特集ワイド:韓流ブーム続く中、朝鮮語学者の嘆き−−元大阪外大教授・塚本勲さん
毎日新聞 2013年01月28日 東京夕刊
パソコンのない頃、私たち学生はハサミとノリを手に朝鮮語の用例を書き込んだ原稿を切っては張り、切っては張り、気の遠くなる作業を手伝った。しばしば先生は講義をすっぽかす。心配して自宅をのぞくと、カップ酒をあおっている。そばに種田山頭火の句集が転がっていた。延べ300人、23年の歳月をかけた22万語収録の「朝鮮語大辞典」(角川書店)が世に出たのは86年だった。♪芸のためなら女房も泣かす……、まるで桂春団治の世界でしたね、と水を向けると、先生、苦笑い。「青春のすべてだった。でも、すぐ韓国で海賊版が出回って、また悔しい思いをした」
日韓国交正常化が実現した65年、先生が翻訳した児童書がベストセラーになった。「ユンボギの日記」。朴正熙(パクチョンヒ)政権下の韓国・大邱(テグ)の貧しいガム売り少年の目が隣国の断面を浮き彫りにしていた。あと書きにある。<隣の国のことばを勉強するのに、こんなにムダなエネルギーをつかわなければならないのかと、なんどため息をついたかわかりません。わたくしの母は、そんなわたくしを理解できず、「おまえのチョウセン・ドウラクにはかてん」と、よくなげいていました。その母もこの翻訳の最中になくなりました。……母が生きていたら、「チョウセン・ドウラクの親不孝もの」も、ささやかなしごとをしたと、だれよりも喜んでくれたことでしょう>
「あのころ、韓国を旅しながら、何百人ものユンボギ少年を見ました。いまは想像もできないでしょうけどな。ある日、映画監督の大島渚さんから手紙がきました。彼は京大の2年先輩で、よく知ってましたから。京都の全学連の委員長で。なんだろうと思って読むと、あの『ユンボギの日記』の著作権は誰にあるのかとの問い合わせ。それは私だ、と書き送りましたよ。しばらくして、映画になりました。ああ、大島さんも亡くなりました。80でしたか」
キムチの匂う町をとぼとぼ歩く。かつてキャンパスが近くにあったからか、いろんな思いが去来するらしい。モンゴル語学科の卒業である司馬遼太郎さんについても懐かしむ。異国の地、薩摩で400年を生き抜いた朝鮮人陶工の一族を描いた小説「故郷忘(ぼう)じがたく候」。「司馬さんから電話をもらいました。<血は水よりも濃い>は朝鮮語でどう言うんや、と。直訳もありますが、<サラムン チエ ピッチュルル タルンダ(人は自分の血すじに従う)>という表現もあります、とお教えしたら、それ、おもろい、となって。小説に出てきます」