今年から、研究に必要な文献資料、原テクストの読み込み以外にも
もっと増やしたいと思っていた「普通の」読書。
ここ何年かは、とある文字への恐怖症から
研究に必要なもの以外は余程でないと「普通の」読書を(したくても)しなかった。
おかげで文献資料、原テクストを大量に読み込み、読解に費やした年月。
小学校の頃には図書館の読むべき本やそれ以外も読み尽くして非常に退屈した。
親が好きなだけ本を買ってくれたから問題はなかったけれど。
自宅にある親の書物にもほとんど目を通したり。
よく視力が良いまま来たものだなあ、と大学院時代までは思っていて。
先日、ブログでもあげた、
「普通の」読書対象の小林秀雄のこちら↑と。。。
連動するものとして、『芸術新潮』も。
発売された2月号。
『芸術新潮』ならではの特集。
そう言えば、今年のセンター試験で小林秀雄が話題になっていましたね。。。
さまざまな文体があって、時代も思想もいろいろで、
同じ日本人であっても
同じ日本語であっても、
難解なことはある。そういうものだから面白い。
付け加えれば、読書はそれらを少しは円滑にする役割は果たすんじゃないかな。
余談:
前にそれなりの年齢の大人(サングラス大好きな大人)と話していてビックリしたのは。。。
私にとっては「読書」の対象と呼ばない某ファッション誌等を「読書」と呼んでいたこと。
しかも、ほとんどそれらのファッション誌しか読まないと知り。。。絶句。
ファッション誌でもよい特集はあるし、それは読む対象として選んでいいけれど、
そうでなくて、他の媒体を読まないということに絶句。
個人の自由だからいい、としよう。
ただ、私はそういう人とは会話が続かなくなるな、と予感したのが的中したというだけ。