猫を償うに猫をもってせよ

2006-08-31 ヨコタ村上発言録

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 そういえば、2002年暮れ、嫌だと言ったのに謀略に引っかかってヨコタ村上孝之と同席させられたシンポジウムで、髪の前の部分を赤く染めた村上は文化相対主義を主張し、(活字化のため削除)どうやらヨコタ村上には、犬を食べるというのはFGMと同じくらい野蛮なことらしいと後で気づいた。

 私は村上とその時きっちり話をつけようと思ったのだが、酒の席になってしまい、村上は酒癖が悪いから逃げてきた。なんか私が不快感を抱いたと思った人がいたようだが、私は、酒を飲まないと話ができない奴が嫌いなのである。だいたい酒を飲んだ村上とまともな話などできるはずがないのだ。

 やはりそのシンポジウムに出ていた佐伯順子さんは、それよりずっと前のことだが、米国留学から帰って、あちらで野坂昭如の『エロ事師たち』の英訳「ポーノグラファーズ」を授業で扱った云々と話すなかで、「ノザカ」と発音していたから、この人はあれが英訳で「Nozaka」と書かれたために野坂がアメリカ大使館で本人証明がないと言われた経緯を書いた「俺はNOSAKAだ」という、蓮実重彦が『S/Z』にからめて紹介した有名な話を知らないのだなあ、と思ったものだが、実際当時の東大比較では、蓮実重彦なんか読んではいけないという雰囲気があったのだ。だから比較に籍を置いて蓮実先生の授業になんか出ていたのは、私と高木繁光くらいだったのではなかろうか。「順応主義者」は、もちろん蓮実先生の授業になんか出ないのである。そういうことを知らんのかね松浦寿輝は(しつこいね私も)。

 なお念のためハーヴァード大図書館を調べたら「Nosakaを見よ」になっていた。しかし野坂参三は「Nozaka」のまま。

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実は私は野坂さんと対談したことがあるのだが、載せるはずだったのが四谷ラウンドの雑誌で、それからほどなく潰れたので、ゲラごとお蔵入りになっている。

2006-08-24 書店の便意 このエントリーを含むブックマーク

 土屋賢二のエッセイは、おもしろくない。もう十年くらい前に、おもしろいと評判を聞いて文庫版を買ったらおもしろくないのですぐに売った。当人はいかにも笑えるつもりで書いているようなのだが、全然おかしくないのである。

 もっとも、若くてあまりものを知らない人にはおもしろいのかもしれない。実際、私は若い頃、野田秀樹鴻上尚史のエッセイがすごくおもしろかったが、今読むとまるでダメである。

 若くない人は、多くは、おもしろくないと思っている。しかしあまりそのことは言われない。なぜなら、土屋は誰も攻撃しないし、いい人のように思われているから、何となく言いにくいのである。米原万里と似ている。『週刊文春』で連載が続いているのも、いわば往年の朝日新聞の横山泰三の「社会戯評」のようなものだろう。

 さて今週は、書店でなぜ便意を催すかという話である。一般には、インクの臭いが原因だと言われているが、と書いて、それはおかしいとして、霊のせいだとまたくだらないジョークを並べていて相変わらずおもしろくない。

 土屋は、古書店図書館では便意を催さない、という。普通はそこで、新しいインクのせいではないか、と進むところだが、それはまあいい。

 私は、古書店でも便意を催すのだ。

 なぜか。

 さまざまに、買いたい本があって、しかし全部買うわけに行かないから、どれを選ぼうかという心理的重圧が便意につながるのだと、私は考えている。その証拠に、碌な本が置いていない小さな書店や古書店では、便意を催さない。大きな書店や古書店、特に、普段いきつけでないところへ行くと、激しく催す。

 それはおかしい、ならば服を買いに行っても、どれを買おうか迷って便意を催すはずだと言う人がいるかもしれない。しかし、服はたいてい、一着買うものである。それに対して、本は、金がある限り何冊も買える。だが、買いたい本をすべて買ったら財政が破綻するし、置き場所もないし、何より、買って読んだらおもしろくなかったというリスクもある。そこで、ああこれにしようか、それともこちらか、ああ本当はこの著者のこれじゃなくてあれが欲しいんだけどこれも買っておこうかというさまざまな葛藤に人は襲われる。雑誌でも、ああこの人が載っているから買いたいが、この記事だけのために買うのはもったいない、などである。

 だから、図書館では便意を催さない。

 どれを買うかという重圧が、人に便意を催させるのである。ためしに、本好きの億万長者(古い言葉だなあ)に訊いてみるがいい。気になった本を片っ端から買い込んで書庫に収めている人物は、決して便意を催さないだろう。

 しかしそうなると、競馬場でも便意を催すことになる。だが私は競馬場へ行ったことがないから知らない。

2006-08-23 書評暗黒話 このエントリーを含むブックマーク

 まだ大阪にいた、確か1998年のことである。広島に本拠地のあるさる地方新聞から書評を頼まれた。ところがその本が、その地方新聞に連載されたものを纏めたもので、しかもその書いたご当人からの依頼だったので、私もさすがに変だなあ、とは思ったものの、まあ思ったとおり書けばいいや、と思って引き受けた。

 ところが原稿を送ってほどなくそのお方から電話があり、受け取りました、と言う。そして、

「ざっくばらんに言ってですね」

 と言う。

「これだと、どうもその、一部の読者にしか関心を持ってもらえないのではないかと、そう思いまして」

 と言うのである。

 私は「広告」を書けと言われたのではない。書評を書いたのである。しかしその頃は私も、ジャーナリズムの中にはとんでもない連中がうようよいることを知らなかったので、ややむっとしながらも、じゃあそちらでいいように書き直して下さい、と言ったのだが、いま思うと、何ともはや、厚顔無恥な記者である。自分が書いた本の「書評」を「もっと褒めてくれ」と要求しておいて恬として恥じないのだから。しかもその「ざっくばらん」の口調たるや、まるで私が書評界の仁義を知らないみたいな言い方だった。

 もっともこのご仁は、その後、かなり神経のイカれたお方らしいと分かったのだが、というのは別件で電話で話していて、シナ人がいつまでも日本人の侵略を憎んでいるのに日本人は米国の原爆投下に寛大なのはなぜか、という話になり、私は、そりゃあ日米安保があるからだろう、と言ったのだが、そのご仁、「いや、広島の人々はアメリカを許していますよ」と言ってから、こう言ったのである。

「日本人は、やり方が下手ですよねえ。目の前で殺すからいつまでも憎まれるんですよ。アメリカみたいに上の方から原爆落としてれば、相手が見えないからそんなに憎まれずに済むんです」。

 キチガイ。

2006-08-18 城山三郎先生が変 このエントリーを含むブックマーク

作家・城山三郎が、角川書店のPR誌『本の旅人』に見開きの随筆を連載している。が、このところ様子がおかしい。ある回では、夕飯をとるべく電車に乗って隣の駅へ行ったら、駅を降りるとあたりは閑散としており様子が変で、帰りの電車もなくタクシーで家まで戻ったという。当人は、ボケたわけではないが不思議な体験と書いているが、それはやはりボケたのでは…と思っていると、次は、仕事で京都へ行き、帰りは自分で自由席券を買って新幹線に飛び乗り、藤沢周平の本を読んでいたら「次は新横浜」とアナウンスがあって、冗談ではないと思ったが新幹線は無情に降りるはずの小田原を通過して新横浜へ、というのだが、だいたい小田原を通過するならこだまではない。のぞみなら小田原に止まるはずはないからひかりだろうが、ひかり号が小田原に止まることは滅多にない。一日に五便くらいである。それをむやみとひかり号に飛び乗って、小田原に止まると思っているというのが、どうもおかしい。そのあとの文章も、何か乱れがある。城山先生79歳、担当編集者はどう思って掲載しているのか知らないが、もうまだらボケになっている。周囲の人々はなんとかしてほしいと思う。

2006-08-15 どちらが封印されているか このエントリーを含むブックマーク

 大江健三郎の「セヴンティーン第二部 政治少年死す」は、『文学界』掲載当時、右翼の脅迫があったため単行本にも収録されていない幻の作品とされている。しかし今では鹿砦社の『スキャンダル大戦争2』に入っている。それ以前でも、大学図書館で『文学界』のバックナンバーを見れば見られた。

 むしろ、『婦人公論』に連載された大江の通俗恋愛小説『夜よゆるやかに歩め』のほうが、閲読は困難である。webcatで調べると、国内の大学図書館では四館しか所蔵していない。私はたまたま古本屋で見つけて500円くらいで買ったが(ロマンブックス版)、いま「日本の古本屋」で見ると35000円という高値がついている。まあ『婦人公論』連載時のものを見るなら、わりに所蔵図書館は多いけれど、概してどちらがアクセス困難かといえば、後者なのである。まあだからどうということはないのだけれど。

 私は岸本葉子さんの処女作『クリスタルはきらいよ』をずっと探しているのだが、いまだ入手できない。私が学生のころ、五月祭でご本人が売っていたのだから、買っておけば良かったと悔やまれる。そうすれば、私は岸本葉子が自分で本を売っていた時に出会った、とか自慢できたのに。

 

2006-08-12 井口時男を邀撃 このエントリーを含むブックマーク

 井口時男、1953年2月3日、新潟生まれ。東北大学文学部卒。

 1983年、中上健次論で群像新人賞受賞。

 1987年7月、最初の著作『物語論/破局論』を論創社から上梓。なお5月には東工大教授・川嶋至が論創社から『文学の虚実』を上梓している。

 1990年4月、東工大教授江頭淳夫(江藤淳)が辞職し慶応大学法学部客員教授となる。

 同年12月、井口は東工大助教授となる。川嶋は江藤の世話で東工大に行ったとされる。

 2001年、川嶋至死去。66歳。

 2003年3月からの『新潮』の連載で井口は、川嶋の死を文藝雑誌が黙殺した、と論難。

 分かりやすいですね。

 井口は『危機と闘争』で、川嶋は文壇からほうむられたと書いているが、それが「事実」である根拠は示していない。単に川嶋が1979年以後、ほとんど書かなくなっていたからに過ぎないのではないかという疑問には答えてくれない。安岡章太郎を批判したために文壇からパージされた、とされてはいるが、安岡批判は1974年であり、その後も川嶋は『季刊藝術』等に書いており、それが79年からぱたりと書かなくなったのである。松原正が身をもって示しているように、パージされようとも、書けば小出版社からでも上梓することはできる。大学紀要にだって書くことはできる。

 井口は川嶋の仕事を評価した上で、今日では「事実」は、文藝評論家の手を借りなくても「文学」に異議申し立てをするようになったとして、柳美里裁判を例にあげている。しかし川嶋が第一にとりあげた安岡章太郎の『幕が下りてから』『月は東に』の例では、安岡における事実の歪曲を指摘し、人は真実を突きつけられればその痛みに耐えるが、「人が真に傷つくのは、『真実』によってではなく、むしろ虚偽のためである」としている。だが柳美里裁判は、事実を描かれたために訴えを起こしたものであり、井口の議論は既にここで齟齬を来している。

 井口はここで、モデル問題について考察している。もっとも、井口がモデル問題といっているのは、「宴のあと」のようにモデルが抗議してきたときに初めて起こる類のものだ。井口は、柳美里裁判の判決について「市民社会の成熟による文学の危機」という言葉を何度も使うのだが、「成熟」という言葉が果して適切だろうか。柳美里裁判はきわめて異例なケースである。また残念なことに井口は、諸外国でそういうモデル問題による訴訟が起きているかどうかを検証していない。実際、起きているらしいし。

 そして井口は、車谷長吉が周囲の人の誰かれ構わず事実暴露をするのは、「正義」のためであり、「市民社会」的な偽善への嫌悪からである、というのだが、合評会での井口はみごとなまでに市民社会的偽善を体現していたと私は思う。作品への批評がではなく、そこから逸脱して井口は偽善的である。「男と女の闘いでは、女に味方せよ」と言わんばかりなのである。それが現代の「市民=学者=知識人社会」の偽善の最たるものだろう。 井口は、車谷が自分自身を醜い「毒虫」として提示しているからそれができるのだ、と書いており、合評会でもそう言っている。では井口よ、初期の佐伯一麦はどうなのだ。答えてみよ。

 もっとも、どうも井口に対して松浦ほど腹がたたないのは、この人は頭が悪いのではないかと思えるからで、佐伯の例でも分かるとおり物事の整理ができず、せっかく『危機と闘争』で考えたことをすっかり忘れてしまうほどに頭がすかすかなのではないかと思うからである。

2006-08-11 松浦寿輝を追撃 このエントリーを含むブックマーク

 中村文則は二十代だし、ものごとがよく分かっていないのだろう。井口時男はどうもそんな悪辣な気がしない。いちばんたちが悪いのが松浦寿輝である。

 かつて『批評空間』の公開シンポジウムで、東浩紀が自著への松浦の書評に激怒して憤懣をぶちまけ、柄谷が「松浦なんか関係ない」となだめる一幕があった。東のその怒りがもとで鎌田哲哉とも喧嘩してしまったようなもので、しかし鎌田というのも、単著もないのになぜああでかい顔をしているのか、謎である。知里真志保の怒りについては藤本英夫『知里真志保の生涯』に詳しく書いてあって、鎌田は単によく論理の分からない文章でさらに激怒してみせたら、浅田彰が『VOICE』で「怒れる批評家の誕生」とかいって持ち上げたのでその気になったようだが、まあそれはいい。

 以前松浦が『文藝春秋』に随筆を書いていて、確か文春のベスト・エッセイ集『母のキャラメル』に入っている「心底驚いたこと」だと思うのだが、学生から、フランス語を読んでくれと言われて、みたらペッサリーの使用説明文だったという話で、印象深かったが、あとになって考えると、松浦はそんなことを教師に尋ねる学生の存在に心底怒っていて、おもしろがっている様子が少しもなく、それが意外だった。

 どうもこの人は「文学するロボット」のような印象を与える。いまこれこれこういうことをこう書けば評価されるということがデータとして入っていて、それで動いているようなのである。「花腐し」で芥川賞をとったのは2000年7月だが、ちょうど一年前に江藤淳が死んでいたのは幸いだった。蓮実重彦師匠だし、福田和也は前年の『作家の値うち』で酷評した船戸与一が同時に直木賞をとって、時評をやらなくなっていく。『文学界』で『半島』の書評をしたのは同僚の工藤庸子。

 『半島』のあとがきには「小説作品には二種類あり、厳密にその二種類しかない。地名のある小説と、ない小説である。現実の地名が出てこない『半島』は・・・」と書いてある。そういえば『坊っちゃん』にも松山という地名はないのだったな。ああ、でも「四国」があるか、と思って『半島』を見ると、「S市は瀬戸内海に向かって南に突き出した小さな半島の先端にある」。「瀬戸内海」は地名ではないのか。「アメリカアリゾナ州の広漠とした砂漠の」。これは地名ではないのか。「英国の」「アジアの」「日本の」「東京の」「ヴェトナム」「バンコク」「シンガポール」。地名、満載やないか。

 なんだか村上春樹に批判的なようだが、ここで「敵の敵は味方」というわけにはいかないのは当然だ。「敵の敵でも敵は敵」である。おお、名言かもしれない。チャーチルにとってのスターリンのようなものだな。ということは春樹はヒトラーか。

 『折口信夫論』で三島賞をとったとき、松浦は「文芸時評のようなものをやるつもりはない」と言っていた。しかしやっている。それどころか群像新人賞と文学界新人賞の選考委員までやっている。何か根本的に人間としておかしい人ではないかと思う。

2006-08-09 ふまじめな大学教師の肖像

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 ヨコタ村上孝之は、私の先輩に当たる。同僚でもあった。しかし今では、絶縁状態であり、犬猿の仲である。その理由を説明しよう。

 ヨコタ村上孝之は、もと村上孝之だった。年齢は私より三つ上、大学院で五つ先輩で、つまり私が入学した時は、博士課程の五年目になっていた。背は私と同じくらいだが、宮本亜門のような顔で、女たらしだという噂だった。私が入学して一年で、大阪大学へロシヤ語教師として赴任したのだが、後で聞いたところでは、阪大のトロツキストのロシヤ語教授(藤本和貴夫)が「酒の飲めるおもしろい奴はいないか」と訊いてきて推薦されたという。これはまあ冗談半分としても、酒癖の悪い人であることは、後に分かる。語学の才能があり、ロシヤ語、英語その他いくつかの言語を自在に操っていた。赴任する前に、後にミス大阪になったという、自分より背の高い女性と結婚し、「今までつきあった女の子全部と取り替えてもいい」と言っていたそうだ。しかし、村上が米国へ留学中に離婚した。

 私が村上について初めて強い印象を持ったのは、入学の年、佐伯順子さんの論文が研究室の雑誌の巻頭に載り、合評会で村上がこれを批評した時で、彼は、同時に刊行された佐伯さんの著書『遊女の文化史』と併せて、これを徹底的に批判した。それは決してイデオロギー的な批判ではなかったが、後で佐伯さんが村上と話したところによると、村上はマルクス主義者だったので厳しくなったというのだが、それはちと違う。この批判は、当時の『比較文学研究』に、村上による佐伯さんの本の書評として載っている。だから佐伯さんの本は、まるで私が初めて批判したかのように思っている人がいるが、そうではないのである。翌年六月の学会の懇親会へ行ったら、佐伯さんのいない席で、川本助教授が村上に、「あの書評は良かった」と言っていたのも私は聞いている。それどころか、当時米国へ留学したがっていた佐伯さんは、インディアナ大学のスミエ・ジョーンズという女性教授に本をあげて運動していたのだが、ジョーンズ教授は、はっきり私に、あの文章ではダメだ、と言っていた。つまり佐伯さんの本は、刊行当時、多くの人から、「ダメ」だと言われていたのである。それが、それから十年もたった頃には、まるで状況が変わって、村上も佐伯さん側につき、ジョーンズ教授など彼女の留学受け入れ先になっていた。

 1993年、阪大への就職の話を村上が持ってきたのは、ちょっとした偶然による。その年3月頃、私は、就職するためには先輩などに、職を探している、と言ったほうがいい、と言われた。その後で、村上宛の年賀状が、転居先不明で戻ってきた。私は改めて年賀状を書き、職を探しています、と書いた。すると6月頃、村上から電話があり、阪大で英語教師を探しているんだけど、どう? と言われて、すぐ乗ったのである。ところがその後、連絡のため電話をすると、日本語を話すけれどどうも外国人らしい女性が出たのである。村上に、今の女性は? と訊くと、女房だよ、と言うので、おやあ村上さんの奥さんは日本人だったはずだが、と不思議に思いつつ、さすがに当人に訊くのは憚られた。これが村上より年上の、GYという日系米国人の、阪大の教師だった。後から聞いた話では、村上は最初の夫人連れで米国に留学し、その際「女房に逃げられた」と本人は言っていたが、他の人の話では、村上が追い返した、といい、同時期米国に留学していたGYは、以前日本人と結婚していたが別れた人で、米国で村上と「できた」のは分かったが、それが前夫人との離婚の前なのか後なのかは分からない。またGYは妊娠したが流産して、夫婦ともにその時の嘆きは大きかったという。村上の最初の著書は、この流産した子に捧げられている。

 94年春に、私が赴任する前、住居を定めに大阪へ行って、村上と一杯やった。村上は、もう前からだったが、言葉のセクハラの激しい人物だった。その時も、私が、当時四十くらいになる美しい女性の先輩がまだ独身だと話したら、「えっ、Xさん、まだ一人なの? 僕が貫通してあげるー」とか言うのである。あるいは赴任後の酒の席でも、「小谷野くん、セックスフレンドを持てやー、セックスはええぞー」などと言う。それでいて、どうもフェミニストっぽいことを言うのである。それにはGYの影響もあったと思う。さて、ちょうど私が赴任したころ、二人はその姓を結合させて、ヨコタ村上という長い姓を名乗っていた。正式に裁判所で認めてもらったらしい。まだ赴任したての頃、彼は私の年齢を聞いて「えっ? そんなになってるの? なーんだ、君は、落第野郎か」と言ったのであるが、実に困った男ながら、しばらくは、悪意のない、いたずら小僧のような人だと思っていた。しかしその毒舌は、公益性はないし、洒落にならないことがあった。ドイツ語教師の同僚同士が結婚したことがあった。女性のほうは、私と同期で、ちょっとかわいい子だったが、村上は男のほうに、「なんでTさんなんかと結婚したんだ。あんなブスと」と言ったというのである。私が呆れて、それはひどい、と言ったら「うん、僕もちょっと反省してる」と言っていた。私の後から入ってきた英語のYくんが、「小谷野さん、東大比較ってのはどういうところなんですか。村上みたいな変な奴を出して」と憤懣を露にしていたこともある。軽薄で、助平で、女にもてるという、徳川時代の遊冶郎そのもののような男だった。

 ある時、その妻のGYさんが、「彼は日本でもアメリカでも、セックスは抑圧されている、と感じているの。でも私はそれには反対で、むしろ小谷野派なんです」と言った。村上は、プリンストン大学で博士号を取得しており、私が、日本で出版しないんですか、と訊いたら、特に当てはないと言うので、ある出版社に紹介した。もっとも私の紹介だけでは足りなかったようで、もう一人が紹介して、九七年十一月に本が出た。しかし、一読して私は呆れた。博士論文を日本語として出すということで紹介したのに、それとは違う本になっている。しかも、記述も論証も全体に杜撰。ほどなく、阪大大学院の紀要編集委員の院生から、村上と、お互いの本の書評を書いてくれと言われ、もちろんかなり酷評した。ところが村上はその編集委員だったので、先にこれを読んで、報復的な奇妙な書評を書いてきた。「もてるというのは、タダでセックスができること」と書いてあったのはここである。

 それが二月頃で、同じ頃、比較文学会関西支部例会で、壇上で相互書評をやってくれと頼まれ、出掛けていった。結果として、大勢の人の前での激しい応酬になった。私は村上の本に、コンドームというのをなぜ人は嫌がるのだろう、などと書いてあったから、それは男としては当然でしょう、と言うと、いや、コンドームを付けていても付けていなくても同じだ、と僕は主張している

んだ、女房相手に実験したんだ、きみはセックスしたことないんやろ、と言ったのである。もう十分なセクハラである。だいたい妻に対しても、いいのか。

 もう一つ、彼はその本のあとがきで、従来のアカデミズムを否定する立場に立つので、一般向けの書き方をした、と書いていたが、実は既に博士論文は英語で刊行されていたのだ。私は、おかしいではないか、と言うと、「それは、このテクストの書き手と僕個人を混同しているんだね」と言う。呆れた無責任ポストモダニズムである。さらに同じ頃村上は、二冊の入門書で、比較文学は国家という単位を元にして作られた学問だから、やめてしまえ、と書いていた。私は、代案を出すならともかく、入門書でこんな放り出すような書き方をしておいて、それならあなたが比較文学会にいるのはおかしいではないか、と言ったら、「今まで比較文学会を辞めようと思ったことはある」云々と説明を始めるから、「なぜ辞めなかったのですか」と問うと、「まあ、人間関係で・・・」と口を濁した。

 こうして次第に私と村上の関係は悪化していった。その後ある事件が起きて、以後絶縁状態なのである。当人のホームページには、今なお、息子のオナニーに絶頂はあるか? などという文章が載っているが、息子の人権侵害ではないか? また、そこにもある通り、現在は三人目のロシヤ人妻がいる。

 今回の新刊での夏目房之介への反論をみても、相変わらずである。村上の「ふまじめさ」というのはレトリックではなくて、本性なのである。だから村上と論争をしても、彼にはまじめに議論をする気がないのだから、勝てるはずがないのである。恐るべし。

2006-08-07 「悲望」批評総括 このエントリーを含むブックマーク

 文藝雑誌は毎月七日発売である、などということは多くの人は知らないだろう。『文学界』と『群像』に「悲望」評が出たので、所感(弁明?)を述べておきたい。それにしても、雑誌に何かが載っただけでいろいろ評してもらえるというのは、小説家というのはずいぶん甘やかされているんだな、と思った。ただ全体に対して何か言うのは時期尚早あるいは不要なので、気になった箇所だけ触れる。

 『文学界』の「新人小説月評」は、森孝雅と福嶋亮大。森は、甘んじて受けると言っておいた、小説になっていないという評。しかし、「もう少し時間をおいて、作品として差し出すことはできなかったのか。あるいは、どうしても今、これを書かねばならない事情があったのか」と結ばれているが、別にワインではないのだから時間をおけば小説になるというものではないと思う。小説になっていないとすれば、私に才能がないからに過ぎない。あれは十年くらい前に書いて、二年ほど前に抜本的手直しをしたものだ。事情は別にない。森孝雅というのは、調べてみたら16年も前に群像新人賞をとっているが、以後鳴かず飛ばずで、なんか最近また書き始めたようだが、単著はもちろんない。何をしていたのだろう。長期療養でもしていたなら仕方ないが。

 福嶋のほうは、概して褒めているような気がするのだが、ヒロインが「少し病的な潔癖症だった」と書いている。私は「極端な潔癖症」とは書いたが「病的」とは書いていない。もうひとつ、田中和生の連載がこれに触れている。しかし例によってフェミニズム批評なのであまり得るところはない。特に、人間関係が破綻に至った「原因は女性にあるかのように描かれる」とあるが、そうか? 実は私が『三田文学』に「倫理、恋、文学」を連載していた時、最後のころ担当が田中だった。もっとも表面的な担当でしかなかったからやりとりはまったくしていないが、一度田中はこの連載について総括すべきではあるまいか。

 『週刊読書人』の「文芸 8月」はおなじみの陣野俊史。「そもそも小谷野はこの小説を書く必要があったのだろうか」として、文中の藤井の「名をあげたい」という野心の箇所を引用して、「小谷野敦の名前ぐらい、もう誰でも知っている。・・・とすれば、この小説を書いた意味が分からない」。いや誰でも知ってはいないだろうが、なんか作者と主人公をまた平然と一緒にしているし、陣野は私が名をあげたくて小説を書いたと思っているのか? では蓮実重彦中村光夫もそうだったのか? ところがそのあとで陣野は「小谷野はたぶんこの文章を書かねばならなかったのだろうが」とあって、どうも前と整合していない。なんだかこの文章全体が、締め切りに追われて書いたようなところがあって、最後に、伊藤たかみ芥川賞受賞作をこの欄で扱わなかった、と言い「不明を恥じたいと思う」「すみません」と書いているのだが、芥川賞受賞作だから名作だとでもいうのだろうか。いったい文藝評論家の自律性はどこにあるのか。陣野さん、しっかりしてください。(ここで、陣野さん、今は作家のほうが大学教授になりやすいでしょう。だから小説家を目指すんです、と言ったらどんな顔をするだろうか。悲しい顔をするような気がする)

 (中略。活字化のため)

 『もてない男』以来、私はそういう女性を対象としてものを言ってきたから、それでしばしば齟齬が生じたのだと今改めて気づいた。「順応主義者」云々と書いたことなどを「ずいぶん失礼」と、松浦と井口が言っているが、学者として成功する者が往々にして順応主義者であることくらい、松浦が知らないはずはない。

 かつて『<男の恋>の文学史』を大越愛子に送ったとき、手紙が来て、「フェミニズムの一番弱い部分を突かれたと思った」と言いつつ「このことはご内聞に」と書いてあったのを、この機会にばらす。要するにその弱い部分は、いまだ解決がつかないままなのである。

 ところで今まで遠慮してきたのだが、松浦寿輝、詩でも評論でも小説でもたくさん賞を貰っているが、私はひとつとして面白いと思ったことがない。これは書いたことがあるが、『折口信夫論』なんか何を言っているのかさっぱり分からない。第二の日野啓三になるのだろうか。

2006-08-03 大小 このエントリーを含むブックマーク

 四代目鶴屋南北の「大南北」は、孫の五代目南北を「孫太郎南北」というのに対するもので、「おおなんぼく」と読むようだ。

 明治大正期の市村座の座主で、遂に松竹に併呑された田村成義は「大田村」と呼ばれたが、これは息子の寿二郎が「小田村」だったから。ただしこれは「だいたむら」ではなく「おおたむら」「こたむら」だろう。

 仮に川端康成の弟か息子が作家だったとしても、「大川端」ではまるで小山内薫の小説のよう、おかしくて言えまい。今東光今日出海は兄弟で作家だが、これを「だいこん」「しょうこん」と言ったらおかしい。歌舞伎の屋号では中村雀右衛門が「京屋」だが、「大成駒」のように「大京」と言ったらなんだか観光会社のようだし、言えない。大岡信大岡玲は親子だが、「大大岡」「小大岡」だとやっぱりおかしい。それに大岡昇平もいるし。

 言えないものは言わないのである、とヴィトゲンシュタインは言った(嘘)。