2002年 オリンピック・パラリンピックを日本で! TOKYO●2020 楽しい公約

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楽しい公約とは

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私は、東京招致できたら

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ロンドン五輪体操男子個人総合で、日本人として28年ぶりの金メダルを獲得した内村航平。身長160cm、体重54kgの小さな体には、チャンピオンになるための必要十分条件がパーフェクトに備わっている。 技を習得するスピードは随一。空中感覚の精確さは、世界のライバルをして「コウヘイの目がとらえている光景は想像すらできない」と言わしめるほど。それぞれの種目に応じて必要な筋肉を引き出し、いとも簡単に使いこなす。「究極のジムナスト(体操選手)」と呼ばれるにふさわしいアスリートだ。

だが、内村の能力はそれだけにとどまらない。 「五輪では、一番練習した人が絶対に勝つ。結果を気にするのではなく、一番の練習をする。練習に練習を重ねて、その中で僕という選手を知ってもらいたい。その結果が金メダルにつながるのだと思っている」 北京五輪で銀メダルを獲得して以来、ロンドン五輪を迎えるまでの4年間、内村が繰り返し口にしてきた言葉である。つまり、毎日コツコツと努力を重ねること。目標に向かって一切の妥協なく邁進できることが、内村の強みなのだ。 もちろん、言葉だけではない。日本代表仲間や、所属するKONAMI体操部の同僚、コーチ陣がそろって「航平の練習は質も量もすごい」「練習姿勢で皆を引っ張っている」と話していた。 万全の準備をし、一点の曇りもなく臨んだロンドン五輪。だが、内村は思いもよらぬ苦しみに見舞われた。

競技初日の団体総合予選では、鉄棒とあん馬で落下した。抜群の安定感を誇る彼が一日に2度落下するなど、今までになかったことだ。 「いつ、どこでやっても失敗しない選手が理想」と話していた内村にとっては痛恨のミスだった。 苦境は予選から2日後の団体決勝でも続いた。日本は2種目めの跳馬で、内村に続く2番手の実力を持つ山室光史が着地に失敗し、左足第2中足骨を骨折するアクシデントに見舞われ、残りの4種目を1人欠けた状態で戦わなければならなくなった。 ただ一人、6種目すべてを行うエースにのしかかる重圧は、さらに増した。続く平行棒、鉄棒、ゆかでは高得点をマークしたものの、最大の試練が最後の種目となったあん馬で訪れた。降り技で大きくバランスを崩してしまったのだ。 日本は北京五輪に続いて中国の後塵を拝することになり、銀メダルに終わった。

「今までやってきたことは何だったのだろう」 自問し、悩む内村を支えたのは、自他ともに認める「世界一の練習」だった。 団体決勝から中1日で行なわれた個人総合でもミスは完全にはなくならなかったが、それでも2位の選手に大差をつけて金メダルを獲得した。日頃の練習で培ってきた地力が、他の選手とは一線を画す異次元のレベルに達していたからこその結果だった。

種目別ゆかの銀メダルと合わせ、ロンドン五輪での内村のメダルは金1、銀2。北京五輪と合わせると、金1、銀4になった。 内村はリオデジャネイロ五輪でも金メダルを目指すことを明言している。加えて、「2020年が東京五輪になったら、そこまで現役でいたい」とも話している。 誰よりも練習する不世出のジムナストは、光り輝く未来を見据えている。

文・矢内由美子

表彰式後、会場ロビーへ出ると、吉田の母・幸代さんとバッタリ会った。4年前、拙著『吉田沙保里 119連勝の方程式』の取材中、私は何度か吉田家を取材している。その後も機会があるごとに幸代さんの話を聞いていただけに、気心は知れている。ハグしながら、喜びを分かち合った。 8月9日(現地時間)、ロンドンオリンピック女子55キロ級で吉田は金メダルを獲得した。アテネ、北京に続くV3。しかも、対戦相手にワンポイントも与えぬ完全優勝だった。これを順当と見る向きもあるが、周囲の見方は違っていた。目を真っ赤に腫らしながら、栄和人監督は今度こそ危ないと思っていたと本音を吐露した。「5月の(ワールドカップでの)敗北が尾を引き、トンネルを抜けきれない状態だった」

オリンピック開幕の1週間ほど前、栄監督と食事をする機会があった。少数精鋭の壮行会だったが、栄監督は体調を崩しており、箸も進んでいなかった。周囲から見ても、朝から顔色が悪かったという。開催日が近づくにつれ、高まる一方のプレッシャーと格闘しているように思えてならなかった。

案の定、不安材料はいくつもあった。5月には団体戦ながら”ロシアの伏兵”ワレリア・ジョボロワに吉田はまさかの敗北を喫した。昨年トルコで行われた世界選手権の決勝ではカナダのトーニャ・バービックにあと一歩というところまで追い込まれた。 原因はひとつ。得意技であるタックルを徹底的に研究されていたのだ。吉田はカウンターの名手。対戦相手が攻めてきたタイミングでタックルを決めるのが得意だ。他国のコーチ陣はこの一点に注目したのだろう。彼らが立てた対策はジラしにジラして吉田の攻撃を待つというものだった。待てど待てど攻めてこない対戦相手に、吉田はリズムを崩して失点を許した。

ロンドンオリンピックに向け、近い間合いでの闘いを模索していたことも響いた。テクニックの幅を広げることは決して悪いことではないが、至近距離からだと持ち前の高速タックルを加速させることはできない。ワールドカップ前、吉田は不安で一杯だった。 「近間からタックルに入ろうとするとスピードがなく、入っても止まってしまったりするかもしれない。そうなると、タックルを返されてしまうのかなと考えてしまった」 同じ過ちを繰り返すことはできない。悩んだ末に吉田は高速タックルを復活させるべく、元の距離で闘う戦法に戻した。それでも、不安が消え去ることはなく、決戦前夜吉田の眠りは浅かった。目をつむると対戦相手の顔が浮かび上がり、頭から離れなかった。 当日朝、吉田が携帯をチェックすると、母からのメールが届いていた。 「自分に自信を持って。勝とうと思わないで。絶対に負けないから焦らないで」 気持ちが安らいだ吉田はすぐ返信した。 「今回は今までで一番緊張しています。でも、たくさんの人たちからの応援がある。悔いがないように試合に臨みたい」

吉田は開き直っていた。勝負師として、覚悟を決めたのだ。迷いから脱した女王に怖いものはなかった。準決勝まで少ないポイントでの勝負が続いたのは、大人のレスリングに徹したからにほかならない。大技を狙わず、相手の出方に応じたカウンター攻撃によってポイントを奪う。準決勝ではジョボロワへのリベンジを果たした。 そして迎えた決勝戦。吉田は昨年の世界選手権で苦戦したバービッグから第1ピリオドに会心の高速タックルを決め、3ポイントを奪った。近い間合いだったらともかく、遠い間合いだとジラし作戦は通じない。続く第2ピリオドでも吉田は押し出しで1ポイントをとり、好敵手を突き放した。吉田は賢いレスリングができたかなと激闘を振り返った。 「様々なスタイルに取り組んで本当に良かった。いろいろなことをやって失敗してきたからこそロンドンで成功することができた」 私は思う。ロンドンで獲得した金メダルが一番輝いているのではないかと。

文・布施鋼治

全日本には魔物が棲んでいる—。 福原愛がその言葉を実感するようになったのは、10代の半ばからだろうか。毎年優勝候補にあげられながら、頂点に立つことができない。周囲の期待がふくらめばふくらむほど、全日本で勝てないことが彼女にとって最大の重圧であり、苦しみになった。 「オリンピックイヤーの今年はずっと高い目標をもって練習してきました。今回優勝できなかったら、もう一生無理だろうなとは思っていました」 ロンドン五輪で日本卓球史上初の銀メダルを獲得した彼女が「最高の一年だった」と振り返る2012年は、その全日本で初めて皇后杯を手にすることから始まった。 北京五輪のあとは不調を引きずっていた時期もあったが、苦手とされたフォアハンドの強化と、新たに取り組んだフィジカルトレーニングが彼女の卓球を少しずつ変えつつあった。その手応えが彼女の心境に変化を与えていたのか、福原は「いつもは組み合わせ表に何度も目を通していたのですが、今年は自分の組を一度確認しただけでした。目の前の試合に集中して戦っていくことだけを考えていました」と振り返る。

大会が開幕すると、福原は圧倒的な強さで勝ち進んだ。準決勝でぶつかった平野早矢香をストレートでくだすと、決勝で前年覇者の石川佳純との頂上対決に挑んだ。 福原はスピードと力感あふれるフォアを中心に石川を圧倒していくのだが、試合の途中から不思議な感覚に包まれる。 「相手は目の前にいる石川さんなのに、いつのまにか、自分自身と戦っているような感覚になってきたんです。やってきたことをすべて出そう、逃げるな、攻め続けようって。試合に集中すればするほど、その感覚が強くなってきました。初めての感覚でした」 その結果、石川が「ボールが速くてなにもできなかった」と語るほど一方的な内容で、福原は初優勝を飾った。

そして全日本王者として臨んだロンドン五輪で、福原はあのときと同じ感覚に襲われた。団体準決勝のシンガポール戦、トップでシングルス銅メダリストのファン・ティンウェイに挑んだときだ。 「あっ、あのときの感覚に似ている」 ネットを挟んで対峙しているのは、この4年間で1勝9敗と完敗していたファン・ティンウェイではない。3歳8カ月で卓球を始め、多くの辛苦を味わいながら、一つひとつ階段をのぼってきた自分自身と今、私は戦っている……。 結果、福原は個人銅メダリストを圧倒した。得意のバックハンドの正確さに加え、磨きをかけたフォアハンドの力強さ、そして最後まで途切れなかった集中力……。日本に勢いをつけた値千金の勝利は、彼女の集大成でもあった。 「全日本はプレッシャーの塊ですが、オリンピックは夢に見る世界なので全然違うんです。その全日本で最高のプレーができた経験があったから、銀メダルを獲得することができたんだと思います」

ロンドン五輪のあと、彼女は「卓球を20年やってきてようやく夢が叶った。今はちょうどトラックを1周してまっさらな状態に戻った感じです」と語った。現在は痛めていた右ひじを手術し、2周目のスタートを切ったばかりだ。 「これからは楽しむためにやっていきたい。これまでのように苦しんでやるのなら、もうやめてもいいと思える結果をロンドンで残しましたから」 そうした感慨を口にできるのも、全日本の呪縛から解放された証左ではないだろうか。

文・城島充

7月30日のロンドン。男子100m背泳ぎ決勝で3位になった入江陵介はレース後、記者の前で嗚咽して言葉を詰まらせた。 「4年前からずっと次のエースと言われ続けた中でなかなか金メダルが獲れなかったり、勝負どころでメダルを獲れなかったりというのがあったので。今日もレース前には『北京の時のような結果だったらどうしよう』というのが頭をよぎったけど、五輪の表彰台へ上がれたというのは自分自身が進歩した証だと思うから。タイムは遅かったけど、それを素直に喜びたいと思います」 準決勝4位通過で6レーンの入江は、内側の5レーンを泳ぐ11年世界王者のカミーレ・ラクール(フランス)をマーク。前半から飛ばす相手を計算通りに最後で交わした。だがその前にマシュー・グルーバースとニック・トマソンのアメリカ勢がゴールしていた。  狙っていた金メダルには届かなかった悔しさはあり、52秒97のタイムも不満だった。だがそれよりも、ライバルに競り勝ってのメダル獲得に安堵する気持ちも強かった。

昨年の世界選手権で100m銅と200m銀メダルを獲得して以来、入江は金メダル獲得を公言していた。狙うのは得意な200mでライバルは世界選手権で完敗したライアン・ロクテ(アメリカ)。どこかで先手をとって彼を慌てさせるためにと、100mの強化も意識した。さらに本番へ向けては「できれば100mでも優勝して、勢いをつけて勝負に臨みたい」という野望まで、胸の内には秘めていたのだ。 だが、誤算が生じた。 「正直にいえば、ギリギリでしたね。4月の日本選手権が終わってからは喘息が出てしまい、6月のセッテコリ国際の前には左肩を痛めてしまって。左手の感覚がなくなって、練習をしていてもずっと違和感が続いていた。でもそれを誰にも言えなかったし。ずっと不安で、孤独で……。苦しかったんです」 体調が戻り始めたのは、7月中旬。本番直前の最終合宿へ入ってからだった。メダルを期待されながらも万全に仕上げられなかった現実。精神的にも追い込まれた状態の中で、最低限のノルマとも言える銅メダル獲得を果たした安堵感が、彼に涙を流させたのだ。

その3日後の200m決勝。またしても6レーンになった入江は、隣の5レーンを泳ぐロクテにピタリと食らい付いた。相手の強い部分と警戒していた100〜150mの泳ぎも0秒01差に止め、150mのターンは0秒23差。そこから自分の持ち味と自負するラスト50mで追い込み、0秒16差だけ交わして1分53秒78でゴールした。だがまたしても、入江の名前の横に1という数字は点灯しなかった。昨年の世界選手権では0秒58差を付けて勝っていた4レーンのテイラー・クラリー(アメリカ)が、0秒37速くタッチ板を叩いていたのだ。 「クラリーの調子がいいのはわかっていたし、途中から前に出たのもかすかに見えていたけど、僕は落ち着いて最後のラストスパートに賭けていたので……。優勝できなくて悔しい思いもすごくあるけど、力は出し切った中での2位なので胸を張っていいと思います」 ただ、宿敵のロクテに勝ったとはいえ、彼のベスト記録の1分52秒96を上回った訳ではなく1位でもなかったから、まだ彼の方が力は上だし、勝負付けも終わってはいないと素直に受け止めたいとも言う。 「でも僕の五輪は終わりではないし、リオまでやるつもりだから……。この悔しさを忘れずに、4年後はさらに強くなった自分をリオで見せられるように頑張りたいですね」

大会前、王者・北島康介のあとを次ぐエースになるためには、2種目で金メダルを獲るような選手にならなければいけないと話していた入江。メドレーリレーを含めたロンドンの3個のメダルは、その思いをさらに強固にするための原動力にもなるはずだ。

文・折山淑美

ロンドン五輪で日本柔道界は不振にあえいでいた。金メダルに一番近いと言われた福見友子のまさかの5位で幕が開けると、男子は史上初の金メダルなしという悪い予感がついぞ外れることはなかった。世界の“JUDO”の台頭と対照的に柔道の母国・日本の地盤沈下が露わになった大会だった。 そんな停滞ムードから何とか日本を救ったのが、唯一金メダルを首にかけた松本薫だった。

松本のトレードマークは、相手を射抜くような鋭い眼光。心の奥から湧き上がる闘争本能の表出だ。その光の強さが、試合を重ねるごとに増して行くように見えた。五輪という一世一代の大勝負に立ち向かう覚悟が波動となって伝わって来るかのようだった。 1、2、3回戦を技ありで、準決勝はA・バビア(フランス)を有効で下す。そして、C・カプリオリ(ルーマニア)との決勝。両者譲らぬ一進一退の攻防は5分間で決着が付かず、3分間の延長戦に入った。 この切迫した場面に至り、松本の柔道の真価が発揮される。最後の最後でカプリオリは、相手の軸足を刈る危険行為によって、よもやの反則を犯してしまった。そうするしかなかった。松本から受ける決して途切れることのない殺気のような圧力に屈したからに違いない。 松本が所属するフォーリーフジャパンの津沢寿志監督がかつて言っていた「相手をどんどん攻撃して追い詰めて行く」松本柔道が、大輪を咲かせた瞬間だった。勝負が決すると、あの眼光はどこへやら。松本の相貌は、破顔ののち、うれし涙に暮れた。

金メダルでなければ認められない日の丸を背負うことの重圧の中で、日本勢はどこか浮き足立っているように見えた。そんなキリキリと追い詰められて行くような空気を突き破ってしまった松本は、どこが違ったのか。現場にずっといて、そんな疑問がぼんやりと頭の中を行ったり来たりしていた。 精密な分析というよりも、半眼のような“引き”の心持ちになってみる。そのうち立ち上って来たのは、松本柔道の地に足の着いたイメージだった。浮き足立つというイメージとは逆の。その正体は何なのかと考えれば、“心技体”のうちの“心”に帰結するのかもしれないとも思った。 そう納得させられたのが、メダリスト会見で松本が発したこの言葉だった。

「気持ちが技術に勝ったのだと思います」

このときの誇らしげで、堂々とした口調は、言葉が深い感慨から出ていることを物語っていた。 もしかすると、ロンドンの畳の上で、ある種の揺るぎない集中の中に没入することができたのかもしれない。 松本はかつて「少しずつ柔道を楽しむようになって来たら、自然と笑顔が出て、そしたら相手が見えるようになったんです。技を掛けた時に先に読めたりするようになったんです」と語っていた。ロンドンに向けては「邪念を振り払う」ことをテーマにしている節があった。 勢い余ってケガをしてしまうほどの荒ぶる闘争本能は、松本の本質的な魅力の1つだが、それを手なずけるもう一段上の境地に上がることができた——そうなのだとすると、これからの松本からは、ますます目が離せなくなる。

文・高野祐太

ともに戦う仲間たちに、メダルをプレゼントしたい。ロンドンで太田雄貴を突き動か したのは、その熱い思いだった。 08年北京五輪で予想以上の快進撃を見せ、上位ランカーを接戦の末に破って銀メダルを獲得した太田。日本フェンシング界の歴史的な快挙を果たしたにもかかわらず、「ロンドンでは金」という野望を持った。その前段階として優勝を狙った、フェンシング発祥の地フランスで開催された10年世界選手権では銅メダルに止まっただけに、その思いはさらに強くなっていた。

だが最初の個人戦は厳しかった。五輪イヤーに入ってから調子を落としていた太田は、本番直前のワールドカップ数試合の出場を回避し、ジックリとトレーニングを積んでロンドンに備える作戦をとった。 「ロンドンに賭けてきたから、数試合飛ばして世界ランキングが下がってもいい。誰と当たってもいいと思い、腹を括る状況に自分を追い込んだんです」 五輪直前の世界ランキングは16位で、大会では第15シードだった。最初の2回戦は調子が上がっていない北京王者のベンジャミン・クライブリンク(ドイツ)を15対5で破ったが、続く3回戦は世界ランキング1位のアンドレア・カッサーラ(イタリア)だった。 その強敵を相手に一進一退の戦いを繰り広げた太田は、第3ピリオドの残り1秒を切って14対14に追いついた。だが延長の一本勝負を相手に取られてベスト8進出を逃したのだ。 「一本勝負を拾えればメダルまでいけるかなと思ったけど、向こうも人生がかかっているから。これがスポーツの世界だから、しかたないですね」 こう話す太田は、悔しさを噛みしめながらもう一つの目標である団体に向けての意識をさらに高めようとしていた。

団体戦もまた、太田だけではなく日本フェンシング界にとって重要な種目だった。 様々な局面で彼の精神的な支えになってくれた先輩の福田佑輔らとともに、07年には一時、国別ランキングで1位になったこともある。だが北京五輪で男子フルーレ団体は実施されず、せっかくのメダル獲得の機会を逃していたのだ。その無念さもあり、日本チームは団体のメダルを最大の目標にしていた。 だが11年には3位をキープしていた日本も、大会前にはランキングを7位まで落としていた。そのために緒戦はランキング2位で、個人戦優勝の雷声と世界ランキング3位の馬剣飛を擁する中国との対戦という厳しいスタートになった。 だが太田の気迫に引っ張られた選手たちは、個人戦とは段違いのキレを取り戻していた。千田が第4ピリオドで馬から10点を取って大量リードすると、そのまま一気に45対30で勝利したのだ。そして接戦となった準決勝の対ドイツ戦は、最後の太田が逆転を許しながらもラスト1秒で40対40と追いつき、延長の一本勝負でポイントを取って決勝進出を決めた。 「最後は運が味方してくれたというのが正直なところだが、チームのみんなにメダルを手にしてもらいたかった。特に地元が大震災で被災した千田健太には、『メダルを獲って俺も気仙沼へ行くぞ』と話していたから。健太にメダルをプレゼントしたかったんです」 個人戦の一本勝負で敗れた時は「北京に比べてハングリーさが足りなかった」と話した太田。団体でメダル獲得を決めた一本勝負は、自分以外の力も背中を押してくれたのだ。

決勝ではランキング1位のイタリアに健闘しながらも敗れて2位となった。表彰台から降りると直ぐ、太田はひとりだけ首にかけていた銀メダルを外した。 自身にとっては北京に続く2個目の銀メダル。日本フェンシングのエースとして「仲間たちにメダルをプレゼントする」という大きな目標を果たした彼の、金メダルを本気で狙おうとする次の戦いへの決意だった。そしてそれはチームメイトへの「まだ上はある。これで満足してはいけない」という無言のメッセージでもあったはずだ。

文・折山淑美

眞鍋政義監督率いる女子バレー日本代表チームにとって、その日は運命の日だった。 2012年8月7日。 「今日がすべて。ここまでの4年間、このチームがやってきたすべてが出る日だぞ。今日に日本女子バレーのすべてが懸かっているんだ」 眞鍋監督の言葉は、決して大げさなものではなかった。1984年のロス五輪以降メダルから遠ざかり、シドニーでは出場権を逸し、アテネ、北京はともに準々決勝で敗れ5位に終わった。 メダル獲得を夢ではなく目標として掲げる以上、絶対に突破しなければならない第一の壁が、8月7日、中国との準々決勝だった。 キャプテンの荒木絵里香が「あの緊張感を思い出すだけでも怖くなる」と回顧するように、“運命の日”は独特の緊張感に包まれていた。 絶対に負けられない試合。 大事な、大事な一戦で、勝利のために獅子奮迅の活躍を見せたのがエースの木村沙織だ。

高校在学中にアテネ五輪へ出場し、攻撃だけでなくサーブレシーブもソツなくこなす安定感に加え、巧みな技術を併せ持つ。“天才”と称されるにふさわしい、周知は誰もが「エース」と認める存在なのだが、木村自身の考えは違った。 「エースと言われても、自分はそうじゃないと思っていたんです。でも眞鍋さんから『このチームはお前次第。お前が良ければ勝つし、悪ければ負ける』と言われてから、本当にそうかもしれない、と意識するようになりました」 マークが厳しい中でも、自分が決める。江畑幸子や迫田さおりなど、自分よりも年下の選手が増えるにつれ、より強い責任感を抱くようになった。

その過程で、人生初というスランプにも見舞われた。 オリンピックを翌年に控えた2011年の夏、攻撃のスピードを重視するあまり、トスの軌道が低くなり、打点のポイントが限られたことにより、本来の木村が持つ技を思うように発揮できない場面が目立った。数字になって現れる決定率、効果率も顕著に下がり、常にコートに立ち続けるはずの絶対エースであるにも関わらず、アジア選手権やワールドグランプリでは途中交代を命じられることすらあった。 「こんな自分じゃ、もう誰も信頼してくれないのかもしれない」 打ちたいのに打てないジレンマ。エースとしての葛藤。苦しむ木村を救ったのが、セッターの竹下佳江が発したひと言だった。 「いつだって沙織を信頼しているよ。沙織のことを助けたいと思っているから、トスで気になることがあれば、何でも言ってほしい」

試行錯誤を重ねた結果、大一番のロンドン、中国戦ではこれまで通り、木村の打点を生かす高さのあるトスで勝負した。厳しいマークをもろともせず、この試合で木村は33得点を記録。フルセットということを考慮しても、まさに圧巻とも言うべき打数だ。 同じく33得点を叩き出した江畑と共に、サイド一辺倒のバレー、と批判する人もいるかもしれない。だが、その背景にはチームメイトが木村に託す信頼があった、と荒木は言う。 「最後まで沙織に頼ってしまったけれど、沙織だったら絶対に決めてくれるとみんなが信じていました。オリンピックで、特にあの中国戦で、沙織はエースとして本当に心強い存在でした。沙織がいたから、メダルを獲ることができました」 木村で負けたら仕方がない。選手、スタッフの全員がエースを信じ、その思いにまさに大黒柱とも言うべき活躍で、エースが応えた。 五輪では一度も勝利できなかった中国を準決勝で下し、3位決定戦では韓国を3−0で打破。強く固い絆でつかんだ銅メダルが、木村の胸で、エースを信頼し、支えた選手達それぞれの胸で、鮮やかに、光り輝いていた。

文・田中夕子

ボクシング48年ぶりとなる快挙は、ロンドン五輪閉幕2日前に届けられた。 日本勢は連日のメダルラッシュが伝えられたが、金メダルにおいてはこの時点で5個と苦戦。しかし半世紀ぶり、実に東京五輪以来となる村田の“奇跡”に列島は沸いた。

村田の金メダルがいかに“奇跡”であったのか。ボクシング・日本人選手の金メダルは、東京五輪・バンタム級(当時は54キロ級)での故・桜井孝雄さん以来となる2人目。ロンドン五輪以前、ボクシングでのメダル獲得は桜井さんを含めて3人にとどまり、それもフライ級(当時は51キロ級)・バンタム級と、軽量級での獲得にとどまっていた。 村田がロンドンで金メダルを獲ったのは、世界で最も層が厚いと言われるミドル級(75キロ以下)。パワーやリーチが大きくものをいうボクシングにおいて、体格で劣る日本人は中量級以上での活躍を阻まれており、プロボクシングでの世界王者もミドル級(72.57キロ以下)の竹原慎二が最重量。プロよりも階級が少なく(プロは17階級、五輪は10階級)、さらに4年に1度しかないオリンピックでは頂点に立つ難度もさらに高まる。だが、それを村田はやってのけた。

高校5冠を成し遂げ、大学1年にして全日本選手権優勝。その後も国際大会へ出場し活躍した村田だが、北京五輪の出場を逃し、1度は現役を引退する。しかし09年にリングへ戻ると、そこから11年まで全日本選手権3連覇。さらに同11年には世界選手権へ出場し、準優勝=銀メダルという、同選手権における日本人最高成績を収めている。 世界選手権優勝という日本人初の快挙はならなかった村田だが、決勝も22−24と僅差の惜敗。一躍世界の注目を浴び、翌年のロンドン五輪ではマークがキツくなることが予想された。 ボクシングで重いクラスにおいて日本人選手の活躍が阻まれるのには、選手が少ないことから練習相手が限られることが理由の1つとして挙げられる。しかし村田は早くからK−1王者である魔裟斗をはじめ、五輪へ向けてはワタナベジムや帝拳ジムといったプロの名門ジムへ出稽古に赴き、猛者たちとのスパーリングで腕を磨いてきた。普段は大学職員として勤務しており、練習に専念できる環境にはないが、逆にボクシング漬けでない生活・プロ選手との多彩な交流が、従来のセオリーによらない村田独自の理論を確立させたことは想像に難くない。日本人には無理と思われたミドル級、そこでの金メダル獲得にはやはりこれまでにない理論と戦術が必要となったのだろう。

五輪では世界選手権の活躍から、やはり徹底したマークにあった。準々決勝、準決勝はいずれも最終3Rでの逆転勝ち。準決勝と決勝はどちらも1点差という、まさに紙一重の差を争う勝負となった。パワー・スピードで劣ってもブロッキングを中心としたディフェンスで被弾を極力避け、スタミナを活かした手数で攻め、終盤の競り合いをものして勝つ——村田の戦いには日本人の欠点をカバーし、逆に長所を最大限に生かした戦術と、そのスタイルを実戦で練り上げた強さとがあった。

北京では村田を事前に拒み挫折を与えたオリンピックは、しかしロンドンにおいては村田を大きく成長させるエネルギーとなった。 「僕はただ少し才能と努力があっただけです」 メダル獲得後の会見で村田はそんな風に謙遜したが、体格面の不利・トレーニング環境と練習相手の不足、そういったハンディをアドバンテージに変え快挙を成し遂げた軌跡は、金メダルと“奇跡”の名にふさわしいものだ。

文・長谷川亮

「楽しい公約プロジェクト」発表記者会見

2012年12月21日、東京2020オリンピック・パラリンピック「楽しい公約プロジェクト」の発表記者会見が、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会の主催で開催されました。

会見には、ロンドンオリンピック金メダリスト 東京2020オリンピック・パラリンピック招致アンバサダー 吉田沙保里さん、ヤフー株式会社 代表取締役社長 宮坂 学、グリー株式会社 代表取締役社長 田中 良和、 東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会 理事長 竹田恆和らが出席し、それぞれの公約と、その公約に込めた招致成功への熱い思いを発表しました。

また、この他に、澤穂希さん、浜田雅功さん、テリー伊藤さんといった著名人の方々の掲げた公約も発表され、それぞれの公約の内容や招致について、来場した記者の方々と熱く楽しい質疑応答が行われました。