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08-29, 2004 ターゲット・ロック・オン
■箪笥

韓国映画、というものでこの種のフェティシュを観たことがなかったので、ちょっとドキドキしてしまった。大林か岩井か(ってこの二者は『少女』の捉え方において大きく異なるのだが)、ってなもんで、とにかくロリ濃度が高い。
最初は、確かにホラーかしら、と思ったのだ。「CURE」のファーストカットを思い出すなというのが難しい、精神科医と患者がちいさな机をはさんでいるところを、微妙な遠さの真横から捉えた、がらんどうの部屋。患者はフレムインするまでにやたら歩かされ、それぞれの要素間が意図的に距離を開けてある。このからっぽさをぶっきらぼうかつ冷徹なアングルで、長回しで捉えたカットは、すげえ黒沢臭に満ちていた。
んが、ホラーっぽかったのはそれまで。この映画は基本的に突然飛び出してじゃじゃんじゃーん系の、サプライズな脅かしに終止していて、それは「ホラー」とはちょっと違うだろう、と思ったりする(とはいえ、後半でふたたび黒沢テイストな鈍器アタックが登場したり、清水崇チックな『袋』が登場するんだけど)。この映画は基本的にこけおどしに終止しているので、ホラーとしてはあんまり恐くない。
というのも、この監督はこの映画をホラーではなく、少女映画にすると断固としてきめたようだからだ(と思う)。
恐くないかわりに、この映画はふたりの少女を美しく撮ることに全力を傾けているようだ。のっけからふたりの少女(しかも姉妹、という萌え萌えな設定である)が生足を川にさらしているところを延々と撮っていたりする。この監督の「少女の素足」に対するフェティシュぶりはただごとではない。最初はこれ、ロー位置からなんか覗いているとかそーいうホラー的な、あるいは後半になって明かされるだろう何かの「真相」のための説話的な、どちらかの仕掛けであろう、と思っていたんだけど、結果から言うと
純粋生足カット
ええ? いやホント。この映画の素足は説話上なんの意味ももたらさない。映画としてそのアングルを選択すべき積極的な理由はとんと見当たらないのだ。もう、純粋に少女の靴下を脱がした、その指が、生足が観たい。俺は脱がす。そんな強固な意思に支えられた演出と編集は、シチュエーションが許す限り、いや許さなくても少女の生足をアップで捉える。これほど女性の(というか少女の)足の指をひたすら見せつけられた映画はさっぱり記憶にない。太腿フェチとかそういう映画だったらいくらでも思い付くが、この監督はひたすら生足、素足。フェチ魂全開なんだけど、韓国とフェチというのがちょっと珍しかったので、すごい面喰らってしまった。韓国では、こういうアモラルな美って社会的にオッケーなんだろうか。
それから映画は律儀にホラー映画を演じつつ、ひたすら実態としての少女映画をゴリゴリ画面に押し出してくる。シーツについた赤いシミ。タンポンの挿入。姉妹の近親相姦的な濃密なコミュニケーション。敏感な人ならば恥ずかしくて画面から目をそらしたくなるかもしれない少女への、少女を描くことへのフェティシュをホラーの隙間から、いや隙間なんてものじゃなくホラーを脇に押しやって、それはもうストーカーのような愛おしさで描き出してゆく。二人が一緒に寝ているカットで、シュルシュルとエロチックなうごめきを見せるシーツはほとんど変態と言ってもよく、そう呼ばれるのはこの監督にとっては「望むところだ」というものじゃないだろうか。このカットはほんとうにヤバい。
この監督には韓国の大林宣彦の称号を与えてもいいのではないでせうか、と思いはじめたころ、映画は律儀にホラーというかサイコホラーの世界へと戻ってゆく。黒沢チックだったり、清水チックだったりする、そんな日本ホラーのエコーが聞こえてきそうなクライマックスのあと、この映画は唐突にエピローグに突入する。
観終わったあと、ぼくはものすごい混乱していた。少女映画であったものが、いつのまにか「ミスティック・リバー」になってしまった、そんな感じだ。死者を、そしてその「罪」を、のみこんだまま流れつづける、あの映画のボストン、チャールズ川。この映画に登場する「家」が、奇妙にあの川と重なって見えたのは、決してうがちすぎな見方ではないと思う。死者と、「罪」とが眠る川。その川から、死者はひとびとの人生を永久に支配するだろう。そして川岸に佇む罪人たちは、その支配を受け入れ、それでも生きていかねばならない。支配されつつ生きていくために、新たな嘘が重ねられるそんなチャールズ川と、あのすべてをのみこんだミスティック・リバーと同じように、あの家は佇みつづける。
少女版ミスティック・リバー、と言ってしまうとえらく軽薄なものに聞こえるかもしれないけれど、それがこの映画を観たぼくの、正直な、しかし奇妙な感想だった。
■初期OVA「パトレイバー」押井守コメンタリーつき

「王立宇宙軍(山賀&赤井孝美)」「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー(押井)」に続く、US MANGA CORPSオリジナルのコメンタリーつきDVD。日本ではこれらのコメンタリーは聴くことができないので、リージョン1再生環境と輸入DVD屋でなんとかするしかないのである。
しかしMANGAのDVDは日本のアニメのDVDに見慣れているとえらく品質が悪い。BDなどは発色もひどいうえに、24→30fps変換をまじめにやっていないので、残像をひいているような無茶苦茶な映像だったりする。とはいえ、これらのソフトは日本版を買った上であくまでコメンタリー目当てに買うのだから、どうでもいいっちゃどうでもいいんだけど。
さて、3話ずつ×2巻BOXのDisk1、つまり最初の3話にコメンタリーがついています。肝心の内容のほうは、ディープな押井ファンには既出の内容が多々。なぜ埋め立て地なのか(とにかく予算がなかったので、車やビルや通行人を描かなければならないような作画は破滅するとわかっていたので、という話。美術も作画も、ややこしい絵を書くのはお金がかかる。『なんでも描ける』と思われがちなアニメも、意外に実写と同じようなロケーションの制約があるのだ)、とか、ややこしいロボットを動かすとこれもまた破滅するので、渋滞で積載トレーラーが動かない、という話にした、とかそういうところ。
面白かったのは、それぞれのキャラやスタッフに対する愛憎だったりする。たとえば、2話の「ロングショット」では、これで初登場となる香貫花クランシーのやっかいさ、というか嫌悪感をすなおに喋ってしまっているのが興味深い。「はっきりいって、これはぶっちゃん(出渕裕さん。人間サンドバッグ兼メカデザイナー)のキャラです」と言い切る押井。エリートで、行動力があって、と完璧な、押井いわく「パトレイバーでいちばん(典型的な)アニキャラ」であるがゆえに、その定形をすこしづつずらした面白さ、モラトリアムの駄目な若者たちの面白さ、を出そうとした「パトレイバー」の方向性の中では、最後までしっくりこなかった、とのこと。おばあちゃん子である、とか、野明のような天然行動少女が苦手、とかいろいろ弱さを出そうともしてみたんだけど、そうすればするほどどんどん「(押井的に)嫌な女」になっていった、と語っている。
ヘッドギア、というのがバンダイに要請されてつくった会社で、ほんとうは誰もそんなめんどくさいこと(会社設立)はやりたくなかった、というのははじめて知った。
さて、内容を聴いていると実はこのコメンタリー、当初は1、2話だけにつく予定だったらしい。のだが、押井さんが3話(怪獣話)めに愛着があったため、2話の収録が終わったあと、勢いでつくことになったようなのだ。
押井いわく「これは誰も気に入った人はいなかった」「嫌われていた」エピソードなのだそうだ。自分はいちばんこの話が好きなのだけど、ほかに好きなやつはだれもいなかった、ということだ。脚本を書いた伊藤和典自身が嫌っていた(押井がコンテでかなり変えたそうな)し、現在IG作画神のひとりにして、役員になってしまった黄瀬さんも当時「退屈だ」と言っていたそうな。ただ、押井からするとこのエピソードが6本の初期シリーズのなかでいちばん「映画的」であり、ほかのエピソードとは演出的な間も作画も変えてあるのだそうだ。後の劇場版につながる(演出的な)萌芽がここにあったというのは、ちょっと意外。
08-27, 2004 ケルベロス第五の首
08-26, 2004 国家、サイバーパンク、攻殻
■「♪キンッグダム!」

「奇跡の海」や「ドッグヴィル」でのボウイの使い方や、ミュージカル映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」にだまされているひともいるかも知らんが、一部のファンの間ではもはや伝説と化した(嘘)、ヘボいニューウェーヴくずれのような「エピデミック」エンディングテーマ「エピデミックのうた(仮称、だってサビで『エピデミック♪』って言ってるんだぜ!)」を聴くとわかるように、トリアーの音楽センスはなんとなく微妙にダサい、というかズレているように思うのだ。
攻殻SAC2の6巻を買いに昼休み会社を抜け出したら、「キングダム」のBOXを見つけた。そういや出てたんだな、これ。
好きなのだ、キングダム。欲しいのだ、BOX。と値段を見たら7990円。え?そんな安かったっけ?これ買いじゃん!
と思ってレジに持っていったらいちまん7990円だと言われ、財布がアクセスディナインドかましてきたので泣く泣くあきらめました。「1」の数字がインクかすれて見えないでやんの。畜生。
とはいえ、やはり欲しい。欲しいが、9月は「イノセンス」という大物に加えて、輸入DVDショップに注文しているUS盤にしかない押井コメンタリーつきの最初のOVAパトレイバー6巻セットを買うことになっているので、2万もするキングダムを買ったら破滅するのだ。
しかし、エヴァンゲリオン体型の幼児というけったいな役をおおまじめに、しかもある種の難病ものとして愁嘆場を演じるウド・キアーという壮絶に馬鹿馬鹿しい場面は、やはり自宅でいつでも見られるようにしておきたい。そしてなにより、あの「キングダムのうた(仮称、だって『キンッグダム♪』って連呼するだけなんだぜ!)」をエンドロールのフルバージョンで聴きたい!
どうするアイフル。
■攻殻2nd

かつて、サイバーパンク華やかなりし頃、そこに「国家」なるものはえらく希薄だった。それが80年代の気分、というやつだったのだろう。ハイテクノロジーを生み出す能力を持った多国籍企業が階層の上部にあり、ネットワークが国家の境界を消失させている世界。それが80年代の描く未来、資本主義の行き着く先であるはずだった。
シロマサの「原作」は「国家や民族が消えて無くなるほど」には情報化されていない、と書いてある。しかし、シロマサの「原作」とて実は「国家」が描かれているわけではない、とぼくは思うのだ。それは諜報戦を描くための「所属」をしめす記号にすぎず、どの国がどのような「気分」で動いているか、どのような「イデオロギー」を持っているか、というようなことは描かれていない。シロマサの原作に登場し公安九課と関わる国家は、なんというか、ある種の「臭み」が抜けた、ファンタジーのような利益追求機械としての枠組みでしかない。プロフェッショナルの、プロフェッショナルによる、プロフェッショナルのための世界。その意味で、シロマサの原作もまた確実に80年代サイバーパンクの気分が漂っている。
けれど、いま世界を見回してみて、国家、という言葉がどんどん重く、生臭くなっているのはどういうことだろう。情報化によって国家観は希薄になるんじゃなかったのか。車内吊りを見れば、どっかの雑誌は「ぷちナショナリズムからガチナショナリズムへ」という見出しが載っている。巨大掲示板を見れば、外国人に対する差別的な書き込みが踊っている。ウヨだサヨだという単純な二分法が幅をきかせ、「左翼」という言葉が侮蔑語としての意味を獲得しつつある。
サイバーパンクの描いた未来には、この種のナショナリティに基づく「生臭さ」はなかった。そうしたものは綺麗に脱臭されていた。そこには右翼も左翼もなかった。いうなれば、資本とテクノロジー、それだけが世界を決定していた。あたりまえだ、国家というものが希薄な世界観の中で、右翼だの左翼だの国家や民族を軸にした価値観はそもそも成立しようがない。
というわけで、この「生臭い」話がどこへ行くのかというと、攻殻SACシリーズは「サイバーパンク」ではない、という話になる。
押井守自身は徹底してリアリズムのひとなので、資本主義の極限であるディストピアを描きつつ「超国家的」という意味においては確実にユートピアの変奏曲であったかもしれない80年代の産物であるところのサイバーパンクを「信じては」いない。なんたって押井は軍事オタなわけだし、国家の解体なんていうヨタをやるような人ではない。んが、作品としての映画「攻殻」は、ある種の汎アジア的オリエンタリズム、それこそサイバーパンクの武器だったもの、を援用することによって、結果的に押井自身がまったく信じていないはずのサイバーパンク的未来をフィルムに実現することになってしまった。サイバーパンクであることを回避したかったのなら、そもそもエキゾチズムを援用すべきではなかったのだ。映画「攻殻」もまた国家の臭いが脱臭されている。公安という、国家機関の権化が主人公の映画であるにもかかわらず。
原作では明らかに日本だった舞台。しかし、映画ではそれは日本ではない。アジアの某都市、と意図的にぼかされている。2029年とか2032年とかパッケージや書籍に踊っているから特定の時代の話だと思っている人もいるかもしれないが、実は明確に時代を告げる場面は劇中に登場しない。押井自身は世間的なイメージとはうらはらにサイバーパンンクの人ではない。が、作品として結実した映画攻殻はなんと嘘のようにサイバーパンクのステロにきれいに収まってしまうことか。
しかし、神山健治の描く攻殻は国家というものの「生臭さ」の一部を、確実に映し出している。これは戦争というまさに国家的状況の極限を描きつつ、また同時にその国家という枠組みの「生臭さ(可否や善悪、ではない)」が脱臭されていたガンダムを含め、アニメではあまりなかった展開だ。
個別の11人、という題材や、そのモチーフとして選ばれた5.15事件(のナショナリティ)。攻殻SACの2は「サイバーパンクにあるまじき」コンシャスさで「国家」というものの「気分」を描いている。「セカイ系」という言葉でくくられる印象の薄い(だが確実に需要のある)アニメ群が、「個人の気分」に終止し、そこで世界が(まさにセカイが)完結するのと対をなすように。
ネットによって醸成されるナショナリティ。ネットだからこそ感染しやすい「気分」。主に情報取得のコスト(時間、費用)からくる現象だと思うのだけれども、ネットというのは情報の個人の中での吟味というものを甘くするのではないだろうか。その結果、左にせよ右にせよ膨大な数の人間が、情報の精査を経ぬまま共振しやすい、極端な方向に振れやすい空間が現出するのではないだろうか。テレビは全部サヨクで、NGOは全部ボンクラで、半島関連は陰謀史観で、と今は右に流れつつあるだけで、これが何かのきっかけで容易に左へ流れていくこともあり得るだろう。常識的に考えれば、そんな極端な現実はありっこないのだけど、ネットはそうした世界観の構築を容易にする。
そこに真実があるとしても、その「割合」がまったく考慮されない空間。情報の増加によって、世界観が単純化されるという不思議な逆転。そして、それが新しい時代の情報処理の在り方だとしたら、サイバーパンクは情報の処理に関して、新しい見方は提示できていなかったことになりはしないだろうか。
「情報化によって国家という枠組みが解体もしくは弱体化されるはずだった」サイバーパンクが、現実のネットワークのナショナリティに接して、その未来を修正せざるを得なくなった形として、攻殻の2ndはある。
喪なわれたサイバーパンクの風景、それが攻殻SACの2ndが映し出しているものなのかもしれない。
ともひろ
2004/08/28 00:56
個は弱いけど無力じゃない。むしろ世界を壊すくらい危険な存在。MGS2のテーマと通じる所がありますね。少佐の折鶴のエピソードもよかったですね。泣きました、僕。
IDA
2004/08/28 12:47
非常に興味深く読ませていただきました。いま僕たちを取り巻く状況はサイバーパンク『的』ではあるけれど、『サイバーパンク』の一語だけでは説明がつかない、という解釈でいいんでしょうか。このところのシロマサ作品ラッシュには少々食傷気味で(マンガ読んでテレビ版攻殻見てイノセンス見て、っていくら好きでも限度がありますがな)攻殻2ndは完結するまで様子見のつもりだったのですが、今度見てみます。(でもいっつも貸し出し中なんだよなー・・・)
08-25, 2004 歌謡R&Bの女王、メタルギアを歌う
■メタルギアの予約特典にびっくり

アッコ姐さんがメタルギア歌ってるCD。まさかこう来るとは思いませんでしたよ。
というわけで「メタルギアソリッド3:スネークイーター」。64年、トンキン湾事件に近い時期を舞台にしたこのゲームの主題歌、原曲は「ゴールドフィンガー」「ダイアモンドは永遠に」のシャーリー・バッシーを意識したヴォーカルナンバーなわけですが(って聞いたことない人もいると思いますが、公式サイトの「TGS2003 Trailer」の予告編で流れているので、興味のある方は)、
8/24から始まったこのゲームの、その場で貰える予約特典では、この主題歌を和製R&Bの女王こと和田アキ子さんが歌ってます。
曲の毛色が違うので、「あの鐘を鳴らすのはあなた」のような凄まじい声の伸びを楽しむようなナンバーではありませんが、やはり地力のあるひとの声というのは聴いていて気持ちのいいものです。
有楽町のビックカメラでは予約できず、秋葉原のソフマップでゲット。店鋪によって予約受付けていたりしてなかったり、その場でCDが貰えたり発売日まで貰えなかったりあるいは単に貰えなかったりするらしいので、電話するか店頭で店員さんに「予約特典のディスク貰えますか?」と聞いた方がいいかも。
08-24, 2004 ミラジョボよりジルのほうが好きだ
■バイオハザード2:アポカリプス

1作目は、じつはけっこうまじめに80年代ホラー映画しようとしていたと思うのです。エレベータで首ちょん切れる、とか、レーザーで細切れ、とかそういうあたり。「ゾンビ」を評して「ホラーとアクションの野合」と黒沢清は言っておりましたが、アクションとホラーが無節操に結婚しはじめた80年代の匂い、というかぶっちゃけジョンカペの系譜というやつですか。最後の地下施設から列車で脱出、というシチュエーションが妙に「ゴースト・オブ・マーズ」とかぶったのはこじつけではなく、なんちゅうか「ああ、そういうもんだよな」というある種の文脈における納得があったわけです。実はポール・アンダーソン、微妙に好きなんだよな、俺。フィオナ・アップルのダンナのポール・アンダーソンとどっちが好きかといわれたら「ソルジャー」のアンダーソンだ。「イベント・ホライゾン」、好きなんですよ、すごく。なんか成功したアルバート・ピュンという感じがすごくする。俺にとって(アルバート・ピュンって誰?というひとはググるように)。
とはいえ、この「2」ではポール・アンダーソンはメガホンをとっていない。アンダーソンは脚本だけだ。というわけで映画の性質も大分変わった。
どう変わったかと言うと、ポール・アンダーソンとは別の方向での通俗、というか何も考えていない感じ、を全編にまとっている感じ、というか。
前作では80年代ホラー映画のテイストを参照していたんだけど、今作はそういうの一切なしの、純粋なアクション映画になっちゃって、それはこの監督がゾンビをまともに撮る気がないことからも明らかだったりする。この映画におけるゾンビ描写はあまりにズサンで、たとえばゾンビが主人公たちに襲いかかる場面などは、撮影した後にあまりに素材がズサンだったことに気が付いたのか、ブレブレのコマ抜き編集かましてなにが映ってるんだかよーわからん、という状態。
私はゾンビ自体にはあまり思い入れはないのですけど、それでもここまでゾンビ描写が(映画的に)いいかげんだと、うーむ、と唸りたくもなってきます。
で。ゾンビ映画であることをやめてしまったこの映画が、次に何を選びとったのか、というと、先ほど「純粋なアクション映画」と書いたことも関わってくるのですが、超人ヒーロー映画だったりするのです。それも、実に日本的な。
この映画はとにかく、ミラ・ジョボビッチをいかに超人的なヒーローとして、フリークスとしてのヒーローとして描くか、ということに腐心していて、ほとんどそれだけの映画だと言ってもよろしい。ラクーン市で市街戦、ということでゲーム的には「2」を参照しているのかもしれんですが、しかしここまでやるならタイトルも「バイオハザード(Resident Evil)」ではなく「アリス」とか「プロスペロ」とかしたほうがいいのかもしれん、てくらい「フリークスとして」超人化したミラジョボが大活躍、という映画になっております。
製作陣が構造的にヒーロー映画であることを積極的に選んだのは、脚本からも明らかで、この映画ではネメシスとミラジョボを「光と影」の対として生まれた改造人間として位置づけ、念押しに最後にガチで対決、というイベントを用意しているという王道っぷり。このヒーロー2者の世界においては確かにゾンビの居場所はないわけです。それにしてもゾンビの撮り方は手抜きというよりは単に下手、という感じで感心しませんが。
一通り物語が終わって、エピローグに現れるミラジョボの姿を見て、この映画がなんであるか、この映画に感じていた既視感の正体がはっきりとわかりました。「エイリアン4」。ジュネの。ヒトならざる者の物語。基本的に「1」より下手っっぴいで、恥ずかしい演出がてんこもりのこの映画ですが、「エイリアン4」で人間であることをやめてしまったリプリーの、ヒトという種族を見つめる視線の冷たさと皮肉な笑みを魅力的と感じられた観客になら、そこそこに美しい映画ではあるでしょう。カットはせわしなく節操なく、シーンの転換にはオーバーラップやCGによるエフェクトを使わねば気が済まず、カメラのドリーは早回し編集でちゃかちゃかすっとばさずにはいられず、と軽薄で下品で画面が見づらい、あまりほめられたものではありませんが、ミラジョボがとにかくヒーローとしてかっこいいので、最後まで見れてしまう映画です。
と思ったら、この映画91分しかないじゃん。軽薄であるけれど、タイトな映画だったんだなあ。こういう軽薄な活劇が気軽に毎週見れるような状況というのが望ましいんだけど。
ちなみに、ホンマモンのミラジョボがすげえ巨大でゴツかったのでびっくらしました。映画ではそんな大きくは見えないのになあ。そのゴツさを別にすれば、なんつーか、いろいろかわいい冗談を言っていて通訳の時間差で冷える、みたいな舞台挨拶でした。キュートな感じの女性。
08-21, 2004 ブラックバード
08-17, 2004 ビルの谷間のオセロット
■スタン・リー大人、オセロットのコスプレをする

「米国CATVゲーム専門チャンネル「G4」主催「G-Phoria」にて小島秀夫監督が「LEGEND AWARD」を受賞(http://www.konamijpn.com/release/040816.html)
ということで、小島ファンとしては、とりあえずめでたい、と。すっかり海の向こうのメディアセレブなニッポニーズと化してしまった小島さんですが、ニューズウィークにも載っていることですし、こんなことではもう驚きはしません。
それよりも、このプレゼンターがあのスタン・リーだったというのがびっくり。しかもこの爺さん、リボルバー・オセロットのコスしての御登場だったそうな。
スパイダーマンの生みの親、ノリノリです。
http://www.g4techtv.com/specials/features/47790/Two_Minutes_With_Stan_Lee.html
アップ。スパイダーマンにも出てたし、なにげに出たがり?
あー、でも、いいかも。スタン・リーのオセロット。なにげに似てるかも。
とオタク的なチェックが入るのですが、一緒いるスネークだかレイヴンだかわからんFA-MAS持ったコスのにーちゃんが元レッチリでお馴染みのデイヴ・ナヴァロと「最終絶叫計画」にも出ていたカーメン・エレクトラ夫妻だったりする。
というか、なんか・・・カーメンのウルフコス、というのはあまり見たくなかった・・・。
08-16, 2004 夏の陣
■3日間の疲労

- 13日(金曜日)
有明。本買って下さったみなさまありがとうございました。三年ぶりに参加してみればまわりじゅう知らないサークルばっか(向こうも私なんか知らないわけですが)で、しかもポリスノーツ/スナッチャーサークル最後の砦だった堺様が今回最後、ということで、これはもう完全に世代交代なのだなあ、と寂しさを感じてしまったですよ。三年戦列から離れているあいだに戦場は一変していたとゆーか。
K社の某氏とお話。「IZO」観たいですね〜、みたいな。いろいろ面白いことを聞かせていただきました。久しぶりに新間大悟&サイキケイタ氏とお話。健康が大変そう。ぼくの場合は抗ガン剤でものが食えなかった経験があるけど、ものが食えないというのはツラい。
リベリオン本ないんですか、ときかれること数回。需要ってあるのかしら。「なぜ銃道でなく銃型なのか」って話考えたんですけど、たったいま。 - 14日(土曜日)
前日疲労&夜に備えて日中は爆睡。夜は新文芸座で押井&シロマサオールナイト。これが意外なダメージを私に残したのであった。 - 15日(日曜日)
有明。「空耳アワー辞典」は労作、空耳ファン必携。『別冊 畸人研究』は「特集『北朝鮮の名峰 金剛山研究』」がとにかく面白すぎてコメント不可。「野良犬の塒」の「犬からの手紙」新刊は押井インタビュー掲載だったりしてマストなのだけど、オールナイトのダメージで思いっきり午後出だったため、完売で買い逃す。痛い。と思ったら友人がちゃんと確保してくれていたのでほっとする。
■林檎種

とういうわけで
なんだこれわ。
おれは本当にこの映画見て「いや、よくできてる。ぜんぜん大丈夫。トゥーンシェードも30分で慣れる。話わかりやすくて間口が広い。ふつーの映画」なんて思ったのだろうか。思ったんだよな。なぜだろう。
2度目に見た映画で評価が下がるという経験がいままでなかったのだけど、なんかそういうことになってしまった。てか、全然駄目。なんでこれ最初に見てオッケーって言ったのかしら。いや、確かにオッケーだったんだ。1月にイマジカに潜入したときは。いい映画だとは言わないし、好きな映画ではないけど、がんばってるよ、と。狭いシロマサ物の間口を広げようとがんばってて、と。
なんだ。俺にものすごい人格の変化があったのだろうか。てか、画面見れない。魚蹴さん経由で見た速水螺旋人さんの4月30日と同じ絵ヅラの俺。スクリーンを見られない。半乳の女性がいるわけでもないのに目のやり場に困ってる。だって、目をそらすにはスクリーンというのはあまりにでかすぎて。どうしたんだ。俺はいつからこんなにイントレランスになったんだ。
いや、まてよ。これはこのオールナイトの上映の順番がイカンのでわないか。攻殻→イノセンス→アップル→人狼という順番が。「イノセンス」のあとに「アップルシード」という並びがアップルにとっての不幸なのではないか。1日でも1週間でも、適切な時間をおいてこの2作品を見れば、こんなコンフリクトを起こすことはなかったんじゃないか。いや、別に「イノセンス」が素晴らしくて素晴らしくて「アップル」が駄目だ、というわけじゃない。というか、「イノセンス」のいびつなところは押井ファンなら誰だってわかっている。
しかし、やっぱ、なんだろう、この「恥ずかしくてスクリーンに目を向けられない」という物理的現実は。なんで俺はこれを以前フツーに見ることができたんだ。なんで俺は「これはこれで評価すべき。『イノセンス』も『アップル』も別の意味で〜」とか言ったんだ。その「別の意味」って何だ。何が悪いんだ。俺の何が変わったんだ。
というわけで現実が崩壊するキムの館状態が「イノ」ではなくよりにもよって「アップル」のあとに襲ってくるという摩訶不思議。「あっぷるしーどノフウインヲトイテハナラナイ」ってどうしよう。笑えない。苦しい。胸が苦しい。これって恋?
トゥーンシェードについては何も言うまい。これは大半において慣れの問題、というのは前回から変わらない(とはいえ、表情はやはりつらい)。これはあまりマイナス点ではない。では何がまずいのか。総合的にマズい、としか言い様がない。何が恥ずかしいか、その恥ずかしさをいかに避けるべきか、ということについて、この映画はあまりに無防備なのだと思う。「都市」を映しながらその都市についてダイアログで説明する、というのは実は「イノセンス」でも択捉上空でやっているんだけど、それがなぜかドライブしながらオリュンポスを紹介するヒトミになると恥ずかしさがどっと出てくる。なぜだ(って分かってるんだけど)。なぜだ。なぜこんなにオリュンポスの紹介が民放の観光地紹介じみて見える(聞こえる)んだ。どうして制作者はあんなに「誰も見ていないイメージ映像」、なんか透視された人体がぐるぐるーで生命の神秘起こってますよ〜ぐらいの意味しか持ちえない『尺の無駄』を、平然と流せるんだ。
わからん。俺はどう変わったというのか。おれはどうスサんだというのか。人間は変化するものだとはいえ、ここまで評価が変わると自分の何かが荒廃していると思いたくもなる。
08-09, 2004 地獄くん
■SF出会い

毎日のようにyahooアドレスを使った出会いメールが大量に届き、「以前メル友募集してましたよね?」などと身に覚えのない言葉で不幸なパラサイトシングルを陥れようとするのだが、今日きたメールにこんな一文があった。
そういや以前「SF専門出会いサイト」という題のメールがあって、SFファンたちが大笑いしたものだが(「誰と出会えるんだ?両手の指にカミソリ仕込んだミラーグラスのねーちゃんか?つれない態度の戦闘機搭載AIか?抗争から遠ざかるためにロンドンの子分(コブン、とルビをふること)にやってきたヤクザの大物の娘か?」)、これも筒井ファンの女性、という微妙な造型が面白すぎて、確かに筒井読んでる女性だったらおつきあいしたいものである、出会い業者もなかなかやるな、と思いつつも、やはりその女性は笑うとき「イヒヒヒ」「ケケケ」などと笑うのだろうか、と下らぬ想像をしてしまう(なぜ妄想が「七瀬みたいな女性」という美しい方向にいかないのかは俺にも謎だが)。
■地獄くん

を観ました。
基本は「Seed of Destruction(破滅の種子)」だけど、「corpse(屍)」や「WAKE THE DEVIL(魔神覚醒)」の描写もちらほら。なんだが、アバンタイトルのヘルボーイ召還でブルッテンホルム博士(ルーズベルトの超常問題顧問とゆー設定になっております)がいきなり「ありゃラスプーチンだ」などとのたまい、謎もクソもない展開になっております。原作ではのび太くんだったナチのカール・クロエネン君に至っては刀振り回す最強アサシンにレベルアップ、地位的にもトゥーレ協会の会長(ええ?)ということになっております。別に実在した団体の会長にせんでもええのに。
さて、「クロノス」「ミミック」「ブレイド2」と、いままでどうも好きになれなかったデル・トロ作品ではありますが、はじめてこれはいいと思いましたですよ。原作とはかなりキャラは変えてあるんだけど(特にヘルボーイ、性格が全然違う。エイブはいい感じに原作といっしょ)。壮大な話を小さくまとめたところが勝利なのではないでしょうか。けっこうホロリとくる場面もあったりします。
公開が近づいたらちゃんと書きます。
08-06, 2004 ちーたん
mizuguti
かいもののコメントで思わず大笑いしました。FOG OF WARは英語版のDVDにも日本語字幕が入ってて感動しました。マクナマラ爺さんのしゃべりも萌えの領域にありますね(?)。
rinji
はじめまして。池脇千鶴声と言えば、NHKで放送中の『火消し屋小町』のモノローグもけっこう効きますよ。
Projectitoh
日本語字幕が入っているから買った、という感じです。英語がダメなので・・・。淡々と喋るのかと思ったら、けっこうエネルギッシュに指さし喋りしてたので、すげえなあ、と。強いジジイだ、と思いました。世銀の話とかもっと聴きたかったけど。
Projectitoh
見たいんですけど、なんだかめぐりあわせが悪くてまだ一回も見てないのです<火消し屋 いや、でもそう言われると意地でも見なければ。