能を分析することが極めて重要なのだけど、それはまあ措く。)
つまり「事件の現場」は、映画の主要プロットたる裁判の過程で「回想」もしくは「再現実験」として表象されるしかないのだが、それは「主人公が真犯人ではない」という「真実」を確証する証拠が映画の中で何一つ呈示できないことを、逆説的に呈示する、という構造になっている。

では、「真実」を呈示しえないこの映画は、いったい何を描いているか。
端的に言ってそれは「裁判」という機械であり、その機械によってただ翻弄される主人公の感情(心理ではない)である。
機械、というのはたぶん比喩ではない。
しかもそれは「描かれる」というより、「そこに存在する」と観客に感じられる体のものだ。

「裁判機械」は何を生産するのか。
それは「判決」ではなく、「有罪判決」である、というのが、この映画の明快な結論である。
しかも信じがたいことに、この機械の生産歩留は99・9%とされるのである。
完全機械としての裁判所。

(しかし論理的に考えれば、「有罪判決」の歩留100%という状態が、裁判制度の死滅であり、自己否定(制度そのものが無・意味に陥る)なのだから、現実にはこの機械の維持はほとんど臨界に達しているのである。数年後に始まる裁判員制度というのは、おそらくこの歩留を不安定化させることでどうにか制度を維持しようとする、一種のリミッターに過ぎないのだろう)

もちろん、『それでもボクはやってない』の主人公が捲き込まれた裁判劇にあっても、機械は「正しく」機能する。
希望も救いもない結末(有罪)だが、しかしそれはシニシズム(「現実なんてそんなもんさ」)などではまったくなく、裁判機械が「正しく」機能したことの、あまりに素朴な現前である。
というか、機械は「正しく」機能する、という機能の有り様を呈示することが、この映画の一切なのだ。

『それでもボクはやってない』の登場人物には心理がない。
例えば、最初は懐疑的だった弁護士の瀬戸朝香が、主人公の無実を確信するようになるきっかけ等の描写を意図して放棄している(他のフツーの監督なら、そこに作品の焦点を合わせるはずである)のだが、この種の裁判映画で、登場人物らの「心理」をここまで描かないのは、たぶん珍しいことだろう。
にもかかわらず、この映画には観客に異様な現場性を感じ取らせる何かがある。
元検事で弁護士である落合洋司氏が「現実の捜査、裁判が、ほぼ再現されている」と書いているhttp://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070124#1169567607 が、観客がドキュメンタリー的だと感じるのは、『12人の怒れる男』ふうの心理ドラマではなく、むしろ「裁判機械」が機能する現実を目の当たりにした、という圧倒感である。

『それでもボクはやってない』というのは、とてもカント的なタイトルだ。
「真実」(痴漢事件の犯人は誰か、もしくは痴漢事件はそもそも存在したのか)は、あたかも「物自体」のように、裁判では明らかにすることはできない。
にもかかわらず、「ボク」は事件の「真実」を知っている、なぜなら「ボク」自身が「真実」=「物自体」なのだから、とこのタイトルは告げているのである。

『Shall we ダンス?』の大ヒット以降は「蓮實門下の異端児」という感じで、シネフィル的な作品からも評価からも一線を引いている感のある周防正行監督だが、しかしこの映画にあっても、伊丹十三ふうの「社会派エンタテイメント」では決してない。
黒沢清監督の『LOFT』と比較してさえ、形式意思の徹底性においてはむしろ凌駕さえしている点においてまず評価すべきだと思う。