いや、それコストだよ RT @erachun: 家入一真氏自身は面白いし好きだけど、彼に限らず、最近の新しいものを生み出そうとする人たちの、世間体とか敬語とかを軽視する姿勢は大嫌いだ。世間体への配慮や敬語の使用なんて、何のコストもかけずにやれること。それをやらないのは反骨気取り
— 家入一真(Kazuma Ieiri)さん (@hbkr) 5月 18, 2012
家入さんのこのやり取りをみて、純粋に、敬語を軽視するのってダメなんでしょうか、と思いました。
一律で切り捨てるほどの問題か?
僕の周りの若い世代は、ぶっちゃけ敬語ができない人が何人かいます。5〜6歳離れているのに、話している途中で突然タメ口になったり…笑
僕はそういう「敬語がなっていない」彼らのことをダメだと思いません。むしろ愛嬌・個性の一部だとすら感じます。そもそも自分自身も大してできていません。その意味で、僕は「敬語を軽視している」人間です。
寛容のハードルが高すぎる日本社会
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「弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂(書評へ)」という書籍を読んでから、僕は「寛容のハードルを下げる」ことを意識して生きています。
例えば薬物中毒、ホームレスや引きこもりの方々などは、寛容のハードルが低い人間からしたら、もうその時点で「ありえない」存在として切り捨てられてしまうでしょう。
僕は、そういう冷たい人間にはなりたくないですし、そういう態度をつらぬくことは、生きにくい社会を作る原因だとすら思っています。自分だっていつホームレスになるか分からないのですから。
今の日本社会は寛容のハードルが高すぎる、と僕は感じています。
ちょっと失敗したり、苦手な部分があるのは当たり前です。社会問題が顕在化するこれからの時代、寛容のハードルを下げないと、今よりも社会は息苦しくなっていくでしょう。
半人前を認める
「安心ひきこもりライフ(書評へ)」という書籍では、「半人前公務員」という面白いコンセプトが紹介されています。
引きこもりを一人前にしようとするから職業訓練は失敗するわけで、0.25人、0.5人の働きを許容(その分給与も少ない)すれば、引きこもりも働けるようになる、という趣旨です。
この考えを許容できれば、大分寛容のハードルは下がると思います。いっぱしの大人が0.25人分の働きしかしないなんて許せない、甘えだ、もっと頑張れ、死ぬ気でやればなんとかなる、と思ってはダメなのです。この価値観の変化は容易ではありません。
寛容のハードルを下げる闘い
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偉そうに書きつつ、僕自身の「寛容のハードル」は決して低いわけではありません。むしろ人を相当なスピードで見限るので、かなりハードルが高い、狭量な人間の類いです。
特に、「大して親しくもないのに攻撃的な態度を取ってくる人」「平気で個人名を挙げてバカ、アホと言える人」はその時点でダメです。生理的嫌悪感に近いものがあります。
「寛容のハードルを下げる」ことは、人生を通した闘いなのかもしれません。流石に60歳くらいになれば、寛容になれる気もします。なるたけ早く下げたいところです。
少し前の記事ですが、玉置さんのこの態度は素晴らしいなぁ、と思っています。僕は攻撃されたら99%スルーしますね…。
私たちは、完全には分かり合えません。いつも誤解し合っています。だから、言論テロもこれからも多発するでしょう。でも、だからこそ、徹底的に語り合いたいのです。今度言論テロが起きたらならば、私は、その相手に電話もするし、会って話もすると思います。
と、敬語の話から始まり、少し飛躍したテーマに触れてみました。
皆さんは「敬語を軽視する人」をそれだけで「ありえない」と切り捨てますか?自分に対して攻撃的な人に対しても、心を開き、膝を詰めた対話ができますか?
みなさんの寛容のハードルは高い方でしょうか、低い方でしょうか?それは年月を通して変わってきましたか?
ぜひこんな問いに対する答えを考えてみてください。よろしければコメント欄や、ご自身のツイッター、フェイスブックでご共有もぜひ。
関連本。価値観を変える力がある素晴らしい本です。