1 二番機 [2013/01/12(土) 01:28:57]
このスレは匿名コンテストの会場スレです。
参加者の方は、このスレに作品を投稿して下さい。
感想等は全て本部スレにお願いします。
■■投稿する前に、名前が匿名であることを確認する事■■
【コンテスト規定】
・参加表明は実名HN、作品投稿は匿名HN。 発表後HN明かし(オープン参加者は2月9日)
・作品の1レス目の1行目には作品タイトルを書くこと。作品の投稿後に、アンカーで自分の作品をまとめる。会場スレにきた感想は無視すること。
・短編の完結作と限る。ジャンルは自由。字数は10000+100字程まで。
・感想等は全て本部スレの方へ。会場スレへの感想は、参加者第三者共に認めない。
2 夏至P [2013/01/12(土) 19:00:51]
『ワーカーホリック』
一発目失礼します。
*
文章を書いてお金を貰うようになってから一年ちょっと経ち、単行本をその一年で四冊も刊行してもらえた僕は、最近《期待の新人》というなんとも恐れ多い名目でインタビューを受ける機会があった。
本を出したときにやっと自分が作家になったのだと実感したけど、裏を返せばそれは受賞し、編集さんと顔を合わせ、受賞原稿の改稿作業に入り、赤だらけのゲラを貰って尚僕は作家になったという自覚がなかったのだが、まあそれはいいとして、そのインタビューを受けることで今度は自分が作家になったのだと自覚した。
実感と自覚の違い。
ここでの実感というとまだ初々しさとか、新人だし許されるだろうとか、そんなよくある甘えがあるが、自覚は違う。強い意志を感じる。
あぁ、本当に作家になったんだなぁ、頑張ろう。
僕は作家だ。頑張るのが当然だ。その中でより良いものを書こう。
具体的に言うとこれくらいの違い。
プロ意識の芽生えと言っていいのかもしれない。まあプロ意識の薄い状態で四冊も本を出してしまったのはどうなのという話が浮上してくるのだけど、どうか勘弁してほしい。
インタビューでは執筆のペースとか、小説を書く上で気を付けていることとか、作家になろうと決めたきっかけとか書き始めた理由とか、話が浮かんでくるのはどんなときとか、こんなこと聞いて誰が得するんだというようなプライベートに迫る質問とか、まあ色々された。
執筆のペースや、小説を書く上で気を付けていることや、プライベートなこと(もちろんこれについては曖昧にボカしたり、たまに嘘を吐いたけど)は、緊張して、まるで頭が糸で上に引っ張られているような無駄に美麗な姿勢をしていながらもなんとか答えられた。
が、どうしても答えられなかったことが一つあった。
地蔵のように黙り込んでインタビュアーさんを困らせた挙句、ごめんなさい分からないですで終わらせてしまった質問が一つあった。
小説家になろうと思ったきっかけ、あるいは書き始めた理由である。
3 7秒0 [2013/01/12(土) 19:01:34]
はて僕はなんで小説を書いているのだろう――分からなかったのだ。
書き始めた頃は覚えているのだが。
因みに本格的なそれの開始はあれの真っ只中である中学二年生なのだが。
とは言えその理由があれの真っ只中だったからという短絡的な理由ではないと思うのだ。
なんとなく、僕には小説を書き始めるきっかけが存在していると思う。
そんな気がする。
「うーん……」
僕は執筆途中の手を止めて、記憶を探るように腕を組んだ。
天井を仰ぐ。アニメのポスターが貼ってある。具体的に言うと、いや言わない方が良い。無駄なおふざけは雰囲気全体を壊してしまう可能性が無きにしも非ず。
実際に僕はそのおふざけでシリアス一直線のはずの小説の雰囲気を和ませてしまうことがあるのだけど、どうにも最早癖と言っていいこれは直らない。
もう諦めている。
諦めは良く、言い方を良くすれば潔くあるのだ、僕は。だから二百枚以上書いた長編の続きを書かなかったり――と、これは違う。続かないだけだ。
どこかで壁にぶち当たることが多い。
それは物語を書いている上でのこともあるが、執筆とは全く関係ことで悩んだりもする。
例えば――今がその最中だ。
もしかしたら、悩みを解決しなければ、僕はあと一週間後に迫った締め切りを破ってしまうかもしれない。
ペースだけが取り柄の僕がそんなことをしてしまえば、幾らプロ意識が芽生えたと言ってもそれは口だけでしかなくなってしまう。それは御免だ。
「うん……しょうがない。動くか」
僕は椅子から執筆中はとんでもなく重い腰を上げて、1Kにしてはでかい物置へ向かい、そして中から一つの段ボールを取り出した。
4 夏至P [2013/01/12(土) 19:03:19]
《捨てない》
と、雑な文字で書いてある。
それにしてもなんてネーミングセンスなんだろう。先にネタバレしてしまうと、この段ボールには所謂思い出の品々が詰められているのだが、他に良い名前はなかったのだろうか。それをただ一言、無機質に捨てないというのは無味乾燥にもほどがある。
かりそめにも作家なのだから、もっと捻ったり――具体的に言えば、かっこいい並びのオリジナル四字熟語に、かっこいい横文字の読み仮名をつけてみたりとか。……いや、よく考えてみればそれはそれで合っていないか。
自分の思い出に陶酔し過ぎだ。
僕は苦笑いしながら、そういえばしばらく開いていないこの段ボールを開いた。
すると刹那、その年数分だけの塵や埃が温泉を掘り当てたように噴き出てきた。
咳き込み、手でそれらを払う――姿を現す。思い出の品々だ。
「とりあえずこの辺にありそうなんだよなぁ、きっかけ……」
あるとしたらこの辺だろう、というほぼ推測で僕はがさがさと中身を漁る。
誰かとの出会いが僕に喚起を促し、あるいはどこかの場所に訪れたことで僕は感銘を受け、というのは絶対にないと分かっているので、案外根拠はあると言っていいかもしれない。
人でも場所じゃないならもの。
もっとも、寝る前のベッドでの思い付きだったら元も子もないのだけれど。
漁れば漁るほど溜まった埃などと共に、懐かしい品々が出てくる。
ちょっとした宝探しをしている気分だ。
自画像、自由研究、風景画、木の工作、穴の開いたどんぐり(まさかこの中で生まれたわけじゃあるまい)、道具箱――と。
5 夏至P [2013/01/12(土) 19:03:44]
「それっぽいものが出てこないな……」
見つかるものは単純に懐かしさを覚えるものばかりで、きっかけと思えるようなものが見つからない。
小学校、中学校、そして高校もちょっと。
三世代全ての品が詰まっているから、ここになかったらあとは実家にわずかに残っているのしかないだろう。
先の通り実家を出るときに、ゴミの分別のように完全に《捨てる》《捨てない》で分けているので、わずかに残っていると言っても、精々両親の顔の絵数枚くらいだと思われる。
うんつまり、ここになければないと言ってしまってもいい。
「原稿落としたくないんだけどなぁ……締め切り破りたくないなぁ……」
そもそも締め切り五日前に原稿が終わっていないことが既に初体験であり、緊急事態なのだ。最低でも一か月で長編一本ペースの僕が、二ヶ月の猶予が与えられて未だ書き上げることができていないこれを緊急事態と呼ぶことをきっと理解してもらえるだろう。
あと二十枚ほどで終わるのだ。
ここまで落としたくはない――と。
一冊の冊子が僕の目に留まる。
これは、確か――
「……六年の頃の劇でやった……」
海賊ものの劇の脚本に違いなかった。
表紙やタイトルからそう断言できる、これは僕がステージで演じた最後の劇である。と、これは少しだけ話題が逸れるのだが、昔の僕は劇の役に立候補するようなアグレッシブな子供だったのだ。
6 夏至P [2013/01/12(土) 19:04:10]
今ではおよそ信じられないことであり、いつからそんな風に思うようになったのかと思い返してみると、それはやっぱりというかなんというか中学入学後で、まあ単純に恥ずかしかったんだろうなあと自分の過去を思わず笑ってしまう。
僕も可愛いところがある。
因みに今の僕だったら、人前に出るのが嫌だからと言う。
過去は恥ずかしいから、今は人前に出たくないから。
まだ前者の方がマシだ。
閑話休題。
僕はひらりと小学六年生の書いたやたらと目がでかく顔が横に大きな下手なキャラクターが書いてある表紙を捲って、ところどころに落書きのある中身をぱらぱらと見ていく。
そうそうこのとき、デュエマとか流行ってたんだよなぁ。
それに影響されて自分たちでコピー用紙を使ってオリジナルカード作ったりね。
あとは自分の中でドラえもんの絵を描くのが流行っていたな、膝を組んだドラえもんとか、あ、これはケロロ軍曹だ。僕はケロロ小隊で言うとクルル曹長、ガルル小隊で言うとガルル大尉が好きだったなぁ。アニメはセカンドシーズンの最後の方の、サザエさんのパロディネタが出てくる話が好きだった。納豆が出てくる話だったと思うん――
「――逸れたな……」
とまあ一週目はこんな感じで落書きを発車駅として、最終的にケロロの好きな話が終着点になってしまったので、気を取り直して二週目へ。
7 夏至P [2013/01/12(土) 19:05:00]
再び表紙に戻ってページを捲る。今度はしっかり内容が頭に流れ込んできて、そのときのシーンが脳裏でフラッシュバックされる。
さっき僕は劇に出演したと言ったが、実のところ僕は主役ではなくいつも脇役を自ら好んで選んでいた。
この海賊ものでは……えっと、なんだ。
黒ずくめのエネミーだったっけ? エネミーを演じたことで小説を書こうと思い立ったわけではなかろうに。
本格的に書き始めたのが中学二年なら、少しだけお試し的に始めたのが小学生のこの頃。
覚えている。
だから、多分探せば――
「あ、あった」
二週目を読み終え、何気なく段ボールに視線を落とすと、そこには。
「これだこれだ!」
僕は声を上げる。
コピー用紙を半分で折り曲げたのが何枚か重なった――表紙もタイトルもついた一冊の薄い冊子があった。
表を見て裏を見て――あぁ、これだ。
劇の脚本を勝手に改変した、最早別物と言っていいそれ。
あるいは小説――小説のようなもの。
当時の思いが寝過ごし慌てて起きたみたいに思い出される。
内容は稚拙。
文章も稚拙。
何もかも稚拙――だけど、僕はこれを自分すげぇと思いながら書いていたんだ。
友達がこれを読んで笑ってくれたから、馬鹿みたいに笑ってくれたから、僕は書いたのだ。これが僕の探していたもの――僕の始まりであり原点、きっかけだ。
赤面し顔を熱くしながら、ときにダメ出しをしつつ読み進める。
くだらないギャグの羅列はどこまでも続く。
しかし――小学六年生のギャグで笑う二十歳の姿がそこにあった。
何週も読んだあと僕は再びそれを中に戻し――はせず、劇の台本だけ戻して、きっかけが抜けてほんの少し軽くなった段ボールを物置に戻した。
僕はデスクに戻り、悩みが取り除かれたフレッシュな状態で再びキーボードを叩く。
僕の《きっかけ》はパソコンのディスプレイから顔を上げればすぐに見える小さな棚の上に置いた。
これで今度インタビューを受けたとき、同じような質問をされたらすぐに答えられる。
また僕は今日、ありがちであふれているほどだがしかし結構忘れがちな言葉の大切さを改めて知った。
作家になってから忘れがちだったその言葉を、僕みたいなぺーぺーに最も効く言葉を、ふてぶてしく目の前の僕のきっかけを見ながら言う。
「初心忘れるべからず」
>2+3+4+5+6+7
8 柔軟銀行 [2013/01/12(土) 20:36:44]
【囁】
空を覆う、どんよりとした雲が低く低く唸っている。頬を刺す風は冷たく、僕から容赦なく体温を奪っていった。両手で買ったばかりの熱い缶コーヒーを握り締め、僅かな温もりにほう、と息を洩らす。吐き出された白い影は冷えた空気に溶け込み、その寒さを際立たせて去って行った。
「……さーむいねぇ」
公園のベンチに並んで腰掛けた君に呟き、横目でちらりと様子を伺う。
心此処に在らずといった風の君はゆらゆらと瞳を滲ませ、黒く長い髪を風に遊ばせていた。ついぞ見なくなったけれど、君は笑えば向日葵のように美しい。
暫く黙って言葉を待っていた僕は、返答の気配すら見せない君に痺れを切らした。
「ねぇ……ねぇってばさ。聞いてる?」
「え−−あ、ゴメ、聞いてなかった」
目線を上に向け、取って付けたように口元だけ緩ませる。その姿にため息をつき、誘われるようにその瞳の先を見れば、分厚く歪な雲が浮かんでいた。
「あの時ね」
ぽつり、君が呟く。
「あの事故の日も、こんな雲がかかってたの」
「……」
眉根を寄せて何かを堪えた君が、真綿のような手を袖口にしまうのが見えた。辛い記憶を消し去るように頭を振る。君のその辛い記憶は、どうしたって消えてはくれないのだろうに。
9 柔軟銀行 [2013/01/12(土) 20:37:14]
昔、僕らがまだ高校生だった頃。その頃の僕らは付き合っている訳でもなく、いわゆる友達以上恋人未満というやつで、それでも僕らは幸せだった。二人で居ることに何の不思議もなかったし、それが自然なことだと思っていた。
そんな僕らに、ある男が入学と同時に近付いて来る。そいつは軽薄ななりでクラスを渡り、其処此処で女子を泣かせる、最低の男と噂されていた。
それまで君と僕だけだった世界に土足で入り込み、あまつさえ君を奪おうとするそいつに、僕が憎しみ以外の感情を抱くことはない。その思いは日に日に募っていった。
そんな、ある日。
『俺達、付き合ってるんだ』
『ね、貴方も応援してくれるわよね?』
−−絶望した。
同時に、困惑した。
どうすれば良い、このままでは君が泣いてしまう。悲しんでしまう。向日葵のような笑顔が枯れてしまう。それは僕の望むことではない。救いたい、救わなくては。そう、あの男が居なければ良い。しかし僕にはどうすることもできない。今あの男が消えれば、君が悲しむことは明白だから。
消したい、消せない、消えて欲しい、消えてはいけない。救いたい。救いたい、救いたい、救いたい。
ぐるぐると回り続ける思考に悩み、動くことも停まることもできない自分に歯噛みする。その状態は長く続いた。そして、高校二年のある放課後。
僕に悪魔が、囁いた。
10 柔軟銀行 [2013/01/12(土) 20:37:42]
帰宅部の僕が、同じく帰宅部のそいつに駅で会うのは初めてではなかった。校内でも珍しい電車通学のあいつは何時でもプラットホームの一番前に立っていたし、幸か不幸かその駅は利用者も少なく、無人駅だった。
そしてその日、駅には誰も居なかった。朝から降り続いた雨は勢いを強めており、太陽を覆い隠す分厚い雲は光を遮っている。薄暗く雨に濡れたプラットホームで、あいつが軽く躓いた。水溜まりに滑ったのだろう。近付く電車のライトを見て眩しそうにしたあいつは、気を取り直したように姿勢を正した。
……今までは、誰かが居た。それは市の清掃員だったり、犬の散歩をしている老人だったり、帰宅途中の同級生だったり、それでもとにかく、何かしらの目があった。
でも、今日は。
全てのタイミングがカチリと合った時、僕の中にひとつの考えが浮かぶ。それはとても小さくて、例えば誰かに話し掛けられたら霧散してしまうような、そんな考えだったのだと思う。
−−セナカ、オシテミヨウカナ−−
押せばどうなるか、解らないほど幼くはない。それはつまり、僕の中に殺意があった証拠だ。言い訳をするのなら……僕の中の悪魔が囁いた、のだろう。
背中を押されたあいつは線路に落ち、その上を電車が勢い良く進んでいった。千切れた肉塊と赤黒い通学バッグを残して。
11 柔軟銀行 [2013/01/12(土) 20:39:49]
プラットホームに溜まった雨水、薄暗い駅内。唯一の目撃者である僕の証言もあり、あいつは「プラットホームから誤って転落したことによる事故死」と判断された。周りの皆は悲しんでいたけれど、僕は嬉しくてしょうがない。邪魔者は消えたのだ。もう何者も、僕と君を隔てることは出来ない。君を救うことができた。僕は嬉々として君に会いにいった。大輪の向日葵を思い描きながら。
君の家に行き、ご両親に挨拶を済ませて君の部屋へ。母親の何かを考えるような反応が少し気になったけれど、お構い無しに廊下を進んだ。
かたり、扉を開けると。
僕が想像もしなかったような光景が広がっていた。
綺麗な髪を無惨にも振り乱し、涙でぐちゃぐちゃになった顔は蒼白、泣き張らした目は充血している。変わり果てた姿の君だと気付くのに随分と時間がかかった。
「死ん、じゃった」
「あ……」
救いたい。
「居なくなっちゃった、あの人が」
「僕、は」
そう望んだ、だけなのに。
「居ないの、探したの、いっぱい、たくさん、探したの」
充血しきった瞳から、一筋、また一筋と滴が溢れる。
ああ、僕は。
何の為に僕は。
「どこにも、居ないの……」
君の笑顔を取り戻したかっただけなのに。悲しませたくなかっただけなのに。一緒に居たかった、ただそれだけなのに。
あいつの命と引き換えに手に入れたのは、君の哀しむ姿と崩壊した心、それだけだった。
****
君の心は癒えぬまま、それから幾つも季節を数えた。空を見上げ、雲を眺める日々は、君に何を思わせるのか。あの日から君の心を救えぬ僕は何を思うのか。
−−ああいっそのこと、巣喰ってしまえれば良いのに。
君の心に巣喰い、あいつを忘れさせてしまえれば良い。そう出来れば、どんなに良いだろう。
冷えきった缶コーヒーを握り締め、己の矮小さに唇を噛む。口の端から溢れた吐息は真白に染まり、僕の穢さを目の前に突き付けて去って行った。
−−君のその、心を救えば、心に巣喰えば、僕らに愛は生まれますか。
【囁】>8+9+10+11
12 真矢みきな [2013/01/14(月) 17:13:29]
【着ぐるみ】
2013.1.24.
話を聞く限りでは、あまりいいアルバイトではないが、時給はいいし、貧乏学生にはぴったりだった。
「これを着てさ、風船とか飴とか配って欲しいんだよね」
店長の指差す方向には、何年も洗ってないのか綺麗な青色がくすみ、プラスチックの目はホコリでくすんでいるくまの着ぐるみがあった。
「これ、何年前のものですか?」
「うーん。3年前かな。僕の父が買ってきたんだ」
くまの着ぐるみは、従業員用の部屋の壁にぐったりと寄りかかっていた。
「ちょっとの間洗ってなかったから汚いけどさ、洗えば着れないことはないよ」
店長は、洗っておいでと言って、店へ戻っていった。
私は、くまを丁寧に洗った。けれど、所々に飛び散った泥のあとはあまり落ちなかった。
部屋に戻ると、店長ではなく、名札に山本書いてある人がいた。
「あら、あなた新しいアルバイトね。それ、着ることになったんだ」
山本さんは、私より少し上だろうか。かなり背が高くて170cmほどあった。
「私も、アルバイトで入ったとき着てみないかって言われたんだけど、小さすぎて入らなかったの」
山本さんは、着てみようよ、っと言って手伝ってくれた。
「まぁ、ぴったり!似合ってる!」
私は、初めて着ぐるみを着たものだからなかなか目の焦点が合わなかった。
やっと焦点が合い、外の景色をみた瞬間、私は驚いた。
なぜか、山本さんの額2013.01/25という日にちが書いてあったのだ。
「あの、山本さん」
「どうかした?中に変なものでも入ってた?」
私は、急いで頭のかぶり物を取った。
けれど、やはり山本さんの額には何も書いてなかった。
「あの、山本さん。ここに立ってください。絶対動かないでくださいね」
山本さんは、不思議そうに首を傾げた。
私は、もう一度くまの頭を被った。
01/25、その数字が再び浮かび上がる。
「ちょっと外へ行ってきます」
私は、足早に駆け出した。
13 真矢みき [2013/01/14(月) 17:20:08]
私は外に出た。
くまの格好でいきなり飛び出たため、通行人に驚かれてしまった。
やはり、みんなの額に日にちが書いてある。
散歩をしているおじいさんは2013.5/13、きらびやかな洋服を身に纏った少女は2075.6/29と書いてある。
これは、何の日にちだろうか。まさかだが、命日になってしまう日にちではないだろうか......。
「ねぇ、さっきからどうしたの?」
山本さんが、後ろから声をかけてきた。
「あっ、いえ。何でもないです」
私は、部屋へ戻った。
ドアが開いて、店長がニコニコとしながら入ってきた。
「どうだい?洗えば着れなくもないだろう」
笑いながら、店長は話を続けた。
着ぐるみ越しに店長を見ると、額には今日の日にちが書いてあった。
「おーい。どうした?返事してくれよ」
「すいません。考え事してて......」
そうかそうか、と店長言って明日の仕事内容を話した。
もし、その日付が命日を表すのなら今日、店長はどうなってしまうのか。
「じゃっ、帰ろうか。家まで送ってくよ」
もう辺りは暗くてなぜか気味が悪かったので、送ってもらうことにした。
「どう?仕事、慣れそうか?」
「はい......」
私は、店長の日付のことが気になり、フラフラと歩いていた。
突然、後ろから猛スピードで車が突っ込んできた。
「危ない!」
一瞬何が起こったのか分からなかった。分かったことは、一つ。
店長が、ひかれてしまった。
私は怖くなり家まで走って帰った。
もうすぐ、日付が25に変わろうとしていた。
14 真矢みきな [2013/01/14(月) 17:29:35]
次の日から、私は着ぐるみを着ることができなかった。
店長は、昨日の事故で亡くなってしまった。
「今日からその着ぐるみ着るのよね。頑張って」
山本さんは、わざとらしく笑った。
私は、怖かったが勇気を振り絞り着ぐるみを着た。やはり、皆、日にちが書いてあり、それがもうすぐだと怖くなる。
「はい。どうぞ」
小さな可愛らしい女の子に飴を渡した。
「ありがとっ!くまさん」
女の子は、母親と一緒に歩いていった。少し気持ちが落ち着いた。
それから、私は様々な子供たちに飴を配り続けた。やっと、仕事がひと段落つき、休憩に入る。
「お疲れ様」
山本さんは、はいっとお茶をくれた。
「ありがとうございます」
あまり気分がよくなかったため、話すこともなかった。
「私、仕事戻るね」
山本さんは、まだ少ししか休憩していないのに仕事に戻った。
自分も仕事に戻ろうと、着ぐるみを着た。ふと、鏡を見ると写っているのはくまの着ぐるみを着た自分ではなく、額に今日の日付が書いてある自分だった。
「ど......どうしよう」
私は、自分にも日付が書いてある事を忘れていた。
私は、とりあえず何も考えずに仕事に戻った。
いつもと同じように飴を配る。
突然、近くで悲鳴が上がった。
15 真矢みきな [2013/01/14(月) 17:40:21]
何事かと思えば、通行人に銃を突きつけた男いた。
男は、躊躇うことなく人を撃ち続ける。
血しぶきをあげて倒れるもの、痛さで喚くもので辺りは埋め尽くされた。
その人たちに共通することは、額の日付が同じということ。
と言うことは、私も......。
と思った瞬間。
私の心臓を銃の球が、突き抜けた。
わずか数分の出来事だった。
****
それからと言うことの、その着ぐるみは使われることはなかった。
もし、あなたが着ぐるみを着て働くことになったら鏡を見てみてください。
その日付は、今日かもしれませんよ。
17 はりあな [2013/01/18(金) 21:35:09]
[異色症と弟]
「ねーちゃんっ、眼ちょうだい!」
ベットでぼーっとしていた私にそう言って来たのは、一つ年下の弟だった。
「・・・は?」
「だからねーちゃん、眼ぇちょうだい」
訳が分からないよ。何故私が弟に眼をあげなくてはならないのか。
「・・・なんで?」
「だって、ねーちゃんの眼、美味しそうだから」
そう言って、私の眼球をべろりと舐めた。
「うわぁっ!なにすんのばか!」
「ごめんごめん、あんまりにも美味しそうだったから」
「・・・」
濁った眼で睨んでみるが、あまり効果はないようだ。
18 はりあな [2013/01/18(金) 21:51:35]
「私は、あんたにあげる眼なんてありませんよ。さっさと出て行けっ!」
そう言って、弟を病室から追い出した。
「眼ちょうだいっ!」
来る日も来る日も、弟は同じように問いかけてきた。
私は焦点の合わない目で弟を見る。
「だからあげねっつの」
「ひどっ」
誰がひどいもんか。あんたの方がよっぽどひどいけどな。そう怒鳴りたくなった。
この部屋は完全に私一人なので怒鳴っても良かったのだが、もうそんな元気はない。
「ねぇ、パン買ってきて」
「え、やだ」
「ひどっ」
即座に断るときの弟は絶対に買って来てはくれない。そのことを知っている私は、コンタクトを入れて覚束ない足取りで歩きだした。
「大丈夫?物にぶつからないようにね」
「わかってる」
物にぶつかるのは私のせいじゃないんだよ。
19 Sリコーダー [2013/01/22(火) 19:55:27]
【漆黒に赤】
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.
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ふと目を覚ました。
酷く寝起きは悪く、よほどうなされる夢を見たのか頭は揺らぎ瞼は未だ重たい。浅く響く呼吸音とそれをかき消してしまうのでは、と思えるほど激しく脈打ち落ち着かない心臓。
布団の中で身動きを繰り返し天井を仰ぐ。
やはりくっ付こうとする瞼と格闘を繰り広げるとやがてあきらめたのか、素直に目を伏せると長く溜息を吐き出して闇に浸かる。
気付けば時計の針が正常に時を刻み、部屋に浸透していった。外は暗く未だ起きるには早すぎるが再び眠るというのも癪だった。
.
.
.
20 Sリコーダー [2013/01/22(火) 19:56:28]
「お早う御座います」
「おはよー」
窓の外から響く明るい声に無理矢理少年は叩き起こされた。ぼんやりとしている脳内だが緩やかに体を起こし、壁にかかっている時計を確認すると午前八時。俗に言う登校時間という物だった。
相も変わらず賑やかしい外からは日が昇って差し込んでいる。首だけを動かし窓を見れば、生徒がきゃいきゃいと声を上げて道を歩いている様子が見えた。
学校に近い寮の一室ということもあってかその光景はとてもよく目に映る。数分の間ベッドから上半身を起こした状態のままだった少年――ベリアルであるが、そろそろ時間の経過が宜しくないと気付いたらしくゆっくりとした動作で脚を下ろした。
布団を整えもせず革靴を履いてクローゼットに向かうと、寝巻き代わりにしていたワイシャツを脱ぎ捨て新たなものに袖を通す。ただ布と布が擦れる音がして、慣れた手つきで彼は着替えを済ませてゆく。
制服の作りはごく単純で紺色のブレザーに紺色のスラックス、クラスごとに色の違うネクタイといった具合。襟まで伸ばされた黒髪に赤い瞳を持つ彼にはよく似合う服装だった。最後に特に指定の無い(ベリアルの場合は古臭い臙脂色の)ローブを軽く羽織り部屋を後にした。
廊下に出て突き当りまで進むと一階に下りるための階段が設置され、時間が時間ならばそれなりの人で賑わっているロビーが見えるはずだが、始業間際ということもあるのか。人気はほぼ無く、寮母が掃除をしている程度だった。
他数名、彼同様寝坊をした人物はろくに制服も着ずに半ば転げるようにして玄関を後にするのに対し、やはりベリアルは眠たそうに半分閉じた目のままゆっくりと階段を下りる。
掃除をする寮母を脇目にあくびを一つ残し不規則に足音を立てて、陽光の差し込むタイル張りの道へと歩み出た。
彼が起床してから全くといってもいいほど時間は経っておらず、相変わらず登校する生徒が多い。学校自体全寮制であるがベリアルの様に校門まで徒歩で一分以内という立地のよい寮に住んでいる生徒はごく稀で、ほとんどの生徒が寮から歩いたり鉄道に乗ってくる場合が多い。そうなると起床時間も自然と早くならざるを得ず、眠たそうにしている者やあくびを連発している生徒が見受けられた。
それでも大概が楽しげに談笑をしながら校門を潜り、無駄に広い庭園を抜けて玄関に到達する。
ベリアルはそういった面々を蔑む様な目線で一瞥すると、誰とも言葉を交わすことなく真っ直ぐと教員室に向かった。
ロビー中央から広がる階段を手すりに指を滑らせながら上がり、踊り場で一度とまると視線を下の階に向ける。広がる光景は先と全く変わることなく、彼にとって見れば無駄だと取れる馴れ合いを繰り広げているだけで、見たら自分が不愉快になると分かっているのに何故か彼は暫くの間眺めていた。
21 Sリコーダー [2013/01/22(火) 19:57:36]
そこに居た生徒たちが階段に向かって来たのを見計らうと何事も無かった様にそそくさと昇っていき、少し開けた二階へと到達する。
教員室は角を曲がった直ぐにある。
鞄を手にしていない方の手で扉を数回ノックすると声をかける様子も無く扉を開け、中に入り込む。行動に一切の躊躇というのは見られず、まるで己が主だといわぬばかりの堂々っぷり。一瞬教員全てが驚いたような目線を一斉に向けるが、一番奥に腰掛けていた校長らしき人物がにこやかに微笑を浮かべる。
「転校生のベリアル君だね? 昨晩はよく眠れたかな?」
「お蔭様で」
「それならよかったよ。此方に越してきて直ぐだというのに早々授業で申し訳ないね」
「いえ」
ベリアルのぶっきら棒さからか、会話は一度そこで途切れてしまった。張り詰めた空気が室内には満ち足りて、程よく時計の針が傾いたときであった。校長が再び言葉を口にする。
「朝礼で君を紹介することになっているから案内しよう」
「それはどうも」
わざわざ立ち上がり親身に話しかける校長だがベリアルは表情一つとして変えずそっけなく言葉を返し続け、横を通り過ぎて手招きをしている彼を見ると教員室の中を一瞥し、行儀悪くも忌々しげに舌打ちを残すと後にした。
廊下を歩く間特に会話らしい会話は無く、通行する生徒に校長が挨拶をする程度であった。それらが物珍しそうにベリアルを眺めては舌打ちをお見舞いされる、ということを幾度か繰り返しながら少し時間がたったらしい。始業の鐘が心地よく校舎全体を震わせてながら鳴り響く。
随分と長い廊下を歩き続け突き当たりの階段を降り、角を数回曲がって再び直進をしていたときだった。ふいに校長が口を開きベリアルに話しかける。
「どうだいこの学校は」
表情こそ伺えないものの教員室のとき同様。柔らかな笑みを浮かべているようで、声音も同じく。
「別に」
「そのうち気に入るようになるよ」
校舎を出て中庭の通路を歩いて中ほど、
「綺麗だろう自慢の中庭だよ」
校長は一度足を止めると右手をむいた。
「そうですか」
興味なさげなベリアルであるが校長が自負するだけ美しいものであった。青々と芝生が地面を埋め尽くし、中央に設置されている噴水からは煌きながら水が放出されている。花々と木々は風にそよぐ。鳥のさえずりに耳を傾けつつ彼は言葉を続けた。
「少々魔法の手助けは入っているがね」
愛しそうに目を細めてじっと見詰めている校長だが、ベリアルの無神経な言葉で遮られてしまう。
「朝礼に遅れるのでは」
「はは、これは手厳しい。君の言う通りだね、少し急ぐとしようか」
中庭の通路をそうして突っ切ると一つの大きな講堂が目に飛び込む。古めかしくも荘厳な雰囲気を放つ場所であり、校長の後に続いてベリアルは中に入り込んだ。
22 Sリコーダー [2013/01/22(火) 19:58:22]
入り口から見えるに全校生徒が集まっているのだろう、それなりの人数が講堂内に設置された椅子と長机について壇上に注目していた。多少なりとも普段は無い朝礼に期待を寄せているらしくざわめきが包んでいる。
そんな中校長はベリアルに少し待つよう言い残し壇上へと上がった。
「諸君おはよう」
「おはよう御座います」
壇上横のカーテンの陰に潜み後ろから一連を眺めていたベリアルの眉間の皺は濃くなり、聞こえるか聞こえないかといった舌打ちが数分の間に幾度も繰り返される。校長の前置きというのは長いもので、延々と生徒からすれば無駄な話を区広げていた。
「さて、早朝より集まってもらい申し訳ない、ご苦労であった。はてさて諸君をこうやって此処に招いたわけなのだが、良い知らせがある」
別段大きな声で言っているわけではない。だが生徒が期待を寄せていた話題になったということで、講堂内に校長の声は良く響き彼らの関心を引いていた。
固唾を呑んで見守る中校長は言葉を一旦区切ると、カーテンの影に居たベリアルを手招きする。
「今日からこの学び舎に新たに一人加わることとなった」
その事に気付いた彼が歩みを進めるのにあわせて紹介を続け、
「特別科に編入するベリアル・タルタロスだ」
正面を向いたと同時に彼の名を告げた。
今まで温かみに包まれていた空気が一瞬にして冷え切り、下を向いていたベリアルが顔を上げたことにより更に凍る。赤い瞳がじっと生徒たちを捕らえ皮肉気な笑みと共に口角が上がった。
「どうも」
素っ気無く吐き出された言葉。黒髪を揺らし再び下を向いたベリアルに降り注ぐのは、嘲笑と哄笑。それとどことなくふくまれた憎悪の視線だった。彼が一応にも吐き出した挨拶はあっという間に喧騒に飲まれ消沈して行く。ざわめきが無くなるまで明後日の方向に視線を向け壇上に立っていたベリアルは、大きな欠伸をして目尻に涙を浮かべた。
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23 Sリコーダー [2013/01/22(火) 19:59:40]
朝礼が終わり通常の授業が開始される。それを知らせる鐘が鳴り響く間、ベリアルは悠長に中庭の通路を歩いていた。この時間帯の授業を選択していない者達が奇怪に彼に視線を投げかけては失礼にも笑いをこぼし、指を差して嘲る。
これに対してベリアルが何か文句を言うわけでもなく、また悲しむわけでもなく。無関心という言葉が丁度良いほどに周りを気に留めず校舎内に入るべくしていた。それなりに距離と幅のある中庭通路、校舎側からやって来るのは体格的に上級生か。
列を成して話を広げながらベリアルの方向に向かってくる。
「いや、でさー」
げらげらと品の悪い笑い声を発していた一人にベリアルとぶつかった。両者共によける、という選択肢をなさなかったためか正面衝突をしたわけである。
「ってぇな……」
鈍くぶつかり合う音がして、上級生が取ってつけたような文句と共に体を揺らした。
「おいおい、カイ大丈夫か?」
行動を共にしていた一人が支えるようにして肩に手を回すと訝しげに眉をひそめ、立ち止まったベリアルに視線を落とした。
「てめぇ避けろよ」
「はあ」
「何でよけねぇんだよ」
「君たちが悪い」
睨みながらこえを荒げた上級生だが、ベリアルは微動だにしない。だるそうに顔を上げると、頭二つ分は違う相手をじっと見据える。
「は? 下級生なら避けろよ、つかお前今日来た転校生だろ」
「それが何か」
「お前ふざけてんの?」
「別に」
カイと呼ばれた青年によってベリアルの胸倉が掴み上げられる。彼自身の人を小ばかにしたようなぶっきら棒な態度はそう思われて当然であるかもしれないが、全く悪びれた様子は見受けられない。
「うぜぇ……」
理不尽に吐き出された言葉。
「そうですか」
淡々と返すベリアルをカイを始めとした数名が取り囲んだ。
「つうかイラつくわお前、口の利き方ぐらい学べよ」
「そっくりそのまま返すよ。君たちにそんなことは言われたくない」
「一回死.んどけよ」
煽りを続けていた彼に苛立ちは最高潮まで達したのか、カイは手を離すとベリアルを突き飛ばし地面へと転ばせる。特に抵抗は見せずタイルの上に仰向けになるベリアルの視線はカイを捕らえては居らず、また他の生徒を見ている様子もなかった。つまりは焦点の合わない目をして四肢の力を抜いていた。
「転校生の癖してホント生意気だよな」
脚が振り上げられ鳩尾目掛けて体重がかけられる。ただ単にベリアルがぶつかってきたのだけが不満という訳では無さそうで、日ごろの鬱憤を晴らす目的も見える。
「しかも何、行き成り特別科? ふざけてんのか」
振り上げられ振り下ろす、振り上げられては振り下ろされる。全体重を乗せての動きは続き、同じくして取り囲んでいた他数人もベリアルを蹴り上げていた。蹴る、蹴る、蹴る。魔法は使われない、直接的に単調な暴力が繰り返され始めた。
痛々しい音が響くも周囲には人は居らず誰かが助けに来るということはない。静寂というのは残酷だと思わせた。鳴り続ける暴力的な音が校舎内に届くわけは無く、不条理にも中庭でとまる程度。
24 Sリコーダー [2013/01/22(火) 20:00:59]
ただ攻撃を受け続け大人しく受けていたベリアルであるが、ふと口を動かす。何かの拍子に唇が切れるという可能性を考慮していないのか、はたまた踏まえた上で行ったのか。
「その程度なんだ」
吐き出された毒は辛辣だった。と、いうよりも上級生たちにとっては火に油。眉を吊り上げた彼らはドスの利いた声を上げては執拗に鳩尾から脇腹、足先に至るまでを痛め続ける。
「ほんっと生.意気だよなぁ。泣いて懇願してもしらねぇっつーの」
カイはやれやれと肩をすくめると共にそう言って足の動きを止めた。
「泣いて懇願を請うのはお前らだ」
彼の声の質が変わった、という訳ではない。寧ろ別段何かが違うわけでもなく、小さくぼそぼそと告げられた言葉に過ぎなかった。ただ、ベリアルの瞳が歪んだ。擬音にするならばぐじゃりというのが正しかろう。ベリアルを中心とした全てがうねり、波紋を生み出した。
「Παραγγείλαμε, για σένα
Στα χέρια του το Άγιο Πνεύμα μας
Και καίω
Πτώση ελπίδα μας
Ye θάνατο」
轟と闇が渦巻いた。核となった彼の眼の奥底から無限に生み出されていく闇の炎。有り得ぬ光景に絶句するカイ達を容赦なく取り囲んでは、いつの間にか立ち上がっていたベリアルがゆるやかに手を伸ばす。
真っ直ぐにカイの頬に当てられたベリアルの手は氷河のごとく。触れられた部分から体温が一気に奪われてしまうようで(ただの恐怖感というものからの錯覚だということは明らかなのだが)何時の間にやら。周囲を闇の繭で包まれた彼らは絶望に染まっている。
「神が人間を見捨てたのもわかるなぁ、ほんと。まあ僕らは彼ら守るために創られたのに神は良く分からない。でもあれだね、今となれば良く分かる。人間なんてやはり不必要だよ、神の言ったとおりだ」
頬に添えていた指先をそのまま首筋に下ろして行き爪を立て、そしてそのまま心臓部へと指先を到達させた。
「人間って本当に愚.かだよね。限られた回数しか脈打てない心臓、要領の半分以下も使いこなせない脳味噌。繁殖することにしか使えない下肢。見てて悲しいね」
皮肉気に笑みを浮かべると心臓部でとめた手で拳を作る。
「おまえ、何いってんだよ……」
誰の声とも知れないものが響いたがそれは当たり前の様に震えていて上手く聞き取ることは出来ない。だが、明らかに恐怖と混乱で全てが追いついていない事をにおわせる発言であり、ベリアルは浮かべた半月を更に歪めた。
「まあ、死.ねよ」
とても残虐だ。
まるでおはようを言い放つ様に紡ぐと、右手を己の顔の前に戻して一度指を広げる。いつの間にか浮かび上がった青白い光は静かに脈打ち、この闇の繭の中で美しい輝きを放っていた。一つ、また一つと。着実に増えていく掌大の球体が放つ光がそこにいた四人全てを照らしたとき、嫌と言うほどに刻み付けられたのはベリアルの最後の言葉。
「我等が愛し子、アダムとイブの息子たちに永遠の安らぎと永久の闇を」
収束していた青の光を一瞬にして惜しげもなく握り潰した。
同時、彼らを包んでいた闇が霧散して陽光の中に溶け込んだかと思えば、セピア色のタイルの上を真っ赤な色で染め上げながら倒れているカイ達の姿が露になる。血の海の真ん中に立つベリアルは長く嘆息をすると片足を上げ、ぱしゃんとわざとらしく飛沫を立てた。革靴の先で彼らを突いても反応は無く、詰まらないと言わんばかりに再び息を吐き出すと周囲を見渡した。
「世界へ響かせよう、殺戮の鎮魂歌(レクイエム)を。我を目覚めさせた罪は重たいぞ」
堕天使は――ソロモン七十二柱の悪魔は哄笑を浮かべた。
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>19-24
【漆黒に赤】
25 夢の欠片 [2013/01/23(水) 16:39:12]
「Two springs」
澄んだ風が通り抜ければ、青々とした新緑が生い茂る幻想的な
森の草葉は、カサカサと気が安らぐ音を奏でている。時折聞こえてくる鳥の囀りはまるで子守唄のように優しく、広大な森を包み込んでいるようだ。花々は鮮やかに色取り取りで、木々の隙間から差し込む木漏れ日をめいいっぱいに浴びて、更なる成長を夢見ている。
そんな森の奥深く。まだ未知の世界とも言おう場所に、こじんまりと二つの泉があった。どちらもそれはそれは思わず見惚れてしまいそうな程美しかった。
そんな人知を越える二つの神秘的な泉は、人跡未踏の地であり未だその存在を知るものはいなかった。その時までは。
26 夢の欠片 [2013/01/23(水) 16:40:07]
時期は灼熱の太陽が燦然と輝き、地を照り付ける盛夏。
そんなある日、一人の小柄な男がその泉の傍を通りかかった。男は煌びやかでなんとも華美な衣を身に纏っている。羽織っている外套には無数の宝石が散りばめられ、目が眩んでしまうほど光っていた。
「世は……世は終わりじゃ」
容姿とは対象に、男は憂愁の色を出しながらとぼとぼと歩いている。
男は王だ。
この森を抜けた先にある、潤沢な物資が集う大国は少しずつ崩れかかっていた。貿易先の国は次々と遠ざかり、物資は値上がり、人々は国を後にした。かつての殷賑な姿は失われつつあった。
原因は王族にあった。
王の弟である第二皇は奸佞邪知だった。人以上の頭脳を持ち合わせているというのに、それを悪辣な政治の案に使ってしまったのだ。このことで国は大赤字となり財政難に陥った。
皇后にも重大な問題があった。皇后は元、国との最高の貿易国だった王の娘であったのだか、その貿易先も国との連絡を絶ってしまったため、母国へ戻れない状態になってしまった。そのためか、これまで穏和で全てを包み込むような性格は一変、悪魔に取り付かれたかのようになってしまった。自己中心的で驕慢な態度。大臣達はうんざりしながらも逆らうことはできずら皇后の尻に敷かれていた。
こうして悪循環は生まれ、国は崩壊状態となったのだ。
27 夢の欠片 [2013/01/23(水) 16:41:02]
「国は直に崩れ落ちていくであろう。我が何を、何をしたというのだ」
王は覚束ない足取りで歩んでいる。
第二皇子と皇后は全てを王に責任を負わせた。「最高責任者は兄上であろう」と「貴方様が国の顔なのだから」と。
国民は二人を信じてしまった。王には鋭い矢先が向けられ、「国のトップが何をしているんだ!」と「こんな王なら私は出て行く!」と、批判の嵐は止むことを知らない。
「何故だ。我は常に国のことを想ってきたのだぞ」
そんな王の訴えも儚く、王はついに国に追放されてしまったのだ。
28 夢の欠片 [2013/01/23(水) 16:42:12]
ふと喉が渇いた王が辺りを見渡すと二つの泉があった。王は茂みへと足へ踏み入れ、泉へ近づいて行った。
水を口へ運ぼうと、泉に顔を乗り出すとそこにはみっともなく充血し、しわくちゃになった自らの顔が写し出される。
「なんて無様なんだ……。全てを失った我には似合うがな」
と自己嫌悪する。
すると突如、日の出の方向にある泉が光を放ち始めた。その泉は全ての始まりを示している。かのように透き通る水に太陽が反射すると、まるで鏡のように世の全てを写し出した。今までの全てを。
「そう、これはわしの今までじゃ……。国を良き方向へ導く正解はあったのだろうか」
王はそう言うと、頬に涙が一粒伝った。
すると、その涙が王の目の前にある、 日の入り方向にある泉にポツリと零れる。そうすると、一度風な吹いてと泉の水が打ち上げられた。
「し、しょっぱい」
打ち上げられた水は王の口にも入り込む。
その水はまるで涙のように塩辛かった。そして何時の間にか蒸発し七色の光を天へ放ちながら消えて行った。希望の光のように。
「何だったんだ、今のは」
王が呆然とその場に立ち尽くしていると、後方の草陰から気配を感じる。
「誰か、誰かいるのか!」
「私でございます、大臣でございます」
草陰から姿を現したのは、葉っぱを体中に付け、息の荒れている大臣だった。
「……今頃何だ。我はもう王でも何でもないのだぞ」
王は俯き、無理に口角を上げる。
「そんなことはございません。先程何故か、何故か突然皇子様と皇后様が謝罪したのでございます。『兄上は悪くない。すべて私の責任だ』と」
王は理解しきれず、唖然としている。
「だから、王様は王様なのでございます」
大臣は王に駆け寄り、力強く満面の笑みでそう言った。
「我国を立て直すことができるのは、貴方様だけなのです」
29 夢の欠片 [2013/01/23(水) 16:44:24]
それから、王は国に戻り国をなんとか再建しようと努め、いつしか国は前以上に発展し活気溢れるようになっていた。
あの二つの泉は『始まりの泉』『導きの泉』と名付けられて国民に強く崇められた。
澄んだ風が通り抜ければ、青々とした新緑が生い茂る幻想的な
森の草葉は、カサカサと気が安らぐ音を奏でている。時折聞こえてくる鳥の囀りはまるで子守唄のように優しく、広大な国を包み込んでいるようだ。花々は鮮やかに色取り取りで、木々の隙間から差し込む木漏れ日をめいいっぱいに浴びて、更なる成長を夢見ているーー。
End.
「Two springs」>25-29
30 うさぎ [2013/01/25(金) 01:30:51]
『サプライズ』
*
食欲をそそる牛肉の匂いと、それを焼いている炭から溢れる煙の臭い。
ダイニングキッチンの扉を開けた途端に、月城の鼻腔をバーベキューの香りが突き刺した。その圧倒的な香ばしさの前には、胃がぐるぐると回る音すらも心地の良い刺激に感じられる。
――まあ、ここは室内なのだが。
「うお、すげえ匂い。肉焼いてんのか」
部屋の敷居を跨いで直ぐ、月城は鼻の穴を四ミリ広げて言った。その質問に、彼を部屋まで誘導していた須藤は軽く頷く。
「ああ、この前炭いっぱい買ったから」
「炭……何でまた」
須藤から返って来た答に納得の行かない様子で、月城は再び尋ねる。炭など一度にそう使う物ではない。それをいっぱい買う用事とは、果たして何か。
その問いを受けて、須藤はわざとらしく唇の端を上側へと歪ませた。
「決まってんだろ、今日のためさ。誕生日おめでとう」
「あ」
月城の目蓋がピクリと痙攣した。
確かに今日は月城の誕生日だった。それを祝うため、須藤は月城を自宅に招いたのだろう――という事にも、月城は気付いていた。
月城が驚いたのは、須藤が誕生日を祝ってくれるという事に対してでは無い。自分が予想していたよりも随分あっさりと、誕生日おめでとうの一言を聞いてしまった事に、月城は少し、がっかりしたのだ。
「あ、それ普通に言っちゃうんだ」
「え」
想像とは異なる返事が来て、須藤は意外そうな声を漏らした。月城は心の声がつい口から漏れていた事に気付き、皮肉っぽくも明るい口調で話を取り繕う。
「いや……もっとこう、サプライズ的なの想像してたからさ」
「あ、なるほどね」
須藤はそれで、ようやく月城の表情の裏にある真意に気付いた。そして笑う。
「でもほら、月城って疑り深いじゃん。サプライズなんか簡単には引っ掛からないだろ」
月城は今日が自分の誕生日であるという事を覚えていたのだから、須藤の言う通りサプライズを仕掛けるのは少し難しい話だ。
「そうだけど。あー、まあ何はともあれ、ありがとな」
照れ臭そうに頬を引っ掻きながら、月城は今度は素直にお礼を言った。
「ってか、あれ……」
言った後に、誰かを探すかの様にダイニングキッチンを見回す。
フローリングの床に、腰程の高さの机、キッチンに漂う煙を、フル稼働の換気扇が吸い取っていく。
「……お前一人か」
月城と須藤以外に、人の気配は無い。それが腑に落ちない様で、月城は呟く様に尋ねた。
「一人だけど、どうかしたか」
そんなことを聞かれる理由が分からず、須藤はすっとんきょうな声を上げた。その語尾は疑問系だ。
それに答える形で、月城は今入ってきた扉の方を指差し、言う。
「いや、玄関にやたらデケェ靴置いてたからさ。お前あんなに足でかくないだろう」
「あー、あれね」
それを聞き、須藤は妙に目を泳がせた。口を半開きにしたまま数回頷いて、何かを考えた後、ようやく声を出す。
「ほら、前、靴買いに行ったら店員にサイズ聞かれてさ。可愛い子だったから見栄張って、サバ読んじゃった」
話が進む毎に、鼻の下がだらしなく伸びる須藤。月城は呆れたと言わんばかりに、その表情のままの台詞を口にする。
「いや読み過ぎだろ。あんな靴履いてる奴、白木くらいしか知らねえぞ」
31 うさぎ [2013/01/25(金) 01:31:16]
白木。
月城が何気なくその名を口にした途端、二人の間に妙な静けさが横たわった。須藤は不意を付かれたかの様に一瞬だけ静止してから、明らかな作り笑いをする。
「あ、白木か。白木ね。今日呼べば良かったな」
そんな須藤の挙動が不自然で、月城は思わず首を傾げた。僅かに空気が重たくなる。
「あ、まあ座れよ」
それに耐え兼ねた須藤は、話を替えようと一つだけ咳払いをして、近くにあった木製の椅子を引いた。自分の腹辺りまであるテーブルに手を付き、月城は言われるがままそこへ座る。須藤もその向かい側へ腰を下ろした。
「あ」
席に付くなり、須藤は思い出したかの様に尋ねる。
「お前、今日ここに来ること誰にも言ってないんだろうな」
須藤がテーブルの上に置かれた水差しを持ち上げるので、月城はそれに答えつつコップを二つ並べる。
「当たり前だろ。仮病使って会社休めって言ったのお前じゃん。実は友達の家に居ますなんて誰にも言えねえよ」
自嘲気味な笑みと共にそう吐き出す月城。今日は朝一で上司に電話をし、休みをくれと受話器越しに頭を下げたのだ。これで仮病の事実がバレてしまうと、月城の社内での立場が非常に危うい。
「いや悪い悪い。ほら今日ってド平日だからさ」
コップに水を注ぎ終え、水差しを机の上に置いてから、須藤は後頭部に右手をやりながら言い訳を述べる。
「良いって。祝ってくれる友達が居るだけで嬉しいよ」
月城はへの字に曲がっていた口を純粋な笑みへと変貌させ、そう言った。それで須藤は、右手をそのままに肩を竦める。
部屋に薄々と立ち込めていた白煙は全て換気扇から排出された様で、今では部屋中がスッキリ見渡せる様になっていた。月城と須藤がくつろいでいるのはダイニングキッチン。この右隣の部屋は和室になっている様だ。本来、和室とダイニングキッチンは障子で区切られているのだろうが、その障子が開きっ放しになっているせいで和室が丸見えになっている。
何かを考える訳でもなく和室に視線を泳がせていた月城は、押入れのふすまに真新しい紙が貼り付けてあるのを見付けた。まるで何かを隠してあるかの様だ。
「ははーん、何かをぶつけて穴空けちまったんだな」
と、月城は今度こそ心中だけで呟いた。
が、この家が良い物件であることに変わりはない。日当たりが良く、裏には森が広がっていて自然も在り、冷暖房も充実。そして何より広い。
「いや、お前ん家来るのって引っ越し手伝って以来だけど、やっぱ良い家だな」
月城は思った通り事をそのまま口にした。そして水が八分目まで注がれたコップへと手を伸ばす。
「だろ。あ、まあ設備は良いんだけどな。でもほら、お隣さん」
須藤はそれに同調しかけて、しかし直ぐに訂正を加えた。それから少ししかめっ面になって、左の方の壁を指差す。
「隣、嫌な人なのか」
コップを机に置いてから、月城は無表情のまま聞いた。底から五センチ辺りの所まで残された水がグルリと揺れる。その質問を受けた須藤は机に身を乗り出して、月城の顔と距離を近付けた。
「ほら、隣の家って、コンクリートの淡白な建物だろ」
「ん、そうだっけか」
行き道の風景をぼんやり思い出しながら、月城は曖昧に頷いた。言われれば、確かに殺風景な建物が隣に有った気がする。須藤は壁を指差す右手はそのままに、空いている左手で口を覆った。
「ビックリすんなよ。あれ、ヤの付く人達の事務所なんだぜ」
32 うさぎ [2013/01/25(金) 01:31:34]
「げ、何でこんな所に」
その答えに月城は奇妙な声で驚き、目を見開く。須藤はそんな月城の様子を楽し気に眺めつつ、暴力団の事務所がこんな住宅街にある理由を説明し始めた。
「ほら、この家の裏、森になってるだろ」
今まで壁を示していた指先が、月城の正面の方向にある窓へと向けられた。確かに、その先には深々とした緑が広まっている。
須藤は顔に影を落として、しかし口調は何でもない体を装いつつ、言った。
「あそこ小動物は何でも食い散らかすからさ、死体隠すのに持ってこいなんだって」
「何それ怖い」
思っていたより陰惨な情景が頭に浮かんで来て、月城は思わず眉を潜めた。話を聞いた途端、綺麗な緑だと感じていた景色が鬱々と色褪せていくのを感じる。
「いや、今は死体隠蔽も自然の力で済ましちゃうんだぜ。エコヤクザだよな」
「何それ新しい」
さっきまでの表情とは一変、須藤が明るい言い方でそう付け加えると、少しだけ空気が軽くなった気がした。それで月城も、また冗談っぽく言い返す。
「……でも隣がヤクザって怖くねえの」
言い返すがてらに尋ねた。すると須藤は、その質問を待っていましたと言わんばかりに再び机から身を乗り出した。対照的に月城は身を引く。結果としてあまり変わらなかった距離感のまま、須藤は話を始めた。
「怖いに決まってんだろ。前ちょっと大きい声で騒いでたら、インターホン鳴ってさ」
「うわ」
「出てみたら、もうスキンヘッドで顎に傷有る明らかなヤっさんが立ってる訳」
「うわ」
「兄ちゃん、あんま騒ぎなさんな、って低い声で言うんだぜ。もうビクビクよ」
「うわあ」
合間に短い相槌を打ちながら、月城は近所に怖い人が住んでいた時のことを想像してみた。隣にその筋の人間が居るだけで、結構なスリルを伴った生活が味わえそうである。
話が終わったと思って椅子の背もたれに体重を預けた月城を見つつ、須藤は最後に付け加えた。
「だからこの前、改装してさ、防音設備ばっちしにしたのよ」
「ええええっ」
予期せぬ突っ込み所の到来に、月城は思わず大声を上げ、その勢いのまま立ち上がる。須藤は同意を求める様な表情で軽く眉を動かし、言う。
「ビックリするだろ」
「そりゃビックリするよ」
タメ息を交え、しかし矢継ぎ早にそう言い切ってから、月城は自分が立ち上がっていたという事に気が付いた。
「でもビックリしても大丈夫なの。防音完璧だから」
どこか誇らしげに胸を張る須藤を尻目に、月城はゆっくり椅子へと座り直す。
「お前そんなに金持ってたっけ」
「それが無いんだよなあ。貿易商なんて稼ぎも定まらないし」
月城がそう尋ねると、今までの自慢気な雰囲気はどこへやら、須藤は肩を落とした。さっきの月城より少しだけ長いタメ息を吐き出す。
「大変だなあ」
まるで他人事の様にそう言い、月城は残された水を飲み干した。
一息、つく。
「……あれ、何これ」
その時ふと、机の上に伏せられた写真立てが目に付いた。須藤に一声かけてから、返事を待たず、月城はそれを引っくり返した。
瞬間――
「あ」
――二人の、それぞれ別の感情のこもった声が、しかし同じ音で重なった。
写真には、肩まで髪のかかった綺麗な女性が映っていた。年齢は二十歳前後だろうか。数輪のあさがおを背に、満面の笑みを浮かべている。
33 うさぎ [2013/01/25(金) 01:33:53]
「深雪……か」
押し出す様に呟いて、月城は表情を曇らせた。瞬く間に重たくなった空気を振り払おうと、須藤は無理矢理な笑顔を作る。
「ほら、今日は深雪の誕生日でもあるだろ」
その言葉が聞こえていないのか、月城は写真に目を奪われたまま動く気配を見せない。
「お前と深雪が仲良くなったのって、誕生日が一緒だって話題からだったよな」
須藤が問い掛けると、月城はようやく写真から視線を離した。
「そうだな」
その口元には僅かな笑みが浮かんでいる。
「今日は、深雪の誕生日プレゼントも用意してあるんだ」
「そうか」
その微笑がなかなか顔から消えないことを不気味に思って、須藤は今まで以上に軽やかに、更に活き活きと話してみる。
「ほら、お前が居てくれると、きっと深雪も喜ぶよ。あの事故で生き残ったの、お前と、白木だけだったから……」
しかし、その声は次第に弱まって行き、やがて尻切れになってしまった。月城の表情が全く変わらなかった為である。須藤の声はもはや月城の耳に届いてはいなかった。
月城の頭の中に、三年前の事故の映像が鮮明に甦る。
全てを飲み込む海水。助けを呼ぶ声か、或いは断末魔の悲鳴が、縦横無尽に飛び交う船内。やがて暗闇が訪れ、床を這う水が足を捕まえる。その金属の様な冷たい感覚が、近くにいた深雪のことなど脳みそから追い出してしまう。そして。
そして――
「もうやめよう。思い出しちまう」
髪の毛を乱雑に掻き回し、月城は少々荒っぽく写真立てを伏せ直した。
「ああ……そうだな」
しどろもどろになりつつ須藤がそれに頷くと、そこでまた会話が絶える。身を刺されるような静寂を打ち破ろうと、須藤は手を叩いた。ぱん、という景気の良い音と共に、立ち上がる。
「よし、じゃあ俺、ケーキ貰って来るわ」
思いも寄らない言葉が鼓膜へ飛び込んで来たので、月城は驚いて顔を上げた。面食らったような表情のまま、聞く。
「そんなん用意してくれたのか」
「ああ。そこのケーキ屋さんに注文してあるんだ。もう出来る頃だからさ」
須藤はまた自慢気に答えると腕時計を見つめた。それで月城も、部屋の壁に掛けられている時計を見やる。丁度その時、長針が少しだけ一時三十分へと近付いた。
「じゃ、行って来るわ。待っててな」
水色の上着を羽織ながら、須藤は玄関の方へと歩いていく。
「ありがとう。気を付けて」
「おう……あ」
部屋の扉を開けてから、須藤はピタリと足の動きを止めた。そしてゆっくり振り返る。何事かと月城が見つめると、須藤は右手の人差し指を一直線に和室へと向けた。
「お前、和室には絶対に入んなよ」
「……おう。分かった」
そんな事か、と肩を竦めて、月城は何度も頷いた。それで満足したのか、須藤はそのまま部屋から出て行った。部屋の扉が閉められてから数秒後に、玄関から須藤が出ていく音が聞こえた。
それを最後に、家の中は酷い静けさに包まれる。一人になると同時にやる事が無くなり、無駄な思考が働いてしまう。意識せずとも机に伏さられた写真立てへと目が行って、思い出したくもない記憶が脳裏を掠める。
――大学時代に仲の良かった四人。月城に須藤。白木。そして深雪。卒業祝いも兼ねたイタリア旅行は、四人とも初の海外という事もあってノリノリで計画を立てた。が、当日に須藤が高熱で寝込んでしまい、結局は三人で行くことに。
そうして乗り込んだ客船が荒天に見舞われ……。
お前が。お前と白木が、深雪を殺したんだ。俺はお前を許さない。
あの後、須藤に酷く責められたことを、月城は覚えている。須藤と深雪が婚約していたという事実を知ったのは、月城が目を覚ましてから、約一ヶ月後のことだった。
34 うさぎ [2013/01/25(金) 01:42:25]
「駄目だ。忘れるって誓ったじゃないか、あの事件は」
頭を横に振りながら、自らに言い聞かせる様に月城は呟いた。数秒間の沈黙を置いて、顔を上げる。
「そうだ。違う事を考えよう」
今度は頭を縦に振りながら、月城はおもむろに椅子から立ち上がった。そして眼球をあちこちに振り回す。
「例えば……」
月城の視線は、ある一点に向けられた瞬間にピタリと止まった。その先にあるのは、和室。
和室には絶対に入んなよ。
という須藤の言葉が脳内に再生される。
「絶対入るな、なんて言われたら入りたくなるのが人間だって」
誰に対しての言い訳なのか、月城は頬の筋肉を緩めたままそう言うと、和室へと踏み入った。何か不審な点は無いかと首ごと周囲を見渡す。
「ま、まずはこれだな」
月城は唇の両端をを吊り上げて、押入れへと接近した。
やはり真っ先に目に付いたのは、さっき見つけた、押入れのふすまに貼られた白い紙だったのだ。
「まさか破れてるだけじゃ無かったりして……」
月城は涌き出る好奇心をそのまま声に変えながら、元通り貼り直すことが出来る様にゆっくりと紙を剥がしていく。少しずつ見えてくるふすまをニヤつきと共に凝視しながら、月城は遂に最後まで紙を剥がしきった。
「……え」
紙を剥がしきったのと、月城の表情が凍り付くのとは、全く同時だった。紙は破れた部分を隠している訳では無かったのだ。
紙で覆われていた部分には、染み込んで赤黒くなった、血痕――が残っていた。
35 うさぎ [2013/01/25(金) 01:43:31]
何かの見間違いかと思った。思って、月城は何度か瞬きをしてみた。
が、いくら視界をリセットしようとも、そこに付着しているのは見紛うことなき血痕だった。それも少しではない。直径十五センチ程の楕円を描いているその量は明らかに異常である。指を切ったままの手で触ってしまった、等といった事故で出来た染みならば、これ程に大きくなる訳がない。
和室には絶対に入んなよ。
須藤の言葉が、また頭に反響した。
須藤はこの血痕を隠そうとしたのか。何のために。こんな出血をする様な怪我を負っていた様子は、今日の須藤には無かった。ならこの血は誰の物なのか。
月城の頭の中をたくさんの疑問達が徘徊する。その疑問に何とか答えを導き出そうとしたのか、ふと、頭にある声が浮かんだ。
お前が。お前と白木が、深雪を殺したんだ。俺はお前を許さない。
須藤の言葉だった。それで月城は、現在考えられる最悪の可能性を頭に思い描いてしまった。つまり。
血痕の主が、白木だとしたら。
いや、玄関にやたらデケェ靴置いてたからさ。
また月城の頭にそんな声が響いた。白木がこの家に居るのなら、やはり、あの靴は――
「ふん」
そこまで考えて、月城は自分の思考を鼻で笑い飛ばした。
「なに妄想してんだ俺は。白木が死んでて、それをやったのが須藤かも、だって。馬鹿馬鹿しい」
荒々しい独り言。その語尾は少しだけ震えていた。
――もしかしたら須藤は、深雪を放って助かった自分と白木を、まだ許していないのかも知れない。
ずっと月城の胸中に引っ掛かっていて、けれど真剣にその答えを考えるのが怖くて、放置し続けていた不安。それが現実の物となって襲い掛かって来ている様に感じられ、月城は思わず、頭を掻きむしった。
「テレビの見すぎだ。俺が須藤を殺そうとしてるなんて。大体――」
自分を安心させるべく言葉を吐き出しつつ、月城は和室から離れた。続ける。
「――俺を殺したら、死体はどうするんだよ。こんな住宅街、死体の隠し場所なんて」
言いつつ顔を上げた月城の目に窓が映った。その先には、深々とした森が広がっている。
あそこ小動物は何でも食い散らかすからさ、死体隠すのに持ってこいなんだって。
須藤の声が内側から鼓膜を揺さぶる。
月城は表情が引き吊っていくのを実感しながら、しかしそれを誤魔化すように言う。
「いやいや、俺が死んだら、すぐに警察が――」
お前、今日ここに来ること誰にも言ってないんだろうな。
須藤の声は月城の思考を先回りして、逃げ道を残さず潰していく。月城は今日、仮病で会社を休んでいるのだ。今彼がここに居ることを知っているのは、須藤を置いて他に居ない。
「……何だよ」
月城は窓に背を向け頭を抱えた。傍から見れば酷く滑稽な体勢で、よろよろとダイニングキッチンへ戻る。その時、机に伏せられた写真立てを視界が捕らえた。
ほら、今日は深雪の誕生日でも有るだろ。
記憶の中にある須藤の声が段々と大きさを増していくにつれて、月城の鼓動のスピードも速まっていく。
「……何だよ、これ。おい」
深雪の誕生日プレゼントも用意してあるんだ。
月城は机に手をついた。思い詰めた表情のまま動きを止める。その静かな時間は数十秒続いて、そして唐突に終わりを告げた。
月城はもう迷うことなく、一直線に和室へと向かった。そして押入れのふすまに手を掛ける。
「勘違いだったら、それで済むんだ」
また、自分に言い聞かせる様に言うと、月城は襖を思い切り引き開けた。頬を伝う冷たい汗が畳へと飛んだ。そして。
「…………白木」
そして。月城は力なく、その一言を吐き出した。目の前に突き付けられた残酷な光景に、ただ、立ち尽くしながら。
最悪の可能性は、最悪の現実へと姿を変えた。
36 うさぎ [2013/01/25(金) 01:45:35]
「白木。おい、嘘だろ」
蝋の様な白木の巨体が狭い押入れに収納されている様は、まさしく詰め込まれていると形容するのに相応しい。月城は白木の右手に触れて、体温が冷えているのを確認すると目を見開いた。
「嘘だろ」
もう一度、とりあえず現実を否定してみるが、やはり何も変わらない。押入れには白木の死体と一緒にたくさんの炭がしまわれていた。
この前炭いっぱい買ったから。
ああ、炭は死体の臭いを消すために買ったのか。と、月城は間抜けなことを考えた。白木の死体の右胸に、大量の血の染みが出来ている。着ているシャツが焦げていることから、銃殺と見て間違いないだろう。
「くそっ」
とにかく月城は押入れから離れた。ダイニングキッチンへと戻り、玄関に続く扉へと走る。その隙に浮かんだ、銃なんてどこで手に入れたのか、という当たり前の疑問には、
貿易商なんて稼ぎも定まらないし。
という須藤の声が代わりに答えてくれた。絶望に打ちのめされながらも、月城は扉を開けようとドアノブを握る。
「……おい」
が、開かない。
「おい。おいおい」
右に回そうと左に回そうと、押そうと引こうと、扉はびくともしない。
「おい……誰か。誰かっ」
それで、遂に月城は叫んだ。ここは住宅街なのだ。大声を出し続ければ近所の住人が、例のヤクザが様子を見に来るかも知れない。
――そこまでを回想した時、また聞こえてきた須藤の声が月城の心を砕いた。
だからこの前、改装してさ、防音設備ばっちしにしたのよ。
須藤は扉に体重を預けて、ゆっくりと床へ崩れ落ちた。あの窓から脱出しようかと考えたが、これだけの準備を済ませている須藤の事だ。はめ殺しにでもなっているに違いないと悟った。
そしてようやく、部屋に沈黙が訪れた。心身を蝕んでいくかの様な静寂の中で、月城は、ポツリと呟いた。
「俺、死ぬのか……」
その声は壁にも床にも届くことなく、玄関の扉が開く音に掻き消された。
「おーっす、月城。ケーキ貰って来たぞ」
扉の向こうから、少しだけこもった、しかし聞き違うことなどない須藤の声が聞こえてきて、月城は反射的に立ち上がった。
37 うさぎ [2013/01/25(金) 01:45:57]
扉が開いて須藤が部屋に入ってきた。同時に、二人の間の時間が止まった。
開けられた押入れと、その中身を見て、須藤は自分が居ない間に月城が何をしたのかを一瞬の内に理解した。それから月城の顔を見て、ほんの僅かに、悲しそうな顔をした。
「見たのか」
その言葉に、月城は驚いた様な、或いは怯えた様な、もう良く分からない表情を見せた。
「須藤、お前」
やはりその声は震えている。須藤は右手のケーキを机に置き、代わりにポケットから拳銃を取り出した。
「ああ」
それを両手で構えると、銃口を月城に向けた。その姿勢のまま、須藤は月城へと近付く。
「次はお前の番だ」
なぜ。
なぜこんな事を。深雪を見捨てたのは仕方がなかったんだ。頼む。殺さないでくれ。待ってくれ。
「うわあああああああ」
色々と言いたいことが月城の頭に過ったが、もう舌を回すことすらままならず、それらの言葉はただの絶叫へと変換された。
「誕生日おめでとう」
須藤の冷徹な声を聞いた時、死を覚悟した――という訳ではなく、月城は本能で目を瞑った。その瞬間、ボン、という、何だか不格好な音が轟いた。
しかし、いつまで経っても月城に体を撃たれたという感覚はない。恐ろしさを感じながらも、ゆっくり目を開ける。
まず月城の視界に入って来たのは、銃口から飛び出た真っ赤なバラ。そして、そんな洒落た銃を手に満面の笑みを浮かべる須藤だった。
「ちゃっちゃらー。ドッキリ大成功ー」
38 うさぎ [2013/01/25(金) 01:47:05]
訳も分からず顎を震わせる月城に、須藤はさも楽し気な声色でそう告げた。
月城の思考が現状へ追い付くまで、そこから十五秒ほどの時間を要した。
「は、あ……」
そして、間の抜けた声と同時にタメ息を漏らす。それは究極の衝撃と、そして極限の安堵を含んだ物だった。
「あああああ……」
月城は涙を流しながらその場に崩れ落ちる。緊張が抜け落ちると同時に、膝から力も抜け落ちてしまった。その様子を満足気に見つめながら、須藤はイタズラっぽい口調で尋ねた。
「どうよ、流石のお前も引っ掛かったろ」
そしてバラの飛び出た銃を床に投げ捨てる。
「ほら、お前疑り深いから。サプライズなんか仕込んだって簡単には引っ掛からないだろ」
須藤が言い終わると、月城は鼻水を右手首で拭った。そして全身全霊全力で叫ぶ。
「もおおおおお、悪趣味いいいいいいっ」 その必死の形相に須藤は笑い転げた。
「お前、じゃ、白木の死体は」
少し息切れしつつ、月城は須藤に問い掛けた。須藤は依然として顔中に笑みを広げながら、それでもハッキリと答える。
「あ、あれ人形よ」
「あれ人形かよ」
須藤はやっと立ち上がると、ダイニングキッチンの机へ向かいながら言った。
「リアルに出来てただろ。型取るのに白木にも協力して貰ってさ。めっちゃ金かかったぞ」
その答えに驚愕しつつも、月城は未だ止まらぬ心音に耳を傾ける。今は血圧が物凄い事になっていそうだ。
「はあ……うわああドキドキしたあ」
それを嬉しそうに見つめながら、須藤は鼻高々とネタばらしを続ける。
「とにかく入念に計画立てたからな。お前が和室トラップに引っ掛からなかった時のために、まだ大量に作戦を用意してあったぞ」
「いや、だって何か空気がマジな感じだったもん……鳥肌がさ」
両腕をクロスさせながら震えて見せる月城に、須藤はまた笑い声を溢して、そして写真立てを立て直した。
「ま、今日は深雪の誕生日でもあるんだし。深雪だってこういうバカ騒ぎが好きだったろ」
月城は壁にもたれながら、肩をすくめた。口元に浮かんでいる優しい微笑が同意を表している。それを受け取って、須藤は机の上に置かれたケーキを箱から取り出した。
「歌うぞ」
大きなホールケーキの登場に月城は立ち上がった。それと同じタイミングで、須藤が歌い出す。
「ハッピバースデイ、トゥーユー」
月城もその歌声に合わせて口を開いた。
「ハッピバースデイ、トゥーユー」
二人の明るい歌が部屋に響く。
月城が安心しきった瞬間、須藤は上着のポケットからまた拳銃を取り出した。それを月城に突き付けて、人差し指で引き金を引くまで、二秒も掛からなかっただろう。
乾いた音が鳴り響くコンマ一秒前。月城の額に風穴が空けられた。その全身を一度だけビクリと震わせて、そして、そのまま仰向けに倒れる。
「ハッピバースデイ、ディア、深雪」
ただの肉人形と変わり果てた月城を見つめながら、須藤は虚ろな目で歌を続けた。机の上に、まだ少し熱を持った拳銃を置いて、写真を見つめた。
満面の笑みを浮かべたまま時が止まった深雪。その顔に向けて、須藤は最後の歌詞を、喉から押し出した。
「ハッピバースデイ、トゥーユー」
40 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:06:01]
【ジェットコースターサイクル】
.
遠藤ミキは遊園地が嫌いだった。
カップルだったら一度くらい、遊園地に行っても当然なのかもしれない。だが俺は、それをさり気なく回避してきた。人混みが嫌いでたまらないミキを考えて、わざと行かないようにしていたからだ。中学から高校までずっと続いていた俺の行動で、それが本当の優しさに繋がったのか自己満足に終わったのかは知らない。
清志はある日、遠藤ミキからの着信に気付いて携帯を開いた。携帯の向こうの彼女は、遊園地に遊びに行こうと言った。二人は互いに顔を見られず、互いの声で表情を読むしかその時は出来なかった。
二人は遊園地で遊ぶ。人混みが嫌いな遠藤は人混みの中で笑い、乗り物が好きな清志はジェットコースターに何度も乗った。夜遅くになり、閉園の時間になると、彼女はようやく本題を告白した。
「ごめんなさい、別れたいの。本当にごめんなさい」
清志の後ろでメリーゴーランドが回っている。彼のズボンは乾き切った布のように固く動かず、上に着た流行物の服は冷風にあおられる。清志の顔は懸命に彼女の顔を見つめるだけだ。
「ごめんなさい。私、隆一のことが好きになったの。覚えているでしょ? 中学の時、同じテニス部だった隆一」
「覚えてるよ」
清志はベンチに座った。
俺の中に溜まったありふれた言葉を、一気に吐き出したい。閉園を知らせるための陽気な音楽以外に何も聞こえない。それでも、本当は体が痙攣するほど動揺しているはずが、ミキに見られている時は強気で優しい男になりたがる。こんな時にも、なりたがる。
41 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:07:16]
「こんなこと言いたくないけど、やっぱり清志は変わった。高校に入ってテニスやめてから、私と話していてもどこか違う世界の人みたいな目をしてるし、他にもたくさん。本当に嬉しそうな顔なんて、私ずっと見てない」
「だから隆一か」
「……ずっと優しくしてくれたから」
「俺も優しくしたはずだよ」
ベンチから立ち上がる。煮えたぎり、そして泣いているミキに気付いて喪失した気持ちを、胸から来る熱さと冷たさで冷静に感じた。だから、薄い声を出して笑った。
清志は一人で遊園地を去った。閉園のアナウンスが鳴り響き、泣いている遠藤に係員が駆け寄った。
.
アルバイトをしている間、清志は覚醒する。
スーパーマーケットのバイトは、やることが多いために様々な役割分担をするものである。しかし清志はアルバイトの身にも関わらず、全ての雑務をこなせる。レジから店の品出し、どこにどんな商品が配置されているかも全て分かっている。
「おい、清志」
スーパーのマネージャーに声をかけられ、清志は振り返る。
「お前は今日からレジをやれ。ミスは絶対にやるなよ」
「マネージャーはどこへ?」
「裏で休憩してくる。ぶっ続けだったからな、今日はお前に任せるよ」
清志は、顔は怖いが実は優しいマネージャーの背中を見送った。
両手と声をレジと一体化させ、均一された速さで動かす。二年もバイトをしている清志にとって、造作もないことだった。
清志は無意識に知っているのだ、家で何もせずに天井を見つめる時間よりも、テニスをやっていた時よりも、レジの前に立っている方が今は落ち着くということを。お金を稼ぐという理由はどこまでも変わらない。
42 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:08:58]
清志の熟練した技によって次々と客が流れていく。
しかし高い声が清志の手を止めさせた。
「清志! 今日は半額コーナーに何も置いてないぞ」
レジに並んでいるお客の頭を目で辿って行くと、笑顔を見せつつ飛び跳ねる男が一人いた。
「健は声がうるさい。ちょっと待ってて」
「お前は相変わらず、エプロン似合わねえな。バイト変えろよ」
友人である健は明るく笑い、バイト中の清志を困らせた。
.
健が清志と意気投合するものはテニスしかなかった。
硬式のテニスボールを、俺は青空の奥に放り投げ、降り注いできたそれに合わせてラケットを振るう。
目線の先をボールはゆるやかに走っていく。こんなサーブでは試合だと瞬く間に反撃されるだろうが、これは遊びだ。向こうにいる健は情けない俺のサーブに笑って、ゆるやかな球をゆるやかな球で返した。
隣で遊んでいる子供の声が公園をあたたかくさせる。天空が、向こうにいる健よりもずっと遠くから全てを抱擁する。ネットもない試合会場は、俺を安心させていた。遊園地を思い出さなくても良いのは幸せに決まっている。
「なあ。お前達別れたんだって?」
「別れた。俺が俺じゃなくなったんだと。俺が変わったんだって」
「あれじゃねえか? お前がテニスやめたから怒ったとか」
「いまさらかよ」
大学受験も終わった清志にとって、高校に入ると同時にやめたテニスなど過去の思い出でしかなかった。
清志は話題を変えようとした。ゆるやかなボールを返し、
「お前は大学に行ってもテニス続けるよな、もちろん」
「そりゃーな。俺にテニス取ったら何が残るってんだ。大学でも続けてやる」
「その割には、この前見た試合中のお前は楽しくなさそうだったけどな」
健は全力で打った。
驚く清志の足元にボールはバウンドし、ぬるい青空に昇っていった。
43 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:09:48]
「いきなり何すんだよ!」
「取れないお前がダメだ」
ラケットを放り捨て、健はベンチに座る。捨てられたラケットが、砂埃に汚れ、佇む。
健の行動は休憩をしようという無言の圧力を持っていて、清志も自動的に応じ、隣のベンチに座った。健と清志の間にはテニスしかなく、だからこそ全てはテニスから始まらなくてはいけない。健にとって今日は話し合うことがメインだ。
「でもミキちゃんが言ってるのも分かるぜ」
「……どういうことだよ?」
「お前、高校から大人しくなっただろ。そりゃ、中学の時みたいにテニスやれとは言わねえけど、前はもっとはしゃいでた。何か芯みたいなところが抜けたような、つまり変わったんだよお前は」
平和になり始めた心を再び崩そうとする健に、俺は苛立つ。しかし健の言っていることを否定するには、色々な嘘をつかなければいけないと思う。その嘘がどういうものなのか自分自身でも分からないが、予言のように、嘘をつかなくてはと感じる。
とりあえず今出来ることは、笑って恰好を付けることだ。胸の中でミキの言っていた言葉を振り返りながら。
「俺みたいに全部貫くような夢を持ってみろよ」
「健はほんとにテニスしかないのか。本物の馬鹿か」
清志にそう言われ、健はどこか嬉しそうな笑みを浮かべてからラケットを拾いに行った。少し笑い方の変わってしまった親友の背中を見つめ、清志は救われる思いになってしまった。
44 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:10:31]
.
俺がミキと知り合ったのは、中学二年の時だった。あまりにテニスが下手なミキを、俺が教えることになった。女子テニス部の手が空いていなかったという理由もあるが、俺を良く思っていない先輩が練習の邪魔をさせようと悪知恵を働かせたに違いない。
思えばあの頃、俺が人間を計るステータスは全てがテニスで、下手な人間を教える気持ちは全くなかった。俺は上手くなればなるほど生意気に冷たく成長した。他のことはどうでも良くて、テニスしか考えられなかった。
そんな気持ちが通じたのか、教えている途中にミキは暴れた。
「この悪魔」
その呪文は、最低な人間だと自覚していた俺でさえ、奈落に突き落とした。体の細い女子が、拳を作って殴りながらそう叫んだのだから、無理もないのかもしれない。
頭が重い、胸が爆発する。ミキは安物のラケットで、何度も何度も俺の背中を叩いてくる。正反対の性格をしたもう一人の俺が、骨でも折れてしまえば良いと呟いたのを覚えている。長いような短い時間を、地面に膝を付け、彼女の暴れる髪と泣き顔を見つめるだけだった。
――――最悪な出会いだったが、それが恋になるのは清志なりの償いだったのか、または子供らしい気狂いか、とにかく二人は恋人同士になった。
清志は人が変わった。冷たく他人をあざ笑う生活も優等生のそれとなり、テニスばかりだった頭は、遠藤ミキと会う度に色々なものを宿していく。簡単に言うと、中学生らしい考えを持つ、普通の子供になった。彼女のために努力をしていた。
二人の共通点は月日が経つ度に増えていった。本やテレビゲームや好きな映画、特に彼が変わったことは、絵を描き始めたことだ。中学を卒業するまでには風景を描けるようになった。彼女はそれを見て喜ぶ。清志は彼女の笑顔だけで満足だった。
45 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:11:32]
しかし、遊園地に行こうとは、清志は口が裂けても言わないつもりだった。一緒にテレビを見ている時、番組やCMで遊園地が映ると清志は、遠藤の顔を見ないようにしながらトイレへ行った。人混みが嫌いな彼女を無理に連れて行くわけにはいかない。一つの失敗は、彼は、テニスの才能があっても人の心を見る力が弱いことである。遠藤が清志の心を透き通った目で見られても、清志はそのことに気付かなかった。
高校三年生、健とテニスで遊んだ帰り道に、俺は思い出を振り返る。ミキに笑ってもらうのが楽しくて始めた絵は、今では色々な人に笑ってもらいたくて描いている。あれほど楽しくてやりがいがあったテニスは、もう真面目に点を取り合うのも馬鹿馬鹿しい。確かに俺は変わったけれど、そう分かれば分かるほど、ミキと別れるほどのことになるのかとあざ笑いたくなる。
そして果てしなく怖くなっていく、ずんぐり深々と。
絵のように見られれば良いのにと、冬の匂いを突っ切る横顔で笑う。昔の自分のそのままを、全て一枚の絵で表現出来たとして。昔と今の自分の絵を比べて、こういう風に変わりましたが、このままで良いのでしょうか、と色々な人に正解を求めたい。そうしないと俺はポケットに手を入れながら歩き続けることが出来ない。
.
清志は今日もアルバイトへ、機械の心で向かった。
レジから千円札を取り出し、お客に渡す。真っ白に光る店に、清志を知る人間はいない。お客は、彼が機械のように手を動かして終わらせるのを興味も無しにただ待っている。この小さな世界で、人間という形だけ同じな他人同士が、心を隠しながらすれ違う。
清志がお客に小銭を渡そうとした時、ふとした拍子に手を滑らせてしまった。
百円玉と十円玉が照り返しを放ちながら、真っ白なスーパーマーケットのタイルへ落ちた。甲高く鳴った金属の音、それを合図にしてタイルは白色から黒色になる。清志は、その真っ黒なタイルの中に引きこまれてしまった。
真っ暗な世界にぽつりと降り立つのは、俺だけ。
走る、走る。エプロンのクシャッという音、安いスニーカーの音の中で、朦朧と闇を突っ切ろうとする。走り続ければ真っ黒な世界は様々な色になって、形を造り出していく。立ち止まって荒い呼吸を整えた頃には、見たことのない景色に、見たことのない男が立っているではないか。
向こうにいる男は、別人となった大人の俺だ。俺が二人いる。
46 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:12:33]
大人の俺がいる景色の中には、ミキの姿も、健の姿も見当たらない。それは、ひどく当たり前のことだと思ってしまった。どうしてこんなにシンプルで、仕方のないことなのだろう。誰かと一緒に歩くには、その人と同じ道を歩くしかない。ずっと一緒に歩くには、その道をずっと真っ直ぐに歩くしかない。冷たい空気を何度浴びても熱い灯り火が消えてくれない、それを消さないように体を動かすしかない。
タイル床に転がる百円玉と十円玉を見ながら硬直している清志に、マネージャーは大慌てで駆け付けた。
.
散々に怒られてから、清志はアルバイトから家に帰ってきた。
「あ、帰ってきちゃった」
リビングにいた清志の両親は、息子が帰ってきたことに遅れて気付いて、大慌てでテレビの電源を消してしまう。
清志は眉を寄せつつ聞いてみた。
「どうしたんだよ。何か観てたのか?」
「ちょっとね。あれよ、清志の小学校の頃のビデオを観ようと思ったの」
清志がいない隙に、両親は仲良く子供の成長をビデオで振り返ろうとしていた。確かにいつもの清志であれば、恥ずかしいあまりにビデオを奪い取っていた。
無口な父親は眼鏡をいじりながら、テーブルに目を落としている。母親は苦し紛れに笑っている。清志は何も言おうとせず、真剣な顔でテレビの前のフローリングに座った。
ボタンを押してビデオを再生する。無口な父親はそんな息子の猫背を見て微笑んでいた。
「小学校の時のビデオなんて残ってたのか」
映ったのは、運動会で走っている小学生の頃の清志だった。
今とは比べものにならないほどその小さな清志は足が遅く、最下位でゴールしていた。ここまでひどい走りは、清志は見覚えがなかった。
小学生の頃の自分になったつもりで、考えてみた。おそらく悔しかったに違いない。だからテニスを始めたのだろうか。思えば、テニスを始めた最初の理由は記憶にない。
どちらにしろ、かなりの腕になったテニスを、俺は高校から捨てた。
47 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:13:27]
「俺ってこんなにダメダメだったんだ」
「今もあんまり変わらないじゃない」
母さんの気楽な一言に、俺は苦笑した。
母さんから見れば、俺は小学生の時からずっと変わっていないのかもしれない。親が子供を見届けるのは、常人よりも視野が広くなくては駄目なのだろうか。子供がどんなに変わったとしても、親が決めた広すぎる道に乗っかっていてくれさえすれば、いつまでも傍で応援してくれるのだろうか。少なくとも俺の親はそうだろう。
ただ、それは俺のマイペースな親に限る。だからこんなにも恐ろしい。
「しょうがないのかな」
涙が出てきた。慌ててテレビの電源ボタンを押す。いまさら涙が出てきた。
抗えないという言葉がふと俺の頭に閃いて、抗えないという言葉がいまさら彼女の顔と重なった。
18歳の成人一歩手前が、親の前で泣いてしまう。俺は恥ずかしかくて、頭を上げられなかった。父さんは煙草を手に自分の部屋へと戻り、母さんは鼻歌と共に料理を始める。そんな親がありがたくて仕方なかった。
.
気の済むまで泣き続けて、全てを納得した清志は晴れやかな気持ちだった。
平凡なある一日。清志は、健と隆一の練習試合を観るために大学へ行った。健の兄がその大学のテニス部に所属しているため、特別に打たせてもらえることになった。中学から一緒に部活をしていた隆一が、健の練習相手を引き受けた。
大がかりな練習でもない、腕ならしの試合をする程度のものだ。健の顔に安らぎの顔は見えないとしても。
48 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:14:22]
遠藤ミキの新しい彼氏である隆一は、フェンス越しで見ている清志に何度も振り向いたが、口が開きかけたところで言葉を出そうとはしなかった。
大学生達がテニスコートを横切る中、試合が始まる。本気の打ち合いが始まる。
清志は、白い息の中で、健の勝利を確信していた。隆一は中学から今まで、一度たりとも健に勝ったことがない。それほど実力差があったことを知っている。
隆一を見た。
隆一はずっと付き合っていたミキを奪った。甘い体が追い付かなくても、今の俺には納得出来る。
俺が男を観察する時、顔よりも先にその人間の雰囲気を見る。男はプライドの塊だから、体の一部一部がどっぷりとその人間のプライドの色に浸かっているものだ。――瞳の奥からほとばしる想い、男らしい夢幻を見続けラケットを振り回す動き一つ――白い息を吐き出しながら見る俺もまた、熱にうなされるような衝動を、冷たい顔に閉じ込めている。
ボールが二人の間に消えた。試合の結果は、清志の予想を覆した。
パコン――パコン――音の連続が途絶えれば、最後のポイントが隆一の方に加えられた。健が渾身の力で打ったはずのサーブを、隆一は綺麗なフォームで打ち返し、ボールが健の後ろにコロコロと落ちていた。
清志は驚くしかなかった。健の顔を見ようとして、彼は止めた。
踵を返し、清志は大学を出て行ってしまった。
車の音がうるさい排気ガスの道、清志は無表情で歩く。しかし隆一が後ろから追いかけてくるのが分かり、棒のように硬い足は止まった。
「清志! 待ってくれ。話したいんだ、ちゃんと」
話したいことは分かっている。
だが俺はもうそんなこと解決している。隆一が不安に思っていることは、余計なお節介だ。歩き出すための残骸になった。
「健に勝ったの初めてだな。お前の言いたいことくらい分かってるからそんな顔するなよ」
「ごめん、ミキとこうなるつもりは最初なかったんだ。お前を裏切るみたいなことは」
「大丈夫だって。お前こそ頑張れよ、あいついきなりテニスラケットで叩いてきたりするから」
俺は手を振って隆一と別れた。
隆一は最後まで怯えたような顔をしていた。今知ったが、ミキに何とか喜んでもらおうと絵を描いていた頃の俺と、隆一はそっくりだった。
49 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:14:55]
お腹から上ってくる、幼い体が引き起こした哀しい興奮を抑え、俺は隆一に見つからないように大学へ戻る。試合終了の時は健に同情するのが嫌で思わず踵を返したが、冷静に考えたら言葉の一つでも健に言わないといけない。
本当にそれだけの理由で踵を返したのか。そう思い、哀しい興奮に語りかけてみると、自然に苦笑が顔から漏れた。健が隆一を倒す瞬間を望んでいた、そんなことさえ救いに感じてしまう。頭で整理したようには世の中進まない。
大学の食堂に健はいた。清志が来ても、彼はイスに座ったまま動かない。テニスラケットを握りしめ、猫背で食堂の窓を見ていた。
「負けちまったよ。負けちまったよ、清志」
「初めて隆一に負けただけで、お前がそこまで落ち込むとは」
清志がわざと挑発しても、健は優しい目で弱々しいままだ。
「これだけじゃないんだ実は。最近、誰と試合しても怖くなる。勝っても良い気分にならない。お前と遊んでる時でもつい色々なことを考えると焦って、本気で打っちまうようになっちまった。何やってんだろうな、俺は」
健は、テニスでしか自分を持てない人間だ。
清志は俯いている健を見下ろす。大学の食堂で銅像のように動かないこの二人は、当たり前のことだと思われている常識に悩みながら、次の世界へ塗り替えようとしている。
「健、お前テニス好きじゃなくなったんだろ?」
健は驚かなかった。清志は続けて言った。
「お前にはテニスしかないって、俺も思ってた。でもそうじゃないんだろ、多分。今はそうかもしれないけど、この先やりたいことが出来るに決まってる」
「清志みたいに絵でも描き始めろって?」
「テニスの絵でも描いてみるか」
健はようやく笑った。握っていたテニスラケットをテーブルに置いた。
清志は学食のテーブルに落書きを始めた。真剣な時間の後に、大きな笑い声が響いた。
50 豪華客船サントアンヌ号 [2013/01/26(土) 22:16:52]
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健とテニスをしていた広場で、俺はミキを呼び出した。
別れたという事実をはっきりさせたかった。遊園地で別れを告げられ、何も言わずに去ることしか出来なかったあの時の俺を、時間を道具にして薄めていくのがどうしても嫌になった。
俺は早口で、そんな今の本心をミキに言った。言うだけでいい。
ミキは最初悲しそうな顔をしていたが、気付けば笑っていた。俺の早口と、飾りのない呼び出し方のせいだった。俺もそんな自分に、小さく笑ってしまった。
子供が無邪気に遊ぶ。ここから見えるたくさんの子供達も、変貌していくのだろう。メリーゴーランドのような単純な規則性じゃない、ジェットコースターのような曲がりを見せて。
スッキリしたから、俺は公園を後にしようとした。長話をする時ではない、長話がしたくなったらその時は別の場所で友達として話せば良いだけだ。
「別れを言った日、何で遊園地に行きたいって私が言ったのか知ってる?」
子供も青空の雲も、その時二人の視界の中で消えた。
清志は振り返り、遠藤を見つめた。
人混みが嫌いな遠藤は、清志のことを考えていた。清志が必死に人混みを避けていたのを、遠藤は全て知っていた。少し開いてどこかへ消えてしまいそうな距離になったからこそ、清志は冷静に彼女の目を見てそれが分かった。
「俺が遊園地好きなこと知ってたからだろ」
清志は笑って手を振る。遠藤は遠くへ行く清志を見送る。変わらない小さな優しさを互いに知りながら、変わっていく自分を次に向かわせる、全てにおいての二人の精一杯だ。
小降りの雨が、昨日くらいに降っていたようだった。道に出来た水溜まりをジャンプで跳び越え、服のポケットに手を突っ込んで、俺は歩き続ける。冬はもうすぐ終わり、春のそわそわした季節がまたやってくるだろうと、青空を眺めて笑う。今日みたいな天気だと、遊園地は賑やかな人混みが生まれている頃だろう。
清志は遊園地が好きだった。
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【ジェットコースターサイクル】 >>40-50
51 極東夜鳥 [2013/01/29(火) 22:32:00]
・さよなら*戮と※亡
「こんな場所に、若いやつがいるんだな」
その男は、茶色い高そうなコートを僅かに遊ばせながら言う。色が薄くて目立たない唇を小さく動かして。
「あなただって若い方じゃないですか」
やや低い鼻をひくつかせキツネみたいに細い目が少し回る。黒メッシュの男にしては長い茶髪を掻きながら。
「それもそうだな」
その髪の毛は僕の方向性の無いただ伸びるのを放置したそれとは違ってビシッと纏められていたし、何だか格好がついていた。
「しっかしお前痩せ過.ぎじゃないか? ちゃんともの食って運動してっか?」
僕の体は初対面の人にそうずけずけと言われる程だ。生まれつきでもあるのだけれど骨ばっていて腕や足なんかもすぐ折れてしまいそうに細い。実際すぐに骨折できるのだけど。対してその男は、何と言うかがっしりしていて二の腕はもちろん一の腕なんかもごつい。肩も怒り肩気味でまさに体育会系といった体つきだ。
こんな人と喧.嘩にでもなったら冗談でも※の危険があるんだろうなと、自分で考えてそれに違和感をおぼえる。
※の危険以前に僕は※んでいるんだ。
うつむく。でも見える地面なんか無い。下を見たって果てしない無が続いてるだけなんだ。黒とも灰ともつかない色をして。
「まあ気にすることはねえよ少年。今じゃどうしようもねえんだ……アレ以外はな」
「アレ……ですか」
顔をあげて、この虚無の果てから天上までを貫く白い塔に目を向ける。先は点になっていて首が悲鳴をあげても見えない。
『EXPLORER-AID』何故EXPLORERとAIDをハイフンでくっつけているかは分からないがそう塔の横に赤で掘られている。
「そういや少年、お前さんはどうやってここへ来たんだ?」
男は初めて真剣な表情をしながら僕に尋ねた。その目はあまりにまっすぐで恐かった。まるで、止まっている筈の鼓動まで聴こえてきそうだった。
「僕は自分からここへやって来たんです」
自分の過去を全て話すべきなんだろうか。ある訳の無い痛みが胸を襲う。薄暗い虚空の中、沈黙がはこびる。僕の目線は泳ぎ続け、それを察知したのか男は「そうか」とだけ言って無の空を仰いだ。僕は下に広がる無の海をみつめる。頭に過去の自分が甦った。
52 極東夜鳥 [2013/01/29(火) 22:36:10]
僕は根っからの不幸体質だった。それも自分が不幸という訳では無く、僕に触った人が不幸になるという忌々しいものだった。それでいつも周りに気味.悪がられ、避けられて、あげくいじ..めのようなものも受けたので、人前に出ないような生活を送っていた。
でも、それでも久しぶりに気分のいい日があってその日はこっそりと散歩をした。
だけどその散歩の途中。女の人とぶつかってしまったんだ。
その人に怪我とかは無くて「ごめんなさい」と軽く謝る事でその場は済んだように思えた。だけどその数秒後、その女性はブレーキが故障した車に……。そのブレーキが壊れたのも原因がわからないという事だった。
僕はその日の事をずっと忘れる事ができなくてついに幻.覚にまでとりつかれた。何度も恨.みの声が頭にこだました。それに耐えきれなくなって身を.投げたんだ。
古傷を擦る僕にもっともな言葉が降りかかる。
「自分を大切にしないのは罪だ。そいつはとんでもねえ親不孝だろ?」
思い出す。僕がここに来る前、この世とあの世の境をうろうろしてた時何回も「行くな! 帰って来い!」って父さんや母さんの叫び声がして、その度に空っぽの体はいっぱいいっぱいになって……もう生きてなんかいないのに※ぬほど後悔した。
傷があんまりにも痛むので、僕は他人の傷を覗き込む。
「あの、あなたは?」
「……リンドウだ少年。リンドウって呼んでくれや」
リンドウ……確か町.内会にそんな名前があったような……まあ偶然名字が一緒ってだけだよねと思ってたけど。
「あの、リンドウさんはどうしてここに?」
瞬きがてらちらっと伺うと、リンドウさんの背中がぴくっと震えた気がした。
「正当防衛……要するに俺は人を*した。そのバチってか因果ってやつなのかは知らねーが俺も*されちまったんだよ」
心なしか何か辛い事を思い出しているように声は掠れ気味だった。
「でも正当防衛なのに*されるなんてそんな理不尽な事が……」
「そういうもんだ。結局世の中ってのは全部理不尽なんだよ少年。まあ納得いかねえかもしんねえけどな」
その言葉に反発したくなって、顔をあげるけどリンドウさんはそれを予測していたのか手が僕を遮る。
リンドウさんは瞳を綴じたまま『EXPLORER-AID』を向く。そうしてゆっくりと目を開きニヤリと笑いながら言う。
「ああいう、良い意味での理不尽もな」
リンドウさんの言う良い意味での理不尽。それは生き返るという事。EXPLORER-AID内ではあるイベントが催されていてそれに優勝すれば蘇る事ができる。あのもといた場所へ。家族のもとへ。
53 極東夜鳥 [2013/01/29(火) 22:40:59]
リンドウさんはこっちにそのギラギラした目を向けて急に問い出す。
「んで少年、お前さんはどうして生き返りたいんだ? 自決なんだろ? 辛くなったんじゃないのか?」
僕は少し目線を反らして答える。
「失って、気づけなかった事に気づいて、忘れてた事を思い出したんです。だから僕は……」
リンドウさんは「そうかい」と相槌をうち続ける。
「ちなみにその忘れてた事と気づけなかった事ってのは何なんだ?」
それを聞くか。僕は口をすぼめる。この人、大人びてるけどちょっと遠慮って精神が欠けけるみたいだ。
「僕を……こんな僕を愛していてくれた人がいた事」
恥ずかしげにその言葉が口から出た瞬間リンドウさんは大笑いしだす。はい、この人サイ.テー。もう口もきくまいとそっぽを睨むと慌ててリンドウさんは弁解する。
「別に子供.っぽいとか、そういう理由で笑ったんじゃねえって。ただお前さん.みたいな少年が愛なんて単語を使うからだ」
拳を腹めがけてつき出すけど簡単に受け止められる。笑われながら。
「ハハッ。悪かったっての。いい事に気がつけて良かったな少年。そんな事はいっぺん※んでみないと絶対にわからんもんだからな、特にお前さんみたいな少年には、な」
釈然としない視線をぶつけながら今度はノーモーションですねを蹴りつける。これが思いの外クリーンヒットしてリンドウさんは小さくうめいた。僕はあまりにうまくいったので吹き出してしまう。
「て.めコ.ラ、少年」
何故か半笑いのリンドウさんから逃げつつ僕はEXPLORER-AIDへと向かっていった。
54 極東夜鳥 [2013/01/29(火) 22:43:11]
暖かいベッドに入りながらふと窓を見ると雪が散っていた。この季節になるとあの事を思い出す。
__赤が場を支配して、真ん中の鉄格子を境に同じ顔が見つめ合う。どうして、何故、僕があそこに立っているのか。あそこに……あそこにくるのはリンドウさんじゃなかったのか?
生気のこもらない黒い目が僕を冷たくあしらう。あの虚ろ感。まぎれもない僕自身。髪は長くなってボサボサのバラバラ。おまけに病人みたいにやつれて骨ばった体。弱々しい手足。ずぶ濡れの灰のパーカーに黒ズボンまで同じだけれど__気がつけば僕は雪に震えながら、家の屋根の上にいたんだ。
あの時いったいEXPLORER-AIDで何が起こったのか、それにどうしてあそこに立つべきだったのはリンドウさんだったのか、そして僕はどうやって戻って来たのか、三年経ってしまった今では知る術が無い。ただ言える事はやはり町内にリンドウという人が住んでいてその息子さんは※んでいるという事だけだった。僕はあの後何とか苦労を重ね、今は通信制の高校に入学させてもらっている。僕みたいな人が二度と同じ間違いを起こさないように、親身になって助けてあげる身。いわゆるカウンセラーってやつだろうか。それが僕の夢になっていた。
「少年、親孝行ちゃんとしろよ」
ふいにそんな声が聞こえた気がした。
雪明かりの無い夜の事だった。
55 極東夜鳥 [2013/01/29(火) 22:47:38]
「俺もつくづく運がねえ……」
リンドウは青が支配する部屋の中、手で顔を覆い押し寄せる悲しみを抑える事に徹していた。リンドウの前にはボタンが二つ。一つは『協力』もう一つは『裏切り』。リンドウの側にあるボタンは『裏切り』が黒々と光っていた。対する、もう一方。リンドウの正面に鉄格子を挟んで立つスーツの男がいた。まるで覇気の無い目を向けながら口元がひくついている。拳は固く握り絞められ、小刻みに振動。この男の前のボタンも『裏切り』が光っていた。
「__ジャッジ二回目、共に『裏切り』両者からは生き返る権.限を奪.う」
無機質な声が青に響く。
EXPLORER-AIDで行われたのは『ジャッジ』だった。全員が持ち点一から始まり共に協力なら両者に一点。共に裏切りなら両者から三点。片方は協力、片方が裏切りなら協力から三点引き、裏切りに三点が入る。四点に達すればクリアで生き返るが零点を下回った時点で生き返る権限が失われるどころか、虚無の空間に延々と閉じ込められてしまうものだった。
スーツは言う。
「リンドウ……キサマまたしても……」
「言うなよお前だって同じなんだ」
リンドウは顔を覆ったまま。
リンドウとの相手になったのはリンドウが*した男だった。リンドウには分かっていた。このジャッジが両者にとって無益である事を。どちらにせよ、自分は生き返れない。だからひぎずりおろした。地の底まで。骨を食べ終えたなら皿まで食べると言わんばかりに。
起伏の無い声は告げた。
「両者、何か言い残す事はあるか?」
リンドウはひと呼吸おいた後
「少年、親孝行ちゃんとしろよ。それから偉そうな事言っといて戻れなくて悪かった。だがこれだけは言わせろ、お前の考えはお前の体質すら凌駕していつかお前に触れれば触れた人が幸せになるようになるさ。世の中ってのは結局理不尽でてきてるからな。いい意味でも……ってあの少年に伝えてくれないか?」
「……できる範囲でなら、いいだろう」
「ハッ、やっぱどこもかしこも理不尽なんだな」
乾いた笑いだった。そのリンドウの最後の笑みは一握りの嬉しさと海ほどの哀と愛を兼ねていた。
56 極東夜鳥 [2013/01/29(火) 22:50:05]
リンドウは沈み、少年はかけ上ったEXPLORER-AID。それは以外と近い世界に存在するのかも知れない。少なくとも、生きていた、生き返った系統の都市伝説には関与しているのだろう。もしかしたらかのアメリカの大ロックスターもまたこの塔をかけ上れた幸運な一人だったのかも知れない。願わくは安らかでない※者へ救済を。
いつか虚空に声は響いた。
「人生とは、大いなる探検である。私の塔は探検に迷った者の為にある。正しきルートへの道標となり、探検者を導く。そう私の塔は探検者の乗り物。EXPLORER RAID。格好をつけてEXPLORER-AIDといったところか」
塔は今も少年の後ろで現世に一方通行の出口を開いている。次の幸運を待ちながら。
58 匿名希望の魔術師 [2013/01/31(木) 07:39:03]
/*.空が泣いた日
目に映る景色全てが、腐った生ごみのようだった。
***
鼠色の空が、ビービー泣いていた。
赤ちゃんが産声をあげてるように、駄々をこねてるときのように、空は激しく泣く。神様が泣いているのかな悲しいことでもあったのかな、なんて、馬鹿みたいに考えてみるわたしは、どれだけ馬鹿なんだろう。
四階の教室の窓から身を乗り出し、周囲を見下ろす。
校門に白蟻が群がっていた。あ、間違えた、白い夏制服を着た生徒だった。こんな激しい雨なのに、蟻たちは一向に帰る気配がない。みんな学校が恋しいらしい。いや、違う。一人が寂しいだけだ。
「アコ、何やってんの。落ちるよ」
不意に、何度耳に入れても馴染めないアルトが後ろから聞こえた。彼の声を聞く度に、今が現実だと知る。昔の声変わりしていない彼の声が懐かしかった。
声で誰だか分かるから、振り向かないで、背を向けたままわたしは答える。
「早いね、トシオ。部活は?」
「もうテスト近いから早めに切り上げられた。バスケ部馬鹿だから勉強して来いって」
あー練習したかったなぁ、と本気でため息をつくトシオを見て、バスケバカは昔から変わってないな、とあたしは思った。
教室に残っている生徒はもういなく、わたしとトシオだけだった。数か月前までは、必ずもう一人ここにいたのに。そう考えるとだんだんと悲しくなってきて、こみ上げる感情に耐え切れなかったわたしは思わず口に出してしまったんだ。
「ケンセイもこの空を見てるかな」
59 匿名希望の魔術師 [2013/01/31(木) 07:40:14]
後ろは振り向かなかった。わたしは空を見た。どんよりとした鼠色が、呆れるほどに広がっている。それは絵のようで、手を伸ばしたりラインをひきたくなる。
「あの空に、沈みたい」
そしたらふわふわ、楽になれる。辛くなくなる。余計なことを考えなくてすむ。願わくば、あの空を通り抜けて、ずっと遠くにいるケンセイに会いに行きたい。
手を伸ばして空を仰ぐわたしを、トシオがどんな表情で見てたのかは分からない。彼は少し黙りこくった後、わたしの隣に飄々とやって来た。ポケットに手をつっこみ、おまけに兎みたいにピョンピョンはねながら。心底、どうしたんだいつになくチャラいぞと疑いたくなるわたしに、トシオは悪戯っ子のような笑みを向けた。
「ケンセイなら今頃バスケのダンク決めながら空見てるっしょ」
彼の笑みは無条件に明るく温かく、わたしのどうでもいい感情はすぐにどうでもよく消えてった。
「そっかなぁ。また練習サボってないといいけど。めんどくせーとか言ってさ」
「大丈夫だって。アコが変えたんだから。ケンセイも俺も」
ほんの少しクサイ台詞を恥ずかしなくあっさり口にだし、その上似合わせてしまうトシオ。それが出来るのは、彼が長身で、癖毛な茶髪と飄々とした雰囲気を持っているからだろう。同じ長身だが、短い黒髪と鋭い瞳を持っていたケンセイには、絶対に似合わない。吐いて笑うだけだ。
ケンセイのことを一度思うと、途端に内側から感情が煮え滾ってくる。一年前の思い出が脳裏に浮かんで、刃物と化し、拳銃と化し、わたしの脳に穴をあけた。辛くて恋しくて愛おしくて、気づけばわたしは唇を動かし、それを吐露していた。
60 匿名希望の魔術師 [2013/01/31(木) 07:41:17]
「一年前、ケンセイとトシオに再会したとき、凄い驚いたよ。小三のころとまるっきりちがって、しかもここの高校、偏差値高かったのに」
「あんときは俺らの方がびっくりしたって。入学式代表が聞き覚えのある名前で、しかもそれがアコでさ」
首席とかまじありえん、と不貞腐れた顔で言い、彼は窓枠に軽く腰掛ける。おい、さっきお前わたしを見て危ないぞてきなこと言ったよな。思いを籠めて目を細めるわたし。
しかし、その窓が閉まっていることが分かり、やりきれない思いのままそっぽを向く。「え、なに」とわたしの視線に気づいてた彼が悪意のない素直な瞳を向けてきたが、わたしは「なにもない」と無愛想に答えた。
思えば、一年前もこんな素直な瞳をしていた気がする。純粋な目を向けて、小四で転校したアコに高校で会うなんて運命だよなー、とクサイ台詞を言われ引いたのを今でも覚えていた。
ケンセイは、どうだろう。小三の頃、友達も好きなのを知っていながら自分も密かに思いをよせていたわたしにとっては、彼との再会はドキリとするものだった。でも彼は昔と全然違くて、一匹狼のように孤独で授業をよくサボってよく寝ていて――今の彼はどうなのだろう。トシオの言うとおりに変わっていると嬉しい。いや、変わっているはずだ。
「――アコ?」
トシオの声にハッとして顔をあげる。
瞼の奥のケンセイは、地面に落ちた雨が一瞬で弾けるかのように、薄らと消えていった。
61 虎辻 凪 [2013/01/31(木) 16:35:24]
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「……最近アコ、変だよね。なんか元気がなくなったかんじ」
急に、トシオが真剣な顔をして述べた。いつもひょうきんな彼が珍しい。
「そう……かな。いや、そうかも。なんかケンセイが転校しちゃった途端、色々くだらなくなって、中学時代の嫌な思い出がどんどん噴出してくるんだ」
考えるよりも先に、言い表した。トシオは黙って聞いてくれてた。
外を見ると白蟻たちはみな軍隊の如く帰っていた。蟻たちが差す色とりどりの傘は花のようでこの梅雨の時期にはお似合いだった。まだ鼠色の空は泣いている。わたしは本気で泣いたことなど二度くらいだから、何度も何度も涙を流せる空が羨ましい。本気で笑える空が羨ましい。
なんてふざけたことを考えながら、わたしはゆっくりと過去を漏らした。
「わたしさ、中学の頃、結構.鬱だったんだ。友達はいたけどどことなく距離を感じて苦しんで、お母さんとも全然うまくいかなくて、どこにも居場所がなかったの。誰も話をきいてくれなくて、誰も大丈夫だって言って手を握って抱きしめてくれなかった。何度も死.にたいって思った。でもね、泣きたくても辛くても死.にたくてもわたしは何もできなかったんだ。誰でもいいから、ふざけてでもいいから、誰かに愛してるって言ってほしかった。ほんとは、幸せになりたかったの」
トシオの前だからか、この空を見ているからか、はたまたケンセイが愛おしいからか、不思議なくらい言葉が溢れた。
62 匿名希望の魔術師 [2013/01/31(木) 16:39:04]
「でもケンセイとトシオと再会して、生.きててよかったなぁってほんとに思った。高一が一番楽しかったし、一番笑ったし、一番泣いた」
トシオがいつも笑顔をくれて、ケンセイがいつも助けてくれて。中学のときが嘘の様で、何もかも白紙になったみたいで。ケンセイが手を握ってくれて、無愛想な声で大丈夫だ、って言ってくれて抱きしめてそばにいてくれた。彼の傍でわたしは泣いた。嘘.泣きでも、作り.笑いでもなく、ほんとに、ほんとに。
「それぐらいに、中学のときは酷.かったんだ。それが今、いろいろ思い出してきて、また辛くなる。学校行きたくないなとかお母さん.嫌.だなとか思ってしまう。高一のときに全部すっかり晴れたなんて、わたしの思い間違いだったんだ」
最.悪だね、と感情の匂いのないトーンで呟き、苦笑いをする。
トシオはなんて思うだろう。ケンセイに話した過去を今彼に話して何が変わるのだろう。馬.鹿じゃねぇの、って辛そうな声で言って、わたしの涙腺を揺らすだろうか。――違う、ケンセイとは違うんだ。何わたしは自惚れているんだ。トシオに申し訳ない。これこそ最.悪じゃないか。
追いつめた考えをうちけして、トシオを見る。彼と目があい、ビクリとした。
63 虎辻 凪 [2013/01/31(木) 16:39:58]
彼の口が開かれる。なんていわれるのだろうと無駄にドキドキしながら、ゴクリと唾をのむ。――しかし、トシオは何も、言わなかった。ただ黙って、ポンポンと大きな手でわたしの頭を優しくたたいた。それから、お得意の満面の笑みを浮かべたんだ。
「お疲れ様」
たった一言、そう言われた。哀しそうな、でも温かく優しい声に、わたしは思わず泣きたくなった。
「帰ろうか、アコ」
「だね」
傘を差した。それは透明で、傘越しに空がよく見えた。
鼠色の空は泣いていた。でもこれは嬉し泣きだと思う。神様に何かいいことがあったのかな、なんて馬鹿みたいに考えてみるわたしは、どれだけ馬鹿なんだろう。
「夏休みになったら、毎日ケンセイに会いに行こうか」
隣で歩くトシオが、悪戯っ子のような笑みを浮かべ、純粋な瞳を輝かせて言った。
「賛成っ!」
わたしは間髪入れずに即答する。伸ばした手が、空にかぶさり、それはケンセイにも届きそうだった。
小三のとき、三人で笑いあった日。三人で泣いた日。三人で遊んだ日。再会したとき、三人で驚いた日。ケンセイとトシオが喧嘩した日、恋模様に揺れていた日。ケンセイが転校した日、いつも見ていた景色にケンセイがいなくなった日。
目に見えるものすべてが、キラキラと輝いていた。
/*空が泣いた日
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