注意深い読者の方々は気付いた人もいるかもしれませんが、2週間ほど前から「僕」ではなく「ぼく」を使うようにしています。
ひらがなを使った読みやすい文章を
理由はシンプルで、なるべく文章のなかから漢字を減らしたいんですよね。昔からのクセなんですが、ついむずかしいことばを使って、「知的な文章」を書いてしまいたくなるんです。しかしながら、みなさんもご存知のとおり、そうした文章はざんねんながら読みにくく、伝わり文章になってしまいがちです。
…という上の文章も、むずかしく書こうと思うとこんな感じになります。
理由は単純で、極力、文章の中から漢字を削減したいんですよね。昔からの悪癖なんですが、つい衒学的な表現を多用して、「知的な文章」を書いてしまいたくなるんです。しかしながら、周知のように、こうした文章は理解、視認しにくいものであり、読者との間に無意識的に障壁を築いてしまうようなものです。
ひらがなとカタカナと漢字がいいバランスに配合された文章は、頭のなかにスッと入ってくる文章になります。空気のような文章、もしくは水のような文章とでもいいましょうか。読者のからだに負荷をかけない、やさしく、やわらかい文字列です。
本を書いていると特に感じるのですが、「僕」を使わないという単純な解決策ですら、文章はかなり読みやすくなります。今書いている本は途中まで「僕」だったのですが、思い直して「ぼく」に置換したところ、だいぶ全体の印象が変わったんですよね。本を読んでいて、目のなかに砂ぼこりが入らないようになる、というか。
よく言われるように、むずかしいことをむずかしく語るのは簡単です。むずかしいことを、かんたんに語るのが、真にむずかしいことなのです。
それはひらがな、カタカナ、漢字をバランスよく配合する、というシンプルな話にも通じるものです。
もっともっと厳しくいえば、過去の自分を振り返ってみても、難しいことばを使って「知性」を装おうとする人は、自分に自信がない人です。
文章という身近な道具で、自分を着飾って、コミュニケーションを遮断しているわけですね。「わからないおまえが悪い」「おれは知性のあるやつとしか付き合いたくないんだ」うんぬん。
彼らはなにをするにも「上から目線」でいないと落ち着かないという、悲しい人たちです。ぼくはせめて文章くらいは、読みやすいよう配慮し、壁をつくらないようにしたいと考えています。
関連本。この本を読んだことも「ぼく」にピボットしたきっかけでした。翻訳について書かれた本ですが、文章を仕事にしている人は読んでおくべき一冊です。日本語の扱いについて考え方が変わると思います。