先日、全国の安全野郎から「デマイエロー」と
呼ばれている木下黄太さんの講演を見るため、
遠路はるばる宇都宮まで行ってきました。
噂によると、木下黄太さんが「デマイエロー」。
福島を現地取材し、「民の声新聞」を発行する
鈴木博喜さんが「デマグリーン」だと言うので、
僕も戦隊ヒーローの仲間入りがしたいと思って、
「デマ・チェレンコフ・ブルー」を襲名しようと
試みたのですが、色が複雑過ぎたのでしょうか。
安全野郎は、まったくのスルー!
「プルシアンブルーでもいいですけど?」と
提案してみたんですけど、またまたスルーされ、
僕の戦隊ヒーロー入りの願いは、あえなく撃沈。
このままでは、「風評破壊天使ラブキュリ」に
おっぱいペロペロ怪人として登場することなんて、
夢のまた夢になってしまいそうなので、頑張って
いかないといけないと思うんですけれども・・・。
俺も仲間入りさせてくれよな!
何はともあれ、直接会って、話を聞いてみる!
これが2年目の『チダイズム』の基本スタイル。
いつまでも、ネットで拾った情報で、ウダウダと
語り合っていても、何も進まないわけですよ!
「価値ある情報」を掴むためには、汗をかけ!
そうです。ジャーナリズム精神を胸に秘めつつ、
自分の足で情報を取る。その必死さが大事です。
けっしてピクニック気分で行くわけではあり・・・・・
うなぎ弁当、超うめぇ!
いやぁ、僕、一度でいいから、新幹線の中で、
黄色い糸を引くと、3分ぐらいで一気に熱くなる
「うなぎ弁当」を食ってみたかったんですよ!
やっぱり、旅に「駅弁」は、一番の醍醐味です。
これから2時間ぐらい講演を聞くわけですから、
しっかりスタミナをつけておかないと!
それに、偶然にも隣に美人奥様が座って、
「木下さんのフォロワーなんですか?」とか
話をしているうちに、お互い意気投合してしまい、
餃子屋さんの裏のラブホでワンナイトラブ的な
展開になる可能性も、あるかもしれないッ!
・・・の、うなぎ弁当(1350円)。
えぇ、「オマエ、完全に楽しんでるだろ!」と
言われてしまえば、否定はできないんですけど、
一度は行っておこうと思っていた木下黄太さんの
講演会に行ってまいりました。
ちなみに、「うなぎ弁当」だけでは満足できず、
時間ギリギリだというのに、餃子を2皿食って、
この会場に駆けつけていますから!
木下黄太さんは、講演で何を話すのか?
本当にデマを言っているのかを検証します。
だいたい、直接話をしていないのに「デマ」と
断定できる神経が、僕にはわかりませんから。
木下さんは、都内の某テレビ局で、報道部の
「統括デスク」という仕事をされていた人です。
具体的に、どんな仕事かと言うと、どこかで
事件や事故が起こった時、記者をどこに派遣し、
どんな取材をするのか、その指示を出す役職。
いわば、報道局の「監督」みたいな人です。
東日本大震災が起こり、福島第一原発事故が
起こった時も、木下さんは「統括デスク」として
情報収集にあたり、最前線で仕事をしてました。
ただ、木下さんが他のスタッフと違っていた点。
それは、1999年に起こったJCO臨界事故を、
民間の放送局で唯一、長期取材した経験を
持っている「特殊な人物」だったということ。
「ちょっと東海村に行ってきました」ではなく、
周辺住民が避難して無人化した東海村に行き、
事故の直後(2時間後)から、2週間にわたって、
現場で動き続け、さまざまな経験をしたのです。
その経験というのが、実に面白い!
まずは、車で東海村に向かった木下さん。
常磐自動車道を走り、最寄りの「那珂IC」で
降りようと思っていたそうなのですが、TBSの
取材クルーが、1つ手前のインターチェンジで
降りたそうなんです。
「TBSのヤツらは、何をやってるんだ?」
そう思いながら、他局のことは関係ないので、
そのまま車を走らせ、予定通り、「那珂IC」で
降りたそうなのですが、そこはJCOの真ん前!
ご存知のとおり、「放射線は距離の2乗に
反比例する」ので、距離が近いとアウトです。
つまり、TBSの取材クルーは、それを計算して
手前で降りていたのですが、木下さんは知識を
持っていなかったばっかりに、なるべく近くまで
行こうと思い、余計に被曝してしまったのです。
だから、「あの時は失敗した」と話していました。
僕は、このエピソードを聞いた瞬間、「この人は
嘘をついていない!」と確信しました。どこぞの
安全野郎は、「これだけでわかるかよ!」とか
言いそうですが、木下さんは「自分は完璧だ」と、
自分を大きく見せようとは思っていないのです。
むしろ、「いろいろ失敗したことがあるから、
今度はうまくやりたい!」というところからの
スタートでした。
Twitterやブログの口調から、「俺の言うことは
絶対に正しいんだ」みたいに言っている人だと
誤解している人も多いかもしれないんですけど、
直接話せばわかります。そうではありません。
日本で最も長く「JCO臨界事故」を取材した
報道マンが、福島第一原発事故に直面した。
その時、その報道マンは何を見て、どのような
決断したのか!
これは、すごく興味深い話です。
だいたい、「JCO臨界事故」を、発生直後から
長期にわたって東海村に滞在し、取材したのは
日本に数人しかおらず、その一人が木下さん!
かなりレア中のレアなうえに、当時はいろいろと
失敗してしまったというのもポイントです。
それゆえに、自分がどれだけ被曝したのかを
調べたり、いろいろな専門家に話を聞いたりして、
震災が起こる前から、「被曝とは何ぞや」という、
さまざまな知識を偶然、持ち合わせていたのです。
ちなみに、木下さんはJCO臨界事故の取材で、
当時の科学技術庁(現・経済産業省)の人たちに、
どれくらい被曝したかを調べさせてほしいと言われ、
福島の子供たちが受けたくても受けられないことで
お馴染みのホールボディカウンターを受けたところ、
国の公式発表で200マイクロシーベルト、そこから
別の専門家に見てもらったところ、1000マイクロ
シーベルト(1ミリ)の被曝をしていたそうです。
そして、このたびの原発事故が起こりました。
一部では、木下さんが「逃げた人」ということに
なっていますが、爆発が起こった後も木下さんは
報道部の統括デスクとして、最前線にいました。
震災前から、あれほどの知識があったのだから、
逃げるなら、もっと早くに逃げたはずなのですが、
そうはしていません。むしろ、取材する記者たちを
守るために、現場で「約100km圏に入るな」と
指示を出そうとしていたのです。
木下さんの話で、非常にわかりやすく、印象に
残っている言葉があります。それは、危険な所で
取材をする人たちへの心得みたいなものですが!
「米軍より前に行くな!」
どんな場所でも、軍隊より前に行った時には、
命の保証はない。アルジェリアでも同じですし、
今回の原発事故にしたって、同じだというのです。
当時、米軍は「80km圏内の立入禁止」という
措置を取っていました。軍隊より前に行って命の
保証があるわけない。だから、木下さんは記者に
100km圏内に入って取材をしないという方針を
打ち出したそうです。
そして、実際、新聞などに情報を送る通信社は、
100km圏内に入らずに取材をしていたそうです。
住民の避難も一切なく、「安全だ」と配信しながら、
自分の身は守っていたというわけです。
これは、非常にわかりやすい説明だと思います。
あなたなら米軍の前に立って取材するでしょうか。
アフガニスタンでも、イラクでも、米軍の前に出て
取材をするバカはいません。今回の原発事故も、
米軍の前に出て取材をするのは、危険なのです。
ただし、100km圏に入らないとは、どういうことか。
それは、福島市からも、郡山市からも撤退をする。
そんなことでは、思うような報道はできませんが、
報道より記者の人命を優先すべきという判断です。
ところが、その最終決定を上司に迫ると、上司は
判断することができず、「うーん」とか言いながら、
何をしたかと言うと、「寝た」というのです。
結局、これが日本のマスコミである。
国境なき記者団が発表している報道の自由度で、
日本の世界ランキングが22位から51位に大幅な
ランクダウンしたことが示すように、日本の報道は、
先進国とは言えないのです。
講演の冒頭は、木下さんの経歴や事故直後の
報道局の現状などを話してくださいました。続く。