果たして、こんな理不尽な事があってもいいのだろうか。
ちょっとした善行の結果、意識を失っていた僕は目を覚ますや否や、酷く憂鬱な気持ちで溜息をつくはめになった。今の気持ちを表現するならば最悪という言葉でもまだ温い。というより、どれほど言葉を尽くした所でこの感情を伝える事は難しいだろう。僕自身も相応しい言葉が思いつかないくらいなのだから。
「……」
どうしてこんな事になったのだろうか。幾度目かも解らない溜息を吐き、頬を触れれば今まで感じた事もない、滑らかな餅のような感触が返ってくる。果たして僕の肌はこんな瑞々しかっただろうか、いやそんなはずはない。
「…………」
どうしてこんな事になったのだろうか。項垂れて枕に顔を埋めれば、細やかな白く輝く長髪が、まるで絹糸のようにさらさらとシーツに零れ落ちる。果たして僕の髪はこんなに細く美しかっただろうか、いやそんなはずはない。そもそも僕は産まれた時から黒髪で、染めた事は一度もない。
「…………」
どうしてこんな事になったのだろうか。タンスの上に置かれた小さな鏡台に映るのは、酷くぶかぶかのジャージを着た、見慣れない美少女。彼女は目尻に涙を溜めながら困惑したように僕を見詰めている。彼女は一体誰なのだろう、鏡に正面から相対しているはずなのに姿が見えない僕は、一体どこにいるのだろう。疑問に対する答えは、どこからも返ってこない。
おんらいん☆こみゅにけーしょん
Contact.00-1 『はじまりはじまり』
僕の名前は
木崎 日向。訳あって学校には通っていないが、一般的に高校二年生と言われる年齢の日本人男子だ。名前だけ見ると男女の判別が出来ないと言われるが、友人曰く『美形と言うほどでもないが、間違っても不細工とは呼べない』と言う程度の外見で、別に女顔という訳でもなければ、小さい頃から名前以外で女性に間違えられた経験と言うのは存在しない。
そう、間違っても今鏡に映っている、人形のように整った顔つきで雪色の長髪をした、エメラルド色の瞳を潤ませ不安げに表情を歪ませている美少女のような外見はしていない。しかしながら我が家の鏡ときたら、まるでどこぞの童話に出てくる鏡のごとき誠実さと正直さで持って、相対する僕の顔を実直に映し出している。
僕が右手を差し出してみれば、鏡の中に映る少女も同じ動きで左手を伸ばしてくるし、僕が泣きそうになれば鏡の中の少女も不安げに瞳を潤ませる。それは紛れも無く美少女と呼ばれる外見の持ち主だった。町中で見つけたらつい見蕩れてしまいそうな可愛らしい容姿をしている……といっても年の頃は十歳に届くか届かないかと言う見た目なので、女性として見るには少しばかり無理があるだろうが。
だがそんな事はどうでもいいのだ、僕が今目にしたいのはこんな可愛らしい外見の幼女ではない。いつも見慣れた冴えない顔の平均的日本男子の姿だ。なのに我が家の鏡とくれば、真実の鏡でも無いくせに空気を読まず僕に真実を突きつける。もう少しばかり気遣いという物を学んで貰いたいと思うのは贅沢なのだろうか?
なんて鏡に意味不明な八つ当たりをしても現状が変わるはずもなく。実践済みであるところの様々な夢判別法は、僕に絶望的な結果以外を与えてくれなかった。あぁ全く持って世界とやらは優しくない。打ちひしがれるままに枕に顔を埋める僕を慰めてくれる人は、今は傍に居なかった。
◆
今や西暦二〇四〇年、紙媒体の文化が緩やかに衰退を迎えて、主な発表の場も電子媒体への移行を終えて早数年。数十年前から脈々と続く『目が覚めたら美少女になっていた』なんてジャンルも、少しネットを掘り返せばそれこそ星の数ほどあるだろう。だがそれらは全てフィクションのはずだ、現実にあってはならないものだ。
タブレット型の携帯端末を操作して検索エンジンを開き、『性転換』『起きたら美少女に』など様々なワードを設定して検索してみる。
「…………」
表示された検索結果を一通り確認して、溜息を吐き手に持っていた携帯端末をベッドの上に放り投げた。ある意味で予想通りではあったけど、いっそ見事なまでに無意味な行動だったようだ。
何か事態の原因や手がかりになるものがないかと思ったのだけど、見付かるのはそういったジャンルの小説や漫画の情報だけ、それも数え切れないくらい大量の。数十年かけて築き上られた一つのジャンルの集積量は凄まじい物がある、この中から今の僕に必要な情報を集めるのは正しく砂漠に落ちた色違いの砂粒を探すようなものだろう。
そういえば、とここにきてやっと意識を失う直前の事を思い出す事に考えが至る。何だかんだで僕も随分と混乱しているようだった。まぁこの状況で混乱しない人間がいるなら是非お目にかかってその秘訣をご教授願いたいものではあるけども。
話を戻そう。僕は少しでも身体を動かしつつ外に出る機会を増やそうと、三ヶ月ほど前から近所にある神社へ通っていた。神社までは徒歩で片道二〇分、母の知人だという神主さんに挨拶して三〇分ほど掃除の手伝いをして帰ると丁度いい時間なのだ。別に信心深い訳でもないのに面倒くさい事を良く続けているなと自分でも思うが、これで結構楽しいのだ。
其処は殆ど人がこない上に小高い場所にあるため、落ち着いて街を一望できる。更には一ヶ月ほど前から野良猫らしき真っ白で緑色の目をした可愛らしい子猫も住み着いたようで、動物好きを自認する僕としては絶好の癒しスポットとなっていたのが大きい。随分人に慣れているようで掃除をしていると小首を傾げながら近くに来て撫でさせてくれるのだ。あれを可愛いと思わないのはそもそも猫が嫌いか、動物そのものが嫌いな人だけだろう。
今日も同じように昼過ぎ頃にお昼を済ませて、夏も真っ盛りになり焼き付けるように強くなった日差しに若干辟易しながら神社に向かった。神主さんに挨拶をして、境内を掃き掃除させてもらっていたのだが、いつもなら掃除を始めると社の階段付近に寝そべってこちらを伺ってくる子猫が姿を現さなかった。元々気まぐれな所はあったし、必ず来るというわけでもなかったのだけどこの時だけは妙に気になって借りていた箒を片付けてから何となく探し始めたのだ。
そして林の中で、隣町にある高校の制服を着た2人の男子生徒達が子猫をエアガンの的にして遊んでいるのを見つけてしまった。昔に色々あってそういった行為を見ると怒りで頭に血が昇ってしまうのだけど、今回も例に漏れず無策で飛び出してしまった。自分の無策ぶりに少し焦ったものの、何とか隙を突いて子猫を抱えて逃げる事に成功……はしなかった。何しろこちらは引き篭りがちのもやしっ子で、対するあちらは聞こえた愚痴の内容からして何かしらのスポーツをやっているようだった。
しかもこちらは小さいとは言え荷物付きだ、そもそもの体力からして勝ち目もあるはずもなく、僕は神社の入り口の階段まで追い詰められて――――怒りに任せた彼等に突き落とされた。
「…………っ」
痛みまで思い出してしまい両腕を抱え込む。咄嗟に子猫を守ろうとした為に身体を丸めたせいで、背中から腕、脚に至るまで階段に叩き付けてしまったのだ。痛すぎて何も感じなくなった頃には既に下まで転がり落ちていたようで、腕の中で泣き喚く猫の無事を確認した時点で、そのまま意識を失ってしまったのだ。
……うん、おかしい。覚えている限りの感触からいっても、頭や背骨も逝ってた気がする。どんなに軽く見積もっても両手両脚はギブスに包まれてないといけないはずだ。だというのに何故僕は今無事にここにいるのだろうか?
ある意味では間違っても無事とは言えないのだが、最低でも普通に助けられたのなら目覚める場所は病院であるはずだ。しかし現実に目を覚ましたのは見慣れた天井である所の自宅の、見慣れきった自室だ。往年の名作に倣って入れ替わりという線も考えたが、そもそも近くに女の子が居た記憶はないし、そもそも意識を失っている僕をこの部屋まで連れてきたのは一体誰かという疑問が残る。
あるいは夢遊病のように自力で戻ってきたとでもいうのだろうか……などと思考しかけて、そんな馬鹿なと一笑に付す。何はともあれ情報が少なすぎるようだ、かといって調べに行くにはこの容姿は少しばかりハードルが高すぎる。考えてもみて欲しい、いくら国際化が叫ばれて久しいとは言えこの平和な日本で十歳にも満たない外人の女の子が、男物のジャージを着て昼間から徘徊するという状況を。
どう考えても即行で国家権力に保護される、自分で言っといて何だが事件の匂いしかしない。もしも本当の事を言って疑われれば精神病院、信じてもらえれば観察対象。ろくな事にならないのが解る。何よりも僕には外出に際して大きな"ハンデ"がある、確実に心配されて声をかけられるであろうこの容姿かつ格好での外出はリスクが大き過ぎる。
結局のところ八方塞。家族や友人に相談……は出来るだけしたくない。今も所謂"引き篭もり"である僕のせいで多大な迷惑をかけている。特に心を砕いてくれる母や姉には、息子や弟が娘に変わってしまったなんて意味不明な状況でこれ以上の心労をかけたくない。
……なんてね、解ってる。結局の所怖いんだ、信じてもらえない事や、受け入れてもらえない事が。人を嫌い家に閉じこもるようになった僕を見放さず親友だと言ってくれる友人達に気持ち悪いと拒絶される事が。どんなに忙しくても僕を家族として心配して、長い目で見守ってくれる家族に拒否される事が。
居場所が無くなってしまう、それ以上に恐ろしい事はない。友人達に誘われていんた露見する前に元に戻らないといけない。元に戻るまでは隠し通さないといけない。自分でも不安になるくらい難しい目標の予感をひしひしと感じるが、正直考えるだけでも恐怖で手が震えて涙が溢れてくる。行動不能に陥る前に強引に意識を切り替えてパソコンに向かった。
数十秒経って起動が完了する。マウスを操作してブラウザを起動させると、検索エンジンを開いて思いつく限りのワードをぶち込んだ。砂漠の砂粒探しだっていい、今はこの理不尽な現実から目を背ける為に、ただ何かをしていたかった。
◆
どのくらい経っただろうか。正攻法で手がかりを得られるはずもなく、水中で藁を掴む思いで創作物を片っ端から読み飛ばしていたが、結局めぼしい情報なんて手に入らなかった。カーテンの隙間から見える外の風景は夕焼けに紅く染まっている。時計を見れば、針は夕方の6時半を示していた。今は七月も後半が近く、完全に暗くなるにはまだ少しばかり早い。
「……!」
なんて呑気に構えていたが、時計を見て一つ重要なことを思い出す。母のいつもの帰宅時間まであと三〇分しかない、今日は僕が食事の当番なのに全く手をつけていなかった。事情が事情だけに仕方ないとはいえ、このままでは非常に拙い。慌ててベッドに放りだしていた携帯端末を手に取ると母にメッセージを送る。因みに父は短期の単身赴任中で今は北の国だ。
『ごめん、ちょっと具合悪くて、ごはん作れなかった。 帰りにお弁当買ってきて』
親に嘘を付くという行為に良心がズキズキと悲鳴をあげはじめるが、仕方ないと自分に言い聞かせる。程無くして着信を知らせる電子音が鳴る。母は仕事中は緊急でもない限りは返事が後回しになるはずなので、もう帰宅途中らしい。
『無理しちゃダメよ、病院の予約取ろうか? お弁当は何がいい?』
心配している風な母の返事に良心の痛みが増してくる。正直何も思いつかないし食欲もないので、量の少ない軽い奴が良いとだけ書いて送る。病院は少し疲れただけだから大丈夫だと断った、言ってから気付いたがかかりつけの医者が居る身でこの言い訳はは長く持ちそうにない。何とか別の言い訳を用意しなければと、携帯端末を充電器にセットしてベッドに寝転がった。
どうやら取り急ぎ考えるべき事は、家族と顔を合わせずに過ごす方法だったようだ……。必死に頭をひねる事三〇分、結局何も思い浮かばないまま母が帰宅してしまった、玄関の開く音に合わせて自室の鍵を閉め、念のためベッドの上で布団に包まる。
「ただいま、日向ー? 大丈夫?」
階段を上がってくる、廊下の軋む音が近付いてきて、部屋の戸が叩かれた。だが出るわけにも行かず、悩んだ末に携帯でメッセージを送信する。幸いな事に僕が言葉でなく文章で意思疎通を図る事は、抱えている"ハンデ"の為に推奨される事はあれど非難される事はない。なった当時は本気で悩み苦しんだものだけど、事この状況に置いては利点になるのだから人生とは何がどう転ぶか本気で解らない。
『おかえりなさい、ごめん今ちょっと出たくない、あとで食べるからお弁当はキッチンに置いといて。買ってきてくれてありがとう』
「……そう、解ったわ。もし辛くなったらすぐに言うのよ?」
携帯端末で僕のメッセージを確認したのだろう、少し間を置いて心配そうな声色で返答があった。実際やってみて解ったが仮病設定は良心の痛み具合が凄まじ過ぎて長期的に実行できる気がしないし、何より数日も顔を見せず部屋に篭る日々が続けば確実に病院に行かされるか、最悪では救急車を呼ばれるだろう。そうなったら当然アウトである。
遠ざかっていく足音を聞きながら必死で頭を駆け巡らせる。何かないか、手はないか……心の動揺を表すかのように彷徨う視界に、ひと筋の光明が映りこんだ。
「……!!」
僕の視線を一身に集める机の上、そこにはデスクの上に置かれたフルフェイスのヘッドギアとカセットが鎮座している。それは友人達から家の中に居てもせめて一緒に遊べるようにと誘われて始めたオンラインゲーム、話題の最新作をプレイするために必要な機材だった。何故ゲームを遊ぶのにあんなものが必要なのかというと答えは簡単。仮想現実空間で行われる、世界初の完全体感型オンラインゲーム……通称VRMMOだからだ。もう何十年も前から様々な人が渇望して止まなかった夢のゲームなのだと親友が熱く語っていた。
ヴァーチャルリアリティ、仮想現実を構築する技術の礎が開発されたのは僕が産まれる前……二〇年ほど前だったそうだ。発表当時は上へ下への大騒ぎだったらしい。即座に様々な分野での活用方法を研究されて、民間に下ったのはほ12年前。インターネットを利用しない一般家庭が存在しないと言われる現代日本において、主流になりつつあるオンライン用のゲームは激戦区。各社はこぞって
VRMMOの開発に着手したが、あまりの難易度に八割が企画倒れ、残った二割も仮想現実体感型とは名ばかりのハリボテで期待していたユーザー達は諦めの心持だったそうだ。
そんな中で諦め切れない有志達が名乗りを挙げ、協力しあってゲーム開発を開始。趣味という免罪符を片手に時間と労力、人員を一ヶ所に注ぎ込みはじめた。流れはどんどん大きくなり、次第に大手の供給会社まで巻き込んでついに今年、完成と発表に漕ぎ付けた。年始に行われた第一次クローズドベータではあまりのクオリティに話題が沸騰し、春の第二次の応募は定員五千人に対して、応募が十四万人という色々おかしい倍率になっていた。
……こんな感じで、一晩かけてチャットで熱く語る親友の一人に若干引きつつも強く誘われて同意して、機材の値段を聞いて動揺しながらも家族に話してみたところ、前からゲーマーだった姉が反応、誕生日とクリスマスプレゼントも兼ねて気分転換ついでに人付き合いのリハビリになればと合わせて諭吉さんが一個小隊を作れる価格のセットをどーんと贈ってくれたのだ。
僕の親友二人も夏の正式サービスに間に合わせようと、ずっと溜めてきた小遣に加えて去年の夏からバイトを始め、サービス開始前に無事に購入したらしい。それにしても、ぶっ飛んだ値段設定にも関わらず予約分は既に完売しているというのだから恐ろしい話だ。
さて、ここまでゲームの話を続けた時点で、思惑はわかってもらえたと思う。要するにゲームに集中してるから顔出さないという究極的ダメ人間戦法で行こうと思うのだ。正直に言って自分でもドン引きというか、あらゆる意味で駄目な匂いが香り立つ勢いだが、他に何も思いつかないのだ。
夏休みが始まればある程度身繕いすれば多少外に出ても補導の心配はないだろうし、暫くは体調不良で引き篭もりつつ鍵を握っていそうな神社を探索して、限界まで引っ張ってそれでも元に戻れないのなら、その時はこの言い訳で何とか押し通そう。
そんな駄目な方の覚悟を完了した僕は、逸る気持ちと空腹に啼くお腹を押えるのだった。
「……」
夜まで……母さんが寝るまでの我慢……!!
