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伊藤計劃:第弐位相

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07-31, 2004 申し訳なさ顔の王

「すまない」という言葉を呑み込み続ける王の物語 「すまない」という言葉を呑み込み続ける王の物語を含むブックマーク

 アーサー王はそこにいた。「すまない」という想いを立ち上らせながら。

 というわけで、「マッハ!!!!!!!!」の試写のあと、ビッグサイト夏の陣の準備というオタク修羅場突入していたので、二週間も映画館に行ってなかったのだった。原稿そのものは終わったんだけど、終わったらなぜか仕事がぐんぐん忙しくなってしまい、ええい、もう耐えられん、と映画館にいかねばどうにかなりそうだったので、近くのシネコンに行ってはみたものの、あれは観た、これはパス、とラインナップにほとほと困ってしまい、実は「茶の味」が観たかったのだけど失恋の後遺症でカップルを見ると憎悪がつのる渋谷恐怖症の俺には土曜日渋谷に出るというのはあまりにつらすぎて、そういうわけで消去法的にシネコンのラインナップから選んだのが「キング・アーサー」だったのだ。

 カイマー映画、なのでカイマーでしかないだろう、とは思ったのだけど、アメリカでコケたというから、コケたカイマー映画パターンを思い描いてみた。

  1. 子飼いを意のままに操った結果壮烈に凡庸な映画が出来上がってしまったのだが、その凡庸さが針が一周まわって極めたために、凡庸さが転じてむしろ奇怪でグロテスクな映画になってしまい、それはそれで相当面白かったのだけど、面白すぎるがゆえに受けなかった「パール・ハーバー」とか「バッド・ボーイズ2」とかのベイ映画
  2. リドリーの暴走をカイマーが抑えあぐねているうちに、道徳面を抜きにした戦闘と軍事的状況にしか興味のないリドリーの正直さがフリチンで露出してしまった結果、あまりに面白すぎる映画が出来上がってしまい、英雄云々の付け足しの不誠実さがアメリカの観客にバレ、面白すぎるがゆえに受けなかった「ブラックホーク・ダウン」

 というわけで、この映画はどっちのパターンなのだろうか、と考えると、監督のことを考えないわけにはいかないんだけど、この映画監督のアントワン・フークアという人も「リプレイスメント・キラー」というあまり印象に残らない映画を撮って、ああ、プロパガンダフィルムズのPVあがりね、とか思っていたら「トレーニング・デイ」なんていう変な映画を撮ったりして、それがなかなか普通にどっしり映画していたので、ほかのプロパンダ組とはちょっと違うな、とか思ったら「ティアーズ・オブ・ザ・サン」というこれまた微妙に位置付けの難しいアクション映画を撮って、なんだかキャラのつかめない監督であることに気がついた。

 とはいえ、カイマーが「史劇ブーム」という実態の怪しい実在するんだかないんだかわからんものに特殊能力としての軽薄さを発揮してのっかって、脚本に「グラディエーター」のフランゾーニを据えるあたりはもうどうしようもなく露骨で笑ってしまうのだが、そのうえ「グラディエーター」「ラスト・サムライ」と最近の戦争映画全部やってる気がするハンス・ジマー@現リモート・コントロール、とくればこれは企画書を読んで笑わなかった出資者はいるのだろうか、と勘ぐりたくなる。

 そんなことをつらつら考えているうちに、映画がはじまった。

 ヘンな映画だ。ブラッカイマー節なようでいて、要所要所を脱臼させている。多分この映画好きだ。カイマー色が薄いという意味では、フークアの勝利だと言えるかも知れない(とはいえ、編集で相当痛めつけられている気がする、そんな繋ぎ方が感じられたけど)。何がヘンかというと、タイトル・ロールたるアーサー王がヘンなのだ。

 この映画の勝利(ぼくは面白かったので、勝利ということにしておいてくれ)はたぶん、アントワン・フークアの演出によるものではない。この映画を奇妙なものにしたのは、ひとりの俳優の顔、クライブ・オーウェンという俳優の顔なのだ。

ボーン・アイデンティティー」でこの俳優殺し屋として登場したとき、なんだか妙なキャスティングをしているなあと思ったものだった。なんか抑圧されているというか、内側に穏やかに壊れていう顔だ、と思ったのだ。緊張感のない陰鬱さ、というべきものをたたえながら、マット・デイモンとの戦いで「仕方がない」というように死んでいく。だから、ブロスナンの降番騒動で次期ジェームズ・ボンド候補にこの俳優の名が挙がったとき、ぼくは「違うだろー」と思ったものだった。この俳優に外向きの力はない。この俳優の「奥ゆかしさ」は絶対にボンドには似合わない。

 その思いは正しかったと、この「キング・アーサー」を観て思った。

グラディエーター」のマキシマスはカリスマとして描かれ、ラッセル・クロウもそのように演じている。「ラスト・サムライ」の渡辺謙もそうだ。実現できているかどうかはともかく、彼らは「人望篤きカリスマ」という造型でそれぞれの指揮官を演じている。

 しかし、「キング・アーサー」のアーサーは、クライブ・オーウェンは違う。この映画におけるアーサーには外向きの力はない。彼は説得したり改宗させたり士気を鼓舞したりといったことをしない。というか、最後に一回だけ士気を鼓舞する演説が入るのだけど、そこが猛烈に板についていなくて笑ってしまう。なぜかというと、 彼はこの映画において、終始一貫して「申し訳ない指揮官」として描かれているからだ。

 クライブ・オーウェンの顔は美形ではない。それどころか、強そうですらない。彼は兵役から解放される日を愉しみにしていた円卓の騎士に、お上から命じられた理不尽な命令を伝えるとき「これは命令だ」という。「すまない」その一言をぐっと呑み込んで。しかしその「申し訳ない」思いはぜんぜん呑み込みきれてない。クライブ・オーウェンの顔が、たたずまいが、「申し訳ないオーラ」をものすごい勢いで振りまいているから、彼に従う騎士達もまた、その「すまなさ」を理解する。かれはある意味「護られる」主人公だと言える。この映画で彼は繰り替えし繰り返し理不尽な圧力に遭遇し、そのたびに「すまない」オーラをふりまいているのだ。

 「ラスト・サムライ」の渡辺謙はそんなふうに部下に責任を感じたりはしなかった。なぜなら、全員ががっつり承知で闘っていることを知っていて、それでいいと思っていたからだ。しかし、アーサーは部下の死に責任を感じ、自分が死ぬべきだったとすら言う。すまない、すまない。そんな懺悔を胸の奥に幾度も幾度も呑み込んで、彼は部下の騎士たちに命令を下す。この映画が結果として地味になるのは当然だろう。この映画は「すまない映画」、悔悟の念をひたすら呑み込む男の映画なのだ。

 そのうえ、彼が信じる世界は失われ、その目的は空虚と化してゆく。自分が信じた輝かしいローマはもう存在しない、ローマはすでに腐り果ててしまった、と彼は教えられる。薄々感じていたそのことを、彼がはっきりと教えられたとき、彼は「そのために」騎士であり剣をとることを選んだ根拠を失ってゆく。それはローマの栄光だけではない。「あなたの信じている世界は存在しない」とアーサーは劇中なんども言われ、そのたびに弱くなっていくように見える。自分の世界を否定されまくる王、こんな作劇が爽快感につながるはずはない。この映画で、彼はひたすら「動機を簒奪され続けるリーダー」として描かれる。そしてまた、かれの自責の念は募り続けるのだ。

 円卓の騎士たちはそうした指揮官の「すまない」を汲み取ってやる。お前が俺たちのことを考えてツラいのは知っている。だからこそ、俺はあなたを放っておけないんだ。こんなふうな慕われ方をする王、というのはやっぱりヘンだ。メル・ギブソンは「自由のためだ!」と言って長脛王リチャードの軍勢に部下を向かわせた。自由を勝ち取るためなら、自分の命は当然としても、そこに参加する兵士の命も同じだろう、と。渡辺謙もまた、自分達の生き方を、美学をまっとうするために、ガトリング砲を装備した官軍に鎧兜で全滅覚悟の突撃をする。部下もその美学を共有していると信じているがゆえに。

 しかし、この映画のアーサーは言う、「人は生まれながらに自由なのだ」と。彼の信仰しているペラギウス派の異端は説く。原罪は存在せず、運命などない、と。人は善行を積むこと、善であることによって、自力で救済されるのだ、と。この映画では「神の支配」をそのままスライドさせて「ローマの支配」を正当化する正統教会が悪とされる。人はみな自由なのだという考えを持つアーサーは、それゆえに、その「自由」のために他者を死へ赴かせることにすら罪悪感を抱く。個人の選択を強制することを、「自由」の名のもとに他者の自由を奪うことに自責の念を抱く。「すまない」彼は指揮官としては口にしてはならぬその言葉を呑み込んで、騎士達を死地へ赴かせる。騎士達もまた、その呑み込まれた「すまない」を受け取って、戦いに赴く。
 ここで言う「自由」は「自由意思」であり、丁寧に説明されているそれを政治的自由=正義に直結させて「正義の押し付け」みたいな話にすると、この映画意味不明になってしまう。アーサーはそうした「自由意思」を信じているがゆえに「ついてこい」の一言がいえない男なのだ。ようするにイケイケ型カリスマをフークア、そしてオーウェンの「顔」が封じてしまったのだ。自分の部下になにをも強制させることのできぬ王、そんなけったいな描写を、この映画ではやろうとして、ある程度成功している。

 ただそれをフランゾーニの脚本が描いているかというと、そうではない。というか、そう描こうとしているのだけど、ときどき活発なアーサー王が我慢しきれず(脚本のレベルでは)顔をのぞかせて威勢のいい台詞を言わせようとしたりしている。
しかし、そうしたすべてを「すまない」の文脈に回収してしまっている強力な力がある。それこそがクライブ・オーウェンの「耐えた顔」「申し訳なさ顔」だ。彼は弱くはない。むしろ肉体的には強いだろう。しかし、彼の、アーサーを演じる彼の顔と背中には、いつも「すまない」という言葉が張り付いている。彼の顔が、台詞の上では「外」へ向かっているはずのアーサーの台詞や行動を、ひたすら責任と悔悟の暗色に彩られた、重々しい、内向きのものに転化させてしまっている。

 そしてそんな指揮官を「自分の意思で」助ける騎士達の清々しさが、この王の内向きと対称を成している。だから、かれらがブリテンを去らんとするとき見える、昨日までの主人の、丘の上に単騎で戦旗を掲げ立つ姿、それを望遠で抜いた騎士の主観ショットに、ぼくはちょっとうるっときてしまったのだ。いかなる悔悟の念とも、いかなる「すまない」とも無縁で、「せいいっっぱい」立つアーサーの、この映画で唯一ともいえる晴れ晴れとした姿、そしてそれを見届ける騎士の目線に。このショットはほんとうによかった。この「丘の上に立つアーサー」の姿のためだけにこの映画を観て良かった、とさえ思えたものだ。

 だから、そのあと騎士達に「自由」を説くアーサーの姿はなんだか思いっきり場違いな感じがする。そして彼がブリテンの王となるラストシーンも、同じように気持ちが悪い。オーウェン自身、なんで俺が王に?というような戸惑い顔を終止浮かべているし、キスもまたぎこちない。彼とグウィネヴィアのラブシーンもなんだか調子はずれの音が入ってきたような印象だ。なぜかと考えたが、「すまない」の人アーサーが、他者の肉体を「利用」することで快楽を貪ってはイカンのだ(笑)からだ、ということなのだろうと思う。まあ、ここでのアーサーは受け身(笑)なので文脈的にはギリギリオッケーなのかもしらんが、しかし、キーラ・ナイトレイって18歳やんけ!クライブ〜!18歳の少女とラブシーンってどういうこっちゃ〜!「ジョセと虎と魚たち」で妻夫木くんが上野樹里タンともつれこむ場面を連想してしまったやんけ(あのとき樹里ちゃんは17、8だったんでしょ?)!

 まあ、それはともかく、この映画は主人公の造型がヘンに地味、というかクライブ・オーウェンを主役に据えたことによって「すまない」指揮官という妙なことになってしまったために、あまり派手なことができなくなってしまったのでしょう。とはいえ、この映画キャラ造型は一件ステロタイプに見えてなかなか一筋縄ではいかないところもあって、そこらへんは「トレーニング・デイ」の手腕が光ります。特にサクソン人の大将を演じたのステラン・スカルスガードがなかなか良い。単純な悪役ではなく、なかなかに面白いキャラ造型がなされた人物であります。この映画、短くさりげなく手際よくキャラ立てしてます、意外なことに。それと、まるで活躍しなかったマーリン。劇中では顔に炭塗りたくって、いわば土人化しているために誰が演じているんだかさっぱりわからなかったんですが、あとでクレジット見てびっくり。スパイ・ゲームでCIA官僚のハーカーやってた、スティーヴン・ディレーンじゃん!

 まあ、とりたてて話題になっているふうでもなし、カイマーで大作でということで見下されている感じでもあり、また戦争史劇かいなと飽きられているふうでもあり、あまりいい評価は聴かないこの映画ですが、私、地味に好きです。なんだか妙なツボにハマってしまいました。

 まあ、キーラ・ナイトトレイの衣装で潰された(へこんだ)胸が猛烈に萌える、というのが大きいわけですが。

ボーイズラブ ボーイズラブを含むブックマーク

 見終わったあと、これは猛烈に密かな需要を産むのではないか、と思い某掲示板の801板を覗いてみたら・・・あった、やっぱ。

いや、そういう映画なのよ。騎士達が、「自由のため」「サムライとして」という目的共有型じゃなくて、「俺はおまえを放っておけないんんだ、アルトゥリウス」っていう動機で動いているから、もうアーサー総受けしかありえんだろう、と見ているときに思ったもん。

opayopay 2004/08/01 21:46 かなり笑いました、もう数日笑ってなかったもんで、良かったです(笑)

nagatanagata 2004/08/02 10:25 キングアーサー評、漠然と感じていたことが克明に解説されていたので感銘を受けました!「申し訳ない指揮官」「潰れた胸に萌え」「ボーイズラブ」つまりそういう映画ですよね!ある意味で良作だと僕も思いました!

ProjectitohProjectitoh 2004/08/07 00:33 キーナ・ナイトレイにあの格好をさせたというカイマーと、当初予定されていたエンディングを変更してあの気持ち悪い大団円を追加撮影させたカイマー。良いカイマー悪いカイマー、ではなく、二つとも同じ欲望にもとづいているところがまた、面白いところだと思います。

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07-29, 2004 光と影のアルゴリズム

ミニョーラシェーディング ミニョーラシェーディングを含むブックマーク

http://film.toxic.no/superrune/hellboy_sor3.mov

 すげえなこれ。ミニョーラだ。動くミニョーラ。ヘルボーイアニメ作れるじゃん。映画よりもこっちを作品化してほしい。

 そういや、前に神風動画さんが作った松本大洋シェーダーってのもあったなあ。というか、ナルト格ゲージョジョ格ゲーとか、トゥーンによる「画風」の再現に技術を注いできたジャンルもあるわけで。そういえば小島監督、新川シェーダーはどうなったのでしょうか。やってほしいなあ・・・。

 山形浩生さんが「ドクターバロウズ」を引き合いに出して「たかがバロウズ本」でやってた自動文学の話を思い出してしまった。「文そのものはともかく、『文体』に著作権はあるのか?」。文体のみならず、イラストレータや漫画家の「個性」であり、とりわけその「個性」が商品価値とガチで直結している、作家の「画風」までもがアルゴリズムの産物と化してゆくとき、「自動イラスト」「自動アニメーション」の可能性、というのはどのように展開してゆくものだろうか。

海の向こうのイノセンス 海の向こうのイノセンスを含むブックマーク

http://filmforce.ign.com/articles/533/533495p1.html?fromint=1

US版トレイラー。

すげえなこれ。まるでアクション映画だ(笑)。

サンズ・オブ・澁澤で人でなしのお変態映画(褒めてます)をいかにアクションとして売るか、となるとこうなるのである。Innocence is life。おお、糸井さんのコピーを向こうでも使うかね。

似てる 似てるを含むブックマーク

 職場の同じフロアキルステンに似ている女の子がいるんだが、「きみ、スパイダーマンヒロインに似ているね」と言われて嬉しい女性はいるのだろうか(ちなみにその子はかわいいです)。褒め言葉になっているのかなっていないのか。その辺が知りたい。

ウィンブルドン」のキルステンはそこそこ可愛く見えるから、不思議だ。

ドサンピンドサンピン 2004/07/31 09:43 もののけ姫もアクション映画っぽい宣伝だったような…。

ProjectitohProjectitoh 2004/08/07 00:35 私、もののけはアクション映画だと思ってますんで、もーまんたいです。

独露独露 2004/08/11 00:08 どうもです。キルスティンってアメリカでは美人にカテゴライズされてますけど日本だと「ブス」とMJのキャラに「尻軽」というイメージがかなり強いと思うあまり懸命なこととはいえないと思います(;^^「ヴァージン・ス−サイズ」のヒロインを引き合いに出すならば何とかなるかと。

独露独露 2004/08/11 00:11 懸命のところ、「賢明」でした。すいません。

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07-26, 2004 抜き身で

リファラ リファラを含むブックマーク

「肉体のバイブル」で来た人がいたので嬉しくなる。そうです、それ探しているんです、私も。ミリアム・ルーセルたんのエロが見たいんです。

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07-23, 2004 マスコマ

ビューティフル・ストーム・アンド・コマンダー ビューティフル・ストーム・アンド・コマンダーを含むブックマーク

ほうほう、マスター・アンド・コマンダー、って向こうでは「怒海争鋒」て題だったのか。

http://www.navigator.co.jp/modules/news/article.php?storyid=1058

親友マチュリンが実は自己の精神分裂症が生み出した想像の人物だったことが発覚し…。

爆笑。

というわけでDVDサントラ買ってきた。やっぱり傑作。

mskmsk 2004/07/27 06:21 「怒海争鋒」こんなタイトルから連想されるのはSHTの怒首領蜂(ドドンパチ)しかないだろうという私は大往生気味。グラ5買いました、へへへ。続タイも買っちゃったけど前作クリアしてないので当分封印。

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07-18, 2004 Jackie Lives!

CG使ってるけどな、1カット CG使ってるけどな、1カットを含むブックマーク

 ジャッキー映画観たいか。

 なら「メダリオン」観ている場合じゃない。「マッハ!!!!!!!!」観ろ。

 いや、ジャッキーまだ生きてるんだけど、でも、今のジャッキーは80年代にぼくらが観たジャッキーじゃない。ガキの俺らが映画館で興奮し、スタッフロールのNG集に流れる景気のいい広東語歌謡曲を口真似で歌い、どれぐらい観たのか思い出せないほど(「貴様は今までに食べたパンの枚数を憶えているのか?」)ゴールデン洋画劇場石丸博也の声で観たジャッキーじゃない。

 当たり前だ。ジャッキーは今年50だもんな。

 「シャンハイ・ナイト」のクライマックスで、ドニー・イェンとの2大スター対決、という最高にイカすはずのセッティングが、いまいち盛り上がりに欠けたのは、監督のせいばかりではないだろう。ジャッキーは変わった。衰えたわけではない。ジャッキーが変わったのではなく、俺らが変わっただけなのかもしれない。しかし、再び(というのもキャノンボールがあったし、プロテクターはあれ、アメリカ映画だったんだよな)アメリカに渡ってからのジャッキーには、あのヤケクソ気味なパワーがない。ガキながらも「これわこれわ、もしかしたらものすごくヤバいのではないでせうか、おかあさん」と映画館の暗闇で感じていた、あのガチンコ感がない。

 ジャッキーはどこへ行ってしまったのだろうか。今年50歳を迎えた人間に、あのすさまじい肉体の輝きを、肉体の極限が生み出す笑いを求めるのは、酷というものだろう。実際、「シャンハイ・ナイト」の「雨に唄えば」シーンはかなりよくやっていたと思う。80年代の彼にくらべれば明らかに見劣りがするじはずの、あのレベルの動きと構成力ですら、しかし他の誰にも出せはしない。ジャッキーは今でも凄い。けれど。けれど・・・。

 ジャッキーはゆるやかに、年齢という現実とともに衰え、人々の記憶のささやかな1ページとなって、映画の歴史の片隅に小さく記述され、消えてしまうのだろうか。

 否。断じて否。

 なぜなら、ジャッキーの精神は年齢によって衰えた肉体にしびれを切らし、まだ死んでもいないうちから、タイの若者に転位することにしたという事実が判明したからだ。新たなジャッキーの依代の名はトニー・ジャー。彼が生まれた国がタイであったために、今度の肉体ではムエタイを使うことになった。

 とにかく、人間の肉体にはこれほどまでに速く、疾く、美しいモーションが可能なのかと終止画面に目を釘付けにされっぱなしだった。ジャッキーの精神は監督にまで転位したのか、演出も完全にジャッキー映画だ。すげえことをやるとそれを繰り返し3回くらい別アングルで見せる、とか。エンディングにNG集と景気のいいタイ語歌謡曲が流れる、とか。俺はいま、2004年映画を観ているのだろうか。これはどこからどうみても80年代香港映画、いや、ジャッキー映画だ。しかも劣化コピーではない。真似というのでもない。まるでジャッキーだ。コミカルさはないけれど、ここには間違いなくジャッキーの魂が立っている。ムエタイの足で。

 このガチンコ感。子供心に感じた恐怖。映画だとはわかってはいても、それ死ぬだろ、というくらい踵や膝や肘を頭蓋の頂きに落としまくる。ムエタイって、本当に人を殺すことのできる格闘技なんだ、とこの映画を観ていると思う。肘と膝を頭の上下から叩き付け挟む。ヤバすぎ。

 もちろん、ガチンコなだけの映画ではない。2、30台はあるんじゃないかと思う「輪タクによるカーチェイス」という場面もすさまじい。トゥクトゥク(3輪バイクタクシー)という道具立てがすでに面白いんだけど、それでハイウェイカーチェイスを展開したりするのだ。

 悪役の肉体的な障害もヒネてるし(ただコイツが何をしたかったのかさっぱりわからんかったが(笑))、日本人には想像がつきにくいタイの「仏教国ぶり」が物語で感じられたり、いろいろ面白いところはある。しかしなんといっても、ジャッキーがタイにムエタイをたずさえて転生したことこそ、驚くべきことではないか。確かにムエタイ試合は凄い。ラストの格闘も凄い。間違えたら本当に死ぬか植物人間になりそうな技が決まりまくってしまっている。が、それよりも俺は、追ってくるチンピラから全力で町中をダッシュして逃げる場面こそ、この映画の最大の感動があると思うのだ。自転車が、バイクが、露店が、テーブルが、有刺鉄線を編んだ輪っかが、ありとあらゆる障害が次から次へと出現して笑ってしまうような路地を、トニー・ジャーが全力疾走し、それら障害をすさまじい肉体で軽々とクリアしていくとき、そこで起る我々の笑い、映画館に満ちるだろう幸せな笑いは、まさにジャッキーの笑いだ。

 ジャッキーはタイにいる。ジャッキーの魂は、トニーの中にある。

 ノスタルジーではなく、新たな体験として、ジャッキーの時代が再びやってきた。

 ジャッキーの子供たちよ、「マッハ!!!!!!」観にゆけ。

敷島 敷島を含むブックマーク

AKIRA」の大佐って「敷島」って名字だったのか・・・そうだよな、鉄人28号だもんな。

山龍山龍 2004/07/20 01:52 近所の映画館では何故か吹き替え版しかやらない……なんでや?

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07-16, 2004 スカイキャプテン新トレイラー

スカイキャプテンと未来の世界 スカイキャプテンと未来の世界を含むブックマーク

http://www.apple.com/trailers/paramount/skycaptainandtheworldoftomorrow/

新予告編。とりあえず、フロントにユニオンジャックつけてる船団燃え。

映画としては、功罪ある(てか罪の方が大きいだろう)。映画ファンとしては、それはわかっているだが、これほどまでに「わかっている」SFヲタクが全権を掌握してしまったかのような映像を見せられると、ヲタクとしては幸福なのだ。

映画ファンとして嫌悪感を感じ、ヲタクとして至福を感じる。そんな引き裂かれた思いが、いまのぼくにはある。

でもね、こいつ、この監督、わかってるよ。わかりすぎ。でなきゃ、リップレーザー(じゃないけど)出る光線銃なんか出さんだろ。いや〜いい時代になったもんだ。

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07-10, 2004 逃避

逃避 逃避を含むブックマーク

 あまりに何も思い浮かばないので、レンタルに行くと、「復讐〜運命の訪問者」がレンタル落ち300円だったので保護する。哀川兄貴と六平直政が至近距離でガンガン撃ち合って一発もあたらない黒沢演出に爆笑する。

 原稿?ふーん。

Man on Fire Man on Fireを含むブックマーク

「マイ・ボディーガード」については松竹犯人ではという指摘をm@stervision氏から受けました。

脚本がブライアン・ヘルゲランドなのな。今頃気がついたけど。というところからもやや期待ぎみ。

そういやヘルゲランドって、ボーン・アイデンティティーの続編「THE BOURNE SUPREMACY」の脚本書いてるのね。冒険小説づいてるなあ、このひと。ちなみに、こちらの邦題は『ボーン・アイデンティティー:殺戮のオデッセイ』と原作に配慮してくれたものになりそうなんですが、この80年代アクションっぽいチープ感というかテレ東っぽさというか、ある種の無骨さは、「マイ・ボディガード」という邦題なんかよりずっとマシだと思うのですが。

opayopay 2004/07/15 17:12 いや、伊藤さんと山田さんは凄いと思いますね。opayさんはよう分かりませんが(ぉ

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07-08, 2004 小豆色のニクいやつ

ファーミコンが〜売れるま〜え〜は〜 ファーミコンが〜売れるま〜え〜は〜を含むブックマーク

トランプ〜売〜っていた〜、とディスクの起動曲にファミコン必勝本だかマル勝だかの読者が歌詞をつけていたのを思い出す。

http://www.famitsu.com/game/news/2004/07/06/103,1089105615,28288,0,0.html

俺は取りあえずバルーンファイト厨であり、とりわけCトリップをやりはじめるとサルになる。いままでのファミコンシリーズに関して言えば、そのあまりに膨大な面の、いつ果てるともしれぬゴエモンなどは到底買う気にはなれなかったわけだが、今回のラインナップはやばい。ガンダム以外全部買いそうな勢いだ。

実はこの中で「傑作」「マジ恐い」と当時言われた「うしろに立つ少女」だけは未プレイだったりする。期待だけがガンガン膨らんでいったけれどもプレイできずに悲しかったソフトであり、それが出るというだけでも幸せだ。

ちなみに、俺の友人に村雨城をカンストしたという大馬鹿者(誉めてます)がいるんですが、この人は「エスケープキッズ」が(自分のスキルなら)無限にプレイできることに気がついてそれをゲーセンに張り付いて実行したというつわものだったりします。気がついてもやらんだろ。

しかし、残念なのは他メディアで腐るほど出ているファーストドラキュラはあるのに、ドラキュラ2がないことか。「センリツノ ヨルガ オトズレタ」が見れないのは悲しいことである。

ところで天下のファミ通ともあろうサイトが、機種依存文字を使っているのはプロとしていかがなものかと思いますが。

mskmsk 2004/07/10 14:12 村雨城はうれしいですよね。何よりあのながいながいながーいロード時間が無くなるのがイイ。オリジナルメトロイドは現在発売中の「ゼロミッション」に収録されていたり、ファミコン探偵倶楽部はSFの書き換えサービス専用でリメイク版が存在し、ファミコン昔話は同じく続編が存在するのですがカートリッジがどこにも売ってなくて悲しい・・。すでにロッピのサービスも中止されてしまったしなぁ。個人的にはあとザナックとアーバンチャンピオンが出れば完璧だった・・・。

ProjectitohProjectitoh 2004/07/19 00:33 ザナックは、一応PSがあるから、ってことですかね(てか、携帯ゲーム機でシューティングって、すげえやりにくい)。今回でこのレゲーシリーズは終わりだそうで、ちょい残念。どうせなら、メタルスレイダーグローリーとか出せばよかったのに。

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07-04, 2004 ビルの谷間の暗闇に

蒸気駆動少年 蒸気駆動少年を含むブックマーク

 まずい。まさか映画で退屈するとは思わなかった

 といわれてなに書いとるんじゃおのれわ、と言われそうなんですが、実は俺、映画で退屈したことがほとんどないんです。呆れられそうなのですが、自分は今まで見たほとんどの映画は面白かった、という異常な人間であり、駄作とか部分的な欠落とかそういうものは理性ではわかるんですが、映画館を出た、いや、エンドクレジットが出ているときにはすでにある程度の幸福感に包まれている、というまっこと幸せな人間で、いままで「駄目だった」と言ってきたほとんどの映画だって、「いや、よかった」と言えてしまうのです。退屈な音楽はある。退屈な小説はある。けれど、退屈な映画は存在しないのではないか。少なくとも劇場で見るぶんには(ビデオDVDではいくらでもあります、退屈した経験は)。

 しかし、この映画、何年かぶりに退屈してしまった。

 予測していなかった。なにせこれを最初に見たのは東京ファンタ、押井守の「G.R.M」のパイロットといっしょだった。9年前だ。まだ自分は大学生だった。これだけ時間をかけたのだし、アニメは好きだ。大友だ。駄作であっても退屈だけはしようがないだろう。快感であるかもしれない、不快感であるかもしれない、なんらかの感情をぼくにもたらしはしてくれるだろう。これは期待ではない。映画を見て、この程度の予測が裏切られたことはいままでほとんどない。

 しかしこれは、なんもなかった。

 びっくりした。まさかほんとうにこれが大友の映画だとは。いや、大友が好きだとはいわない。「AKIRA」は実はあまり映画としてはうまくない。「大砲の街」は反則技だ。大友はアニメで「傑作」を一本もものにしてない。だから傑作を期待していたわけではまったくない。しかし、駄作と言えども、そこからなんらかの言葉を引き出すだけの体験を、すくなくともほとんどの映画は、ぼくに与えてくれる。映画が、スクリーンで見ることができる、それだけで楽しいぼくはそんなお気楽な人間なのだ。本来なら批評ができる類いの人間ではない。なにせほとんどの映画楽しいのだから。

 そんなぼくが、ひさしぶりに退屈を味わった。部分的な退屈ではない。総体としての退屈だ。

 この映画は、どこまでものっぺりしている。いや、「フラット」という言葉すら批評的タームとして有効化されてしまう2004年のニッポンにあって、それは的確な言葉ではない。俺は映画を見ているのだろうか。まるで、真っ白なスクリーンを見ているかのごとく、そこにはなんの言葉も感情も生起されず、ただひたすら、時間という無情がとおりすぎてゆくだけのようだ。

 アニメは好きだ。スチームパンクは好きだ。ジータ/ブレイロック/パワーズのスチームパンク三人衆の小説は好きだし、ディファレンス・エンジンはぼくのバイブルだ。ギア・アンティークやってたしな(昔はTRPG者だったのだ)。大友だって、関心がないわけじゃない。好きなものがそれだけあって、何の感情も生起しない映画というのは、いったい何だろうか。

 いや、面白かった場所がないわけじゃない。やたら「発動」という言葉をいいたがる津嘉山正種は笑った。まるで性欲でモンモンとしている中学生のようだ。「発動しろ!」「発動ぉぉぉ!」発動って言いたいだけちゃうんか、おのれは。

 しかし、それでも、エンディングが流れているとき、この(ぼく自身の)からっぽさはどうしようもない。映画を見てこんなにからっぽだったことは、いままで一度もない(いや、あったかも。しかし手近なところではぜんぜん思い出せない)。ひょっとしたら、これはすごいことなのかもしれない。これは新しい映画の誕生なのかもしれない。だって、ぼくがいままでほとんどすべての映画のエンドクレジットで感じてきた感情を、この映画には微塵も感じないんだもの。

 この映画子供楽しいのだろうか。わからない。なにもわからない。ぼくは途方にくれている。映画を見てこんなにフラットだった記憶がないからだ。この映画が、自己満足であったらどんなに納得できたことだろうか。ぼくは自己満足大好きで、自己満足こそ映画を豊かにしてくれるとすら思っている節があるから。しかしこの映画自己満足ですら、おそらくない。この映画には、いかなる種類の欲望も感じない。当てて金を儲けようとか、あるいはなんとか回収しよう、とかいう卑俗な(あるいはまっとうな)欲望も、あるいは金なんぞどうでもいい、俺は見たいものが見たいんじゃ、という欲望、あるいはみんなに楽しんでもらいたい、という欲望、あるいは、それらのどれかあるいは全てに失敗しているという挫折感。そのどれも、この映画には感じない。それはそれで、いま考えると無気味だ。

 いや、待てよ。そもそも大友に欲望ってあるのかしら。庵野にはある、宮崎にはある、押井にはありすぎるくらいある。しかし、大友の欲望っていったいなんなのよ。そもそも漫画時代から考えて、このひとの欲望って、ぼくには一度も見えたことはなかったじゃん。

 いま、大友はもっとも無気味な作家なのかもしれない。いや、もはや「作家」とは呼べない存在と化したのかも。いずれにせよ、ぼくの知っている作家のかたちではなさそうだ。

余談:前に浜村編集長が座っていました。上映前にそば屋を見ていました。

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 スパイダーマンほど夜が似合わないヒーローはいない。

 よくわからないけど、このシリーズを見て共通して思うのは、夜のスパイダーマンというのが、あんまり美しかったりカッコよかったりしない、ということなのだ。赤と青、というのが夜景には汚い色に見えるせいだろう。スパイダーマンのデザインに影が致命的に似合わないのだ。かれは明るい日中にマンハッタンを飛び回り、あるいは夜であっても煌々と明かりに点された場所に立つのが美しい。これはバットマンその他のアメコミヒーローとは際立って異なる特徴だと思う。いや、事態は逆なのかもしれない。想像するに、ウルヴァリンが、Xメンがそのままのデザインで映画化されていたら、それは「闇の似合わないデザイン」になっただろう。しかし、「黄色いタイツでも着たいのか?」と劇中でジョークにされてしまったように、Xメンはコスチュームデザインをがらりと変えた。闇の似合う、影を許容するデザインに。

バットマン:ダークナイト・リターンズ」以降、アメコミは闇の逃れがたい魅力にとりつかれていった。レーガンが「強いアメリカ」を打ち出す中、弱者は切り捨てられ、貧富の差は拡大した。レイキャビク会談は決裂し、世界は核戦争の予感をとりもどしつつあった。そんな時代の産物として、「ウォッチメン」や「ダークナイト」などのコミックスはセンセーショナルに登場した。彼らは、ヒーローの「ヒーロー」たる定義を自らの手で書かねば(あるいは放棄せねば)ならなかった。自警団としてのヒーロー、狂人としてのヒーロー、政治の道具としてのヒーロー。

 そんな80年代は過ぎ去り、レーガンはブッシュになり、クリントンになり、ソ連は崩壊したが、「闇」にとりつかれたアメコミはそこから容易に抜け出すことはできなかった。それは80年代の切実さをもはや備えてはいなかったかもしれない。しかし、闇はヒーローを捉えて放さなかった。

 Xメンがミュータントであることに、ゲイブライアン・シンガーが(あるいはマッケランも)テーマを見い出したように、バットマンが両親を殺されたトラウマを背負い続けたフリークスであることに、ティム・バートンが喜びを見い出したように、彼らは聖なる疵を負った聖者だった。彼らは社会から隔離され、その刻印を背負いつつ生きねばならぬ「特別な者」たちだった。ヒーローは「聖別された者」であり、その疎外は映画的に「使える」。バートンの「バットマン」が開いたその闇は、アメコミヒーロー映画のお決まりのフォーマットになった。

 スパイダーマンは「親愛なる隣人」と呼ばれる。
 この映画は、身近な感情に寄り添うのが上手い(って、そもそも「眼鏡でカメラ小僧でいじめられっこという三重苦を背負った童貞の夢」というものすごいコンセプトだしな。マトリックスを遥かに上回る卑近さに、世界中のモテない青年include俺が感情移入しまくるのは当然ではある)。メイおばさんがお小遣いをくれる場面で、ぼくはもうぼろぼろ(ノスタルジーとともに)泣いてしまった。畜生、上手いなあ。実家の立て具合や、銀行で融資を断られるあたりなど、所得具合が見える挿話も絶妙すぎる。ここにあるのは「闇」ではなく、卑近すぎる「生活」だ。

 この映画においては、ピータースパイダーマンの道(笑)へ進ませた伯父さんの死ですら「トラウマ」という言葉の罠にはまったりしない。それは動機であり、むしろピーターを強くする契機でありつづける。バットマンが両親の死を「呪い」として抱え続け、バットマンたることを「狂気の同類」とするのとはまったく違う。

 前作もそうだったけど、今作も話がすげえ小さい(笑)。いちおー漫画映画なので核融合とか人工知能搭載のマニピュレータとか神経とインターフェースするナノマシンとかそーいうスーパーテクノロジーが出てくるのだけど、どうにもスケールが大きい感じがしない。バットマンだって街ひとつの話だし、敵は単なるキチガイひとりなのだけれども、スパイダーマンよりはスケールがでかい気がする。それはやっぱり、「フリークスフリークスによるフリークスのための」壮大な世界が広がっているように思えたからで、スパイディーにはそのような魅力的な狂気は存在しない。スパイダーマンのスケールが小さく思えるのは、そのどこまでもぼくらの生活から演繹できる身近さ、卑近さを、相反するようなヒーローの世界で展開しているからだ(スパイダーマンは敵を殺さない)。

 スパイダーマンの凄さ、というのはそこだ。闇をまとわないヒーロー。どこまでも日常として在る、在ろうとするヒーロー。葛藤はあれども、真にどうしようもない「存在そのものの闇」は纏わない(纏えない)ヒーロー。80年代からはじまった、ダークヒーローの系譜をスパイダーマンは背負っていない。定型化した闇を、スパイダーマンは背負ってはいない。かといって「スーパーマン」のようにからっと突き抜けてもいない。「スパイダーマン」は青年で、卑近な存在でありつづける。

 サム・ライミはすごいと思う。「ダークマン」を撮った彼は、「死霊のはらわた」を撮った彼は、しかし頑として「闇」に目を向けることを拒否する。彼は異常な状況から、しかし異界を排除する。闇にもはや意味はない、とでもいうように、ビル・ポープの撮影は日中のマンハッタンを映す。かれは生きるという作業に目を据えつづける。異界を排除しつづける。画面から闇を排除し、日中のアクションを胸をはって展開する。クライマックスは夜ではあるけれど、そこには堂々と太陽が輝いている。その輝きは煌々とピーター・パーカーを、スパイダーマンを照らし出す。苦痛は闇ではない。生きることは闇ではない。闇のような異界、聖痕としての差別トラウマを背負った世界から、この映画は語らない。凡庸な世界の喜びから、あるいは喜びの不在から、この映画ははじまる。そこが、この映画を他のアメコミヒーロー映画とはまったく異なる作品にしている理由だと思う。

 たぶん傑作だと思う。たぶん真摯な作品だと思う。こう言うと多くの反論がありそうだけど、あえて言ってしまうと、サム・ライミは「CASSHERN」と同じくらい、あるいはそれ以上に真摯で青臭いのだ。しかし彼には技術があり、年齢から来る余裕もある。それだけのことだ。これはある意味、どこまでも教育的で真剣な映画なんだ。

余談:キルスティンの唇が接近するアップの悪夢的な感じは、どうなんだ、サム? おまえもやっぱりキルスティンは微妙だとか思っているのか? 俺は劇場で笑っちまったぞ! 目を閉じてキスしようとする女性(or男性)の顔ほどお間抜けなものはないからな! その割には前回に引き続き「乳首くっきりシャツ」やってたじゃないか? どうなんだ、サム! おれはむしろあのくらいの可愛さというのがどうにもリアリティがあってそこがまた切ないんだが!

opayopay 2004/07/04 23:54 この辺やっぱ凄いですね。スパイダーマンは闇夜が似合わないと。あと下を歩く観客の存在、見られてない感もスパダーにとっては退屈なのか??

opayopay 2004/07/05 01:04 ↑なんか知らないんですけどウィル・グレアムちっくな言い回しをしたがる今日この頃です。トマス・ハリスに影響されたかないのに、不本意・・・。

FuryFury 2004/07/06 23:24 こっちもちゃんと拝見してますよ。伊藤大人の本気の評に大感激です。あまり気が進まなかったけどやっぱり観ようかな、スパイダーマン2

圭角圭角 2004/07/07 18:36 ここの文を読むのが楽しみになってる今日この頃です。スパイダーマン2は1が面白かったので見に行く予定です。オーソドックスに面白いっす。蒸気は予告であんまりグッとこなかったので、劇場では見ないつもりですが、「欲望」あんまり無いですよねぇ、大友。でも漫画AKIRAは「破壊の欲望」を感じたんですけど、伊藤さん的にはあれも駄目ですか?というか、伊藤さんのいう「欲望」を曲解してるかもしれませんが…。そういえばあまり漫画の話は聞かないんですが、伊藤さんは漫画も読まれるんですか?どんな漫画が好きなんでしょうか、、、

ProjectitohProjectitoh 2004/07/19 00:37 いや、「大友パターン」ってのがあって(なぜか監督していない「スプリガン」でもそうだったが)、それは「スチーム〜」も則ってはいるんですけど。でも実は大友さん、「破壊」にすらあんまり欲望を感じていないんじゃないか、と最近AKIRA見返して思ったのです。壊すものへのフェティシュが薄いというか、「ただ壊してるだけ」というか・・・。そうなると、この人なんに関心があるんだろう、って恐くなります。

07-02, 2004 カードとは無縁の経済状態ですが

燃える男だろが 燃える男だろがを含むブックマーク

 すまん、怒りが・・・くそおお、怒りが。何がって、「燃える男」が、クィネルの「燃える男」が・・・

「マイ・ボディガード」なんつー阿呆タイトルになっちまったあああああああああ!

配給会社死ね死ねコール。ってヘラルドか。ヘラルドかああ!今の俺様こそ Man On Fireだ。集英社どうする。「マイ・ボディガード」とか言って再販かけたら殺す。

なにが「マイ・ボディガード」だ。だって、「マイ」の主語たるダコタ・ファニングたんは話の中盤で絵にも描けないなんとやら。クリーシィ、怒れ。今度は日本で戦うのだ。

原題をカタカナにしただけで済んだ「ボーン・アイデンティティー」がまだ幸せに見える。

ちなみに、最近の私はどんなに馬鹿にされよーともトニスコ全面支持なので映画は期待してまっす(US版のトレイラーはかっちょいい。最近のトニスコ映画のクレジットやタイトルタイポグラフィのシンプルなデザインはツボです)。

キヨシのCM キヨシのCMを含むブックマーク

 ライフカードの、オダギリが塗りたくるあのCMは黒沢清だったんですか。今頃知った俺は遅いですかそーですか。

http://www.lifecard.co.jp/cm/cm_odagiri.html

mizugutimizuguti 2004/07/12 08:38 はじめまして.スターリングで検索して本家の方にたどり着いて以来,読ませていただいている(おそらく)変則的な読者の一人です.伊藤さん期待の「CODE46」も日本版のトレイラはやりやがった!!って出来ですね….US版のトレイラはもう米国の劇場で流れてます.

ProjectitohProjectitoh 2004/07/19 00:40 はじめまして(て遅いよ)。スターリングを原著で読めるmizugutiさんがうらやましいです。マイケル・ウィンターボトムなんで、盛り上がりには欠ける、血の気の薄い映画になるとは思いますが、ああいう「現代ロケーションの近未来」ってのが個人的にフェティシュなんで。