宗教だけでまとまろうとした国の破綻

東パキスタン 

旧パキスタン領

1947年8月 英領インドがインドとパキスタンに分離して独立。イスラム教徒が多い東ベンガル州はパキスタンの飛び地に
1970年12月 東パキスタンを基盤とするアワミ連盟が総選挙で勝利
1971年3月 軍がアワミ連盟を弾圧。東パキスタンは独立を宣言し内戦に
1971年12月 インド軍が介入しパキスタン軍は降伏。東パキスタンはバングラデシュとして独立し、飛び地消滅

 

インドの地図(1933年) インドとパキスタン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカがすべてイギリス植民地だった頃

植民地時代のインドは3つの国に分かれていた。ほとんどの部分を支配するイギリスと、小さな飛び地を押さえるフランスとポルトガルだ。じゃあインドが植民地から解放されて独立したら統一したかといえば、やはり現在でも3つの国に分かれている。インドパキスタンバングラデシュだ。

インドが1つの国として独立できなかったのは宗教対立のせい。それを背後で煽ったのがイギリスだ。イギリスの植民地では住民が団結して抵抗することを防ぐために、民族などいくつかのグループに分けて分割統治をするのが歴史的な常套手段。ある時は一方の、またある時はもう一方のグループを優遇して住民同士の対立を煽っておき、自らは何食わぬ顔をして調整役に回るという芸当は、「腹黒紳士」たるイギリス人こそがなせる技。マレーではこの手法でマレー人と中国人の対立を煽り、マレーシアとシンガポールが分離する原因を作ったが、インドではヒンズー教徒イスラム教徒を対立させたのだ。

イスラム系のムガール王朝の下ではイスラム教徒の力が強く、イギリスはこれを抑えるため当初はヒンズー教徒を優遇した。またイスラム教徒はイギリスが作った西洋式の学校を「イスラムの教えに反する」と拒否したため、官吏や医師、弁護士など植民地体制下での地元エリート層はヒンズー教徒が多くなった。ところが20世紀に入ってヒンズー教徒が団結し、ガンジーらに指導されて反英闘争に取り組むとイギリスはイスラム教徒を優遇し始めた。インドで議会を作る際にはイスラム人口が半分以下だったベンガル州を東西に分割して、イスラム教徒が多数を占める東ベンガル州を誕生させようとしたのである。

こうして1947年にイギリスがインドから撤退した際には、ヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい衝突が起き、イスラム教徒が多数を占めた地区はパキスタン(ウルドゥー語で清浄な地という意味)として分離独立した(回印分離)。この時の混乱で100万人近い死者と数千万人の難民を出したほか、現在でもカシミール地方の帰属をめぐって「核戦争勃発の危険が最も高い対立」が続いているわけだから、イギリスのエセ紳士ぶりはとんだ禍根をもたらしたもんだ。

ちなみにカシミールの帰属が問題になっているのは、住民はイスラム教徒が多いのに、カシミールの藩王はヒンズー教徒でインドへの帰属を求めたから。その逆のパターンだったのがインド中南部の高原にあるハイデラバードで、ここの住民はヒンズー教徒が大多数だが藩王はイスラム教徒だった。このため分離にあたってパキスタン側はハイデラバードの領有も要求していたが、48年9月にインド側が軍事占領して併合した。カシミールのように係争が続いていたら、東パキスタン、西パキスタンに加えて「中パキスタン」が登場していたかも知れない。

さて、こうして建国したパキスタンだが、宗教で国土を分けたために東ベンガル州は東パキスタンとして大きな飛び地になった。西と東はインドを挟んで1600kmも離れ、共通項は「イスラム教徒が多い」ということだけで、民族や言語も歴史も違う。さらに面積では西は東の5・5倍大きいのに、人口では西が3357万に対して東は4212万(1951年)と逆転していたから複雑だ。建国当初、東はジュートの輸出などで外貨収入の7割以上を稼いでいたが、中央政府は首都が置かれた西の開発に力を入れたため、やがて西と東の経済格差が広がっていった。また西の言葉であるウルドゥ語だけを国語と定めたため、ベンガル語を話す東の住民は差別待遇だと反発した。

パキスタンではインドとの対立の中で軍事独裁政権が続いたため、こうした東の反発を力で抑えていたが、70年に民政移管が決まり総選挙が実施されると、人口が多い東パキスタンを基盤とするアワミ連盟が勝利。軍事政権は東主導の内閣を認めるか、それとも従来の体制を武力で維持するかの決断を迫られ、後者を選択した。首都にやって来たアワミ連盟の指導者らは逮捕され、軍隊を東に派遣して抗議運動を弾圧したため、71年3月に東パキスタンは独立を宣言して内戦が始まった。

内戦は当初、近代兵器で武装した軍を持つ西が有利で、東の独立派はインドに逃げ込みゲリラ戦を続けていたが、12月にインドが「大量の難民が流入した」ことを口実に東を支援して軍事介入(第三次印パ戦争)すると、パキスタンは2週間足らずで無条件降伏して東の独立を認めた。こうして新たに300万人の死者と800万人と言われる難民を出して「ベンガル人の国」という意味のバングラデシュが誕生した。バングラデシュの人口は今では1億2000万人に達し、日本とほとんど同じにまで増えてます。飛び地のまま続いていたとしたら、スゴイですね(何が?)。

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