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05-31, 2004 できるかな
■まさかこんなことになろうとは

どうでもいいことですが、「忘却の旋律」の「鳴り響けぼくのメロス」というのが「俺のディック」とか「俺のジョニー」とかと同じような、すばらしく性的な馬鹿ワードに聴こえてしまうぼくは駄目人間ですかそうですか。
05-30, 2004 キャシャーンがやらねば
■非公式ナイト

とりあえず、イベント自体が「ひみつの場があってもいいじゃないか」とのことなので、あまりいろいろネットに出すと次がやりにくい、ということもあるし、あまり書きません。「ネットに出さない情報があってもいいじゃないか」ととの趣旨みたいなこともあるし。
なぜか前回に引き続き出渕さん@まだ観てないよキャシャーン、もいました。神山さんは欠席。西尾さんは出ていたものの@観てないよキャシャーン。
佐藤さんいわく「良心の範囲で」ということなのであたりさわりのなさそーな部分をひとつ。
- 会場の「雷がアレ、というのはどういう経緯で」という質問に「ぼくもびっくりしたよ。物質だもん」と佐藤さん。脚本ではピカッ、ちうふつーの雷だったらしい(最初は水滴だったらしい)。
- けっこう最後の稿まで「ヤルッツェ・ブラッキン!」の台詞が残っていたそうな。同様に、「アンドロ軍団」と明確に言っていたとも。どう言わせるつもりだったのだろー。
- キリヤさんはNINが好きらしい(ベタながら、かくいう俺もファンやってるので好感)。
佐藤さん、菅さん、キリヤさんの三者で脚本を書いていく過程の話はすげえ面白かったのだけど、これを書くと阿呆が『やっぱ誰々の責任だ』とか『この部分は誰々だったんだ』とかワイドショー的妄言を大量に曝しそうなので書かんです。俺、映画製作であの手の犯人探しするやつって唾吐きたいくらいムカつくのね。ただ、キリヤさんが佐藤さんと菅さんに対して示したアプローチの話はめっさ面白かった。知りたい方はこっそり教えます。
で、これだけの宣伝と規模の映画なのに(好みはとりあえずおいといて)、オタクグッズというか、ムック本が一冊もない、というのは確かにヘン。イノセンス、ではあれだけ出たクリエイター側のインタビューってひとつもない。タイプもメージュもオタク雑誌はまるでこの映画が存在していないかのようにスルーしているというのは(結果的にこれだけヒットしてしまった)商品に対する反応としていかがなものか。
てか、脚本家の話や、CG屋さんのお話をこれだけ見ない映画も珍しい。出てくるのはヲタ業界ではなく、女性雑誌とかファッション雑誌とかだったりして、それは監督とか俳優の写真メインの記事だったりする。出たのは微妙なノベライズだけだ。
こういう種類の映画なら、ムックの一冊は出て当然だろう、とオタクは思うのだけど、キャシャーンは出版的な展開がゼロに等しい、というのは正直どうよ。
05-29, 2004 りんりんデリック
■数学の山を登れ

「波れよ、姐ちゃん、くねくねしな。ちょっとしゃぶってもらえるかい……」
ルーディ・ラッカー「ウェットウエア」黒丸尚訳
ええ、「時空の支配者」映画になる(ソース:NSS)のお???
監督はミシェル・ゴンドリー(どうなのよ、SF的に)???
主演ジャック・ブラック(はあっているような気もする)?
こうなったら次は「ホワイト・ライト」を映画化だな。半分まで行くにはそのまた半分までいかなきゃならないので永遠にたどり着けない場所をえいやっと踏破するとか、一つ上のフロアは高さ半分なので、無限にフロアがあるホテルとかが映像になったさまを是非見たい。
そういえば、ラッカーがブリューゲルを書いたという「As Above, So Below」は誰か翻訳しているのだろうか。大森望さん、どうなんでしょうか。最近、SFな人が書いた歴史物に興味があるので。ニール・スティーヴンスンが17世紀ヨーロッパの新しい金融システムの登場を書いた「The Confusion」とか。すげえ読みたいんだけど、誰か訳してくんないかなあ。
Gomadintime
2004/05/29 16:14
はじめまして。ラッカーのネタ、日記で使わせていただきました。”As Above, So Below”も今まで通りOneとManyのラッカー哲学でまとめてくるんでしょうかね?
05-26, 2004 あさって
■勝手邦題なら、さしずめ「あさって」とかつけられそうな映画

すごいぞ、これ。どれくらいすごいかというと、ゴジラ2000ぐらいすごい。いや、もう面白すぎて何を書いても映画の香ばしさにはかなわないのだけど、とにかくすごい。ID4もゴジラも、それどころかユニソルもメじゃないエメリッヒ最強映画に認定。少なくとも2週間は友人との話のネタには困らないこと必至。
要するにアメリカ版「日本沈没」なんですな。泣く子と地頭と天気には勝てないわけで、宇宙人をパワーブックで倒すという豪快な技を使ったことのあるエメリッヒも、天気を倒す方法は見つけられなかったようで、そういう意味では実に日本沈没なんだけど、出てくる人間かたっぱしからほうりっぱというのが凄すぎる。出てくるキャラ、要素、全部投げっぱなし。ある重要キャラが、元気だった次のカットで台詞だけで死んだことにされていたときにゃ腹抱えて笑ったよ。
どこらへんがゴジラミレニアムくさいかというと、すべてがどうにかなったというかどうにもならなかったあとで、かなり手後れ気味かつ無意味に「環境破壊はいけない」というテレビ演説が入るあたり。いや、ミレゴジというよりは、セガールが大虐殺やらかしたあとネイティブのかっこうをして市民会館で「環境は大切です」などとのたまう「沈黙の要塞」に近いかもしれん。いや、しかし、この脱力具合を言葉で伝えるのはほとんど不可能だ。とにかく笑えるというポイントには事欠かない。わたしは一応、映画には映画の論理があり、それはかならずしも現実と対応している必要はない、リアリティ云々言うやつは馬鹿だ、そいつはフィクションのルールというある種の理性を理解し得ない原始人である、とつねづね主張しておりますが、この映画はリアリティとかそういうものとは一切関係ない場所において、自分の播いた種をかたっぱしから忘れていくと言う素敵な映画になっていて、ごめんなさい、とても面白すぎます。あのさ、キャシャーンってほんといい映画だと思うよ、これ見るとさ。
映画が終わったあとに思うのは、すげえ多大量に人死んでるはずなんだけど、まるですごいことが起っているように見えないスケールがあるんだかないんだかわからん微妙なテイストとか、結局「何日間の話だかわかんない」というものすごい欠落。「何日の話だかわかんない」といっても、ハスミンがキルビルで書いていたような、あるいは青山真治が「アイズ・ワイド・シャット」について書いていたしょうな(最近流行りの)「(映画的な)無時間」とはまったく関係ない、単純に時間の説明すらも「投げっぱ」になってしまいましたすんません、というようなわからなさなのだ。
ああ、言葉が貧弱だ。こんなもんではないのだ。シベ超とか北京原人とか言っている場合ではないくらい凄いのだ。とにかくここ数年では最大クラスの珍品。ネタに飢えている方は迷いなく劇場へ。
個人的に一番笑ったのは、オオカミだな。オオカミ。
05-24, 2004 ギブスン、ヲタク観察
■ギブスン、トウキョウのオタクを描写する

amazon:パターン・レコグニション(ウィリアム・ギブスン、角川書店)
いま自分の目の前にいるのは日本のオタク文化の極端な一例だ、とケイスは考える。おそらくタキはある特定のソ連製軍用車両についてピンからキリまで知っていたり、未開封のプラモデルを部屋のなかいっぱいに積み上げたりするタイプの男だろう。
どうやらタキは口呼吸をしているらしい。
うまい、うまいぞギブスン。特にラス一行。
ギブスンで(なかば自嘲的ではあるけれど)大笑いできるとは思わなかった。
■トロイの王子様

まず、オーランド・ブルームが破滅的に(まあ、実際国一つ破滅させるのだけど)ヘタレであるというのが面白く、このキャラのヘタレぶりは映画のバランスを崩壊させかねないほどで(というか、私に関しては上映中笑いっぱなしだったので、明らかに崩壊していました)、とくに、あの弓使いのエルフだった彼が、まるでジャイアンに虐められたのび太のごとく、夜中にこっそり、けなげにワラ人形相手に弓の練習をする、というのはもう捨て身のギャグに近い。いやきっと捨て身のギャグそのものだろう。パリスのヘタレっぷりはラストまで途切れることがなく、こいつがラストにもぎとった勝利すら、たまたまの油断で超ラッキー、みたいな裏ドラ満貫的タナボタであって、それがまたこいつのヘタレっぷりを増強するという救いのなさ。徹底しております。
さらに、ふとしたきっかけでオデュッセウスは木馬のアイデアを思い付くのだけど、その思いつきかたがまるでミスター味っ子並みの「あ、それだ」という感じなのがまたどうしようもなく面白すぎる。ペーターセン、おのれは俺を笑い殺す気か。こうなるともうすべてが面白く、ピーター・オトゥール演じるプリアモスの宗教に陶酔した無駄につぶらな瞳の輝きとゆーか電波な恍惚や、アキレスが強いというよりは単に「必殺技使い」であるとか、木馬を城壁の中に入れてしまう、というイーリアスですでに間抜けだった状況が、映画の中でも「フォローしきれませんでした」とばかりにお間抜けそのままだったとか、すべてが笑いの創出に加担しはじめたかのように面白くなってしまい、ごめんなさい、単純に楽しんでしまいました。
その一方で、映画を見る前から私が難しいだろうなあと思っていた要素はスパっとネグられておりまして、映画がはじまった瞬間にパリスとヘレネ(字幕ではヘレンになってたぞおおお。そのヤンキーくさい読み方はやめい)は既にして恋に落ちており、どうやってスパルタから連れ出したかも飛ばして既にして船に乗っており、とめんどくさそうな場面はえいやっと知らんぷりきめこむペーターセンの賢さはさすが。
さて、この映画の奇妙なところは、その軍勢の規模はたしかにデタラメにデカい割に、その戦闘はまるで面白くない、というところではないでしょうか。
船はどんどこ、兵士はわらわら、という具合に数はとにかく多い。合戦が始まるまでの「数」描写はくどいくらい。のに、戦闘場面でその数の多さが実感できるか、というとそうでもなく、戦闘はあくまでも戦闘にすぎず、微妙なところで「ブレイブハート/グラディエーター/プライベート・ライアン」路線にはのっかっていない。グロ描写は不思議にあっさりしている。
おもろいかおもろないか、は別として、この映画は近年の戦争映画には珍しく、基本的に物語を語ることに集中しているのだ。プライベート・ライアンやグラディエーター(そしてブラックホーク・ダウン)に顕著な、ディテールの暴走があまりない。その割に上映時間が2時間45分もあるというのは、ペーターセンの語る効率の不経済さを表してはいるのだけど。しかし、この映画は「面白い戦争を見せよう」とか「悲惨な戦争を見せよう」とかいうことにまったく無関心なように見える。戦争において人間が損壊する、その損壊の仕方によって戦争の非日常性を「(不謹慎ながら)面白く」見せたのが「プライベート・ライアン」だったし、それより以前から、フツーの刑事ドラマであるはずの「ブラック・レイン」で異常暴力のオンパレを繰り広げていたリドリー・スコットこそ、「おもしろく欠損する人体」を映画の見世物としてエゲツなく利用してきた第一人者でもあった。
しかし、この映画の戦争はあまり面白くない。あの当時の戦争の段取りを見せようという面白さ(そういう類いの面白さに関しては、「マスター・アンド・コマンダー」がズバ抜けている)もまったくない。戦争の細部を見せようという欲望がさっぱり見られない。「Uボート」であれだけ潜水艦の内部をねちっこく描いていたペーターセンが、だ。この映画は戦争を見せようというよりも、不器用ながら物語を語ろうという方向に傾いている。
その意味で、冒頭のタイマンは象徴的だ。対峙する大軍勢は、しかし戦闘することはない。おのおのを代表する戦士がふたり、決闘してその戦争を表象する。これは、これ以降この映画において展開される戦争行為のすべてを象徴する決闘なのかもしれない。要するに、戦争はあってもなくても変わらないのだ。一対多でも、多対一でもなく、大群衆の戦闘のカオスのさなかにあってさえ、戦争は一対一のタイマンとして展開されるのだ。
それはつまり、この映画が英雄たちの物語にすぎない、ということなのだろう。英雄はデタラメに強いがゆえに、その強さに理由はなく、そこにディテールの居場所はない。強者の物語は、一切の細部を不純物として退ける。ディテールは「理由」に直結しやすく、ゆえに強者の物語を「脅かす」からだ。英雄潭において、ディテールは語られてはならないのだ(これはとりもなおさず、「グラディエーター」が英雄物語になりそこねていたことを意味する)。
05-22, 2004 錠剤食糧とるの忘れたわ
■イリイチ連続体

そんなある日、ボーリナスの郊外で、ミンの好戦建築の中でもとりわけ贅沢なものを撮ろうと支度しているとき、ぼくは薄い膜を突き破ってしまった。蓋然性という膜を──
このうえなくゆるやかに、ぼくは“一線”を超え──
見上げたとき目にはいったのは、十二発の膨れたブーメランのような代物で、全体が翼をなし、轟々と虚像のような優美さで東に向かっていく。あまりに低空なため、そいつの鈍い銀色の表面の、リヴェットの数ですら数えられそうなうえ──たぶん、ジャズの残響まで聞こえた。
「ガーンズバック連続体」ウィリアム・ギブスン
サイバーパンクはそれまであった「未来」を否定し、もっと生々しい、「街場」の感覚をとらえた、新しいSFだと、当時言われたものだった。けれど、ギブスンは知っていた。そんな未来像ですら、最終的には古びるものだと。「ガーンズバック連続体」を、サイバーパンクより前の科学技術万歳的で牧歌的な未来を笑い飛ばしたものだ、と解釈するのは、だからたぶん違う。サイバーパンクですら古びるのだ。ギブスンが「ガーンズバック連続体」で伝えたかったのは、そんな「文化の思いで」へのレクイエムだったんじゃないだろうか。そして、自分はそれと同じ、古びるべく運命付けられたものを生産している、という切ない自意識。
いま「未来」を作ることは難しい。「未来」から驚きを引き出すことは難しい。サイバーパンク的未来がこないとわかったあとの世界で、いまのところ「未来への指向」の方法論としていちばん面白かったのが「マイノリティ・リポート」だというのも情けない話だけど、それはやっぱり事実だと思う(小説ではスターリングがそんなことお構い無しに面白い未来をガンガン生産しているけど)。
そんな時代が、「未来」を作ることに臆病になっているこの時代が、指向しているのはどこだろう。答えは明らかだ。「ガーンズバック連続体」の未来だ。かつて夢見られた「未来」、「昔の未来」をファッショナブルなスタイルとして描くという方法だ、
いま、それは物凄い勢いでメディアを席巻しつつある。スカイキャプテン・アンド・ザ・ワールド・オヴ・トゥモロー(スカイキャプテンと未来の世界)はその極端な例だし、去年やったアニメの「鉄腕アトム」の手塚フューチャーっぷりや、サンダーバード実写もそうだ。
自分は、この「古き未来の再生産」のラインナップに、70年代的超管理社会ディストピアが入ってきた、と「リベリオン」で感じた(その辺の詳細は本サイトのリベリオン紹介のほうに)。明るい科学技術の未来だけではない、絶望の未来すら「ファッション」になる2004年の未来なき世界。
そして、ぼくはそのラインナップに、もうすぐ「ソ連」が入ってくるのではないか、と思っている。ファッションとしての「鎌とハンマー」、ファッションとしてのスターリンゴシック、ファッションとしての赤軍、ファッションとしてのロシア・アヴァンギャルド(はもうキャシャーンがやってるか)。
押井守の「人狼」は現実に存在した歴史であるはずの「昭和」を、映画的スタイルに、ファッションに、「異世界」にコンパイルした(そのコンセプトを「イケる」と判断したのが、いまやっている今川アニメの「鉄人28号」なんだけど、実はこれ、押井守が10年以上前に同じコンセプトの企画書を書いている。東京オリンピック直前の東京を舞台にした「鉄人28号」だったそうだ。そのときの残滓が「人狼」、というか首都警ものになった、というわけ)。
ソ連もそのような形で、もうすぐブームがくるんじゃないか。すでに海の向こうには 「THE RED STAR」というアメコミがある。United Republics Of The Red Star、URRSという架空の星の国を舞台にした、でも内容はあからさまにアフガン侵攻っぽい感じのアメコミだ。ってか、これかなり前にamazonで買ったんだけど、最近メタルギア関係でE3情報を集めてたら、プレステ2のゲームになってたのな。日本で販売しないかなあ。無理なのはわかってるけど。
05-21, 2004 マスコン
■六点鐘

今日が最終回だったので、文芸座に「マスター・アンド・コマンダー」を再見しにいってきました。ラストにつき800円。
実は、ひそかに今年の映画ではいまのところマイベストを走っているのがこの映画なのだった。三度め、ということで見た回数ではイノセンスに負けるものの(え?)、ひさしぶりにこういう清々しい戦争映画をみたっつーか、海洋冒険映画かくあるべし、ってものを見せられた、っていうか。地味だけど。
正直、この映画、VFXをどこで使っているのかが、ぼくにはほとんどわからない。「ロード・オブ・ザ・リング」とかと違って、不可能なカメラ位置を想定したカットが存在しないからだ。どのカットもはっきり「予算的にも、技術的にも可能な」位置にしかカメラを置いていない。「本物の迫力」という陳腐な言葉を使いたくはないのだけれど、やっぱりこういう絵を見ると、ワンカットで主人公の顔のアップから全景へぐわっと引いていく、というような最近連発される大作CGカットの下品さと退屈さを思い知らされる。う〜ん、「マスコン」を見るまでまるで気がつきもしなかった指輪映画の「絵としての」退屈さに、これからは無自覚ではいられないのだろうなあ。ちょっと悲しい。
ラッセル・クロウとポール・ベタニーがマストのてっぺんに立っているカットはどう見ても本物の空撮なのだけど、リスクを考えるとCGIのようなきもする。劇中の霧で目のいい人なら、スモークによる物理的な本物と、CGIの霧を見分けることができるかもしれない(けっこう難しいぞ)。しかし、どれもが不可能なカメラ位置を徹底して禁じているために、どうにもこうにも本物に見える。仮に完全CGIショットがあったとしても(ないような気がする)、それは頭の中で完全に架空の現場の段取りを組んでから作り上げていった映像だろう。
まあ、それはともかく、この映画の素晴らしさはなんとも人に説明しにくい。感動するわけでもないし、手に汗握るというわけでもない。言ってみれば「わくわくする」映画なのだ。指輪でもこんな「わくわく」はなかった。この映画は、見ているとなんだかうきうきしてくる。そして、その微妙な空気を他人に伝えるのは、すごく難しい。劇場にいく前からハンカチを持って泣くきまんまんで「世界の中心で〜」を見に行く観客のおおい、結果が映画に先行してあるようなこの世の中では、こういう映画の居場所はない。これが大作として作られたことは、ほとんど奇跡のようなものだろう。
船。それがこの映画では有機的にからまりあった一個の巨大な「段取りの集合体」、システムであることを淡々と語る。大砲の撃ち方。戦闘配置においてはドリフのセットみたいな瞬時の隔壁の除去によって、船長室も食堂も消滅し、船内が一個の砲室に変身する。船が主役でラブロマンスはおまけ、と「タイタニック」は言われていたけれど、この「船という巨大なシステムを運用する」感覚はあの映画にはなかった。破綻する科学技術のメタファとしては、その船にはあまりに「段取り感」が希薄すぎたのだ。美術的にそれを再現したキャメロンはえらいけど、ディテールはそこで終わるものではない。そこから先、システムの構成要素として機能する人間たちの、メカニクスとしての「ふるまい」を描く必要があったはずなのだ。そしてこれは、「人間を描く」という紋きりのドラマとはまったく別の話だ。映画はドラマに向いていない。映画は心理に向いていない。しかし、「運動する、機械としての人間」の美しさを描き出すには強力なメディアだ。
そしてこの「マスター・アンド・コマンダー」は、「タイタニック」が、そしてピーター・ジャクソンがとりこぼしたものを、ていねいに拾っていった映画になっているのだ。システムとしての船を描くこと。システムとしての戦闘遂行を描くこと。「運用」を描くこと。それはとてもとても見ていてわくわくする、「美しい」ことなのだ。
惜しむらくはこれが大作であるという点なのだ。終りかたの爽やかさというか、「さて、次もひと喧嘩せにゃ」的な感じ、というのはいかにもなクリフハンガーというか、「こういう映画のシリーズがコンスタントに小屋にかかる」という現実には存在しない状態を想像させてくれて切なくなるのだ。こんな大作はそうそう連発できるものではないし、しかもこの映画はその巨額の制作費(だろうと思われる)に「見合った」、ド派手でゴリゴリの感動といったブロックバスターな語りも採用していない、奇妙に不釣り合いな、それゆえに奇跡的な作品だ。
あ、ちなみにすげえ女性が多かったです。ムサ男は半分もいなかったような。文芸座の各プログラムのラスト、って女性が多いのかしら。それとも「マスタ・アンド・コマンダー」という映画に女性ファンが多いのかしら。この映画を「いまいちやった」という職場の上司も「あ〜、でも一緒に見たかみさんにはすごく好評やったなあ」とか言ってたし。勝手な印象だけれども、ショタ、という感じの女性にも見えなかったし、強いて言えば、海洋冒険小説ファンの女性、という感じだしたんだけど、そんなの本当に、あれだけの数いるんでしょうか。
tigerbutter
艦長と医師との関係がお好きな女性が多かった模様です。たぶんショタではなく。
Projectitoh
それは801方面、ということなのでしょうか。それともああいう友人関係が好き、ということなのでしょうか。それともこの二つは明確に線引きできるものではなく、程度問題、なのでしょうか。余談ですが、某巨大掲示板の801板に「リーグ・オブ・レジェンド」のスレッドがあってびっくりしました。
mangodrop
遠回しに書いてしまいましたが、801方面ってことです。某巨大掲示板の801板は国家(の擬人化)や元素記号(の擬人化)のスレッドまであった素敵な場所です。
Projectitoh
どもども。コメントを受けまして、海外ではどうなのかと「aubrey maturin slash」でググったら出てくる出てくる(笑) 向こうのかたもニッポニーズ婦女子に負けず劣らずお好きなようで・・・。御存知とは思いますが日本801の「×(かける)」は向こうでは「/」にあたり、801ものはスラッシュものといわれるのだそうで。
05-20, 2004 ひさしぶりにおえかき
■というわけで

一応絵を描くタイプのヲタクでもあるので、メタルギアも盛り上がっていることだし、ひさしぶりに絵を描いてみようとするものの、ペインターが壊れたのかなんなのか立ち上げて2ナノセカンドで落ちるので、仕方なくフォトショを使うことにする。ガッデム。
しかし、自分でいうのもなんだが、白黒の「鎌とハンマー」って、妙にインパクトがある。赤と黄色のデザインで見慣れているからかしら。これ、なんかうまく発展させられないかしら。
今週は「トロイ」と「ビッグ・フィッシュ」と「ドーン・オブ・ザ・デッド」を見ようかと思っておりますです。なんというか、きけば、エルフの王子様演じるパリスは激しくヘタレだとか。史実と神話のいいとこどりなので、神様は出てこないけど木馬はちゃっかり出る、とか。
木馬、というとモンティ・パイソンのホーリーグレイルに出てくるあれしか実写ではみたことないなあ。写真で見たかぎりでは「トロイ」の木馬はいい感じのデザインだ。しかし、あの話、映画的には落とし所のない、えらくすさんだ話というか、戦争バカが楽しく戦争やっている話なんだけど、それをどうハリウッドの文法に落としこんでいるかも期待。
IDA
イラスト拝見しました。鎌とハンマーって確かにかっこいいですよね。僕は今年で26歳になりますが、ソ連が崩壊した当時は実家が「赤旗」を購読していまして(両親の知り合いに共産党の人がいた。ついでに言うとまだ取ってる)ニュースを見た時には「へえ、じゃ赤旗が来なくなるのかなあ」と今思えばのんきなことを思っていました。なぜか最近、当時はなんとも思っていなかった「ソ連」という国家が妙に魅力的に思えるのですが何故でしょう。スぺツナズ萌え。共産主義カコイイ・・・。
Projectitoh
赤瀬川源平さんが昔ラジオドラマを仕事片手間に聞いていたら、なんか寂れた漁村を舞台にしたドラマだったそうなのですが、そこにおばあさんが行商をする場面があって、突然「赤旗はいらんかえ〜」などと言い募りはじめて、えれえラディカルなドラマだ、とびっくりしたそうです(よく聞くと『ハタハタはいらんかえ』だったというオチ)。それはともかく、本サイトの掲示板でも書きましたが、ソ連を楽しむ、というのはもうすぐ可能になると思うのです。「キャシャーン」がすでにいい感じにキリル文字を扱ってますし。「失われた、過去の夢」というファッションとしての、「ガーンズバック連続体」としてのソ連。その失われた夢に、われわれは「異世界」を感じるのではないでしょうか。
IDA
レスありがとうございます。キャシャーンにそんなシーンがあったんですか・・・見てきたと言う友人に「で、面白かったの?」と聞いたらすごく微妙なツラをされたので(笑)なんとなく敬遠していたのですが、今度見てみます。
Projectitoh
共産文化と日本の融合したファンタジー世界(実はリメイクされたほうの「修羅雪姫」で樋口特技監督がすでにやっているのですが)という新しい方向性を示したことは大きく評価されていいと思います。われわれの世界で英語を書きそうな部分にキリル文字を使っているような感じ。とはいえ、映画自体の評価は、御友人を信用為さったほうがいいかもしれません・・・自分は見るべきところがひとつでもあればすべての映画を楽しめてしまう人間なので。
05-15, 2004 社会主義のおもひで
■おとぎの国のゴルバチョフ

E3も終了し、ネットでメタルギア情報を入手しようといろいろめぐっていたら、なんだかすげえ自分が老人のような気がしてきた。思わぬ方向からの落ち込み。
というのもね、なんだか、メタルギアファンのみなさん(海外の方も含めて)、ソ連、という国に実感がないみたいなんですよ。いや、もう存在しない体制に実感を持てってのも無理な話なんですが(そもそも、国家というシステムに『実感を持て』ってのが無理な話だとは思うんですが、それはまあ、おいといて)。
70年代なかばに生まれた自分らの世代は、たぶんソ連という国の存在を実感できる、最後の世代なんじゃないだろうか。ソ連が無くなったとき、何歳だったか。スターウォーズ計画、アフガン撤退。映画館にいけば、ランボーがアフガンのソ連軍を敵にまわして撃ちまくっている。テレビニュースではレイキャビク会談が決裂し、米ソ両国がふたたび軍拡路線へと傾きはじめたことを伝えている。
そんな時代の最後に、ぎりぎり自我らしきものが芽生えた自分らと、いまゲームをやる20代前半/10代後半の「世界」はまるで違う。そんなあたりまえの事実が、しかしやっぱり「大台を前にしていまだオタク」の自分にはショックだった。
あるところでフルシチョフについて「ソ連大統領」、って書いてあるのを見て、ちょっとショックだった。いや、ソ連が崩壊する直前にゴルバチョフが大統領制を導入したけれど、ソ連のトップといえば書記長(正確にはフルシチョフの頃は『第一書記』だったのだけど)、というのが常識以前のものとして知っている世代と、そんな表記の細かさがどうでもいい世代。やっぱり、それを生きていない人々にとってはどうでもいいことなんだ。もうソ連は「歴史」になってしまったんだ。それが今日、ものすごい勢いで心の奥底に叩き込まれた。
歳とった・・・。
05-13, 2004 1964
■フルシチョフの時代

ロスのE3で、メタルギアソリッド3:スネークイーターのムービーがお披露めになったようですな。ネットにも画質の荒いムービーが流れはじめているようです。
さて、このムービーで印象的なのは、フルシチョフとジョンソン、という実在の人物の名前が台詞に登場していること。しかも最初に喋っているのはフルシチョフっぽい。
ダラスでケネディが倒れ、副大統領であるジョンソンが裏ドラで満貫みたいに大統領に就任してから、ほとんど一年後にフルシチョフは失脚し、ブレジネフ第一書記/コスイギン首相体制になる。
1964年。MGS3の舞台は、このジョンソンが大統領でフルシチョフが第一書記だった短い1年のどこかだということだ。この年はトンキン湾があった年でもある。
05-12, 2004 パールマンにメイクするという時点で間違っとる
■ヘルボーイ/メインタイトル

http://www.imaginaryforces.com/
昔カイル・クーパーのいたイマジナリー・フォーシーズのサイトですが、この中のHELLBOYのページでオープニング・タイトルが見ることができますな(View Hellboy Main Titlesのとこ)。
最初にコミックにも出てきた米兵たちとの集合写真があるので、アバンタイトルで「seed of destruction」冒頭の、ナチによるヘルボーイ召還が描かれることは確定っぽい。まあ、妥当な構成ですな。んがあ、メインタイトルそのものの出来が・・・うーん、ヘルボーイってこういう漫画だったっけえ・・・。ちょっとがっかり。やはりギレルモ・デル・トロ程度では無理か・・・私的にはノリントンの方がはるかにコミックスヒーローを「わかっている」と思う。ブレイドの1と2をくらべた限りでは。ノリントンは「漫画なのにおおまじめ」、デル・トロは「漫画を漫画っぽくやる」というスタンスの違いがはっきりでているような。
Dirk_Diggler
ども。調べましたがカイル・クーパーは新会社を設立したようです。 http://prologuefilms.com/ 私も「ブレイド」は1の方が好きです。馬鹿馬鹿しく・かつ大仰にカッコ良くグラサンを「パシっ」と取るシーンとか痺れました。
05-11, 2004 かいてみた
■エロだろ、エロ

どういうわけかフォーエヴァー・ゴダールBOX(ウィークエンドとフォーエヴァー・モーツァルト、それから自画像にフレディ・ビュアシュへの手紙が入ったやつ)を持っているのだけど、それが棚から出てくることはめったにない。ゴダールの映画で圧倒的にBGV率が高いのは、なんといっても「マリア」か「パッション」か「カルメンという名の女」です。それは無論、ミリアム・ルーセルたんが出ているからにほかならないわけです。ゴダールの映画なんてそう頻繁に見るもんじゃないでしょ、疲れるし。それにアンナ・カリーナもアンヌ・ヴィアゼムスキーも好みじゃないんです。かわいくない。ただ、「アルファヴィル」だけは音楽が鳴るだけで爆笑できる希有な映画ではあるけれど。
というわけで、またビデオ探しています情報です。ミリアム・ルーセル主演のエロ映画「肉体のバイブル:禁断の賛美歌」を探しています。すげえ邦題ですが、事実なのでしかたありません。タイトルからしてどうしようもないですが、実際エロい映画だそうです。というより、エロい映画だから見たいのです。がんばってダルいゴダール映画見て瞬間出てくるミリアムの裸や顔に萌えてるという非効率的なことを繰り返すよりは、素直にエロ映画でミリアムを見たいのです。
音楽はなぜかピノ・ドナッジオ。なぜだ。
05-09, 2004 だら〜
■小西真奈美

「スチームボーイ」の予告を観ていて驚くのは、鈴木杏タンではなく、小西真奈美タンのあまりのアニメ声っぷりだったりする。なんであんなにアニメ演技が板についているんだ。あまりに声優声すぎ。すげえなあ。杏タンはどっちかっていうと、声優声優してない感じの演技、宮崎アニメの俳優路線なんだけど。
しかも小西タン、お嬢様の役じゃないですか。萌えか?大友で萌えなのか?大友映画なのにタカピーお嬢様萌えなのか?すげえアニ声の女優萌えか?いいのかそれで大友?アリなのか大友?
いや、おれは全然かまわんが。
■ゴッド・ディーバ

「イノセンス」「キャシャーン」と最近似たような映画ばっか見ているので、そろそろ麻痺しかけてます。そうとうヤキがまわってます。どれぐらいヤキがまわっているかというと、あの女性がシャーロット・ランプリングだと上映後にパンフを見てはじめて知ったくらい鈍感になってます。
いや、映画は面白かったですよ。おっぱいがきれいでした。ヨーロッパ映画の女優さんのおっぱいってみんなきれい。
しかし、ビラルの映画って「俺の絵柄そのままの現実女を登場させる大会」だな〜。自分の絵柄にそっくりな造型の女優が見つかったときだけ、映画を作るんじゃないかしら。
■肉体の天使

って三島の本だったっけ、慎太郎@現都知事の三島伝だったっけ。
まあ、んなことはどうでもいいのですが、パッションの残酷描写は「ブレイブハート」「顔のない天使」というメルギブのフィルモグラフィから見ると、すげえ自然な気がするのですが。単なる「手クセ(作家性、と体よく言ってもいいけど)」というか。宗教的動機とかそれ以前の問題のような。
あのひとは、たぶん、映画というものを知っている。登場人物の心理が画面に映る、という神話を(そんなに)信じていない。だから「見ればわかる」肉体を執拗に描写するんじゃないかなあ。「気持ちが伝わってこない」「感情移入できない」「心理描写が軽い」などという、お前らは「視る」という純粋な歓びや感動をどこに置いてきたんじゃこのボケェ!と言いたくなるような、最近の映画・観客双方の人間偏重・心理偏重に、ある意味勇敢に立ち向かっているというか。だから視覚として表現できるものに特化した、ある意味「正しい(政治的に、ではないけれど)」映画を作るんじゃないだろうか。でなきゃ、「顔のない天使」で主人公の顔が焼けただれているべき理由なんて、どこにもないもの。
あの人はたぶん、肉体を通じてしか、表現をする気はないんじゃないかな。
それと映画としての出来のよさはまた、別だけど。
特定の宗教を持たない人間が多くを占める日本だからこそ、「パッション」という映画を、特権的なポジションから語る立場がある、と思うのだけれども。ユダヤ人問題とか、そういうのはあちらさんに任せておくべき。絶対に実感し得ない関係性に、おせっかいを焼くのは失礼だ。
この映画を受容するに際して日本で必要なのは、おそらく「パッション」をクローネンバーグやJ・G・バラード、養老孟司とかと併置して語れるフィールドだと思うのだけど。
Dirk_Diggler
ども、はじめまして。いつも拝見させて頂いております。http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=7465 これですよね?これってテレフューチャーだったんですね!最近はレンタル店がガンガンお宝を中古で放出しているので、自分もチェックいつもチェックしています。
Projectitoh
そうです、その映画です。ビデオはあるらしい(黒沢清がどっかの店で買った、と書いていた)のですが、どうなんでしょうか・・・。同じフライシャーの「10番街の殺人」がよかったので、気合い入れて探す気になりました。
レンタル屋のラインナップを報告しあったりしている、レア映画ファンのサイトとか、そういうのがあればいんですけどねえ。
Dirk_Diggler
確かに!そういうサイト熱望しますね。自分もエスクワイヤかなんかで黒沢清が「絞殺魔ヤバイ」と書いていたのを読んだ記憶があります。ビデオ屋巡りをしていて思うんですが、結構エロビデオ・DVDメインの店は穴場な気がします。この前はアルトマンのポパイを380円で保護しました。
nagata
以前に勝手に言及させて頂いたナガタというものです。僕はかつてキヨコさんにベタ萌えしました。あと、レンタル屋のラインナップ作業はやってみたいなあと思ったんですけど、誰かが支援金とか出してくれないかなあという感じです。東京帰ったらやってみようかなあ、、、。
Dirk_Diggler
ども。スクープテイルの方で拝見したんですが、「ユー&カンパニー」?と「IF」のサイト、めちゃカッコ良くて感動しました。他にもこういうタイトル製作会社のサイトってあるんでしょうか?で、カイル・クーパーはやっぱり移籍したんでしょうか?
Projectitoh
『中学生の頃、劇場で見たAKIRAに感動して、感動の余りビデオを勝ってから妹に見せるという凶行に及んだのですが、そしたらなぜか妹、感動して泣いておりました。この映画のどこで泣けるんやねん、と聞いたら「キヨコちゃん・・・あんなにかわいいこだったのに・・・可哀想・・・人間ってひどいよね」と答えたので、そういう見方もあるのか、と不思議な気持ちでした。妹にとって「AKIRA」は「ひどい仕打ちをうけた子供のかわいそうなお話」だったようです。』
Projectitoh
カイル・クーパーが移籍した、という話は、確か去年「ハルク」のタイトルデザインがらみの記事で読んだ気がします。あの映画のデザインがYOU&COMPANYだったとかで。その後フォローしていないので不明。ちなみに、わたしの知る限りでカイルの最新の仕事は「メタルギアソリッドの真実」という、三月に出たゲーム書籍のカバーデザインです。イマジナリー・フォーシーズ以外に有名なデザイン会社をあまり知らないので・・・・(「ジャッカル」をやったTOMATO LONDONとか、サイトあるのかなあ)。
05-05, 2004 同人誌としての「パッション」
■いわゆるSS

といってもナチの突撃隊ではなく、ショートストーリー。ゲームやアニメのファンの方々が書く、二次創作の同人小説ってやつですな。好きなアニメやゲームのキャラを使ったオリジナルストーリーや、本編の全後日談。
で、メルギブの「パッション」を観てきたんだけど、実は上映中激しくある既視感に悩まされていたのでした。
なんでやねん。全然違う映画やろが。そう、そのはずなんだけど、なんでだかデジャブが繰り返しおそってくる。こういう映画の見方、最近多かったなあ。でも「こういう」見方ってどういうことなんだろう。
そこでハタ、と気がついたのが、
そうか、これ「聖書」っていう「原作付き」なんだっけ。
押井2作目の法則に従って原作無視路線に突入するかと思われた「イノセンス」。しかし、内実はある意味原作と正反対の内容を確かに持ちつつも、しかしお話自体は原作1巻「ROBOT RONDO」にかなり忠実で、しかも2巻や1.5巻の台詞までがコラージュされ、原作を読んでいる私は「ああそう、この台詞原作のあそこにあったあった」という原作の台詞や要素のパッチワークを楽しんでいた。
「アップルシード」も同様で、まず観たとき、話自体が原作の1&2巻をベースにしつつ、「人間を魂の道具に云々」とかいう台詞(を曲解して使っていたり(苦笑))や、三巻以降に出てくるはずのダミュソスで空飛ぶギュゲスD、コミックガイアでの連載がストップしもう発表の機会はないだろう5巻登場のムンマのワイヤー使いサイボーグなど、原作全体のさまざまな部分を繋いだ、パッチワーク感とでもいうべきものがあった。
で、この「パッション」に感じたのも、その「原作のパッチワーク感」だったのだ。
聖書。でもその記述は実は驚くほど一貫していない。特に使徒たちは「お前ら本当に同じ事件を描写してるんかいな」ってほど、キリストについての描写はばらばらで、ほとんど羅生門状態。
イエスの最後の言葉で有名なのは、御存じ
イエス大聲に叫びて『エリ(エロイ)、エリ(エロイ)、レマ、サバクタリ』と言ひ給ふ。わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひしとの意なり。
というやつだけど、これは実はマタイ伝とマルコ伝のみの描写だったりする。マルコではさらにこのあと大声を一発出してイエス絶命。ルカでは
『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』斯く言ひて息耐えたまふ。
がイエス臨終の言葉だ。ヨハネでは一言、「事畢(おわ)りぬ」。
ばらっばら。パッション、ではどうなっているのだろう。なんと、まず「なんで見捨てたんだよ〜神様あああ」が来て、その後で「神様、御手に云々」が最後の言葉となる。「すべて終わった」のヨハネ伝はスルー、かというとそんなことはなく、ヨハネ伝の「終わった」の前には「われ渇く」とイエスが喉の渇きを訴えて葡萄酒を与えられるところがあるのだけど、これは「パッション」にきっちりと入っている(マルコでも葡萄酒の描写はあるけれど、周りにいた兵士だか野次馬だかが自発的にあげる。イエスは「のど渇いた」とか言ったりしない)。各使徒の記述のいいとこどり、コラージュなのだ。
なんつーか、パッチワーク感、「原作のここから持ってきました感」がものすごいのだ。
さらに、この映画には聖書には登場しない萌えキャラ(笑)が登場する。それはだれかとゆーと、意外や意外、あのキリスト教レアアイテムのひとつであるスダリウムの聖ヴェロニカたんだ。
映画を見たらなんだか女の子になっててえらく笑ったのだけど(単に「女」と書かれているのしか読んだことなかったからなあ)、この、イエスの血に染まった顔を布で拭き拭きして、その布にイエスの顔が浮き出た、という染め物みたいな話は聖書のどこにも書いていない。映画では萌えキャラであるヴェロニカたんも、聖書にはひとっことも出てこない。
余談だけど、この、キリストの顔を拭いたらキリストの顔が浮き出てじゃじゃんじゃーん、な布は、三枚が教会によって認められている。というのも、教会によれば「三つ折りにして拭いたから」だそうな。これがキリスト教の論理性だとしたら凄い話ですな。
けれど、この「パッション」にはちゃんとヴェロニカが出てくる。聖書にはひとっことも触れられていないはずのヴェロニカが。しかも御丁寧に、拭いた後の布が一瞬映り、そこには、う、うわー、人の顔があるよ! ちょっとこれはさすがに爆笑。やりすぎだメルギブ。フォレストガンプのスマイルマークシャツ誕生のくだりを思い出してしまったアルよ。
さらには、ルカによると
人々イエスを曳きゆく時、シモン(シメオン)といふクレネ人の田舎より来るを執へ、十字架を負はせてイエスの後に従はしむ。
ということなんだけど、この映画ではシメオンとイエスは一緒に十字架を背負っている。上のを読めば、十字架を担いだシメオンはイエスの「後ろに」ついてきたんだから、イエスはそもそも十字架を背負っていないことになる。マタイでも
シモンといふクレネ人にあひしかば、強いて之にイエスの十字架をおはしむ。
とある。マルコも同様。でも、そのまま映画にするとなると、この映画が根底から崩壊する。この映画はイエスが十字架を背負う、ただそれだけの話と言ってもいいからだ。都合がいいことに、ヨハネだけは
イエス己に十字架を負ひて、ゴルゴダといふ處に出でゆき給ふ。
と一行書いてある。民主主義で言ったらヨハネの描写は却下だけど、やっぱりみんなはこのイメージを期待している。メルギブがどうしたかは当然のごとく、かっこいいほう。ちなみに、ヨハネにはシメオンの記述すらない。
なんつーか、この映画が史実に忠実じゃない、ってのはいろんなところでも言われている(ちなみに、当時の罪人は横木だけ担いだ、という考証は、ものすごい方法で屁理屈をつけている。有名な泥棒ふたり(イエスと一緒に十字架にかかった彼ら)は時代考証にそって横木だけなのだ。でも、運悪く、というか理由不明、でキリストだけが十字架をまるごと背負うはめになる、という案配)。
たとえば有名な話だけど、最後の晩餐、みんな横に長いテーブルにほとんど家族ゲームアングルでずららっと並んで席に着いている構図を思い浮かべるかもしれない。ところが、あれは後世の画家たち(というより、ほとんどヴィンチ村のレオナルドのインパクトだね)が思い込みで作ってしまった構図だ。
当時はテーブルと椅子で食事をする習慣はなかった。みんな横になってゴロゴロとしながら飯を食っていたのだ。その辺はバーナード・ルドフスキー「amazon:さあ横になって食べよう―忘れられた生活様式」にくわしい。そうでなければどう考えても不可能な描写が聖書の中にはいくつかあるのだ。つまり、聖書に忠実に描写しようとするなら、みんな横になってゴロゴロと食べていた、というふうにしなければならないのだ。
けれど、この映画の最後の晩餐では、みな椅子に座って襟を正している。
しかも、この映画には聖書には登場しない、あとで「キリスト教萌えの誰かさん」が勝手に創造したのかもしれない(傍迷惑な話だ)、オリジナルキャラまでくっついてきている。
そこから浮かび上がるのは、「聖書に忠実」ではない、二次創作としての、ファンの尾ひれがついた世界観を受け継ぐものとしての「パッション」という映画だ。つまり、この「パッション」はその根本において「同人誌」ということになる。
また余談。槍でイエスを突き、その死亡を確認した兵士については聖書にも描写はある。えれど、それが白内障のカシウスさんというひとで、イエスの血を浴びたので目が見えるようになったとか、その槍がロンギヌスの槍と呼ばれるようになったとかは一言も書いていない(エヴァファン残念)。ヨハネ伝の中だけに、単に兵士が槍で脇腹を突いたら血と水がドバーと出てきた、と書いてあるだけだ。
とはいえ、同人誌も立派な表現媒体であるのと同じように、そのことはこの映画の価値をなんら貶める(もしくは高める)ものではない。ただ、さまざまな人間が抱いてきたイメージの集積、原典を編集し、原典にはないがファンの間では有名なキャラ、まで加えた、奇妙な創造物としての「パッション」という存在が興味深かっただけ。
この映画を見て面白かったところは、これとはまた別のところにあるので、それはきっちりと、本サイトのほうでやろうと思いますです。
05-04, 2004 アニメの動く城
■フェルメール

フェルメールスキーなので、今日はこれから上野にフェルメール見に行ってきます。
フェルメールスキーなのだけれども、映画「真珠の首飾りの少女」は観にいかないと思います。なんちゅーか、あの絵画としての美しさを「物語」で汚されているような嫌悪感が・・・そういう映画でない、という可能性もありますが・・・。
よく考えたらベーコンの「愛の悪魔」も観てないや。どうやら私、好きな画家の絵が物語に落とし込まれてゆくのに拒否反応があるみたい。
■でも行ってきた

外注さんの納品が16時以降ということだったので、ソースチェックやアップをするにしても4時をまわらにゃどうにもならん、というわけで、上野に。
というわけで「栄光のオランダ・フランドル絵画展」ですが、すっげえ混んでてじっくりゆっくり見るような雰囲気じゃなかったのが悲しい。でも今日が出勤扱いになったので代休とって平日に行こうかしらん。
んで、順路でいくとまず16世紀のネーデルランド絵画、ということでスプランゲルとかが並んでいるのですが、なんか駄目。てか、なんか下品。
うまく言えないのだけれど、題材といい、色といい、筆の流れのズサンさ加減といい、なんだかオヤジ臭さが漂っている。うーむ、これはうまくない。
このあたりでかろうじてよかったのは、ブリューゲルの息子ヤンのスケッチとゆーか「動物の練習帳」みたいな感じの「動物の習作(犬)」と「動物の習作(驢馬、猫、猿)」。これは博物画っぽくて、見てて楽しかった。ブリューゲルには博物画の感覚がある、と赤瀬川ゲンペさんも言ってたけど、これはまさにそんな感じ。
で、次は17世紀のフランドル絵画、という章分けなのだけれど、これも最初のほうは下品さが継続していて駄目駄目だった。とはいえ、いいものもちょこちょこ出てきて、ヤン・ブークホルストの「フローラ」は萌え度が高い、かわいい絵だった。裸だが。
そしてさすがのルーベンス自画像。黒のたっぷりとした服の質感、背後の闇、すげえかっこいい。黒が黒としてしっかり落ちている感じがまるでリドリー・スコットみたい、とそれ逆だろ、みたいな感動におそわれました。いや、すげえかっこいいっす。写真とかで見ててもあんまピンとこなかったんだけど、ナマで見たこれはちょっと感動、というか「かっこいい」と思ってしまった。同じ黒い衣装をまとったヤン・ファン・デン・フーケの「枢機卿親王フェルディナント」の下品さにくらべれば、そのかっこよさは歴然(これも下絵はルーベンスがやってるらしいんだけど、筆も色もどうにも下品)。
ユトレヒトの「狩猟の得物」の異様な迫力もすごい。これだけ克明に死骸が並んでいると、すげえ禍々しい感じがする。絵もでかかったし。
で、17世紀のオランダ絵画、ということになるのだけど、のっけのレンブラントは、有名な自画像がそのボケ具合、というかおぼろなタッチが幽霊みたいでかっこいいのだけど(黒沢清の映画に出てきそうだ。明治時代の「気流の会」の始祖とかで)、その隣にあった「使途パウロ」は駄目だった。なんか、パウロさんの顔がヘボい、というか、いまいち明るすぎる感じ。題材が題材で、しかもでかいだけに、そのこけおどし感も目立っているように思ってしまいました(なんか、素人が好き放題書いてますが、美術ファンの方、怒らないでね)。
んで、やっと辿り着いたフェルメールだがあ・・・すげえ人。まあ、これが目玉なのだから当然っちゃ当然なんだが、それにしてもこれはゆっくりなめるように見るという感じではない。老若男女がぎっしり集合して、前列に出るのも一苦労。
しかし、やはりフェルメールはよかった。「画家のアトリエ」自体、前から好きな絵だった(メタっぽい題材とか、画家の背中の黒いラインとか、地図の細やかなテクスチャとか)んだけど、こうやって生で見ると、いくつも気がつかなかったことが見えてけっこう感動する。というか、ほかの絵が今一つ私の好みに合わなかった(てか、やっぱなんか下品)ので、よけいそう感じてしまったのかも。ルーベンスの自画像とフェルメールで充分以上にモトはとったけど。
しかしやっぱ、人、大杉。フェルメールはもうちょっと引いたところからも見たかったんだけどなあ・・・。
■城、動きすぎ

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20040501
とにかく城が動く
「キャシャーン」でしょ、「スチームボーイ」でしょ、そして「ハウルの動く城」でしょ。イノセンスの海上プラントも込みだと今年のアニメは(いや、キャシャーンは一応、実写だけど)、城が動きまくる。
と思って、テレビにつられて見始めた「R.O.D」のOVAを見ていたら、これまた城が動く。アニメというのは、城が、巨大構造物が動くということに関して、なにか強迫観念を持っているのだろうか(巨大ロボットはヒト型の造型による「キャラクター性」を付与されているため、『巨大構造物」の欲望とはまた別だと思う)。
05-02, 2004 エイリアン萌え
■このまえおとなげなく

読売のアレを引用しているだけの人間に激怒したのは、キャシャーンが、というよりも、「映画を作る」ということ、いや、誰かに何かを伝えたい、という切実な「想い」を嘲笑う行為だったからなのだな、と今になってみると思う。つまり「あいつらは映画の敵だ」という怒りだったのだと。
まあ、彼らにとって映画というものはどうでもいいことなのだろう。それは当然の話。彼らは悪くない。常識人であるということを罪にはできない。生きているうえで何の役にも立たない、映画や音楽について、肯定にしろ否定にしろ、いちいち誠実な反応を示してはいられない。
自分が作ったわけでもない、誰かさんの映画に毎週毎日こんなにも依存している、自分のほうがよっぽどおかしいのだ。反省はしないけど、かれらがああいう反応を見せるのも、仕方のないことだ。ほかならぬ自分だって他の誰かにとって大事ななにかをスルーしているに違いないのだから。
■It's a perfect organism...Unclouded by conscious, remorse, or delusions of morality.

私がイアン・ホルム(いまはすっかり『ビルボ・バギンズのひと』になってしまいましたが)好きだというのもあるけれど、今1作めを見返してみていいなあ、と思うのはエイリアンやリプリーよりもむしろ、アンドロイドのアッシュですね。
「正対しているものの何たるかを、諸君は未だ理解していないのかね? 完全生物だ。その純粋さには感嘆せざるを得ない。自己保存のためには、意識にも、後悔にも、倫理にも惑わされることがないのだから」
私は「1」を見返して、ここでものすごく興奮してしまったのですが、それはこのセリフがどう聞いたって告白モードにしか聞こえなかったからなのですな。
ここでのアッシュははっきりエイリアン萌えでしょう。会社の命令がなくとも乗員をジェノサイドして、地球に到着し「会社」によってふたり引き離されるまでの旅路、無人のノストロモ号の船内でエイリアンとの蜜月を送ったのではないかというくらい萌えている。ここの台詞はどうみたって「会社の命令」というアッシュの行動原理から逸脱している。
「2」のランス・ヘンリクセン演じるビショップも好きなのだけど、「どっちが人間的か」という質問を立てた場合、私はアッシュだと答えますね。ビショップは「ぼくだって恐いさ。シンセティックは馬鹿じゃないからね」と「恐怖」を語るものの、しかしやはり人間には最後まで忠実であり、善意あるロボットの域を超えることはないわけですが、「エイリアン」のアッシュは明らかに会社の命令などどうでもいい感じがする。
05-01, 2004 アニメで立身出世
「イノセンス非公式ナイト〜押井守欠席裁判・イノセンスを語るのに押井守である必要はない」
に行ってきました。
メンツはとえば
にくわえ、シークレットゲストで
という豪華な顔ぶれ。
とりあえず、佐藤氏がキャシャーンネタでイジられまくってました。「いや、みんな勘違いすると困るけど、いい映画だと思いますよ」と佐藤氏。しかし観客は容赦なく、「神山氏、押井氏にこれから監督してほしい作品」に「キャシャーン」と書き、佐藤氏をイジる。
■衝撃の情報

と、そこでバンダイビジュアル桑島氏から非公式ナイト会場に衝撃の情報がもたらされる。
ビッグコミックビジネス掲載
「プロダクションI.G物語(いや、ほんとだって)」*1
このすさまじい破壊力はデイジーカッターのごとくこの夜すべての話題を吹っ飛ばしてしまった。押井ファンはコンビニへ、本屋へ走れ。ビックコミックビジネスを買え。そして卒倒しろ。
笑いすぎて腹が痛い。こんなに健やかに笑ったのは久しぶりだ。