面白い論評をいただいたので、返礼として書いてみます。
イケダハヤト氏の文章がなぜ不快なのかをまじめに考えた – GoTheDistance
ぼくの創作活動の半分は「社会への復讐」でできています
なんだか全体に負のオーラが漂っている文章ですが(隊長風の文章が流行っているのでしょうか)、タイトルの「不快」というのは興味深いですね。
ぼくは特段「よっしゃ!不快感与えてやろう!」というつもりで書いているわけではありません。が、たしかに「まぁ、これを書いたら不快に思う人もいるんだろうなぁ。仕方ないわな…」とは思いながら、しばしば文章を公開していたりもします。
特にそれを感じるのが、「社会への復讐」として文章を書いているときです。知りたい人がいるようなので、詳しく解説してみます。
ぼくが文章を書くときは大きく分けて、
①「うおー!これマジで熱い!感動した!」という「紹介欲求」に駆られて筆を執るパターン
②「おげげ、最悪な体験をした。これはブログで昇華しないと…」という「復讐欲求」に駆られて筆を執るパターン
の二種類に分かれます。不快感を抱かれるのは後者の記事のようです。
後者の具体例は、最近だと「ダメ出しは公衆の面前ではなく、裏でこっそりやりましょう」なんて記事が挙げられます。
こちらは半年ぐらい前にタイトルを思い付いた下書き状態の記事だったのですが、たまたま「アドバイスという名のもと、公衆の面前でダメだししている」状況を目にしたので、「おげげー」と思って筆を執りました。
体内に、「気持ち悪い感情」をとどめておきたくないんですよね。「おげげー」と思ったら、それを何らかのかたちで吐き出さないと、エネルギーを奪われていく感じがしてしまうのです。
ぼくに限らず、こういう心理的なメカニズムは誰でももっていると思います。このメカニズムの結果生まれるのが、愚痴であり、飲み会などの下世話な話なのでしょう。
人間嫌いで露悪的なぼくは、「おげげー」の発露をブログ記事でやっているということです。
ぼくは人前で愚痴を言わない人間なのですが、それはやっぱり、ブログ上で嘔吐しているからなのでしょう。
「作品」と「嘔吐」は同根である
「嘔吐」という表現を使いました。まぁ、ようするに、こういう文章はゲ○みたいなもんなのです。そりゃ不快ですよね。
ただ、ぼくは単なるゲ○を嘔吐するのではなく、「作品」を嘔吐するようには心がけています。「創作」というプロセスが、ゲ○を作品に昇華するわけですね。
そんなモチベーションで良い作品ができるのかよ!と思われる方もいそうですが、これがあながち、いいモノができたりするんです。
たとえば昨年のヒット記事ベスト10に入った「優秀で面白い人ほど会社を辞めていく3つの理由」なんかも、「おげげー」な体験(超優秀な友人が、古くさい考えの上司に縛られていた)がもとになっています。こちらは1000人以上からいいね!を押されているので、まぁそれなりに質が高い(少なくともウェブ上では)創作物といえるのではないでしょうか。
ゲ○と作品を分け隔てる大きな壁は、それが「個人攻撃」か「社会への復讐」であるかという違いです。不快な体験をして、それをそのまま個人攻撃にしてしまうのはゲ○です。不快な体験を、体内の回路を通して「社会化」することで、「作品」が生まれるとぼくは考えています。
たとえば、「優秀で面白い人ほど会社を辞めていく3つの理由」も、もとを辿れば「ぼくの友人が古くさい考えの上司に束縛されている」という原体験があります。
だったらぼくは「○○社の××部長が最悪らしい」という記事も書けるわけですが、それはただのゲ○であって、作品とはいいがたいものです。文章からは腐臭が漂い、1000人がいいね!を付けることはないでしょう。
社会に生かされながら、復讐をする
「社会への復讐」をすることに対して、「おまえはその社会に生かされているんだ!」という批判を繰り出す人もいるでしょう。それはその通りなのです。
これはぼくの言葉ではありませんが、創作者はそうした復讐を行う特権を持っている、と考えられます。
おびただしい人々が芸術家に憧れるのは、私の考えでは、好きなことができるということのほかに、まさに社会を軽蔑しながらその社会から尊敬されるという生き方を選べるからなんだ。社会に対する特権的な復讐が許されているということだね。
ちなみに、引用した中島義道氏の作風は、まさに「社会への復讐」です。自伝的な「孤独について」にいたっては、その矛先は肉親にまで及びます。好き嫌いは激しく分かれますが、圧倒的な怨念と覚悟を感じさせる、すばらしい作家だと思います。
長々と書いてしまいましたが、ぼくの文章の一部が不快感を与えるのは、それが「社会への復讐」である以上、仕方のないことでしょう。
ということは、ぼくの文章に反感を抱くのは、ざっくりいうと「日本社会」に、盲目的に、どっぷりと浸かっている人ということになります。
それはいみじくも、冒頭で紹介したぼくに対する否定的見解にも現れているようです。彼はぼくを、「会社勤め時代にたいした成果もあげられずブログで本を薦めるだけで何の責任も負ってないイケダハヤト氏」と評しています。行間から「日本社会」のかおりが漂ってきます(おっと、個人攻撃になりかけてますね…これではゲ○です)。
ただ、ぼくが取っている道は甘くないのは明らかです。よほど器用か、よほどぶっ飛んでいるか、どちらかでないと長生きすることはできないでしょう(ぼくは器用な側です)。上で引用した中島義道氏は、下記のような厳然たる事実も指摘しています。
だが、その許された生活を続けるには、復讐のために選んだ仕事において成功しなければならない。それは文字通り背水の陣であるから、それに成功しないとき、もうあとはないんだ。そして、残酷なことに、成功しない場合がほとんどである。
そうなんです。ぼくが実践するような「社会への復讐」は、「社会的な成功」があってこそ、効力を発揮するのです。成功がなければ、みじめな人間として終わるのみです。この点においては、ぼくはまだまだ未熟なので、研鑽を積むのみです。これはもう、完全に個人の問題なので頑張るしかありません。
…というわけで、返礼も兼ねて「社会への復讐」というテーマについて書いてみました。この記事自体、ゲ○と作品の中間物みたいな中途半端なものなので、やっぱり不快感を感じる人もいるのでしょう。
でも、ぼくは発信せざるを得ない生き物なので、やっぱり今日も、公開ボタンを押してしまうのです。若いうちぐらいは、まぁいいんじゃないでしょうか。たかだかブログですし。
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