2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
12-31, 2004 明日の世界
■「Sin City」予告編

http://www.apple.com/trailers/miramax/sin_city.html
フランク・ミラー自身が監督しているのね(ロドリゲスと共同)。
しかし、キャストがすげえなあ。
■やはり

やはり昨日の「今年の10本」には「パニッシャー」を加えるべきだったと後悔し、そうしておく。
■よい年を探して

年末は鹿島神宮へ初詣に行く。男だけで。年始は松本の方の温泉に行く。男だけで。
絶望は深い。
といいつつ、自分が本気で誰かに愛されるための正当なコストを支払っているかと言うとそうではなく、私の給料の大半は映画とDVDと書籍に消えている。先日もディッシュの「アジアの岸辺」とベスター「願い星・叶い星」、文庫で「潜水艦戦争」を買った。いわゆるキモオタというやつだ。そういえば昨日、コミケで知人たちと会っていたのだが、そこで衝撃の事実をきいた。ニートには年齢制限があるというのだ。34歳まで。俺は定義から言えばニートではないが、それでも34を過ぎれば一夜にして「かっこいいニートがカッコ悪い無職になる」という篠房氏の発言に心底打ちのめされた。俺は誰だ、だれだ、だれだ、とデビルマンの歌詞を実存的にマイナーチェンジして唄ってみたが事態は一向に改善しない。目の前ではサークルの知人(男)がタチコマが擬人化された少年となってバトーに玩ばれるタチコマ擬人化ショタ攻殻同人を開いて俺に見せてくれている。少年の耳にはインカムというかヘッドホンがあり、そこには小さな穴が3つブチ穴風に刻まれているのでタチコマだとわかる記号の役割を果たしている。この偉大なアイデアには正直してやられたという感慨を持ったのだが、それはそれとしていま有明で女性向けエロ同人誌を友人に見せられしてやられたと感じている俺はだれだ。絶望が深い。俺は誰だ。
つまり、そのためには正当なコストを支払え、ということになる。困った。困りながら今日もこうしてはてなを書き、本を読む。どうしようもない。俺は本気ではないのだろうか。「ラース・フォン・トリアー〜スティーグ・ビョークマンとの対話」によると、ラース・フォン・トリアーは病気パラノイアで、自分はいつもうん10種類の癌に犯されているという不安(というか確信)に苛まれているそうだ。このオッサンがヤバげな人間なのは知っていたけれど、この話でちょっと親近感が湧いた。
年末、俺は友人と鹿島神宮へ初詣に行く。男だけで。年始は松本の方の温泉に行く。男だけで。
じゃあ、また。
12-30, 2004 「じゃあ、逝くわ」
■今年観た映画の記憶

物凄い勢いで忘れている。自分が今年、何を観たのか。そんなに数を観ているわけではない。月にせいぜい5、6本がいいところ。それなのに思い出せない映画がたくさんある。悲しいことだ。
- 1:「ヴィタール」
- 「バレット・バレエ」から塚本晋也は変わった。分かりやすい無邪気さと暴力性はなりをひそめ、かわりにびくびくした映画を撮るようになった。それは一言で言って死が怖い映画であり、死に脅かされる人間たちの寂しさを扱った物語だ。「バレット・バレエ」からの塚本映画は、常に「終りの刻」を見据えながら、その虚無に怯えながら撮られているように思う。その怯えが発する匂いが、この映画をある意味で美しく、また悲しくしている。「六月の蛇(実はこちらのほうが好きなんだけど)」とこの映画。塚本がこのままこの方向で行くなら、ぼくはものすごく嬉しいのだけど、「やっぱり『鉄男』のほうが」という人の方が多いんだろうなあ、やっぱり。こんなきれいな映画にあまりお客が入っていないというのは悲しいことだ。
- 2:「マイ・ボディガード」
- この映画の結末は断じて、原作を台なしにした「ハッピーエンド」などではない。この映画はどん底に暗い。それこそトニーを怨みたくなるくらいに。「復讐によって生きる希望を得、愛する者を再獲得し、もりもり人間として回復してゆく」原作にくらべ、この映画は(回復期間をおいて、しかも訓練しなおす)原作とは違い、最初の傷も癒えぬまま、血を流しつつ歩いてゆく道としてあり、その当然の帰結としてあの美しい終幕がある。少女が無惨に犯され死んでいればそのほうが容赦ないのかというと、当然だがそんなことはないのだ。「神は俺たちを赦すと思うか?」「無理だな」そこから始まって、そこで終わる物語。ベッソンの「レオン」などではとうてい達することのできない「悲劇」を、トニーはあっさりと達成してしまった。これは、煉獄に留められた者が「地獄へ落ちること」を許可される物語なのだ。
- 3:「イノセンス」
- 「CGが浮いている」と言いつつ、かといって多分「フツーの」背景ではもう満足できないだろう。そういう予感がものすごくある。あれほど緻密だった「スチームボーイ」や「ハウル」の背景美術に感じた退屈さが、それを証明している。いわば、「まだそちらに行くべきではなかったのに、踏み出してしまったために、過去の技法が退屈になり、しかしそれが採用した新たな技法はまだ成熟していない」というところ。
- 4:「ソドムの市」
- この人にちゃんとお金を与えて映画を撮らせてあげたら、凄いものができると思います。
- 5:「殺人の追憶」
- ドロップキック。
- 圏外:「IZO」「マスター・アンド・コマンダー」「ミスティック・リバー」「パニッシャー」「誰も知らない」
- 「ロード・オブ・ザ・リング」は叙情ではなく叙事であるべきだった。ピーター・ジャクソンは神話をメロドラマにしてしまった。それはそれで正しいのだけど、もっと凄い映画ができるはずだった地点からのもっとも妥当な妥協としてしか、あの映画を評価できないところが辛い。それがとてつもない才能と情熱の産物だと知っているだけに。下の「キングダム・オブ・ヘブン」もそうだけど、リドリーは絶対に「架空の現場の段取り」を想定したカメラワークしかしない。ピーター・ウィアーもそうだろう。どうせフィジカル感を無視したカメラをやるのだったら、ゼメキスが「コンタクト」でやったような、地球から銀河系まで引いていっちゃいましたすいませんだってそれ出来るから、くらいのことをやらなきゃだめだ。
と並べてみてから、1〜3が愛するものとの距離の遠近を計る映画、近づくために払う代償についての映画であることに気がついた。今年はいろいろ辛かった。認めたくはないけれど、人生が映画の嗜好に露骨に干渉してきたようだ。
■「キングダム・オブ・ヘブン」トレイラー

http://movies.yahoo.com/movies/feature/kingdomofheaven.html
十字軍の物語、となると政治的正しさとか宗教的公正さとかセンシティブな問題がドカドカでてくるんでめっさ心配なんですが、画面からはそのへんはまったくわかりません。ただ、オーリー主役ということで私が危惧していたアイドル映画臭は皆無。例によって鬼のようなレイアウトの的確さと画面の埋め方であります。リドリーって色とかスモークばっかりが取りざたされますが、レイアウト主義というか、燃える構図と編集を最重要視する人で、そういう意味では樋口真嗣型だと思うんですけど。
そう思って「ブラック・レイン」をいま観ているんですが、松田優作の冒頭のアクションはやっぱ完璧。特に魚市場のトラック並びを駆けるマイケル・ダグラスの、移動ショットと望遠パース潰しの組み合わせはカッコ良すぎる。ダグラスがトラックの間に消えるんだけど、カメラはそれをフォローしないで通り過ぎていくのがもう射精しそうなくらい痺れる。ヤン・デ・ボンはやっぱ監督になるべきじゃなかったよ。ずっとカメラに張り付いているべきだったよ。そのほうが絶対カッコいい絵をたくさん残せたよ。
トニーを肯定しリドリーを否定するほどハスミムシでもないので、私は両方を肯定できるほうが映画って楽しいだろう絶対、というゆるいポジションということで兄弟両方好きです。
12-26, 2004 ポテチとクリスマス
■台風一過

クリスマスの夜、俺は何をしていたか。ポテチを食っていた。一言で言えば、そうなる。というかそれ以上表現しようがない。ポテチを喰っていた。この単純な叙事的記述が祇園精舎の鐘の音のような虚しさを漂わせる日というのは、1年のあいだにもそうない。いや、あった。戦後、GHQのバレンタイン少佐(G2)が焼跡の子供達にチョコレートを配ってあげたのがはじまりと言われるバレンタインデーだ。彼は戦中はOSSで心理戦研究に携わり、対日宣伝工作では主要な役割を演じたと言われるがすべて俺の妄想であるというのが実情のようだ。去年のバレンタインデー、俺は何をしていたか。思いだした。俺は六本木ヒルズにいて、カポー向けオサレ映画として「イノセンス」を売り出そうとする鈴木敏夫の陰謀を打ち砕くべく、「イノセンス」前夜祭に参加して、オタクと幸せカポーとの実存を賭けた闘争に参加していたのだった。修羅の道である。とくにこのときは年末にふられた直後だったので酷かった。
それはともかく、クリスマスの日、俺は何をしていたか。まず、「ULTRAMAN」を観にいってビデオ撮りだったのにショックを受けていた。子供連れの家族とショッパいオタクの2種類の人間だけが劇場にいた。カポーはウルトラマンなど見ない。カポーは素直にハウルを見たり、「マスター・アンド・コマンダー」もかくやという詐欺宣伝に騙されて「マイ・ボディガード」を観にいって、肛門ににC4を押し込められ爆砕するオッサンのケツを見せられてびっくりしていたりするはずだ。わたしはヒゲのオッサンのケツを見に映画館にきているわけじゃないわ、などと女がタワゴトを言って気まずくなっていればしめたものだが、困ったことにこれはいい映画なので普通に感動されて帰っていくだろう。トニーがいい仕事をしてくれて私はたいへんうれしいのだが、この日に限ってはカポーの気分をブチコワシにするエゲツない映画を作ってくれていたら、と思わずにはいられなかった。
オッケー、そして俺は本屋に行く。映画館→本屋という彼女がいないオタクの黄金コースだ。ここで俺はレムコレクションの新刊「高い城・文学評論」と「スターリンの外人部隊」を買う。よくよく読めば「スターリンの外人部隊」という題名は大きく間違っている。だって、外人部隊、というよりはポーランドとかの軍隊の話なんだもん。
その次はヴィレッジバンガードに行く。確かにこの店はサブカルを扱っているが、なにぶん「イケてる」サブカルの店なので、予想通りカポーに満ち満ち溢れている。俺のようなデブオタが入っていくには逆ATフィールドが強すぎる。「あなたはどこにいますか?」と言われても実存的疑問などとうてい持ちえなさそうな幸せな人間がいっぱいでいっぱいで、俺は思わず存在しない鳥取の実家に帰ってしまいたい気分でいっぱいになったけれど、我慢して初期の目的を果たす。
目的は何かというと、オリーブオイル・ポテトチップの入手である。
なぜ俺がただのオタでなくデブオタかというと、おおむねポテチが元凶だ。俺は酒も煙草もやらない人間である。ジュースも飲まない。ウーロン茶か生茶だけだ。それでは健康かと言うとさにあらず。俺は想像を絶する脂肪肝に蝕まれている。なぜかというと、俺はポテチを大量に喰うからだ。コンソメは喰わない。コイケヤののり塩、それだけをひらすら喰う。どれぐらい喰うかと言うとビッグバッグ一袋を一回でたいらげる。我ながら異常である。彼女ができないわけだ。ポテチには発ガン性がある、とニュースで流れたとき。俺の母親はあんたがガンになったのは間違いなくポテトチップのせいだ、頼むからやめてくれ、と懇願されたのを思い出す。
いわば自作自演のスーパーサイズ・ミー。なのだが、そんなことはどうでもよくて、職場で「信じられないほど旨い」というこのポテチの話を聞き、ポテトチップ・ジャンキーである俺は矢も盾もたまらずこれを買うためにビレッジ・バンガードに向かったのだった。
http://www.tkamiya.net/junk/archives/000608.html
そうしてオサレサブカルショップを突破して(バンガードか一部のドンキでしか買えないらしい、いまのところ)、俺はこれを入手した。一袋430円。もはやポテチとは思えぬ値段ではあるが、おれはこれを3袋所望して帰還した。竹内まりあが「クリスマスは誰にでもやってくる」と唄う。そうか。俺は知らん。俺はポテチを喰う。
高い。けど旨い。分厚い。
蠍
御初に御目に掛かりますー。
オリーブオイルチップスって云えば、後はCOSTCOとかの大型輸入品店ぐらいでしか見掛けられんモンですよね。
因みに、あの分厚さが俺は苦手です(ぉ
Projectitoh
私は食うたびに口の中を怪我するので(ザクザク口中に刺さる)、あまり食べれません。味覚的ではなく、物理的に。
12-20, 2004 強敵(とも)こそが真理
■シャゴホッド

こんな馬鹿メカ(褒め言葉です、念の為)を観たのは久しぶりで、もっと活躍させてほしかったなあ、と思ったり。どこらへんがバカなのかはやればわかります。このデカブツがドラッグシュートを展開して制動するという最強の馬鹿映像は、涙なくしてみれません。
■AVP

狩りの、時間だ。
だが問題は、どこで狩るかだ。
自分が思うに、プレデターにもいろんな狩りのバリエーションがあるのだ。森派、都市派、迷路派。狩りというのは普通森でやるものなので、「1」のプレデターはノーマルな趣味の人という感じだろう。他国の文化を紹介するのに、その文化におけるイレギュラー、つまり変態を紹介したらとんでもない誤解を受けるに決まっている。日本文学を紹介するのにヤプーを読ませる馬鹿はいない。
しかし、バロウズも言っているように、最初の1発めのハイは、2度と得られない。すべては「慣れる」。薬中は最初の1発のハイを求めて、より多くのドラッグを使おうとする。普通のプレイに飽きたカップルが野外でしたり交換したり縛ったりするように、プレデターは都市へ出た。
都市はそれなりに複雑であり、けっこう楽しかった。しかし飽きない、飽きられないものはない。なんといっても獲物が多すぎる。そこでプレデターは考えた。マップを複雑にすべきだ。何度プレイしても楽しめるように時間軸でランダムに変化するマップにしよう。これはつまりセックスでいえば変態だ。ジャングルは飽きた。街も飽きた。じゃあ動的に生成されるランダムマップだ。というか、ぶっちゃけ人間飽きた。より強い刺激を求めて複雑なフィールドと、より難度の高い敵を求めた結果がこの映画だ。
というわけで変型するドラえもん迷宮については変態プレデターということで納得してもらえませんかねこれ。
というか、プレデター映画。自分はエイリアンオタですが、この映画の話ではどうしてもプレデターに感情移入せざるを得ない。「あいつは・・・完璧な有機体だ」という生存機械であるところのエイリアンというのは、非人間ゆえの美しさ、圧倒的に人間を無視して存在する無慈悲な現実であるところの美しさであって、そんなエイリアンさんに比べこれが少年マンガだったら「強敵(とも)こそが真理・・・」と人間だったらつぶやいたであろうジャンプ的強者イズムによって、それが強ければ下等生物であるはずの人間をも戦友として認めてしまうという純粋さを持った戦闘部族プレデター、というのはそもそも感動するベクトルがまったく正反対であるわけで、非常に食い合せが悪いわけです。
この両方の美しさを一本の作品の中で両立させることは不可能であるわけで、このプレデター的純粋さを充分に表現するならば、エイリアン的純粋さというのは単なる繁殖生物の浅ましさと見えてしまうわけで、エイリアン的純粋さを充分に表現するならば、エイリアンの前では人間もプレデターも「感情」を持った生物は「生存機械」として純粋さに欠けるゆえ失格であり美しくなく卑小な弱い生物である、と描かれなければなりません。
で、この映画がどっちをとったか、というと、完全に前者でした。
なんだかテキトーな脚本ではありますが、プレデターと人間の間に芽生える種族を越えたつかの間の共闘関係は、なんだか「ゴースト・オブ・マーズ」のアイス・キューブ&ナターシャ・ヘンストリッジや「要塞警察」のナポレオン・ウィルソン&ビショップ警部補みたいな、カーペンター映画を彷佛とさせるテイストで不覚にも感動してしまいました。いや、ほんとの話。
エイリアンファンとしては悔しいものがありますが、この作劇上かなり馴染みの悪い二者を並べることが前提の企画なのですから、二者択一でばっさりエイリアン特有の美しさを切り捨て、プレデター美学を全面に押し出したジャンプ的強者(とも)イズム映画にしたことは正解だったと言えるでしょう。逆に言えばエイリアン特有の美しさを選択した場合、それは人間もプレデターも蹂躙される映画になるわけで、これってじつはジャンルとしてアクションを選択するか、ホラーを選択するか、という選択だったのかもしれません。
「目配せ」的ファンサービス、つまりスタッフクレジットはプレデター文字で映画のタイトルロゴはエイリアン方式、とか、ビショップ社長が指の間をペンでこつこつ叩いたり、とか、そういうネタには事欠きませんが、しかしここはやはりプレデターの勇姿を見ていただきたい。そして強者を認めるがゆえにエイリアンを倒したヒロインと共闘する戦士の絆。爆発の炎を背後に走り来るヒーローヒロイン、というアクション映画お約束の画ヅラが、プレデターと人間のヒロイン、というけったいな置き換えで演じられるとき画面はくらくらするようなギャグと化し、劇場に笑いをもたらすと共に、なにかすがすがしいものが観客の脳を通り過ぎてゆくはずです。この「爆発から逃れる必死なプレデターとヒロイン」が個人的にはこの映画で一番笑い感動したカットですな。
しかし最後の長老というか長(オサ)っぽいプレデターがやたらかっこよかった。マントをひるがえして母船に歩いていくその威厳に痺れました。あの船に長老以下そうそうたる猛者クラスの戦士たちがゾロゾロ乗っているのだと想像すると興奮して夜も寝られません(嘘)
通りすがり
シャゴホッド、確かにとてもとてもキャラの立った役者ですが。
デザインとして今ひとつ、当時のソ連分(それは糖分とか塩分みたいなものか?)が不足しているような…。
Projectitoh
あの後部ホバーの曲線に一体成形感を感じたり、ドリル推進に感動したり、上部のセンサーの球体とかもソ連の軍艦っぽいな〜、と思ったんですが、まあ、確かにもうちょっとけったいなデザインでもよかったかもしれませんね。わりとまっとうなところに収まってしまっているかも。
12-18, 2004 セックスしたあとに爆弾が落ちてくる
■メタルギアソリッド3

「2」の、一見電波陰謀史観話かと思わせておいて実は陰謀史観そのものを脱臼し無効化するメタフィクション、というヒネくれた構成に比べて、今作は実に堂々陰謀史観話。60年代が舞台なので、なんだかピンチョンみたいだ。「重力の虹」とか「競売ナンバー〜」の地下郵便組織とかああいう。
あと、作り手の意思はどうかわかりませんが、今回の若オセロは少なくとも故・塩沢兼人さんのキャラではない。これはたぶん山崎さんじゃなきゃできないな、と思いました。プレイ前は、多くの人がそう思うようにまた私も「塩沢さんの後任」的見方をしていたのですが、この若オセロの「成熟していない」感じ、どことなく「やんちゃな」感じ、クールさを「気取りたい」感じ、は塩沢さんの声には似合わない。たぶん、ちょっとクールすぎたでしょう。そういう意味で、この山崎さんの仕事をポスト塩沢的に考えるのは山崎/塩沢両氏に対して失礼な気がしました。今回のオセロは山崎さんじゃなきゃできない、完全に山崎キャラでした。
というか、今回一番魅力的なキャラですな。ほとんど副主人公扱い。それもやっぱり、山崎たくみさんとモーションの金澤大朗さんの力ですな。
■801

どうでもいいが、2chのあまたあるメタルギアスレで一番和むのが801板だったりする。自分は男だしネカマする気もないので、書き込んだことこそないけど、他のスレが殺伐としているからなあ・・・。なんだかほっとする。
■四畳半神話大系

そもそも「福猫飯店」とは何であったのか。
この組織の目的は謎に包まれているが、そもそも目的などなかったというのが私の推理である。
「福猫飯店」は単体の組織ではない。複数の下部組織をまとめる一つの漠然とした名称であった。その下部組織とは、優秀な学生を軟禁状態にしてレポートを大量に代筆させる<印刷所>、図書館の返却期限切れ図書の強制回収をなりわいとする<図書館警察>
(中略)
歴史的に見て<福猫飯店>の母体は<印刷所>であったというのが共通の見解で、「印刷所長」と呼ばれる人物が組織全体の最高指揮権を持っているとされたが、本当にそんな人物がいるのかわからなかった。
こっちもピンチョンみたいだ。京大を舞台にした妄想ピンチョン。滝本竜彦よりはこっちのほうが笑えて好きだなあ。陰謀って楽しい。
12-17, 2004 今日もメタルギア(出勤はしたぞ)
■メタルギアソリッド3

エクラノプラン/地表効果翼機(乗り物図鑑さん):
http://www.geocities.jp/norimono_zukan/vva14.html
とか浮かれている場合でなく、深刻にムズいです。
というわけで、メタルギアばっかりやっているのでネタなし。さて、フィアー戦に戻るか・・・。
あ、地表効果翼機が出てきたってことは・・・今回のメタルギアの仕掛けってもしかして・・・このへんか?
とか勝手な想像を膨らませてますが、ぜんぜん違うかもしれないのでとっとと進めることにします。
12-15, 2004 どういう本じゃ
■「レムおじいさんの最新原稿が読めるのはメタルギアソリッド3スネークイーター限定版同梱ペーパーバックだけだヨ!」

さて、「高い城・文学評論」はいつでんるじゃ国書、とレムコレの続きを待ち望んでいる方も多いと思いますが、とりあえず「高い城〜」は今月配本予定なんですよね?まだですかまだですか。「ケルベロス第五の首」「エンベディング」となんだかSF界は最近すっかり国書づいてますな。全部買ってますが。それはまあともかくレムコレクションですが、その新刊が出る前に、
思わぬところに寄稿しているレム。それは16日発売のPS2ゲーム、メタルギアソリッド3:スネークイーターの限定版梱包ペーパーバックです。
http://www.konamijpn.com/products/mgs3/japanese/topic_main.html
というか、田中光二に小松左京、瀬名さんに川端裕人、いさくタンに島田雅彦に山形浩生に小田実、ほかにも壮絶なメンツが揃ったけったいな(褒め言葉です)本になってます。これだけでも出版したら相当なものだと思いますが(すげえ制作費かかってそう・・・)。
なお、いまから限定版を購入するのは、正規のルートではほぼ不可能かと思われます。
rinji
うわー、もっと早く知っていれば限定版にしといたのに。レムは勿論のこと、他のメンバーの原稿も気になりますねー。無駄だとは思いつつも限定版を探してみます。
ともひろ
いよいよ明日ですね。本編より先にペーパーバックにのめりこみそうです(笑
>rinjiさん
TSUTAYAオンラインにはまだ在庫があるようです。
よろしければ、こちらに問い合わせてみては?
http://www.tsutaya.co.jp/item/game/gp_ks00000001.zhtml?pdid=30015684&srkbn=S
あひる
はじめましてこんにちは(^^) MGS3楽しみです〜◎だいぶ前の記事ですが、スタン・リーのオセロット、あまりに面白かったのでblogで紹介させて頂きましたので、ご報告します。アホなMGSネタですが、よかったらいらして下さい☆http://blog.livedoor.jp/ahiru178/
ああ、早く届かないかなあ…( -_-)
rinji
>ともひろさん
情報ありがとうございます。
12-11, 2004 「ここ」から出られない
■ヴィタール

9日木曜日、半年に一度のオラクルをききにいった。こればっかりは慣れないものだ。転位ということばが頭からはなれないまま、GE製のCTのSFっぽいリングに、体を輪切りにされてくる。
そんな週が「ヴィタール」の公開週だというのはたちの悪い冗談だ。
自分の体に、感覚のない場所があり、動かない、糸の切れた操り人形のようにぷらんぷらんな関節がある。その奇妙さはあっというまに自分自身となり、もはやこの脚がまともに動いたときのことを思い出すのも難しくなってきている。いま、ここ、それが自分のすべてだ。自己啓発とかで出てきそうな胡散臭さたっぷりの金言も、こと「からだ」に関する限りまったくそのとおり。この足首は、どうやってうごいて、どう感じたんだっけ。わからない。思い出せない。
まっさらな肺とまっさらな術後創。自分の体の中を輪切りにされ、それがフィルムに焼きつけられ、ライトボックスの光を受けて浮かび上がる。
喘息。癌。障害。日々身体を意識せざるを得なかった自分にとって、「イノセンス」の身体はまるで香具師の口上を聞いているような気分だった、と今だから言ってしまおう。身体はない、と押井は言って、肥大した「不在の身体」という妄想を犬に押し付けた。それが「外部にある自分の身体」だと。それはしかし、決して「自分の」身体ではないし、身体からは逃れられない。匂いを追放し、病気を追放し、人は身体を排除する方向へ向かっている、と押井は言う。そのとおり。だがそこで忘れられているのは、「匂いを排除し、病気を排除し、それでもなおそれは身体なのだ」という単純な事実だ。
「身体を生きざるを得ない」そうした生の存在を、押井は意図的にか無意識にか、「イノセンス」から排除した。犬は身体ではない。「思い」や「怨み」は身体ではない。押井はそこにしっかりと蓋をして、動かないぼくの足首を置き去りにする。たぶん、そこで身体という言葉は持ち出されるべきではなかったのだ。それはどこまでいっても「拠り所」でしかないと、正直に表現するべきだったのだ。身体という言葉はどこまでいっても言葉でしかない。あの映画の公開直前、ぼくは10年以上付き合った愛犬を失った。肝臓癌だった。だから押井の言いたいことはすごくよくわかる。だがそれは絶対に身体の問題ではない。ぼくは「イノセンス」が大好きだけれども(そりゃまあ、あんなコメンタリー注釈を作ったくらいだから)、それは身体を語った映画としてではない。こと身体と自我に関する限り、その映画は最悪の種類の無邪気さを振りまいていると思う。
彼岸があると信じられない者にとっての救いは、「イノセンス」ではなく、「ヴィタール」にあると思う。素子が彼岸からやってきた瞬間、それは物語としては思いを寄せるものとの再会であり、そこに感動しつつ、しかし心のどこかでこれは絶対嘘だ、これはあり得ないんだ、と怒りすらおぼえていた自分。彼岸と此岸の往来がかくも無神経に描かれていること(それは「黄泉がえり」や「いま、会いにいきます」も同じだ)にものすごい嫌悪感をもった自分。
じぶんが、からだでしかないということを知っていて、そこから逃れられないことを知っていて、死ぬのが怖い自分。
たぶん、そんな憶病者には、「ヴィタール」はどこまでも誠実な映画に見える。解剖されていく身体、スケッチされていく身体。それをみながら、ぼくはひさしぶりに映画を観て感動していた。
toshi20
はじめまして。僭越ながら、ちょっと軽いツッコミを。
>彼岸と此岸の往来がかくも無神経に描かれている
予告編見るとそっち系に見えますが、「いま、会いにゆきます」はちょっと違います。どっちかっつーと●●系でしょ…ってネタバレになるから書けないのがもどかしいですが。
uramagi
初めまして、こんにちわ。
KIKIさんといえばananに書いてるコラムくらいしか知りませんでした。
映画にも出てたんですね〜
ムサビの建築卒ですか、、初めて知りました。
思えば、コラムも建築ネタが多かった気がします。
Projectitoh
実はSFだという話を友人から聞いて狼狽しております>いま会い
塩田さんがクロノス・ジョウンター撮るらしいし・・・。
Projectitoh
建築の好きな女性、という方をあまり見たことがないので、ちょっと興味を引かれました。かわいいし。
12-05, 2004 音色からぼくは逃れられない
■観てきたよ

いや、昨日の日記は別にほんとうにああいう夢を観ただけなので、北村ゴジラに対する悪意とかそういうもんではないわけです。大体あの時点で観てない映画に嫌みも何もありゃしません。
というわけで、意を決して観てきましたよゴジラ。ゴジラ FINAL WARS。
予習に「ゴジラ対ガイガン」のDVDを観たんですが、これが壮絶にコストパフォーマンスの高い映画で、今じゃ絶対考えられないいい加減さに満ち満ちているわけです。なんたって凄いのは、メーサー車や都市破壊の場面などで、過去の怪獣映画のショットをアニメのバンクのごとく使い回し使い回しさらに使い回す壮絶な節約。さらに怪獣がフキダシで喋るんですよこれが。親分のゴジラが「いそげよ!」「すぐ ていさつに ゆけ」というと子分のアンギラスが「OK!」と返すフキダシ会話。まあ、これとは別にゴジラのシェーとか空を飛ぶとかもゴジラの歴史にはあるわけで、「本物の怪獣映画」というとき僕らの世代は「本物って、どれが本物なの?」という疑問にかられるわけです。
第一作目はいまでこそ原水爆の業を背負った日本代表モンスターのように誇らしげに語られていますが、唐沢翁などはゴジラを指して、54年3月の第五福竜丸事件の騒ぎをアテこんで速攻で製作され公開された王道キワモノ映画としてとらえるべき、と言っておりました(「怪体新書」だっけか)。
ゴジラの姿、というのは長い歴史の中で恐怖の対象から子供のアイドルへと変化してきたわけです。「ゴジラ対ガイガン」に収められた樋口真嗣コメンタリーでは、この映画(というか東宝チャンピオンまつり)をリアルタイムな子供として経験してきた視点から「ガイガン」が語られているわけですが、最初から樋口さんの世代にとってのゴジラっていうのは、最初からフキダシがあったりシェーしたり怪獣島に怪獣がたくさん住んでたりする世界だったわけで、子供はまさかそんな業を背負った怪獣だなんて知りませんから、オールドファンの子供騙しだのふざけ過ぎだのそういう批難が(当時は)理解できなかった、と語っておりました。
この「FINAL WARS」を観て感じたのは、そんないい加減でデタラメでユルい設定だった時期のゴジラ映画のテイスト、楽しいから怪獣たくさん出そう、サッカーとかやらせよう、みたいなゴッタ煮娯楽テイスト、オールオッケーなムードの怪獣映画でした。北村龍平の暴走が、奇妙にあの時期のゴジラ映画の雑多な感じとシンクロしたというか。だから「怪獣映画としてどうか」という意見はなんだか読んでて気持ちが悪いのです。「怪獣映画って何だ?どの時期の怪獣映画と比べてんのか」と。少なくとも、今回のゴジラはある時期に照らし合わせればまごうかたなき怪獣映画、ある時期の怪獣映画の子供が喜ぶんならなんでもあり感とユルさを体現していると言えましょう。
問題があるとすれば、「ガイガン」がかつてそうであったような「量産されたゴッタ煮娯楽の中の一本」でなく、とりあえずの一区切り、最終作、として送りだされたことと、予算をこれまでのゴジラ映画で最大に使ったことでしょう。こういう水準のものが毎年毎年低予算で送りだされ、時折「ヘドラ」のように異様な作品が作られてしまう、というような状況が、たぶんゴジラ映画にとって一番しあわせなのではないでしょうか。しかし90年代から映画はイベントとしての側面を帯びてしまい、入場料も高騰し、気軽に入れる娯楽ではなくなってしまいました。観客もそれなりものを賭けて劇場に脚を運ぶわけです。こういう状況下では「楽しい、軽い、子供が喜ぶ、低予算の」ゴジラ映画を毎年送りだすということは不可能です。
はっきり言って、悪い映画ではないと思います。少なくとも私は中途半端に重かった「GMK」よりずっと好きです(ガメラ3部作からずいぶん後退したなあ、という印象しかなかった)。なにより、劇場で子供が退屈していなかった。作り手が面白いものを作ろうという意思が画面からみなぎっていますし、それがウザいという人もいるでしょうが、最近のメカゴジラの何とも中途半端なロボットアニメっぷりにくらべれば、単純に画面を面白くしようという意思が上映中ずっと続いているだけでも、近年のゴジラ映画にはなかったことです。私だけでしょうか、子供が退屈していないゴジラ映画をはじめてみたというのは。少なくとも、私はここ数年のゴジラ映画は退屈したガキが映画館内をうろつきまわったりお腹減っただのトイレだのうるさくてしょうがなかったのですが、この「FINAL WARS」を見に行ったときは、劇場を埋め尽くす観客(これも実は、ここ数年のゴジラで観ていなかった光景です)の大半である子供達は、食い入るようにスクリーンに見入っておりました。
ただ、繰り返しますが、こういう「ゴッタ煮」の、しかも「そこそこに楽しい」映画がレギュラーに制作されなかったことに、ゴジラの凋落があるのではないでしょうか。こういう水準の作品がコンスタントに作られつつ、時に「GMK」のような作品もある、それを望むのは贅沢というものでしょうか。
ただ、ここ数年の子供をなめ腐った(「GMK」は除く)ゴジラ映画にあっては、これはひさしぶりに子供が観て楽しい、いい映画だと言えるでしょう。
すみません、プログレに悪意はないんですけど、キースのエンディングテーマは物凄くツラかったです。「レディホーク」のDVDを買って、わくわくしながらデッキにかけたら、音楽がアラン・パーソンズだったのをすっかり忘れていて、ヘボいシンセメロが流れはじめた瞬間やるせなくなり、80年代との和解は不可能である、と思い知ったときのツラさ、寒さ、やるせなさに限り無く似た感情に襲われ、子供が誰1人立たない幸福なエンドクレジットの最中ひとり身をすくめておりました。ELPファンの方、ご免なさい。
reguls
まったく同感です!
特にエンディングテーマ!
あれなら、まだ「冒険!ゴジランド」のテーマ曲のほうがマシ!(^^;)
ToTo
なんか自分の本音じゃないスキームにいつの間にか捕われてますよねぇ
「ゴジラはこうあるべき!!」とか、ホントにそう信じてたのかしら、それは「そう」であった方が自分にとってガイガン、いや快感だからってだけじゃなかったかしらと。観に行った時に隣の小学校高学年生が「おぉ!!」とか言ってすげぇ楽しそうだったもんで。ノスタルジーかなぁ・・・
Projectitoh
そうなんです、「北村龍平は叩いていけばオッケー」「怪獣映画じゃないって言っておけばオッケー」という、なんだかネットの「雰囲気」に流されているというか、要するにある言説の共同体に属していると安心感、ちっちゃい権威主義、みたいなものに捕われている人が多すぎる、というのが気持ち悪いんですね。この映画が面白くてもつまんなくてもそれはその人の感想でいいも悪いもないんですけど、あまりに外から刷り込まれた「フィルター」と「自分の意見」を取り違えている人が多い、というか・・・だって、そんなもんがない子供は喜んでいたんだし。
12-04, 2004 最終戦争
■ゴジラ/ファイナルウォーズ

これは凄い。まさにファイナルウォーズだ。なぜファイナルかというと、それはゴジラのファイナルであるだけでなく、人類のファイナルだからだ。
開巻、いきなり人類は滅亡寸前であることが描かれる。54年のゴジラ上陸以来、世界各地にゴジラは上陸し、凄まじい放射火炎によって世界中の都市という都市、文明という文明を破壊し尽くし、半世紀を経て東京を除く全世界が焦土と化した経緯が描かれる。ボンが、パリが、ニューヨークがモスクワが、地表に穿たれた巨大なクレーターの底に叩き込まれ、空は放射能の暗雲に覆い尽くされている。ここまででまだメイン・タイトルもはじまってないのだ。サミュエル・フラーの「最前線物語」かこれは、というくらい物語る経済効率の高さに、完全に圧倒される。「A Ryuhei Kitamura Film」というクレジットとともに、カイル・クーパーによるオープニングクレジットが流れるが、そこにカイルのグラフィカルなテクニックはない。今回、カイル・クーパーはゴジラという「魔物」の前にかしずくことを、積極的に選択した。そのオープニング・クレジットは人類がこれまで行ってきた様々な戦争のフッテージで構成され、その上にゴジラという「魔」が君臨するという重苦しいもので、流れる伊福部テーマは人類への弔鐘のように陰鬱だ。
そして1999年、というテロップ。武装要塞都市と化した東京の異様な景観が見事な空撮で描写される。ゴジラ上陸から実に45年後。ノストラダムスの予言は思いもよらない形で間近に迫りつつある。ユーラシアもオーストラリアもアメリカも海の底に沈むか草一本生えない被曝地帯と化すかして、もはや残された文明は日本列島の一部。関東圏だけだ。この資源の乏しい島国で人類最後の抵抗勢力が反撃戦力を維持すべく、焦土と化した南米やオーストラリアに渡り、鉱物などの資源調達やわずかな生存人類の「救出」を行っているが、アンギラスやラドンなど世界中を己がものにした怪獣たちによって阻まれ、その生還率は限り無く低い。
主人公はそんな「資源調達師団」の隊員。TOKIOの松岡演じる彼は指令部からインドの奥地に残った鉱山跡に赴くよう命じられる。そこに何があるかは、同行する情報部の要員・明石大佐だけが知っている。焦土と化したインドに上陸した彼らを襲う怪獣の群れ。部隊の人間が次々に命を落していく中、彼らはようやく目的地に辿り着く。そこはかつてインド政府が核開発のために掘っていたウラン鉱脈だった。
日本政府──この地上でもはや唯一の政府である日本政府、は決断を下したのだ・・・核兵器によってゴジラを殲滅する以外方法はない、と。情報部は5年前、焦土と化した北米に上陸し、リバモア研究所の廃墟から核兵器の設計図を入手していたのだ。その任務ではほとんどの隊員が怪獣との戦闘で死ぬか、命綱の防護服を損傷し、激烈に被爆して苦しみながら死んでいった。しかい、生き残って帰ったただひとりの隊員が、バンカーバスターと核弾頭の設計図を持ち帰ったのだ。バンカーバスターによってゴジラの体表を突破し、内部で核分裂を炸裂させる。それが、この地上で最後に残った人類の軍隊の、最後の望みだった。
核はかつてゴジラを生み出した。それなのにそんな兵器が生み出した息子を殺せるわけがない、効果はないかもしれない、と主人公は明石に問うが、しかし米・ソ連のいかなる通常兵器によっても殺せなかったこの怪獣を、他のどんな兵器で殺したらいいのか、と明石は言う。
結局、その放射性物質は主人公らによって東京へと持ち帰られる。武装要塞都市東京の中心で・・・かつて人類同胞によって被爆し、軍事力を永遠に封印すると誓ったはずのこの国で、核兵器の製造が開始される。折しも、大平洋の外周を警戒していた艦隊からゴジラ発見、進路は東京、との報告が入る。ゴジラとの艦隊戦。核兵器完成までの時間を稼ぐため、艦隊指令は苦渋の決断を下す。彼我戦力差という言葉も滑稽な「神」と「ヒト」との戦い。放射火炎の滑らかなストロークが空母のブリッジを竹のように切断する。デッキのクルーや航空機が吹き飛ぶ。生存艦から砲が斉射されるが、効果はない。
沈み行く大形空母。まるで艦隊の墓標のごとく、ゴジラが背後にした海面に太い煙が幾筋もたちのぼる。生存者はゼロ。脱出し水面に漂うクルーをラドンが食糧にする。しかしゴジラはその光景を一顧だにせず、ゆっくりと東京へ歩みを進める。
そんな中、主人公はかつてゴジラを滅ぼした唯一の化学物質の噂を聴く。オキシジェン・デストロイヤー。その名前は武装要塞都市東京の住人の間では有名な都市伝説だった。ゴジラを倒したい、ゴジラから解放されたいという願望が生み出した存在しないマクガフィン。情報部の明石にその存在の可能性を問いただすと、情報部はあらゆる可能性を追求し、オキシジェン実在の調査も実際に行われたという。結果的にその存在は否定され、今回の核兵器によるゴジラ殲滅の決断が唯一の希望だとして残ったのだと。
果たして人類は滅亡するのか。核攻撃のスポットは東京湾内。決行の暁に東京湾のド真ん中に立ち上るキノコ雲は、果たしてゴジラ、人類、どちらの弔鐘なのか。ゴジラと人類の最終決戦が迫る・・・。
映画のほうは・・・怖くてまだ観ていません。
TEAR
上に騙されました。おもしろそ〜と本気で期待してしまいましたよ・・映画は・・やっぱり怖くて観にいけません・・。
minusdriver
へぇ、これはなかなか面白そうではないですか……と思ってたら……夢でしたか!
でも実際この夢のような内容だったら……日経キャラクターズの記事などを読むとなかなか熱そうですけどねぇ。
Projectitoh
ネットを巡っていて余りの悪評に見に行くべきか否かうんうん迷っていたら、迷いのあまりこのような夢(細かいディテールは跡づけですけど)を観たのでしょう。昔から寝る直前の思考をそのまま夢に見る人間なので(テレビで「エイリアン2」を観たときは通っている中学校がエッグ・チェンバーになっている夢でした)。しかし・・・それにしても見に行くべきか、行かざるべきか・・・。
Saya
観賞のために危うく速攻で有給申請するとこでした。……こんなゴジラなら……ゴジラなら這ってでも観に行くのに……
new@何時も楽しく読ませて頂いています
なるほど、これがゴジラ FINAL WARSでしたか。私が見たのは同スタッフで揃えられた『劇場版 流星人間ゾーン』でしたか。SHOCKだ。もう一度劇場に行けばきっと、きっと、このゴジラが上映されているはず……ぐふッ。
まにゃ
こんばんは、初めまして。
こんな…こんなゴジラだったら、観に行きたい…。観に行って、原作本買って読んで、DVDが出たら買って家宝にします。
なんだか、久し振りに大昔のSFショート小説を読んだ気分です。
なんだか、とても懐かしい…。
Projectitoh
すみません。「日本人が自分の手で核兵器を作ってゴジラに使う」というのの元ネタは上にも書いているように高橋洋さんの「映画の魔」なのです。怨念に満ちたいい本なのでそちらを読んでみるともっと楽しいと思います。
12-02, 2004 カンパニー・マン
■The good shepherd

http://www.eiga.com/buzz/041130/09.shtml
で初めて知ったんですが、アングルトンをモデルとした主人公の、冷戦ものがデニーロの監督で、というなかなかに興味をそそるシロモノ。冷戦スパイものというのはノスタルジーとして、「近過去ファンタジー」として消費されつつあるのか、それとも史実ものとして消費されているのか、なかなか判別しがたいところではあります。しかし・・・アングルトンがモデルの人物にデイモンって・・・若すぎない?
アングルトンのミドルネームって「ジーザス」だったんだ・・・。というわけで本棚からフリーマントルの「CIA」を何年かぶりに引っ張り出してみた。
12-01, 2004 このおっさん、ほんとジャンルを選ばないな
■F-16

ひさしぶりにジョナサン・モストウの「F-16」を見る。
やっぱ凄いわこれ。俺の中では
・・・あれ?発表年代順に考えるとだんだん弱くなってないか?
なにはともあれモストウにはもっともっと頑張ってほしいものである。
■リドスコ、ジュゼット、コジマ

http://www.cinecon.com/news.php?id=0411293
http://www.flix.co.jp/v2/news/N0005726.shtml
だそうですよ奥さん。リドスコとシュセットってエイリアンコンビは・・・「ハリウッド的SF」としてメタルギアは認知されているってことなのかな。
まあ、こういう話は「死んだ企画」になる確率もまた高いので、映画になると決まったわけではなぜんぜんなく(実際、これより前にもいくつか聞いたことあるし)、気長に待つことにしましょう。リドリーがやるにしても、このおっさんは「死んだ企画」が山盛りの人ですので・・・「メトロポリス」とか「ザ・トレイン」とか「アイ・アム・レジェンド(地球最後の男)」とか「ホット・ゾーン(エボラウィルスの話)」とか・・・。
とか書いたら(コメント欄を受けて)はやとちり。リドリーが興味を示しているのはHALOのほうですか。まあ、これの「2」は実は首領蜂とかメタルギアソリッド2と同じ系統の話なので、似たようなもんか・・・んなわけない。
ToTo
スクリーンの向こう側に”世界があるっ!!”て感覚では兄だけど
映画としてみなぎるモノを求めるなら最近の弟ですよね〜
は〜それにしても実現してくれないかしら・・・キャメロンで。
あの
HALOがリドリースコットなのでは?違ったらすいません
Projectitoh
トニーは大ヒットしなくなってからどんどんよくなってきていると思います(というのはマニア趣味っぽい言い方で嫌ですが、事実そうだから仕方ないっす)。「ザ・ファン」とか最高に面白いんですけどねえ(「トゥルー・ロマンス」よりずっといいぞ)。こういう上手い人が「中身のないヒット狙い」とか言われて軽視されている現状はいかがなものか、とちょっと腹立たしいです(大体、ヒットしてねえっつの。面白すぎるから)。
あたりを立ち読みしてみるのはどうでしょう?
よけいなお世話でしたらごめんなさい。