二日後の29日、午後いちに広尾病院の地下二階の霊安室に駆けつけると、寒々としたメタリックな空間に係員が二人きりだった。「加藤さんねえ、居ませんね」と記帳簿を眺めながら係員が言った。そんなはずはありませんと念を押すと、「あゝ、この無名となっているこの人かも知れませんね。この人なら今しがた桐ヶ谷斎場に向いましたよ」と。とって返して桐ヶ谷斎場で、火葬寸前の棺桶に寝る加藤善博ともう後の無い再会をした。――公園のすべり台――救急外来――死――広尾病院霊安室――桐ヶ谷斎場で火葬――納骨――秋田に帰省。45時間の段取りのあらましはこんな感じだった。秋田から飛んで来られた父君と弟、十年連れ添った夫人、友人たちの見送る人は総勢十人ちょっとだった。
綴れ織りのように重なった偶然が気味悪く襲ってくる。北京に出掛ける二日前の日曜日の朝六時頃だったか、三宿のイエローを覗き、マスターの明に促されてカウンターの隣席を一瞥すると、加藤善博だったではないか。ン年振りだった。向う隣りの連れは、火葬場で見事な骨さばきを見て、「上等なシェフさばきをしてやがる、バカヤロウ!」と言って泣いた、神泉のエンドルフィン2の尾崎正彦だった。その夜の二人は馴染みの店数軒はしごした後だったと、清めの席の鮨屋のカウンターで聞いた。まさか最後のご挨拶だったのか?!まさかそこに俺はオンプラグドされて出掛けたのか?!お陰でその夜(朝)は格別楽しい時間を過ごせたが、五日後の帰国報告への返事の第一声が、訃報の知らせになるなどと、誰が予想出来たのか。
それに、別の冊子に連載している五月号で、加藤善博のことに触れたのも気味悪い話じゃないか。繰り返しになっても、少々再現しない訳にはいかない。森田芳光監督の「家族ゲーム」(84)で知った善博を、脚本家の筒井ともみが「レディ・ジェーン」の十周年パーティ会場へ連れてきた件りのことだ。青山から下北沢の「レディ・ジェーン」に戻っての二次会の席にも出席した善博が、何とミスター・ロックンロールと世間で言われる大先輩相手に喧嘩を売り出したのだ。一張羅のスーツを自分の血で真っ赤に染めて、一人で帰って行ったその背中には、フランス野郎を気取る捨て身の男のダンディズムがあった。デビュー作「家族ゲーム」で善博は、志望校を注文しに来た家庭教師の松田優作に、何如にもだれて対応するワン・シーンだけで、担任教師としての人格がすべて読みとれる演技をしていた。こす辛い奴、陰険な会社の上司、ダメな中年男などのキャラクターが役柄としては多かったが、それは映画界やテレビ界の偏狭さであって、日常生活から俳優しているような、昔ながらの矜持を持った稀有な存在ではなかったか。数年前の或る日など、「善博、又引っ越したのは青山か」と言うと、「大木さん、俳優が住むところは青山じゃなくっちゃ」と例の甲高い声でキザるのだった。
火葬中に寺島進から電話が入って、今日で撮影がアップするが夜店に行くという話だった。聞けば橋口亮輔監督の新作だったと言う。おかんの倍償美津子、娘の木村多江、兄寺島進等々、かくして夜も酒の席となったのだが、主役のリリー・フランキーは俺の隣に来て、「今書いている本の人物が、どうしても加藤善博の当て振りになってしまう」と言い、ショート・フィルムで善博を使ったことのあるBJ笹井は、〈偲ぶ会〉をどうしてもやろうと言う。
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