藤咲淳一、梅原英司
牛が、ワーンと鳴いていた。
しぶやたかし、と元気な平仮名で書かれた名前は、涙が落ちたためにぼんやりと滲んでいた。
「わからないんだもん、か…」
私はしわくちゃになってしまった絵を机に広げて、頭を抱えた。
つい先ほどのことだ。
人工島小学校での教育実習。その期間が残り二日になった今日、受け持ちの二年生のクラスで、牛の一生を学ぶという授業中に、問題が起こった。
これは、主に生命倫理を学ぶ目的の授業だった。自ら牛の出産を手伝い、名前をつけ、餌をやり、乳を搾り、その肉を食べる。通常であれば数年単位のこれらのことを、メタルを使用すれば数時間で終えることができた。そして最後に、メタル内でその日の感想を絵に描き、それを提出してもらって終了、という内容だった。マニュアル通りにやれば、何の問題もない授業だ。
児童たちにこの授業は好評で、メタルの使用に慣れている子は、提出された絵に、自分が世話をした牛の音声をつけて提出してきたりした。
ところが、クラスに一人、電脳化していない子がいた。
それが、渋谷貴志くんだった。貴志くんはクラスで唯一、電脳不適応症の症状が確認されていた。小学二年生だと、まだ電脳化していない子も珍しくなく、他のクラスには四、五人まとめていたりしたのだが、私の受け持ちのクラスは偶然に貴志くん一人だけだった。
そのため、貴志くんは、担任の先生の付き添いで、実際に人工島の牛の放牧地まで行くことになった。そこで、出産を手伝うのは無理でも、乳しぼり位は体験して、それを絵に描いて提出するという流れになったのだ。
私はその特別扱いがちょっと気に入らなかった。未電脳者専用のバイザーを利用すれば貴志くんもメタルを使えるのだから、不慣れでもメタルを使っていったほうが良いと思ったからだ。メタルの使用に慣れれば、電脳化していようがいまいが、生活のハンデは少なくなる。けれど担任の先生いわく、メタルを長時間使用する授業のときは、はっきりと区別をつけたほうがトラブルは起きにくい、ということだった。
実際、貴志くんは笑顔で出かけていき、しっかりと牛の絵を描いてきた。リアルの絵が持つ良さだろうか、他の子の絵よりも、味があるように思えた。私は、「上手だねえ」と誉めた。
せっかくなので、貴志くんにも他の子と同じように牛の鳴き声をつけてもらうことにした。当然、本当の音声は無理なので、文字でだったけれど。
すると貴志くんは、牛の口に吹き出しをつけて、「ワーン」と書いた。
ふと気になった私は、
「あれ、牛はモーじゃない? みんなの提出した映像も――」
その瞬間、貴志くんの表情が一変した。
「だって、そんなのわからないんだもん!」
涙を流しながらそう怒鳴り、描いた絵をくしゃくしゃにしてしまったのだ。
その後は、授業にならなかった。
貴志くんは激しく泣き出してしまうし、他の子は、「貴志くんが泣いてるー」とひやかした。
私は動揺を見せてはまずいと、冷静に貴志くんを泣き止まそうとしたけれど、どうやっても泣き止んでくれなかった。
結局、貴志くんは担任の先生から、
「真理子先生を困らせるんじゃないよ」
と強い口調で諭されてようやく泣き止んだのだけれど、最後まで、
「…だって、…わからないんだもん」
と赤い目で繰り返していた。
貴志くんを泣かせてしまったことも悔やまれたけれど、それ以上に無理やり泣き止ませてしまったことが、私を落ち込ませた。
困らせてしまったのは、私のほうが先だったのだ。
以前にも、貴志くんは唐突にその態度を変えたことがあった。
実習初日、私は早めに貴志くんと仲良くなっておこうと、声をかけた。担任の先生から、「あの子は海洋公園の水映館が好きなんだよ」と聞いていたので、
「貴志くんは、水映館ではどのお魚が一番好きなの?」
「…」
貴志くんは、いきなり声をかけてきた私を警戒していたのだと思う。やがて、
「リュウグウノツカイ」
と小声で言った。
私はすぐにリュウグウノツカイをメタルで検索し、
「ああ、あの体がながーくて、キラキラしてるやつだね」
「…」
貴志くんは、じっと私の顔を見つめていた。そして、とたんに不機嫌な顔になって、不意にその場を離れてしまったのだ。
あのときも、私は何か対応を間違えたのだろうか。何か、貴志くんが「わからない」ことをしてしまったのだろうか。
私はただ、少しでも貴志くんと仲良くなって、電脳化している子どもと同じくらい、メタルを上手に使って欲しいだけなのに…。
人工島小学校から出ると、日が沈みかけていた。
横殴りの夕暮れに、私は顔をしかめた。
普段は綺麗な黄金色の景色を、確認するまでもなく憂鬱に感じながら、私はとぼとぼと家に向かって歩き出した。
明日は実習期間の最終日。
最終日には、研究授業と呼ばれている、いわばお披露目的な授業を、校長や担任の前でしなくてはいけないのだが、どうにも集中できそうになかった。
と、海洋公園の前に差しかかったとき、私の目に水映館が飛び込んできた。
貴志くんが好きなリュウグウノツカイのいる場所だ。
中から、子ども達のはしゃぐ声が聞こえてきた。
「…」
私は水映館の入り口に足を向けた。
ぼんやりと、貴志くんがいないだろうか、と考えながら。