かわんごのブロマガ

自殺を巡る力学

2013/01/28 17:20 投稿

コメント:23

ブロマガ記事の一発目がこんな辛気くさい話で申し訳ない。

朝、早くに目が覚めてしまったとき、なにかつらつらと考えてしまったのだからしょうがない。

高校生のときに下校時にバスに乗らずにわざわざ駅まで30分かけて歩いて帰ったのは、友達と無駄話をするためだ。無駄話といっても、理系だからか、若かったからか、理屈っぽい議論によくなった。そのひとつは自殺は本当に悪いことか?だ。

僕の親友が言った。「なんで死ぬことがいけないのかが、いくら考えてもわからない」

もちろん彼自身は自殺する気もなければ、人生に思い悩んでいたわけでもなく、たんに理屈として人間が自分の意志として死ぬことが絶対にいけないと先生とかがいっていることが、理解できないという話だ。

人間がもつ自由意思と自己責任という原則を組み合わせて考えれば、犯罪をやって捕まる、ということすらも社会的制裁をも覚悟してやるなら個人の自由じゃないか。自由意志の選択の結果としての自殺も、やっぱり突き詰めて考えると個人の自由としかいいようがないのじゃないか。そんな主張をぼくの親友はした。

それに対するぼくらの意見はいろいろ分かれたのだが、だいたい、次のような派閥があったように思う。

(1)自分を殺す権利は自分にはない派
 親から貰った命を自分勝手に奪うことはできない。自分を殺すことは殺人と同じで、他人を殺すのと同じぐらいにいけない犯罪であるという立場
(2)まわりの人間が悲しむから自殺してはいけない派
 どんなひとであれ、人間が死ぬということは悲しいことで、親とか友達とか悲しむから、自殺してはいけない。
(3)社会的なルールでそう決まっているだけ派
 自殺を推奨すると社会が成り立たないから、社会のルールとして自殺を禁止しているだけである。
(4)なにかぼくらにはまだ分からない深い理由があるんじゃないか派
 自殺がだめな理由がいまいち納得できないんだけど、かといって自殺がいいとも思えないから、上記の3つ以外に、なにか自殺してはいけない深い理由があるかもしれない。

 理系的な理屈で考えると(1)と(2)は根拠としては成立していないとしか考えられない。(1)はほとんど理由というよりは定義として自殺はだめだと決めつけているだけだし、(2)についてはじゃあだれからも悲しまれないひとは死んでもいいのかという疑問が残る。そこで死んで悲しくない人なんてこの世にいないという反論がくるわけだが、それはそれで(1)と同じく、事実というよりはただの定義だろとしか思えない。

 したがって理屈としては(3)しかないだろうという恐ろしい結論になる。つまり人間は死ぬのだって個人の自由であるはずだ、ということになる。でも、そのわりには自殺してはいけない、命を粗末にしてはいけないという大人たちが真剣にいうのはなぜなんだろう。理屈的には(3)しかないように思うのだけど、なんであれほどまでに必死で否定するひとたちがいるのだろう、というわけで(4)の立場が生まれるのだ。ぼくたちはだいたい(3)か(4)の立場から、いろいろな可能性を話し合ったのだ。

 そのときも納得できる自殺してはいけない理由はみつからず、大人になってみたのだが、やはり理屈としては高校生のときと結論は変わらない。人間が死んではいけない理由なんて、生きる理由と同じぐらいに本当はないんだということがさらにはっきり分かってきた。

 ただ言えるのは進化の上ですぐに死にたがる生物は死滅するだろうし、生きようとする生物は生き残る確率が高いだろうということだ。ぼくら人間は生き残ってきた生物の末裔だから、生きようとしない人間を排除しようとするのはあたりまえだし、生きなくてもいいなんて考えは有害でしかない。

 視点を変えて、人間はどんなときに死にたがるのだろうか。

(a) 生きるのが肉体的に辛いとき
(b) 生きるのが精神的に辛いとき
(c) プライドが傷つくとき
(d) 罪悪感を感じたとき
(e) 幸せになったとき
(f) 他人にかまってほしいとき

(a)、(b)のように人間には死んだほうがましと思うような現実がある。爪を1枚ずつはがされ、指を一本ずつハンマーで叩き潰され、いきながら、解剖されるような拷問を受けるくらいなら、僕は死ぬ。どんなことがあっても自ら死んではいけませんといくら愛するひと、尊敬するひとに説教されたとしても、ムリなものはムリだから死ぬ。そこまでいかなくても、手術でメスを入れられるなんて思った瞬間に死にたくなるし、会社や学校いって友達もひとりもいなくて、仲間はずれにされたら、猛烈に死にたくなるのは間違いない。
(a)と(b)は現実からの逃避であるなら、(c)と(d)は自分という現実の否定だ。自分を保ちながら生きていくことができないと感じたら、人間は死ぬしかないと思い詰める。実際は(a)(b)(c)(d)の4つは組み合わさって起こることが多いのだろう。

2ちゃんねるで有名なコピペを以下に貼る。

ーーーーーーコピペ引用ーーーーーー
京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、
認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」

片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言い、強く抱きしめた。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
ーーーーーーーコピペ終了ーーーーーーー


この2ちゃんねるでよく貼られるコピペが実際にあったことなのかどうかは知らないし、知りたくもないのだが、自殺するひとを弱虫、犯罪者と罵ったり馬鹿にする権利なんてだれも持たないと思うし、現実に介入できないし、介入する気もないひとが安易にがんばれと応援することのむなしさみたいなものも、ぼくは感じる。
そしてもうひとつ思うことは社会の中で極限状態にさらされたとき、人間は誇り高い人間から死んでいく、ということだ。

(e)については共感が得られないかもしれない。人間は長く生きると、まして長いトラウマや辛いことが克服されたときは、もう死んでもいいや、という気持ちになる。積極的な意志ではないにせよ、そういう気分になる。

(f)というのは最悪だ。人間は他人にかまってほしい自己表現の究極の形として自殺を試みることがある。最初は手首を切ったりすることからエスカレートしていき、ついには本当に死ぬところまでやってしまったりする。

これらの理由が複合して人間は死にたいと思う。たぶん、現代人はおおかれすくなかれほとんどの人間が程度の差こそあれ、死にたいという衝動を感じながら生きているのではないかとぼくは思う。

では、なんで死なないのか。人間が死なない理由はなんなのか?
たぶん、3つぐらいしかない。

(一)生きるの楽しい
(二)死ぬのが怖いから
(三)自分が必要とされているから

生きるのが楽しくなくて、自分が世の中で必要とされてないと思うような人間にとって、最後のよりどころは死に対する恐怖でしかなくて、そんな危ういところで生きているひとはきっと現代の日本には多いのだろう。

なんか中途半端ではあるけれど、ここで今回の記事は終わることにする。


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コメント

@_bokuchin
No.1 (2013/01/28 17:43)
敵の手にかかるくらいなら死ぬ。
最後はおまえの手で殺してくれ。

死ぬ事ってそんなに醜い事なのかな。
ラノベ猫
No.2 (2013/01/28 18:15)
4番の理屈じゃなくて、本能に刻まれてること、っていうのを押したい。
三大欲求の次位に、死を回避する機構が刻まれてるんじゃないかな。
理屈でねじ伏せれるけど、ねじ伏せちゃいけない物なんだと思う。

って綺麗事を考えたけど、なんか違うなあ
じっくり考えたい話ですね
おこめさん
No.3 (2013/01/28 18:17)
海外の宗教の多くは自殺というものを悪としてみなしているものが多いですよね(カトリックとかイスラムとか)。
しかし日本は切腹を始めとする『自決』の文化があるように思われます。
つまり、上記した宗教が浸透している人たちは、自殺=悪が絶対で、それ以上は思考停止が義務付けられているのに対し、
状況にもよりますが、自分の信念のためならば自殺は決して悪では無いという思想が日本人にはあるのだと思います。
だからご友人も自殺が悪いことなのかどうかを悩んでいたのではないでしょうか。
なんにせよ、人の生と死とは、人類の歴史が始まって以来、ずっと考え続けてきたテーマです。
恐らく100年後も、なぜ自殺がいけないことなのかと悩む若者がいるのでしょうねw
長文失礼しました。
(^▽^)
No.4 (2013/01/28 19:04)
「死ぬな」と言うより「死ね」と言ったほうが人間は生きると思う
キラデモ
No.5 (2013/01/28 21:19)
「自殺に追い込む」という種類の他殺なんじゃないか。
「自分で自分を殺す」んじゃなくて、「他人に自分を殺させられる」ってことじゃないか。

つまり、我々は今までの「自殺」とういうものの考え方が根本的に間違ってるのかもしれないということがいいたい。
ちょりそ
No.6 (2013/01/28 22:43)
明日食うものに困ってる人間や、10代そこそこの子供が内戦に駆り出される国だってある訳だ。
そういう人達になぜ自殺しないのか聞いて回ったらどうだ。
それかSFか漫画みたいに、いつか人間が死ななくなった時に分かるんじゃねーの。
anghyfrifol
No.7 (2013/01/28 23:13)
生きるのが楽しくなくて、自分が必要とされていないと、今日感じているとしても、明日も同じかどうかはわからない。
明日同じように感じているとしても、1年後は、分からない。
気持ちが落ち込んでいる時は、良い考えは浮かばない。気分が変われば考えも変わる。
取り返しがつかないから、自殺はしない方がいい。
おさんぽ。
No.8 (2013/01/28 23:26)
生きる欲があるのだから、対にある死に対する欲も有ってしかるべきなのでは
neko
No.10 (2013/01/28 23:39)
>海外の宗教の多くは自殺というものを悪としてみなしているものが多いですよね(カトリックとかイスラムとか)
恐らく彼らの長い歴史の中で自殺とするいうことが問題になった歴史があるんじゃないっすかね?
たとえば労働力となっている支配される側の人間が自殺してしまっては労働力として機能しないわけで、
そこで自殺を禁止することによって限界まで搾取できるようにしたのではないでしょうかね?
あくまで持論ですが。
さで、私についてですが今まで結構高い生命保険に入っていましてね、
自殺でも5年後に受取人が受け取れるそうです。
ですので最近は真剣に自殺という選択肢もありなんじゃないかと計算(今後稼げる金額と死亡時に受取人が得られる金額)しているところです。
ともあれ自殺とは断定されない方が5年待たないでよいのでなるべく事故死というていで済むよう考えておりますしだい。
ニコニコ
No.11 (2013/01/28 23:51)
ブロマガの投稿待ってたので嬉しいです。

「社会の中で極限状態にさらされたとき、人間は誇り高い人間から死んでいく」
なんとも言えない気持ちで読んでおりました。

もう少し続きが読みたいなぁ…また朝早く目覚めたときはお願いいたします。
子森久伊亜/小笠原毅
No.13 (2013/01/29 01:02)
ざっとしか読んでないけれど・・・

自死遺族について知ってみたらまた考えも変わるんじゃないかな。自殺について考えようとするならそこまでも「知りたいとも思わない」とはいえない。

あと、テレビ報道なんかでは自殺を報道するときにはちゃんとガイドラインがあってそれに沿って報道しなきゃいけないらしいんだけど、実情は全然守られてない事が多いんだとか。

ちなみに書き始めのように、朝目覚めてつらつらと色んなことを思いを巡らしてるうちに自殺することに至ったケースもあると思うw
子森久伊亜/小笠原毅
No.14 (2013/01/29 01:04)
クリスチャンでも自殺する人は自殺する。
火櫓
No.15 (2013/01/29 01:07)
個別のケースについては、それぞれ事情があると思うので、多くの人が
自殺はいけないとなぜいうのかということを一般論でいうと
歴史の一回性とか、生の不可逆性の問題と関わってくると思います。
まえ、坂本龍馬のドラマかなんかで、龍馬が「死んだら終りぜよ!」とかいってたように、
生→死はあっても、死→生は絶対にない。
だから、とりあえず、生きていたほうがいいんじゃないかという話になる。してみると
「いま、生きている人間」とは、とりあえず「死ぬまでとりあえず死ぬことを保留し続
けている人間」のことではないかという気すらしてきます。
子森久伊亜/小笠原毅
No.16 (2013/01/29 01:13)
参考までに・・・

わが国における若者の自殺未遂経験割合とその関連要因に関する研究
http://www.health-issue.jp/suicide/

>男性においては性的指向が自殺未遂経験に関連する決定的要因であることが明らかになり、異性愛でない人の自殺未遂率は異性愛者の約6倍であることが示されています

「自殺する人はゲイかも?」とかそういう話ではないことに注意。いじめ被害者の自殺未遂率の高さも突出。
monta
No.17 (2013/01/29 01:17)
人生ゲームをプレイするにあたっては「その気になったらやめられる」というのが重要なのかなと思いました.
miki
No.18 (2013/01/29 06:43)
凄く悲しいお話しです…京都の親子事件…どうして…失業保険が無くなった時に国に相談しなかったのか!?国ゎ…どうして…動かなかったのか!?あるいは…そんな家庭の所に保健所ゎ…行かないのか!?いろいろ…疑問があります…
そうすれば…まだ死を選ばずにいれたのかもしれない…何か方法あったはずだと思うのは私だけでしょうか!?
私ゎ…不治の病で…余命…3年も生きれないと医師に言われました…確かにまだ生きたいと思ってました…何年か前…死ぬのとって…いつ死んでも一緒やなぁって思い…自殺未遂しました…何度も…けど…起きたら…病院のベッドの上で…目の前に妹が…いて…私ゎ…一緒に『お水が…飲みたい』って言ってました…起きたら天井を見て…何も考える力も無くて…急に…ドアから…母が…『あんた…何日も起きなかった…』と言われ…私ゎ…深く反省しました。
きっと私自身…まだ…おいしい物が…食べたいから…生きているんだろうな…っと…
あの時…みんなに迷惑をかけたと思い反省しています…
you-me
No.19 (2013/01/29 10:54)
人間には悩む自由と悩まない自由が与えられる。
極限状態に置かれたとき、人間は悩まないことができる。
悩まず、他者を食べて生きるか、食べずに死ぬかだと思う(小並感)
やくちゅう
No.20 (2013/01/29 11:27)
初めまして、かわんご様。
貴方の記事を拝見させて頂きました。
ブロマガなるものを始め様々な記事を見て来ましたが、やっと興味深い内容の記事に出会えた気分です。

タイトルにある自殺を巡る力学の内容
思春期にはよくある生と死についての葛藤、ではなぜ葛藤するのか考えるからである。
だが人は思春期が過ぎてもこれらの事の考える、否。考えているのでは無い、それは只の悩みに過ぎないのではと。
考える事と悩む事は全く違う。悩むから人に意見を求める、つまりその友人は自己の中において考えていたと錯覚し、
実は只、悩んでいただけではないのか?
この考える事と悩む事については私自身も今後、記事として書こうと思っているので別の機会に語るとして。
この自殺が何故いけない事なのか?
突き詰めて行くと、自殺の最終段階は己の死である。自殺とは単に死に方の... 全文表示
イカフルァ
No.21 (2013/01/29 11:45)
死ぬことは悪いことじゃない、でも生きることも悪いことじゃない。
というかそこらへんは理屈でも定義でも精神論でも表せるものじゃないと思う。生死があるのは人間だけじゃないんだし。

まあ、死後の世界が不確かな以上、生きてた方がよっぽど無難ってもんじゃないかな。
JJJ
No.22 (2013/01/29 13:24)
自殺は人生のルール違反。
天邪鬼
No.23 (2013/01/29 13:51)
生きることが義務だとは言わないけれど、死んでしまってそれで良いのかと思う。生物には寿命があるのだし、今が辛くとも最期まで生きてみた方が得ではないかと、私はそう思います。
うぢひl
No.24 (2013/01/29 17:02)
タイトルの力学に惹かれて読んだけど、自殺の理由にどう力学が関係してくるのか、頭の悪い僕に教えてください。
finger4
No.25 (2013/01/29 17:13)
「親に面倒かけた」「他人から必要とされてる」みたいな負債とか期待みたいなものがあるうちに死ぬのは難しいんじゃないかな?逆に「親が死んでる」とか「他人から必要とされてない」みたいなときは死ぬ条件が整ったし自殺しやすい。

福本伸行の『天』16、17、18の最終巻読んでほしい。
アカギの自殺を止めるために生命倫理vs功利主義なディベートを延々繰り広げる。
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