歴史から学ぶ地球環境問題 門脇重道
地球環境は人類の安定的な存在がもはや許されない段階に達しつつある。しかし現状では、この問題を克服する方向が明確に示されているとは言い難い。地球環境問題を克服する道を考える上で、これまで我々が環境問題にどのように対応してきたかということを知ることは極めて重要であろう。ここではこれからの環境問題のあり方を考える上での参考とするために、筆者がこれまでに調べてきた環境問題に関する歴史について示す。
1.1 イギリスにおける大気汚染の歴史
(門脇重道著「技術発達史とエネルギ・環境汚染の歴史」
pp.204〜208)
(1)
12〜18世紀における状況「エネルギ資源と利用技術の歴史」で述べたように,ヨーロッパで石炭の利用が始められるのは
12世紀ころのことである.これは人口増加を要因とした木材需要の増大と,森林を耕地へと変換する動きが重なって,木材資源の不足が起こり,その代替エネルギとして石炭が用いられ始めたためであった.そしてこの人口増加は,11世紀から13世紀まで続き,その間木材不足が深刻化していって,ロンドンでは木材の値段がだんだん高くなっていった.ロンドンでは,
13世紀の後半には海炭の使用が一般的となり,それによる大気汚染についての苦情が現われ始めている.1285年には,石炭窯による煙についての苦情で調査委員会が開かれて,海炭が害を与えていることを認めているし,1289年にはロンドンのかじ屋が自主的に近所迷惑にならないように夜の仕事をしないことを決めている.しかし,これらの対策では不十分で,
1307年にエドワード1世は,海炭を窯で使用することを禁じざるをえない状態にまでになっている.その後も石炭の煙と臭いに対する苦情が現われていて,石炭の使用制限が行なわれているが,15世紀以降は苦情があまり見られなくなり,これが16世紀まで続く.この間石炭の使用がなされなかったわけではないが,木材燃料が十分供給されたことによって苦情が減少したものと考えられている. これは、
1315年からの2年間にわたる天候不順による食料不足と,それによる病死者の増加で人口が抑制され,これに続く1348〜1351年とそれから以降,何度か流行した黒死病による人口減少によって,これまで開拓された耕地が放棄され,木材燃料の供給を可能にする土地へと戻り,さらに燃料需要の停滞によって,木材燃料が需要にこたえられるようになったために,大気汚染の苦情が減少したのである.16世紀の後半になると,木材消費の増大によって燃料不足が現われて,石炭の使用が増えていった.1578年には,エリザベス女王が石炭の煙に悩まされるが,その結果ビール醸造業者は,将来木材燃料だけを用いるという約束をした.
17世紀に入り1620年代になると,石炭の煙による苦情が増加し,1627年の明バン工業の煙についての請願では,海炭の煙が牧場を汚し,テームズ川の魚を害していると述べている.木材が1540年から1640年の間に,780%もの上昇を示していることに明らかなように,木材が極端に不足して高価なものとなったので,1640年代には家庭用暖房にも海炭を使用するようになってきた.このように海炭の利用が広がれば広がるほど,その煙についての苦情は上に述べたように増えてくる.
当時の石炭の煙がいかにひどいものであったかということは,
1661年にチャールズ2世に求められて,イブリンが書いたフミフギウム(煙の駆逐を意味する)のなかによく述べられている.そこには家庭の煙突やビール醸造業,石灰製造業などから出る石炭の煙は地獄のように陰気であり,ロンドンがそれらの煙といおうでおおわれていて,旅人はロンドンの街がまだ見えない先のほうで,その臭いをかぐことになると述べている.そして石や鉄までが腐食でぼろぼろになり,住人は肺が侵されてカタルや肺結核,感冒などが多いことが述べられている.また,イブリンの報告の
4年後に出されたグラウントのものでは,ロンドンでの死亡率が田舎よりも高いが,これはロンドンが込み入っているのに,海炭が燃やされるからであるとしている.そして1600年よりも前には海炭があまり燃やされなかったので,田舎よりも死亡率は高くなかったが,1665年までには海炭がよく使われるようになって非衛生的になったと述べている.これらの記述に明らかなように,
17世紀中ごろのロンドンなどの都市における海炭の煙による大気汚染は人間の健康を脅かして,死者さえ出ていることがうかがえる.このような状況のなかで,煙の処埋に関する研究が行なわれるようになり,
1686年にはジュステルが「煙を消す機械」を発表しているようであるが,詳細についてはわからない.しかしこれらの努力では大気汚染の状態は改善されず,1700年にはノアースがロンドン郊外に植林して木材を燃料にすることを提唱しているが,これも提案に終わった.(2)産業革命以降の状況
イギリスの石炭消費量は,
18世紀後半になると急激に上昇していく.これは製鉄に石炭を利用できるようになったことと,蒸気機関が万能熱機関として用いられるようになったことがその要因である.1772年のホワイトの「新版フミフギウム」によると,ロンドンでは庭の木の果物がならないばかりか葉も落ちてしまうとか,ロンドンで生まれた子どもの半数は二歳以下で死亡すると書かれていて,大気汚染が重大な影響を人間や環境に与えていたことがわかる.もちろん,子どもが多数死亡することの埋由が,すべて大気汚染によるものでないことは明らかであろうが,大きな要因であったことは十分想像できる.1819年には蒸気機関の炉からの煙の除去を研究する委員会が設けられ,調査の結果,除去の可能性あるという結論が示されて,炉からの煙によって被害を受けた場合には告訴できるという法律が1821年に作られた.しかし,市民たちが強力な工場主に対する告訴をためらうために効果を上げえなかった.それは裁判官そのものが汚染者によって占められる場合が多く,法律を実行するはずがなかったからである.
1830年代の終わりまでには,大きな都市における商業用炉の煙に対する規制が行なわれているが,先のような埋由で実効は上がっていない.
イギリスの石炭生産量は,
1800年の1000万t台からその後急上昇していく.そしてこれに対応して大気汚染も悪化し,1847年には都市整備法が制定され,工場では炉で燃料が完全に燃焼するようにしなければならないとされた.さらに,
1851年万国博覧会への外国からの来訪者による苦情がもとで,1853年には,ばい煙法が制定され,各種の炉の煙に対する条項を守らせる権限を警察に与えている.アルカリ工業や銅精錬工場から発生するヒュームは,非常に重大な被害を与えるものであるので,1863年には,これらを規制するためのアルカリ法が議会を通過した.1866年には,保健局にばい煙の取締まりの権限を与える衛生法が制定されるなど,次々と規制処置がとられたものの大気汚染の悪化はくい止めることができず,一連の死亡事故を含む汚染が進行していく.すなわち,1873年12月には11日間にわたって濃霧が発生して,前週に比べて気管支炎による死亡数が1.7倍になっているが,これと同様な記録が1880,1891,1892年に見いだされるわけである.
このように死亡事故が連続して起こる情況のなかで,
1905年には,ロンドンで公衆衛生会議が開かれ,ここで煙を含む露のことをスモッグと呼ぶことが決められて,一般の霧と区別されることになった.1914年には,ニュートン委員会が発足して大気汚染防止の対策を調査し,1921年に最終報告書が提出されているが,これまでの大気汚染の対策が成功しなかった最大の原因は,中央政府が無策にすぎたためであり,委員会の設置のみ行なうばかりでその結果が生かされていないということが指摘されている.そして1926年には,ばい煙防止法が制定され.1936年には,ロンドンにばい煙防止法が成立していて,ロンドン市中で大気汚染調査も行なわれている.
しかし,これらの努力にもかかわらず,第
2次世界大戦をはさんだ1948年には,またスモッグによる死者の増加する事件が見られる.1952年には,歴史上例のない重大な汚染が発生し,死者4000人を記録することになった.この事件はイギリス政府に大きな衝撃を与え,ビイバー卿を委員長としたロンドン事件の解明のための委員会が設けられ,1953年には,報告が発表された.それによると大気汚染は耐えられないような社会悪であって,これの防止のためには,国家的規模での費用と努力と忍耐が必要であるとしている.この勧告によって,
1956年には,大気清浄法が制定され,家庭からのばい煙も規制の対象となり,その他アルカリ法の対象とならない工場からのばい煙,汽車,汽船なども規制するものとなっていて,全面的な防止を狙ったものとなっているが,アルカリ法以外のものについては地方自治体が規制することになっていた.これらの規制と石炭使用量の減少により,大気汚染は改善の方向に進みつつあったが,その後も
1956年から1959年にかけて数度のスモッグ事件が発生し,通常よりも死者の数が増加している.1962年にも,死者数850名という規模のスモッグが発生しているが,このときの大気汚染の状態は浮遊ばいじんの濃度は1952年に比較して顕著に低下しているものの,亜硫酸ガス濃度はほば同じか少し多いくらいであった.これはロンドンでの家庭における石炭使用量が減少し,工場などでも石炭は減少して石油消費が大幅に増加しているために,このような結果になったと思われる.
このようにイギリスの大気汚染とその対策について概観してみると.石炭の使用童に対応して汚染が悪化しており,それに対しては対応も取られているものの,結果的にみると一時的なものにとどまり,さらにひどい汚染と被害が発生していく.そして
1952年の大被害が発生することになった.すなわち,イギリスの大気汚染対策は,実効を上げることができなかったといってよいのではないだろうか.そして燃料転換によって,ようやく被害発生を抑えることができたということであろう.
1.2 自動車排気ガスによるアメリカの大気汚染
(門脇重道著「技術発達史とエネルギ・環境汚染の歴史」
pp.208〜209)アメリカは,イギリスに比べると産業の発達が遅かったが,
1864年にはセントルイス,1884年にシカゴでばい煙防止法が制定されていて,大気汚染が深刻化していることが知られる.さらにピッツバーグでは,
1892年にばい煙防止法を制定されているが,第2次世界大戦中の1940年ごろから汚染が悪化した.そこでピッツバーグに君臨するメロン家が事態を放置すれば,経済的にマイナスになるということで汚染防止運動の中心となっていき,家庭のばい煙防止も含めた対策を行なって成果を上げている.そして石炭から石油・天然ガスへの燃料転換を積極的に押し進めた.このように,アメリカでは
1940年代に燃料転換が行なわれていて,それまでの石炭形の大気汚染から石油形の大気汚染へと変化していく.アメリカでは,石油を燃料とする自動車が
1900年代前半に急激に増加し,1930年ごろには,2500万台程度の自動車が存在しており,ほぼ1世帯に1台の割合になっている.この自動車からの排気ガスを原因とした大気汚染が最初に発生したのは.カリフォルニア州のロスアンゼルスであった.ロスアンゼルスは四方を山に囲まれた盆地にあり,古くはインディアンのたき火でスモッグが発生するほどであったとされている.
1940年代の初めごろから発生し始めたスモッグによって,目がチクチク痛むとか咳が出て鼻・ノドが痛むという健康被害を初めとするさまざまな影響が発生していった.このような汚染を防ぐために,
1947年には,カリフォルニア州の衛生安全法が改正されて,大気汚染防止の条項が盛り込まれて,従来の石炭形の対策である工場,焼却炉などの排出規制を行なっていった.これによって大気汚染は多少改善されたものの,依然としてスモッグは発生し続けたために,次に石油精製工場の規制も行なわれた.しかしそれでも,スモッグが発生するため,最後の原因者として自動車がその規制の対象となっていく.そして
1960年には,カ州の衛生安全法が改正されて,1964年からブローバイガスの規制が,1966年からは排気ガスの浄化装置の装着が義務づけられることになっていった.このようなカリフォルニア州の自動車に対する規が,1967年には,Air Quality Actとして,全米の自動車にも同じ規制を加えるようになっていく.これらの規制にもかかわらず大気汚染の情況は悪化して,
1970年には,ニクソン大統領の公害追放教書が出された.そして大気の状況をよくするために,自動車の排気ガスを1971年車の1/10にするという,マスキー法が提出されて可決された.これによって,自動車排気ガスは厳しい規制を受けることになったが,
1973年の石油危機を契機に省エネルギに重点が置かれることになって,排ガス対策は燃費を悪化させるということから,規制が後退している.アメリカの大気汚染対策は,イギリスに比べてより積極的であったといえそうであるが,ピッツバーグの大気汚染対策も,結局燃料転換によっており,この点ではイギリスと同様といえる.そして自動車排気ガス公害については,マスキー法に見られるように,環境の条件から望ましい自動車の排気ガス濃度を決定し,それに技術を従わせるという技術を制御する姿勢が見られる.この点は評価しうるが,その後のマスキー法の展開では,エネルギ危機を理由に規制が緩和されていき,やはり汚染防止が十分に行ないえたとはいえないだろう.
1.3 煤じん公害を克服した宇部方式
(門脇重道著「技術発達のメカニズムと地球環境の及ぼす影響」
pp.149〜154)エネルギの主要な役割が石油に代わるまで、日本でも石炭が主要な役割を果たしていた。山口県宇部市は、江戸時代に発見された石炭の採掘によって発展した町であるが、石炭燃焼によって生じる粉塵公害を、市議会、工場、学識経験者の三者の話し合い、いわゆる「宇部方式」と呼ばれる方式で解決した。一般に公害はその被害住民の抗議行動によっても、なかなか解決しないことが多い中で、企業も加えた話合いで解決したということは、かなり特異な例と言えよう。ここでは宇部での公害に対する取り組みの経緯をたどるとともに、なぜ粉塵公害の防止に成功したのかということを考えたい。
・微粉炭燃焼と煤塵公害
宇部市では、 およそ300年前に常盤池周辺で石炭が見出され、これを燃料として使い始めている。そして明治時代には多数の炭鉱が設立されたが、それが昭和 3年には沖ノ山炭鉱株式会社へと吸収されて、これが宇部興産へと発展する。
この宇部で掘られた宇部炭の低品位炭は、カロリ−が低いためにそのままでは燃料の形で使えなかった。そこでこれを粉砕して微粉にし空気とともに噴射燃焼させる方式が考案されて、昭和 4年頃からこの方式で宇部炭が燃料として用いられ始めている。この微粉炭燃焼が降灰をもたらし、洗濯物が汚れる、家の中がいつもザラザラしているなどの被害が発生し始めた。
このような被害に対して、昭和17,8年頃には市議会が委員を選出して対応を始めている。しかし、住民が明確な抗議行動を起こしたのは昭和24年のことであった。昭和24年 8月には、宇部市の東部地区住民が、降灰被害に抗議して住民大会を開いている。この住民大会は始めての組織的な行動であったが、その後の発展はなかった。しかしこの住民の抗議行動が市議会における取り組みの契機となった。
・調査の開始
そして昭和24年10月には、住民の抗議行動などを背景として市議会特別委員会として降煤対策委員会が設置される。委員会は降煤の実態を正確に把握するために、山口医大公衆衛生学教室野瀬善勝助教授(当時)に調査を依頼した。野瀬助教授はまず、工場における燃料の種類、品質、燃焼方法、ボイラ−の種類、集塵装置の有無の調査を行っている。そして昭和25年 1月からは市内10ヶ所に設置されたデポジットゲ−ジによって降下煤塵量の測定を開始した。このような組織的測定は、日本では初めての試みであった。
そしてこの調査で得られた結果は、毎月の新聞紙上で公開され、降下煤塵量の実態が市民に知らされていく。降煤対策委員会は、市内 4工場を対象として、それらに煤塵防止を要望し、さらに集塵装置の設置計画の提出を求めたりしたものの、新しい集塵装置が取り付けられることはなかった。この委員会は26年 5月の任期切れの時、(1)集塵装置の整備(2)撤水車の購入(3)緑地化を進めるとの3点の要望を提出している。
26年 6月には、条例によって「宇部市煤塵対策委員会」が設置される。これは従来の委員会と違って独立の執行機関となっていて、市長、助役を委員長、副委員長とし、委員は工場4名、市議会4名、学識経験者 4名の構成となっていた。これがいわゆる宇部方式の原形となるものであった。この委員会には、いわゆる加害者側の工場から、その最高責任者が参加するという点で、あまり例を見ない構成となっており、しかもこの委員会は、三者の話合いと工場側の自主規制を基調とするという点でユニ−クなものと言えた。
・排出基準の設定
委員会では、工場煤塵対策の現状や将来計画を報告させる形で対策を進めていったが、降下煤塵は減少せず、住民被害は減少されなかった。そこで、24年に続き、 28年8月には再度東部地区住民が大会を開き、煤塵対策委員会の規制対象工場や市長へ陳情を行っている。このように委員会が組織され、煤塵に対する対応がなされてきたが、効果が現れない中で、宇部興産の副社長であった中安閑一氏の提案による首脳会議が行われる。
中安氏は昭和29年に、アメリカのピッツバ−グ市を視察し、石炭によるスモッグ公害を克服した実例を目にし、さらに dust is moneyという言葉やclean air costs money、dirty air costs moreという言葉が標語となっていることを知り、これを持ち帰り、これを宇部でも実践しようとした。
中安氏の提案による首脳会議は 3回行われたが、この会議によって煤塵対策が大きく進み始める。それは従来の委員会が、集塵装置の種類、数、集塵効率などを問題にするにとどまっていたものを、首脳会議では具体的な排出基準を1.2g/m3 と定めたからであった。すなわち集塵装置入口の含塵量を 40g/m3 として、集塵効率 97%から求めたものであったが、これで明確な目標が決定された意義は大きい。
なお、含煤量の測定方法は、その当時日本工業規格 (JIS)として定められていなかったが、学識経験者として委員会に加わっていた山口大学工学部上岡豊教授によって考案された方法が、用いられた。この方法はその後、 JISの規格として、ほぼそのままの形で採用されたものであった。
・集塵装置の設置
首脳会議の結果定められた 1.2g/m3という数値は、当時の集塵能力からすれば、かなり過大な要求であったが、35年度末を目標として進められていく。
35年 6月には煤塵対策委員会が大気汚染対策委員会となり、煤塵以外の大気汚染も対象とすることが明確に示された。そして対象工場もこの時点で 8社となっている。この大気汚染対策委員会の構成などについては煤塵対策委員会と変わらない。各工場は、1.2g/m3 の目標値を達成すべく、集塵装置の新設・改良に多額の経費をかけて行い、35年10月に行われた含塵量調査では測定した6工場の中、5工場までが基準を達成した。こうして首脳会談が行われた昭和32年から35年にかけて、降下塵煤量も急激に低下して、対策の実効が上がったことが明らかである(図5−1:徳本・河村、産業公害といわゆる宇部方式ー公害実態調査報告 その1、産業労働研究所報、42[1967.3]、p.69)。
この間降塵量と健康との関係についての詳細な調査が山口大学医学部公衆衛生教室によって行われているが、児童のトラホ−ム罹患率と降下煤塵量との間には、相関関係が見出され、ジフテリア罹患率でも同様な傾向があることが分かった。また児童の欠席率、死亡率にも因果関係が推定され、これらの調査結果は市民の煤塵対策への要求をより強めるものとなった。
・宇部方式が成功をした理由
以上のように、宇部では、微粉炭燃焼によって生じていた降灰を急激に減少させることに成功したのだが、これを可能にしたのは、工場側が16億円という経費を要しながらも、コットレルを中心とした、サイクロン、マルチクロンといった集塵装置を設置したからである。
しかもこれらの対策を一般の公害問題に見られるように、被害者住民の激しい抗議の中で、企業側がやむをえず行ったのではなく、工場側がかなり自主的にそれを行ったという点が、宇部の降灰問題における大きな特徴となっている。
それでは工場側のこのような行動は、何故出てきたのかという点については、加害者の工場と、市議及び学識経験者の三者の話合いによる、いわゆる宇部方式という取り組みが、工場側の行動を促したとする考えがある。
この宇部方式という独特な対策委員会が出来た背景として、宇部モンロ−主義があったとされている。すなわち宇部の企業は、その資本の出資者は宇部人であり、従業員も宇部人であるというように、宇部人によって固められていた。従って宇部人は何らかの形で宇部興産とつながりがある訳であるから市議会でも 1/3ほどが興産関係者で占められていた。
このような宇部興産の町で公害に対応しようとすると、工場を含む形でしかなしえないのは当然で、そこから独特の宇部方式という取り組みが生み出されている。従って宇部方式は、工場が主導権を握った対策方法であったわけで、そこでは工場がどのように降灰対策に取り組むかが、ことの成否を握っていたとも言える。 そのような中で学識経験者として山口大学医学部の野瀬教授は、降灰の実態を調査し、さらにこれと健康被害との関係についての調査を行って、これを公表している。また山口大学工学部の上岡教授は含塵量の測定方法を考案して、これによって 1.2g/m3の目標値が厳密に達成されることを可能とした。また上岡教授は集塵装置の補集効率向上の技術的改良の面でも貢献している。
これら科学者の働きが、工場側の対応を促す上で、大きな役割を果たしたことは明らかであるが、この要素が、工場側の集塵装置設置の最も大きな要因であったということは、先に述べた宇部方式の本当の意味から言えば考え難いところである。
・フライアッシュはセメントの混和剤
それでは工場側を動かした、本当の動機は何であったかということを考えると、中安氏がアメリカ視察から持ち帰った dust is money と言う標語に集約できるように思われる。宇部炭は微粉炭にして燃焼すると、灰白色の球状となり、これはフライアッシュと呼ばれたのだが、この利用方法が宇部興産で研究され、セメントの混和剤として適していることが発見された。
こうして降下煤塵のもとになっていた灰は、商品としての価値が生じてきた訳で、まさに dust is moneyとなったのであった。この灰を積極的に回収して、フライアッシュを混和剤として用いれば、集塵装置の投資資金は十分回収が可能となって、集塵装置はフライアッシュの製造装置として次々と設置されていったのであった。
これが煤塵対策における宇部方式を成功させた最も大きな要因であったと考えられる。すなわち製造工程において発生する副生物が、何らかの新しい価値を生み出す時、工場はそれを積極的に回収する方向に転じ、その結果として、公害発生が軽減される場合があることを示すものである。もちろん企業が、公害防止のための投資を行うには、それなりの外からの働きかけを要するが、宇部の場合には、それが学識経験者によってなされたと言いうるように思われる。
1.4 マスキー法はなぜ日本で実施できたのか
(門脇重道著「技術発達のメカニズムと地球環境の及ぼす影響」
pp.124〜141)
@排気ガス公害と日本の自動車産業
・アメリカの排気ガス公害
モ−タリゼ−ションの進展により、自動車の台数が増加してくると、その排気ガスによる大気汚染が問題となってくる。世界で最も早くモ−タリゼ−ションが進んだアメリカでは、1940年代の初めから自動車排気ガスによるスモッグが発生するようになり、次第に人間の健康への影響が現れるようになった。
そこで自動車排気ガスの規制が始められるのだが、1964年(昭和39年)からスモッグの最もひどいカリフォルニア州でブロ−バイガスの規制が始まっている。そしてその規制が次第に厳しいものとなっていき、1970年(昭和45年)には、1975年までに自動車排気ガス中の有害ガスを '71年の1/10にするというマスキ−法が制定された。このマスキ−法は、環境浄化のために、技術を従わせようとする画期的なものであったのだが、自動車メ−カ−にとっては内燃機関禁止法とも受け取られる厳しい内容を持つもので、アメリカの自動車メ−カ−だけでなく、世界の自動車メ−カ−がこの法律に反対した。
・日本の自動車メ−カ−と排気ガス公害
このアメリカの情勢は、ようやく自動車メ−カ−として力をつけ始めていた日本の自動車各社にとって、どうしてもクリアしなければならない課題を与えるものとなる。何故なら、日本の自動車産業が世界のメ−カ−に対抗しうるだけの力をつけるには、世界最大の市場である、アメリカ市場への進出が不可欠であり、そこでの排気ガス規制をクリアしなければ自動車販売ができず、したがって自動車メ−カ−としての生き残りが困難となるのであった。
また日本の自動車業界では、世界のメ−カ−との競争力を高めるために、通産省の指導による企業再編成が進行しており、中堅メ−カ−にとっては、国内における生き残りをかけた競争をせざるをえない情況にあった。
そして日本でも、昭和40年代中頃には公害列島と呼ばれる程に、あらゆる公害が噴き出した情況があり、自動車排気ガスによる公害も、都市部を中心に悪化をたどり、昭和45年には一酸化炭素やブロ−バイガスの規制が始まっている。
しかし公害の情況は、このような緩やかな規制で対応できるものではなく、同じく昭和45年 5月には自動車排気ガス中に含まれる鉛による汚染が東京で問題となり、これが政府の公害に対する姿勢を改めさせるほどのインバクトを与えた。さらに同年 7月にはやはり東京で光化学被害が発生し始め、これが全国で発生するようになってくる。
光化学被害では学校で多数の生徒が倒れるというような情況となって、大きな社会問題となり、自動車公害反対の世論が大きくなっていく。
こうして日本の自動車メ−カ−は、大手メ−カ−と中堅メ−カ−において立場の違いを持ちながらも、日本と世界における自動車メ−カ−としての生き残りをかけた形で公害問題に取り組むことになった。自動車各社は、排気対策技術の開発に全力をあげ、様々な対策技術を生み出したことは、3章8節で簡単に触れたところであるが、ここでは、自動車公害の問題を契機に、日本の自動車メ−カ−として、また世界の自動車メ−カ−としての地位を獲得することに成功した、本田技研工業(ホンダ)の開発したCVCC技術を中心として、これが触媒による浄化技術を中心に開発した大手メ−カ−や中堅メ−カ−として同じ様な立場でロ−タリエンジン(RE)とその対策技術を開発した東洋工業とどのような技術競争を演じたかを述べる。
ACVCCの開発と優位性の確立
・本田の排気ガス公害に対する姿勢
二輪車メ−カ−としてスタ−トした本田は、二輪車でのトップメ−カ−の位置を確保し、そして昭和30年代後半からは4輪車の製作も開始している。そして42年には軽四輪乗用車の販売も開始し、この面でもトップメ−カ−となっていく。このように二輪車、軽四輪車ではトップ・メ−カ−としての地位を築いた本田ではあったが、乗用車では後発メ−カ−であったので、乗用車市場における地位を確保していくことが、自動車メ−カ−として生き残っていくには必要であった。
40年代に入って大気汚染が悪化し、45年には鉛公害、光化学被害が問題になる中で、 8月に本田は排ガス公害やその他の産業公害対策のための公害本部の設置を決め、公害問題と本格的に取り組む姿勢を見せている。この頃の本田の自動車公害に対する戦略は本田宗一郎氏の次の言葉に現れている。「私は公害問題がやかましくなったおかげで『GM、フォ−ドも”射程圏内”にはいった』と社員にハッパをかけている。公害対策の技術にかけては、世界の自動車メ−カ−が同じスタ−トラインに並んだばかりだ。日本の産業界が米国との技術格差をハネ返す絶好のチャンスです」(朝日.45.8.28)
乗用車販売で日本ばかりでなく海外特にアメリカでの市場の拡大を構想していた本田にとって、排気ガス対策技術でのリ−ドが、この構想を進めていく上で最大の武器になると見たこの本田宗一郎氏の言葉が、その本田の行動の背景に貫かれていることは、以下の経過によって明らかとなろう。
・各社の排気対策の発表
45年に鉛公害が発生して、自動車の排気ガスに厳しい目が注がれる段階でトヨタや日産の自動車排気ガス対策技術の開発についての発表がなされる。これに対して本田は10月に、CO、HC低減に役立つ燃料噴射装置を開発し、これを他の浄化装置と組み合わせることで、45年 7月に示された長期基本計画の50年規制達成のめどがついたと、早々と規制乗り切りの態度を示した。
このことから本田は、トヨタや日産に対抗する形で排気対策を進めていこうとしていることがわかろう。トヨタ、日産の技術開発の発表は具体的なものではないが、本田は長期基本計画の50年規制に合格すると言うように具体的である。これは本田が初めから規制乗り切りを目標に、技術開発に取り組んでいることを示しており、具体的な規制値に対応した技術開発に成功したと発表することで、世論が規制を要求する根拠を与える役目も果たすことになる。
・CVCCの発表
本田が密に本命として研究開発を進めていたのは、自動車排気ガス問題の行方に大きな影響を投げかけることになるCVCCエンジンであって、これはアメリカのマスキ−法が確定し、日本の自動車メ−カ−がその対応におおわらわであった46年 2月に発表がなされている。
この発表では、前年度に問題となった鉛公害問題への対応としてバルブ材料として特殊合金を使うことを示すと同時にさらに排気ガス対策として燃焼室形状を変えたCVCC方式のエンジンを開発したことを明らかにしている。そしてこのCVCC方式のエンジンであれば、先の燃料噴射装置と組み合わせることで、50年規制をパスできること、さらにマスキー法 '75年規制にも挑戦しうるものであることを表明している。
またこのCVCCエンジンの特徴として、イ.現在のエンジン生産設備をそのまま使えること ロ.排ガス浄化装置がほとんど不要であること などを上げて排気ガス対策に有利とされている東洋工業のREを凌ぐものだとして、REへの対抗意識を鮮明にした。このCVCCエンジンについて、 3月にはEPAへ報告を提出しており、アメリカへ向けてもこのエンジンのPR活動を開始している。
CVCCエンジンの研究を推進する中で、 8月には成層給気という点で共通項を持つ大西繁氏の開発した二サイクル成層給気凡用エンジンの実用化研究に資金援助をする契約を結んでいるが、このエンジンはすでにCO、NOxについては '75年マスキ−法をクリアするというものであった。
このようにこの段階では、CVCCを中心にいくつか可能性のあるものについての開発を進めていたと思われるが、次第にCVCCへ自信を深めていく。
9月には東洋工業がREでのマスキ−法'76年規制乗り切りのめどを示して対策技術としての優位さを示した。またフォ−ドが米陸軍と共同で開発した燃料噴射で触媒を使った無公害エンジンの発表をした。
本田は11月にこのフォ−ドの開発したエンジンよりもCVCCがより優れた結果を得ているとして、マスキ−法'75、'76年規制乗り切りで自信ある態度を表明した。 これは東洋工業がREは'76年規制クリア可能であるとして、排気対策が困難なNOxの浄化に有利であることを誇示したことに対して、CVCCもNOx対策においても優れていることを示そうとしたものと思われる。
本田は42年に N360で軽の分野に進出し、44年からはホンダ1300で大衆車部門に進出していたが、このホンダ1300は他社の1000cc級大衆車に押されて伸び悩んでいたために、ホンダの軽自動車のユ−ザ−を吸収しうるもので、しかも軽自動車で築いた輸出市場を拡大することを狙って1000cc級大衆車を出すことを46年12月に発表している。この大衆車シビックがCVCCエンジンと結び付いて本田の 4輪車市場参入の武器となっていく。
・マスキ−法乗り切り表明
47年に入り、マスキ−法の動向に関心が持たれるようになり、 4月にはアメリカで公聴会が開かれ、日本からは、トヨタ、日産、東洋工業が招請を受けた。この公聴会では世界のほとんどのメ−カ−がマスキ−法達成不可能を主張する中で、東洋工業は、REで乗り切り可能なことを証言して大きな注目を集めた。
46年 3月と10月にCVCCエンジンについての報告をEPAに送っていた本田は、公聴会の時点では沈黙を守っていたが、これは画期的成果に裏付けられた自信に満ちた沈黙であったことが、公聴会の後のEPAのマスキ−法延期拒否声明の時に現れてくる。
この公聴会ではEPAがメ−カ−の対策に厳しい姿勢を見せたにもかかわらず、その後日本ではマスキ−法一年延期の可能性が取り沙汰され、日本での自動車排気ガス規制を検討していた中央公害対策審議会(以下中公審と略記)の自動車専門委員会でも、マスキ−法導入を見合わせるなどの動きがあり、マスキ−法を巡って動揺が見られた。
このような中でEPAが 5月12日にマスキ−法延期要請のを拒否声明を出した翌日、それを予期していたかのように、本田は、CVCCに酸化触媒をつけてマスキ−法 '75年規制を乗り切る実験値を得たこと、そして実験デ−タとともに、マスキ−法に対する最終態度を知らせるとした報告を3月にEPAへ提出したと発表した。
この発表は、世界のどのメ−カ−もほとんど不可能としていたレシプロエンジンでのマスキ−法乗り切りを可能にするものとして、大きな反響を呼ぶことになる。
このレシプロエンジンでのマスキ−法乗り切り可能との報告は、従来型エンジンの改良で対策をなしうるという点で東洋工業のREでの乗り切り可能との公聴会での証言よりもより大きな影響をEPAに与えた可能性があり、これらの報告がEPAのマスキ−法延期要請拒否発言や、ひいては、日本版マスキ−法の制定に大きな影響を与えた可能性があった。
このように本田は、開発を進めていたCVCCエンジンによって、アメリカのマスキ−法乗り切りをアメリカと日本の世論にアピ−ルすることに成功した。CVCCエンジンの開発はさらに進められ、 7月には目下実車テスト中で、12月にはマスキ−法適合のデ−タがそろいしだいEPAに報告するとし、特許やノウハウは広く世界のメ−カ−に公開するという態度を示した。
また同時に1000cc大衆車シビックを発売し始めているが、これは将来CVCCエンジンを取り付け得るものとして、公害反対の世論を背景に、CVCCエンジンと結び付けてシビックを売り込む戦略が現れている。(図6−4参照)
8月にはEPAのマスキ−法延期拒否声明を受けて日本版マスキ−法が確定しているが、この動きに合わせるようにCVCCエンジンが触媒装置などをつけなくても、米マスキ−法及び日本版マスキ−法にパスできることを確認し、さらに商品化のめどをつけるための試作の段階へ入ることを表明した。このような対応が日本版マスキ−法をより推進する役割を果たす。
また 9月にはCVCC方式が各社のレシプロエンジンのシリンダヘッドの部分を改良するだけで適用可能なことを実証しえたとして、これまでのレシプロエンジンの生産設備をそのまま活用できるCVCC方式の有利さをPRしている。
B排気対策レ−スの展開と技術提携
・ '75年規制達成のテスト公開
9月7日には東洋工業がマスキ−法 '75年規制基準に近いREを積んだ新型車を年内に発表することを表明した。これはマスキ−法規制基準にまで到達していないものの、 '74年カ州規制基準を大幅に上回るもので、低公害車を実際に製造しうる技術力を強調したものであった。
これに対して本田は9月19日、マスキ−法'75年規制を達成するCVCCエンジンを運輸省、通産省、警察庁の立ち会いテストで公開し、さらにはマスキ−法に合致するCVCCエンジン積載のシビックを48年には市販することを表明している。これは東洋工業がマスキ−法に近いが、それに到達していない低公害車を強調したことに対して、マスキ−法乗り切りに力点をおいて、優位さを示したものであった。
また両者ともマスキ−法の最終テストである 5万マイル走行テストを続けていて、 マスキ−法合格1番のりを目指して激しいつばぜり合いが続く。
10月にはCVCCエンジンが一般公開され、排気ガステストのデ−タも公表されたが、CO、HC、NOxのどの項目も '75年規制を下回り、マスキ−法合格が確実視されて、本田が一歩リ−ドかと思われていたが、11月には東洋工業がマツダリ−プスを装着したREエンジンで、'75、'76年規制を下回ることが可能なことをEPAに報告して、 本田のEPAへの報告に先んじたと報道された。 東洋工業は49年からの対米輸出車を全部RE車に切り替える方針で、このRE車の販売促進をねらって、EPAのマスキ−法乗り切りの確認をとろうとしたものと受け取られた。
・マスキ−法乗り切り第1号
しかしこのマスキ−法乗り切りレ−スでは結局本田が先んじることになる。EPAからの要請を受けて12月 7日からEPAの実験場でCVCC車の走行テストが行なわれ、マスキ−法 '75年規クリアをEPAが確認したもので、この発表とあわせて本田は、マスキ−法の 1年延期は必要としないとする報告書をEPAに提出したことも明らかにした。そしてこの結果が48年2月2日のEPAのCVCCのマスキ−法合格の発表によって確認され、このレ−スでの本田の勝利とともに、世界で初のマスキ−法合格という栄誉を獲得した。このマスキ−法規制クリアのレ−スでは、本田は東洋工業に先んじる必要があった。何故ならば東洋工業はすでに低公害車の発売に踏み切っており、マスキ−法規制乗り切でも 1号となれば、排気対策での東洋工業の優位が決定的に印象づけられることになって、CVCCの優位さを強調できないからである。
そしてCVCCと最後まで競り合った東洋工業のリ−プス装備のRE車が 1月にEPAでテストを受け合格したと発表され、マスキ−法乗り切り第 2号となる。
これらCVCCエンジンとリ−プス装備のREがマスキ−法 '75年規制基準をクリアしたことにより、少なくとも一社でも規制を乗り切れるならばマスキ−法延期は認めないとするEPAがこれをどのように判断するかということが関心を集めることになる。自動車メ−カ−の中には、一社とはビッグ・スリ−またはそれに準じる会社だとして、延期の可能性に期待する向きもあった。
・CVCCとの技術提携
CVCCのマスキ−法乗り切りが明らかになり、また従来のレシプロエンジンの改造によって、CVCC方式への転換が可能であるということから、CVCCエンジンへの自動車各社の接近工作が活発化する。東洋工業のREについてはマスキ−法が浮上するころから、注目を集めていたが、CVCCはマスキ−法乗り切りが確実視されるようになった47年11月頃から、GM、フォ−ド、トヨタからの技術提携交渉が始まり、まずトヨタとの技術提携が成立する。
トヨタは排気ガス対策としてあらゆる種類の可能性を追及してきたとされているが、マスキ−法合致の技術を見出しえないまま触媒方式に力点をおきつつあった。しかしこの方法でも見通しがえられないために、CVCCの技術導入に踏み切ったもので、このための契約金は、トヨタがREを導入した時よりも、かなり高いとされるていることより、トヨタがCVCC技術をかなり高く評価したことが伺える。
このトヨタの技術導入でCVCCの評価はさらに高くなり、EPAテスト合格、 さらに48年2月には全米科学アカデミ−がCVCCを評価することでCVCC株はますます高くなっていった。この科学アカデミ−の報告では、CVCCはあらゆる面で最も優れており、将来性があるとし、EPAと議会にCVCCの開発を直ちに検討することを求め、これによって'75年、'76年規制乗り切りが技術的には可能であるとしている。その他触媒、RE、ディ−ゼルについても検討しているが、触媒は燃料消費、耐久性、維持の面で最も不利であり、価格も高くなることから多くのメ−カ−がこれに依存することを警告している。REについては燃料消費に重大な欠陥があるとした。
ここに来て、CVCCとREとのレ−スの中で、REは燃費問題が持ち上がり、CVCCの優位性が強く印象づけられることになった。
このようなCVCCの評価に対応して、 7月にはフォ−ドと技術援助契約を結ぶ。これはアメリカの一般的な V8エンジンに用いても排気浄化性能が良いことを確認したためである。さらに 9月にはクライスラ−、いすヾと技術契約を結んでいる。
国際的な自動車業界再編成の中で独立体制を確立するために、マスキ−法という世界共通の技術目標レ−スに勝ち抜こうとした本田が、CVCCエンジンの開発に成功して世界のトップに立ち、なおかつその技術力を世界のトップメ−カ−に売り込むことに成功したということは、45年の本田宗一郎氏の言葉がそのまま、もくろみ通りにいったと言えるだろう。
しかしこの技術力の勝利を本当の勝利にしていくには、乗用車市場での地位を確保していくことが必要であり、48年12月にはアメリカでシビックの発表会を開き、CVCCをてことしたアメリカでの市場拡大にのり出す。
この間48年3月には、EPA主催の'75年規制についての公聴会で、世界のほとんどのメ−カ−が延期を要請する中で、本田は東洋工業とともに、達成可能との説明を行って、排気対策の技術的可能性を明らかにすることで、企業イメ−ジのPRを行っている。
C対策技術の進展と50年規制への積極姿勢
・50年規制達成可能と証言
48年 4月にはEPAがマスキ−法 '75年規制を一年延期することを認めて暫定基準値を設けることを発表し、アメリカのマスキ−法は後退し始めるが、日本版マスキ−法50年規制は本田、東洋工業のマスキ−法'75年規制乗り切りをてこに、 その他の中堅メ−カ−の技術開発も進んで技術的障害はあまりない状態となっていった。
48年 5月の環境庁による公聴会では、トヨタ、日産の延期説に対して本田を初めとする中堅メ−カ−50年規制達成可能と証言して、50年規制実施が決定した。
この動きの背景にはアメリカ、カ州の'74年規制が存在し、'75年規制が延期されたとしても、 その規制にほぼ近い'74年規制はクリアしなければならないという事情があった。しかもこのような情況があるにせよ、アメリカよりも厳しい規制の実施に踏み切らせた理由は、重大な身体被害をもたらす排気ガス公害への世論の反発があるとしても、50年規制をすでにクリアした本田や東洋工業などの技術がすでにあったということが、大手メ−カ−の抵抗を打破する上で、大きな説得力を有していたことは言うまでもないだろう。本田はこの公聴会で、51年規制についても実験室段階で到達したことを表明して、CVCCの優位性のPRと、浄化技術進展を人々に印象づけて、より厳しい排気ガス規制の可能なことを示している。
・ '75年規制の延期申告せず
CVCCエンジンをてことして、アメリカでの市場拡大を狙う本田は、 48年5月のアメリカでの公聴会における '75年規制達成可能とする発言を継続する形で、'75年規制延期の申請を出さず、 公害防止に積極的であるとのイメ−ジを売り込んでいる。価格や性能の上で不利になることを覚悟してのこの対応が自動車の売り込みに有利に作用するかどうかは、微妙なところであるが、本田はこの点、初めから明確な態度を示していたが、東洋工業は延期申請をするかどうか、迷いを示している。
このような本田の一貫した姿勢は、実際の自動車の販売実績の上にも次第に反映してくるようになる。先のマスキー法達成レースでは勝利を納めた本田であったが、国内の50年規制低公害車の販売においては、東洋工業に先を越された。 48年5月には東洋工業のル−チェAPUが日本版マスキ−法50年規制を満たす低公害車の第一号として指定され、物品税の軽減措置を受けることになった(図 6− 5)。また11月にはレシプロエンジンの低公害車グランドファミリアが50年規制をクリアし、レシプロエンジンでも東洋工業が先行した。これに対して本田は、12月に50年規制クリアのCVCCを積載したシビックの発売を発表したが、石油危機問題から論議が高まってきた燃費問題で、未対策車とほとんど差がないとのコメントをつけることで燃費に弱点のある東洋工業のRE車との違いを示そうとしている。
・他社におけるCVCCの開発
48年7月にはアメリカで '76年規制の1年延期が認められる情勢の中で、他社におけるCVCC技術の開発が行なわれる。10月には日産がト−チ点火方式による低公害エンジンを開発し、50年規制を下回る成績を上げたと発表したが、これはCVCCの原理に類似した点があり、日産は特許に触れないとしているものの、本田は触れる可能性が強いとの見解を表明した。この日産のト−チ点火方式は結局採用されない。
またGMがCVCCエンジンを積んだシボレ−・インパラでEPAの排気ガステストに米国車としては初めて合格した。49年 3月にはCVCCの技術供与を受けたトヨタが、CVCCは原理的にも耐久度、燃費などの点から最も優れているとの判断から、CVCCを低公害エンジンの本命として採用すると表明している。ただし50年規制は準備期間がたりないので、触媒方式で乗り切る方針であるとした。
50年規制の実施が決まり、51年規制に焦点が移る中で、トヨタがCVCCを採用する方針を明らかにしたことは、CVCCの評価をより高めるものとして、本田はこの動きを歓迎した。
D51年規制における暫定規制への誘導
・暫定規制値の主張
51年規制については、48年12月に環境庁が燃料消費が増えることを理由に緩和の意向を示す中で、本田と東洋工業の動きに関心が持たれた。
49年 1月に自動車工業会で51年規制について話し合いが行なわれる前に、東洋工業は51年規制の必要性に疑問を呈しながらも、緩和は求めないという方針を打ち出した。この時東洋工業はEPAの燃費調査でRE車の燃費が良くないとの判定を受けて、アメリカでの売れ行きが大きく減少するという苦しい立場にあったわけである。
このような東洋工業の動きに対して本田は慎重で、 5月になって態度を明らかにしている。すなわち規制値がどの程度であれば、燃費や走行性能がどのくらい悪化するか、デ−タを示すとして、暫定規制値へ誘導する態度を示した。
これはアメリカのマスキー法'75、'76年規制が延期され、さらに後退する可能性があり、さらには排気ガス公害から燃費問題へと視点が移りつつある中で、厳しい排気ガス対策を施しても燃費の良くない車を作ったのでは、アメリカの市民には受け入れられないだろうとの判断があったと思われる。
さらに指摘されている点は、本田の '76年規制クリアはアメリカの高速中心の測定方式によるもので、日本の低速が中心となる測定方式ではクリア出来ないだろうということや本田が2000CC級の自動車を発売する予定で、大形車の排気対策の困難さを知り始めたからであるという点があった。
しかし、同時に51年規制が単純延期になれば、本田の開発したCVCCの優位性を示すことはできないために、50年規制値よりも厳しく、51年規制には到達しない中間的な規制値への誘導が、本田にとって有利であるという点から暫定規制値の態度を示したものと思われる。
6月の聴聞会では東洋工業が、 先の緩和は求めないという態度から0.6〜0.7g/kmの暫定値を求めるという態度にかわり、 本田の0.6g/kmの暫定規制の態度へ歩み寄り、共同歩調を取ろうとしている。その他のメ−カ−が単純延期を求める中で、 対策先発2社が分裂しては、説得力にかけるとの判断が働いたものと思われるが、51年規制2年延期、51年暫定規制値決定までの過程で積極的であったのは、東洋工業の方で、本田は慎重な態度が目立つ。
・自動車販売における成果
51年規制についての論議が行なわれる中で、49年 7月にはCVCCエンジンをアメリカ向けに搭載して10月にも輸出するとの発表を行ったが、同時に、新たに2000cc級の新型車を出すこと、対米輸出車をすべてCVCCに切り替えること、 国内向けも秋までには90%をCVCCに切り替えることなどの方針を明らかにした。
CVCCをてことした自動車販売作戦は成果を上げて、石油ショックによる自動車販売台数低下の中で乗用車生産上位 6社の中で本田だけは49年にも販売台数を伸ばしており、アメリカ市場でも販売台数を急激に増やして、輸入車上位10社の仲間入りを目前にしている。
51年規制は結局、49年12月に 2年延長の暫定規制値ということで決着するが、本田の主張は小型車のNOx0.6gという規制値となって実現しており、暫定値設定への誘導という本田の狙いはほぼ成功したと言えよう。
・硫酸排気ガス問題となる
50年1月にはEPAの'77年規制に関する公聴会が開かれ、本田は東洋工業とともに'77年規制基準達成可能と証言した。
これらの発言にもかかわらずEPAは'77年規制の1年延期を決め、さらに 2年間の延期を議会に勧告するというようにマスキ−法はさらに後退することになった。EPAがこのような決定を下した理由として、触媒による硫酸の発生をあげて、この対策のために時間的余裕を与えるためとした。EPAは触媒の使用による硫酸ミストの発生についての研究報告の中で、この解決策として、触媒を使う場合には石油精製の過程でガソリン中の硫黄分を取り除く設備を設けるか、触媒を使わずにCVCCのようなエンジンに切り替えて、NOxの規制基準を緩和するかの二つの方法があるとしている。
ここでCVCCはまた評価を高めたわけであるが、 5月には米上院公共事業委員会で本田は、どのような硫酸排出基準でもCVCCは達成可能と証言して、優位性を誇示した。EPA調査報告は、本田など非触媒派には有利であったが、触媒派のトヨタ、日産には打撃であり、早速、我が国のガソリンには硫黄分が少ないとか、ガソリン消費も少なく問題はないはずと懸命に打ち消している。
EPAの発表を受けて環境庁が自動車排気ガス中の硫黄酸化物の測定デ−タの提出を自動車各社に求め、その結果からEPA発表よりも格段に少ないことがわかったために、基礎データの収集にとどめる方針を出して、この問題は沈静化していく。アメリカでも50年 6月に硫酸ミストの排出規制基準を設ける勧告が出されるが、51年 4月には、危険性があまり大きくないとして、規制は見送られた。
・燃費レ−スでの優位
アメリカではすでに48年からエネルギ−不足が意識され始め、49年にはエネルギ−供給環境調整法案が可決して排気ガスよりも省燃費の流れが明確になってきた。本田はこれに対応するために、50年1月には、CVCCの燃費も10〜30%改善する見通しを得たことを発表した。また3月には、米議会の公聴会で、CVCCは'77年規制基準を満足しながら'77年までに燃費改善して、市内走行29mile/gal、ハイウェ−42mile/galまで可能と証言し、排ガス浄化、燃費の両面で抜群に優れていると強調した。
そして5月にはEPAが'76年型車の燃費テストでシビックCVCCがトップと公表し、燃費レ−スでも優位であることを実証している(図6−6)。
このように、CVCCの排気ガス浄化性能と省燃費性能両面での優位性が市場政策的にも効果を現し、本田は50年のアメリカでの輸入車第4位の地位を一気に獲得した。 この省燃費の流れは日本でも見られるようになり、EPAから燃費悪いと指摘され売れ行きが悪化した東洋工業も燃費問題を死活の問題として取り組み、低公害先発メ−カ−が燃費でも競い合うことになった。
本田は50年8月に、 51年度暫定基準適合の改良型CVCCエンジン搭載のニュ−・シビックを発売し燃費を大幅に改善したものであることをPRしている。
E53年規制実施の推進
・53年規制可能と証言
51年度暫定規制適合車が、次々と発表される中で、53年度規制の実施へ焦点が移り、50年 8月には窒素酸化物低減検討会の聴聞会が開かれた。本田の聴聞が最初に行なわれたが、49年にはCVCCにEGRをつけてNOx 0.2g/kmであったものが、CVCC単独で0.2〜0.24g/kmを実現したこと、また運転性能低下と燃費改善についてもめどがあるが、量産化にはまだ問題があることを説明して53年度までには規制値到達可能であるとの態度を表明した。そして東洋工業も53年規制値達成可能との態度を明らかにして、ここでも本田、東洋工業の両社が、53年度規制実施への方向づけを行っている。
聴聞会ではこれまで同様にトヨタ、日産が53年規制値達成へのめどが立っていないとし、特にトヨタは、絶対無理との態度を示した。
・大手メ−カ−の対応変化
しかしこのトヨタや日産の態度も変化してくる。この変化の要因の一つには、50年度規制の未対策車をかけこみ増産・販売した両社に批判が集中し、50年規制が完全実施された50年12月には、トヨタや日産の販売台数が低下したのに対して本田や東洋工業、三菱、富士重工がそれぞれ販売台数が増加し、その傾向が51年になっても続いたということがあげられよう。また50年12月の三菱(図6−7)を先頭に、 1月には本田、東洋工業が53年度規制達成のめどがついたと発表し、この三社が税制上の優遇措置があれば、53年度排気ガス規制適合車の販売を52年度中にも繰り上げる方針を表明するというように、公害防止に積極的姿勢を誇示したことも、トヨタ、日産の姿勢の変化に影響があったと思われる。
5月には日産が、53年規制の53年度達成の見通しを表明し、遂にトヨタが6月に、政府が53年規制実施すれば、 それに対応可能との態度に転換した。
こうして51年 8月に開かれた技術検討会の聴聞会では、ほとんどのメ−カ−が、規制値到達可能という証言をし、12月には53年度規制実施の決定が下されている。
この53年度規制についての経過でも、本田はCVCCの優位性を最大限に生かす方向で世論をリードすることに成功したと言えるだろう。この間、 8月にはトヨタは技術導入したCVCCエンジンを53年度排気ガス対策では使用しないことを表明した。これはトヨタの独自に開発した希薄燃焼、酸化触媒、三元触媒で53年度規制に対応できるめどがついたためで、借り物で特許料を払う必要のあるCVCCは使わないことにしたものである。
52年7月には53年規制適合車としてシビックが指定を受け、9月には販売を始めている。
・公害問題における技術競争
自動車排気ガス問題についての展開の中での本田の動向を概観した。
乗用車の分野での国内、国外での市場拡大を目指していた本田にとって、排気ガス問題は技術力で勝負できるチャンスであった。そしてCVCCの開発で優位に立ち、この優位性を最大限にPRして排気ガス対策に積極的であるというイメ−ジ形成に成功してこのイメ−ジに乗る形でシビックの販路を拡大していった。そして国内、国外特にアメリカでの販売を急激に伸ばして、本田の戦略はほぼ成功したと言えよう。
本田のシビックの販売量が増したということは、本田の排気対策に取り組む姿勢が公害反対の世論にアピ−ルしたということだけによるものでなく、シビックの車としての魅力などもあろうが、少なくとも影響力としては最大であったと思われる。
公害対策の技術競争において優位にたった本田は、その優位さを活かして、国内ばかりでなく世界の自動車会社としての地位を確保していった。
1.5 世界で決めたフロンガス規制
(門脇重道著「技術発達のメカニズムと地球環境の及ぼす影響」
pp.159〜164)
・フロンガスによる汚染の特徴
これまで取り上げてきた、公害環境問題では、その汚染物質である粉塵、有機水銀、一酸化炭素、窒素酸化物が各々直接に人体に被害を与えるものであった。従ってその排出源の近くで、人間が直接あるいは間接的に汚染物質を取り込むことで、被害の発生があったわけである。
ここで述べるフロンガスは、化学的に極めて安定であるために人体に直接被害を与えない。そのため一見、環境問題など生じそうにない物質であるのだが、このフロンガスが大量に大気中に放出されてきた結果、地球上の生命の安全を守っているオゾン層に重大な損害を与えていることが見出され、地球的規模での環境問題として、緊急に対応が求められている。
またフロンガスによるオゾン層破壊の問題は、これまでの環境問題が地域を限定したものがほとんどであったのに対して、地球的規模での問題であるという点から国際的な取り組みがなされつつあるという点でも、これまでの環境問題とは異なる特徴を持っている。
ところで日本でフロンと呼ばれる物質は、炭素に塩素とフッソが結びついた化合物の総称で、その種類は工業的に生産されているものだけでも10種類以上ある。また用途としては、冷蔵庫やク−ラ−の冷媒、電子部品などの洗浄剤、ウレタンフォ−ムの発泡剤、エアゾ−ルの噴務剤などの多岐にわたっている。
・フロンの開発
それではフロンの開発から規制に至る経過を述べよう。
フロンは初め冷蔵庫の冷媒としてデュポン社の科学者の手で1930年頃合成された。それまで冷蔵庫の冷媒としては、二酸化硫黄やアンモニアなどの有毒でかつ装置に対しても有害なガスが用いられていたのだが、安定で毒性の低いフロンの開発によって、これが冷蔵庫の冷媒として広く用いられるようになった。
フロンは発泡剤としても使われ、断熱剤としての用途の多い硬質フォ−ムや、クッション材としての軟質フォ−ムの製造に用いられた。またフロンはエアゾ−ルの噴務剤としても、殺虫剤、脱臭剤、香水などのエアゾ−ル噴射に使われるようになった。
このようにフロンは、その安定した化学的性質の故に、人間の身近な場所で用いられる製品に使われることによって、その生産は急激に拡大していき、同時に環境に大量に放出される結果となっていった。先にも述べた如く、フロンは人体に直接影響を与えない故に、環境への影響については、それほど注意が払われないままであったが、重大な環境破壊を引き起こす可能性のあることが、科学者の手で明らかにされるようになる。
・SSTによるオゾン層破壊の予測
そのきっかけとなったのは、フロンガスとは直接関係の無いことであるのだが、1970年にクルッツェンが窒素酸化物は成層圏にあるオゾン層を際限なく分解してしまうという理論を発表したことにある。そしてこの理論は、当時問題となっていた超音速機(SST)問題に関して大きな影響を与えることになる。ジョンストンはこのクルッツェンの理論を用いてSST 500機が10年間運行すると、オゾン層が 22%も破壊されるということを発表した。
この研究結果により、SST開発は環境に重大な被害を与えるとの理由で、アメリカ議会はこの開発の助成金打ち切りを決定する。このSSTをめぐる議論が、これまで注目されてこなかったオゾン層問題に目を向けさせるきっかけとなった。
そしてこの問題に続いて、スペ−スシャトルについての影響調査から、シャトルのブ−スタ−から出る塩化水素は、分解されて成層圏で塩素となり、一酸化窒素の場合と同様にオゾン層を消費することも明らかにされて、オゾンに対する塩素原子が注目される。
・フロンによるオゾン層破壊の予測
このようなことが明らかにされた後、オゾンを大量に消費する塩素原子の大量供給源として、フロンにその可能性のあることが1974年のロ−ランドとモリ−ナの研究によって明らかにされた。彼等はフロンが既に大量に大気中に放出されていて、この放出が続けばオゾン層が7〜13%の範囲内で破壊されるとし、その結果、紫外線が増えて、皮膚ガンが増加し、農作物生産量が減少し、さらに気象パタ−ンの変動が起こる可能性があることを述べた。
そしてフロンの使用量の半数近い量を占めていたエアロゾ−ル噴霧用へのフロンの使用禁止を訴えている。この発表はこれまで、化学的な安定性から、無害なものとして大量に使用されてきたフロンが、実は地球上での生命維持に不可欠なオゾン層に重大な被害を与えるものとして、非常に危険な化学物質である側面を明らかにしたということで、大きな衝撃を与えるものであった。まさにフロンが、地球表面の保護膜を破り去る役目を果たすことを明らかにしたのであった。
ロ−ランドとモリ−ナの発表の後、環境保護団体を中心に、フロンガス・スプレ−の使用禁止を求める声が起こり、全米アカデミ−などが調査に乗り出し、これに対してフロンを開発し、かつ大量に生産していたデュポン社は、もしフロンが健康を損なうということが明確になれば、その生産を停止するとの声明を発表している。しかしデュポン社は同時に、明確な証拠がなければ、法規制をすべきでないとの主張をしていて、この立場から規制に反対の姿勢を取り続けることになる。
・フロンガスの規制と停滞
1978年には環境保護庁(EPA)が 、フロンガスの噴射剤としての使用を禁止し、全米科学アカデミ−の調査がロ−ランドとモリ−ナの研究結果を確認したことにより、フロンに対する規制が進められると思われたが、アメリカにおけるフロン規制は停滞し始める。
その理由の一つは、このフロンによるオゾン層の破壊に関する議論は、実際にオゾン層が破壊されているかどうかが明確に立証されないままに、理論的なレベルで進められており、自然界の複雑な仕組みの中で、フロンによるオゾン層破壊についての見通しに、不確定な部分がどうしても伴ったという点がある。実際ロ−ランドとモリ−ナのオゾン層破壊の推定値や全米科学アカデミ−のものも大きく変動した。また、アメリカが、噴射剤としてのフロンの使用禁止について、国外へ働きかけたが、これが一部の国にしか影響を及ぼさず、ほとんどの国がこの問題に取り組もうとしなかった点も、アメリカ国内の規制を遅らせた理由であった。
こうしてフロンガスによるオゾン層の破壊という重大な被害が生じようとしている問題は、アメリカ国内での噴射剤としての使用禁止の段階で停滞してしまった。このことは、現在フロンの国際的規制で中心的な役割を果たしている、国連環境計画(UNEP)が、1977年にオゾン層問題調整委員会を発足させたものの、具体的な成果を上げたのは、1985年 3月のウィ−ンにおけるオゾン層保護協定の採択であったことにも現れている。
UNEPは、1972年にストックホルムで開かれた国連人間環境会議の合意に基づいて設立された国連の機関であるが、ウィ−ン協定では、オゾン層保護のために調査・観察・情報の交換を行うことが決められた。このように国際的な規制の動きが始まったのだが、実際の規制の内容に関しては、アメリカ、カナダなどとEC、日本などの対立があり、これらが合意に達しうる可能性はなさそうに思われた。
・南極にオゾンホール発見
しかしこのような停滞した情況を大きくつき動かす事実が、このウィ−ン協定の 2カ月後に明らかにされる。それはイギリス南極調査隊のファ−マンが、ハレ−湾の上空に大きなオゾンホ−ルが生じているという報告を「ネ−チャア」誌で発表したことによるものだった。
これはオゾン層が実際に大きく欠損している事実を初めて明らかにするもので、1974年のロ−ランドとモリ−ナの予測が正しかったことを実証した。そしてファ−マンの報告は、ニンバスによる衛星映像によってオゾンホ−ルの大きさがアメリカ大陸の規模に、厚さがエベレスト山の高さに匹敵することが明らかにされて、さらに確かめられた。このように極地ではあったが、大規模なオゾンホ−ルが発生していることが確認されて、フロンによるオゾン層破壊が切迫した情況にあることが認識されていく(図5−4)。
・モントリオール議定書
このような情況の中で1986年にはアメリカとヨ−ロッパのフロンメ−カ−やユ−ザ−企業が、フロンに関する国際的規制の必要なことを認める声明を出し、これを契機にウィ−ン協定の具体化が進み始める。そして話合いの結果、1987年 9月には、モントリオ−ル議定書が調印された。その内容は1987年からフロンの消費を1986年のレベルで凍結すること、1992年から消費を 20%削減すること、1996年からはさらに 30%の削減を追加するというものであった。また議定書は、調印国が非調印国・違反国に対して経済制裁を行うことも規定している。このような内容を持つ議定書は、具体的な環境問題を国際的規制によって解決しようとする最初のものであった。
この歴史的にも重要な意味を持つ議定書であったが、これが調印される過程で妥協がなされた結果、この議定書の内容では、オゾン層の破壊が食い止められないことが明らかであった。そしてこのことは1987年度の南極調査でオゾンホ−ルがますます大きくなっていることが示されることによって、よりはっきりと示されたし、1988年にはNASAによって北半球でもオゾン層が最高3%も低下していることが報告されて、フロンの規制がさらに急いでなされなければならないことが明らかになった。
こうしたモントリオ−ル議定書の見直しの気運の中で、1989年 3月に、ロンドンでオゾン層保護会議が開かれ、フロン、ハロンを究極的に全廃するとの声明を発表する。そしてその流れは、 5月のモントリオ−ル第1回締約国会議にも引き継がれ5種類の特定フロンを2000年までのできるだけ早い時期に全廃するとの宣言が出される。また 3種類のハロンの全廃やその他のオゾン層破壊物質についても、削減する方針が示され、代替化学物質などの技術問題への努力や、途上国への情報提供、技術移転などに関する資金提供などについても宣言に盛り込まれた。
さらに1990年5月には第2回締約国会議が開かれ、特定フロン、特定ハロンに加えて金属洗浄剤として用いられる四塩化炭素を2000年までに全廃すること、及びメチルクロロホルムを2005年までに全廃することも加えられた。またオゾン層保護に関する途上国支援のための国際基金の創設が決まっている。
このようにオゾン層破壊に対して、それに影響を与える化学物質の国際的規制が行われることが決まったが、それでもまだ不十分として、フロンを97年までに削減すべきとするオ−ストラリアや北欧、ECなどの提案もあり、第2回締約国会議で決められた規制も、さらに見直しが求められることになりそうである。
・フロンガス公害の示すもの
ここでは、オゾン層破壊物質としてのフロンについての規制の経緯を述べたが、この経過から次のようなことが明かとなるであろう。 一つには、先のカ性ソーダの水銀電解法の場合と同じように、機能的に優れたフロンが使えなくなり、機能的に若干劣る代替フロンを使わざるをえなくなったということである。
またフロン問題では、地球的規模での環境問題として、国際的な取り組みがなされ、そこで決定された国際的規制が、国内の規制より優先するという関係が明らかになったということである。このことは、これまで国内に限定されていた環境問題とは異なる対応が今後求められるということであろう。
さらに一見人間には無害に思えるフロンが、地球環境に損害を与えることが、事前に見抜かれていなければならなかったことを考えれば、地球環境時代には、物質を含めたテクノロジーアセスメントが必要不可欠であることを教えるものであろう。そしてこのような地球環境の変化を持続的に調査し、また研究、規制をなしうるような組織が必要であることも示していよう。
2.1 塩素利用の歴史(別のページ)
2.2 水銀汚染による水俣病の歴史
(門脇重道著「技術発達のメカニズムと地球環境の及ぼす影響」
pp.154〜159)水俣病は工場廃液中に含まれたメチル水銀によって汚染された魚貝類を多量に摂取することによって発病するもので、様々な公害病の中でも極めて悲惨なものであった。そして熊本県水俣市を中心に発生した水俣病は、不知火海の広い範囲で患者が発生するというように、広い範囲に及ぶものとなり、水俣病患者が昭和31年に正式に発見されてから30年を経た現在においても、患者救済のための裁判が継続されるという情況にある。
この水俣病に関する経緯の概略を述べる。
・アセトアルデヒド生産と水銀
新日本窒素水俣工場は、明治時代に建設されたカ−バイド工場が出発点となっており、このカ−バイドから発生するアセチレンを使った、アセチレン合成品が水俣工場の主力製品となっている。そしてアセチレンからアセトアルデヒドを経て、オクチルアルコ−ルや可塑剤DOPを生産する工場が建設され、それにつれて水俣工場のアセトアルデヒドの生産能力は増大していった。
アセトアルデヒドは、硫酸、硫酸鉄、酸化水銀及び水による触媒液にアセチレンを吹き込むことで作られるが、この過程でメチル水銀化合物が副生される。このメチル水銀化合物は精留塔の水銀に溶け込む形で、ドレインとして排出されていたのである。アセトアルデヒド製造工程からメチル水銀化合物が生成されているという事実については、水俣病の原因を追求する過程で判明したことであった。 アセトアルデヒドの生産が増加するということは当然のことに、メチル水銀化合物の排出量が増えたということであり、それが水俣湾に放流されたため、湾内の魚貝類はメチル水銀化合物に汚染された。そして昭和24年頃から水俣湾で、魚が獲れなくなったり浮上するなどの異変がみられ、昭和28年には、猫が「ネコおどり病」によって死亡し始めた。
・患者の発生と原因究明
そして同じ頃、当時は原因不明で奇病とされた患者が発生し始める。そしてこれらの悲惨な症状を持つ患者が多発するようになり、昭和31年 5月には新日本窒素水俣工場付属病院より水俣保健所に、原因不明の中枢神経疾患が多発しているという報告がなされて、ここに、水俣病が正式に発見されたことになる。
これを契機に水俣奇病対策委員会が保健所を中心に組織され、さらに熊本大学医学部に水俣奇病研究班が設置されて、原因追求の調査が開始されている。そして水俣奇病研究班は、その年の11月には、原因物質として魚貝類を媒介とした重金属ではないかとの推定を出し、新日本窒素水俣工場の排水に焦点を絞り始めた。このように水俣病の原因追求は比較的早期に工場排水口へとたどりつくのだが、ここから有機水銀を原因物質と特定するまでに、 およそ3年の年月を要し、この間の工場側の対応の遅れから、汚染は拡散し、被害も拡大していった。
そして34年 7月になり、熊本大学研究班が水俣病の原因物質として新日本窒素水俣工場の排水中に含まれる有機水銀が注目されるとの発表を行う。しかしこれに対して工場側の反論、日本化学工業協会の大島理事による投棄弾薬による汚染との説、東京工業大学の清浦教授の反論などが出され、熊本大学の研究結果が国に受け入れられるまでには、また、数カ月を要している。そして34年11月には食品衛生調査会が水俣病は、有機水銀化合物であると断定し、これが公式な確認となっている。その後も反論が出されるなどの曲折はあったが、38年には工場内のスラッジがら有機水銀が抽出されて工場内で有機水銀が合成されていることが明確となっていく。この間工場側では、34年10月にアセトアルデヒド酢酸工場排水により、猫に水俣病が発病することを確認していたのだが、この事実は伏せられた。
水俣病の原因物質の特定に長い時間を要し、工場側の対応の遅れもあって汚染が拡大していったことは非常に不幸なことであったと言わざるをえないし、国の対応の遅れが新潟の第 2水俣病の発生を許したとも言える訳であった。
・工場側の対応
それでは工場排水に原因があるとされ、比較的早い段階で、ネコの実験によって水俣病発病の事実を知っていた工場側はどのような対策を行ってきたのかという点についてみると、水俣病が新日窒の排水に原因があるとされ始め、水俣湾内の漁獲が禁止されると、昭和32年から33年にかけて排水口を水俣湾から水俣川へと変更しているが、これが汚染の拡大をもたらした。昭和34年には、排水浄化装置の工事に着工したものの、通産省から水俣川への放流中止と浄化装置の年内完成を指示され、水俣川への排出を中止して、排水の循環使用を始めている。そして廃水浄化装置が完成すると、アセトアルデヒド廃水も含めて、これを通して水俣湾に排出するが、この浄化装置は有機水銀除去に有効でなく、有機水源汚染は続いたと見なされている。
昭和35年には、アルデヒド精ドレンの回収工事が終了したものの廃水循環方法としては、完全なものではなかったが、昭和41年には地下タンクが完成し、完全循環が可能となった。これで有機水銀が排出されることは完全になくなったのであるが、水俣病が正式に発見されて、まる10年、水俣病の原因が有機水銀であることが国によって確認されて7年の日時を要している。
廃水中に微量含まれる物質による環境汚染を特定ることの困難さと対応の遅れが、汚染と被害を拡大した例をここに見ることができる。
・製法の転換
ところで、アセチレンからアセトアルデヒドを製造する過程で、有機水銀が生じ、これが環境に放出され、重大な汚染を招いたのであったが、この対策としては、原因となる有機水銀を含む廃水を工場外に排出しない方法が唯一のものであった。このようにアセチレンからアセトアルデヒドを製造する方法では有機水銀を生じてしまう、重大な欠点があったため、この製造法は次第に、石油化学的な製造法へと転換していく。
エチレンを使ったアセトアルデヒド製造法は昭和37年頃から日本でも採用され、新日本窒素では昭和39年に千葉県の五井工場でエチレンによるアセトアルデヒドの生産が開始された。そして、水俣工場のアセトアルデヒド工場が昭和41年から43年にかけて順次稼働停止になっていき、水銀を使ったアセトアルデヒド生産は姿を消す。
・第三水俣病
このように水銀を使った製造方法から有機水銀が生じ、これが環境汚染を引き起こした訳だが、カ性ソ−ダの製造でも、水銀が使われており、次にこれが問題となった。この経緯を簡単に述べておこう。
昭和43年に政府が水俣病の原因として、新日本窒素水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物との断定し、すでに提訴していた新潟水俣病の裁判の行方に大きな影響を与えた。そして翌年の44年には、熊本水俣病も裁判を始めている。これらの裁判の結果、昭和47年には新潟水俣病、48年には熊本水俣病に関して、昭和電工及びチッソの不法行為によるものとの判決が示された。
これらの裁判によって水銀汚染についての関心が高まる中で、昭和48年 5月には熊本大学水俣病研究班が、第三の水俣病患者の存在を明らかにし、アセトアルデヒド工場以外の水銀使用工場による汚染のあることを示した。こうして水銀電解法によるカ性ソ−ダの製造に注目が集まることになる。そして各地で汚染情況が明らかになると、魚が売れなくなり、漁民が各地のカ性ソ−ダ工場の操業停止を求めて、海上デモ、封鎖を行った。
・水銀法から隔膜法へ
このような情況の中で 6月には水銀等対策推進会議が政府に設置され、水銀法から隔膜法への転換を昭和50年 9月までに進めることと、水銀工場のクロ−ズド化を49年 9月までに完成するとの方針を発表している。しかし漁民の操業停止を求める声はますます高まり、また逆に日本ソ−ダ工業会が隔膜法への転換の困難さを主張する中で、11月にはクロ−ズド化については、48年12月末までに完了することとして、これを早め、隔膜法への転換は50年までに生産能力の2/3 を転換し、52年までに原則的に全面転換という方針へと後退した。
そして49年 7月には、環境庁が第三水俣病に対して、水俣病の患者はいないとの判断を示している。こうして第三水俣病患者の存在は否定され、ソ−ダ工業界の製造転換への抵抗はますます強まっていった。
このことは、隔膜法への転換期限の51年3月でも転換率は59.2%と目標に遠く、1年後の52年 5月にも転換率は61.5%にしかなっていないことに現れている。このような流れから、52年度末までに、全面転換という方針は、結局、水銀法に匹敵すると見なされていたイオン交換膜法の技術が確立するまでということに後退し続け、イオン交換膜法への転換は昭和60年まで延期されたのであった。
結局第三水俣病の発見という形で報じられた、水銀電解法のカセ−ソ−ダ工場の水銀汚染問題によって、水銀電解法の全面転換という方針が直ちに打ち出されたのだが、結局隔膜法への転換が行われたのは、全体の生産能力の 2/3であり、しかも期限とされた50年度までには達成されなかった。しかし、水銀汚染という外的要因によって、水銀電解法の 2/3は隔膜法へと転換したのは事実であった。そして水銀法に匹敵するとされたイオン交換膜法が確立されてからは、残っていた水銀電解法と、水銀電解法から転換していた隔膜法の全てがイオン交換膜法へと転換する。
・全面転換のなされなかった理由
ここでカ性ソ−ダの製造法が、水銀法から隔膜法への全面転換が打ち出されながら、何故それが行われなかったのかという点を考える。
カ性ソ−ダは化学薬品としてばかりでなく、レ−ヨンなどの繊維やパルプなどの製造に使われる。このカ性ソ−ダを製造する方法として、従来はアンモニアソ−ダ法が主に用いられてきたのであるが、塩素ガスの需要が増大するようになると、カ性ソ−ダと塩素ガスの両方が得られる電解法による製造へと転換していった。そしてこの電解法としては、水銀法と隔膜法が使われてきており、昭和25年頃までは、アンモニアソ−ダ法によるもの42%に対して水銀法30%、隔膜法28%というように水銀法と隔膜法がほぼ同じ比率に達している。
そしてそれが水銀法にほぼ全面的に転換していき、昭和43年の時点では、アンモニアソ−ダ法の生産がなく、 水銀法で90%、残りを隔膜法がまかなった。このような製造技術上での変化が、水銀汚染の拡大を招くことになり、公害問題を契機に水銀法から隔膜法への転換が政府の方針として打ち出された。従来から電解製造法の中で、水銀法と隔膜法があり、それが水銀法へと移っていった理由は、得られる製品の純度が高く、しかもエネルギ−効率も高いという点があった。
すなわち水銀電解法(図5−2)では、陰極に水銀を用い、ここにナトリウムイオンが移動してきて、水銀と結合してナトリウムアマルガムとなる。これを解汞に送り、ナトリウムを取り出し、水と反応させて、カ性ソ−ダとするのだが、濃度も約50%と高い上に、 食塩などの不純物もほとんど含まないという利点を有している。
一方隔膜法(図5−3)は、電解槽中にアスベストの隔膜を設けるもので、陽極からは塩素ガスが、陰極からはカ性ソ−ダ液と水素が得られる。しかし得られるカ性ソ−ダの濃度が 10〜12%と低く、しかも14〜15% 程度の食塩も含んでいるので、隔膜法ではカ性ソ−ダの濃度を高め、不純物を除去するために煮沸工程が必要であり、このため、エネルギ効率は、水銀法に較べると低い値となる。これらのことが、従来あった隔膜法を減少させて水銀法が圧倒的に採用されていった理由であり、これ故に、水銀電解法から隔膜法への転換が、スム−ズにいかなかったのである。
・技術発達における環境の及ぼす影響
以上述べてきたように、水銀による環境汚染を契機に、水銀を用いた製造方法は各々他の製造方法へと転換していった訳だが、アセトアルデヒドの製造では、水銀を用いない、石油化学的な製造方法へ転換され、カ性ソ−ダの製造では、隔膜法へと不完全ではあったが、転換していった。そして最終的にはイオン交換膜法へと全面転換して水銀法は消滅している。
ここで注目すべきことは、技術はその機能が向上する方向に発達してきたが、ここで述べたカ性ソ−ダの製造では得られる製品の純度やエネルギコスト的にも優位な水銀電解法から、機能的には問題のある隔膜法への転換が行われたということである。これは技術が環境問題への対応を抜きには、発達しえない情況に到達したことを如実に示すものであろう。また環境を優先すれば、技術は機能的に低下する方向へ進まざるをえない場合も生じることを示している。