ああ、やぱしいっぺん「家族」を解体しなくちゃならんのだと思われ。大家父長から連なる家族体系を粉砕しないことには、近代さえ始まらんのではないかと。
それにしても、是々非々なる単語自体にずっと感じていた「うさんくっさー」が見事に具現化された感でいっぱいとゆう。
そういえば、古代ローマで剣闘士の殺し合いをさせたのは、市民の目を政治からそらせて不満を抑え込むためだった、と何かで読んだ憶えがある。
何と言うか、『枕草子』なんだろうなぁ。「わたし」の趣味性にのみ根ざし、自身が感じる現実の苦痛はネタにしない創作。
「自由」について深く考えないままでも表現活動ができてしまうのは、いい時代なのだろう。「いい時代だった」にならなければいいけど、でもそのためには考えることをスポイルしちゃだめだ。
「社会保障バッシング=金は稼いだ人だけのもの」とオリジナル信仰てば案外根っこが同じなのかも。創造の営みは多様な関係や影響の中にあってこそ生まれる事実への無理解、という。
しかし、弾頭を装備していないのにミサイルとか、子供に説明してても情けなくなってくるレベルだった。メディアリテラシーどころの話ではない。
「暴力は許さない」と立ち上がり団結するよりも「暴力に目をつけられるな」と互いに目をそらせ分断されてゆく社会……。
「差別されないような立派な人間」て言い草はさ、「差別されても仕方ないダメな人間」とセットの人間観じゃん、アカンやんそんなもん。
「自由」って、過去において勝ち取られたものなんだけどね。「いい子にしてたご褒美」じゃないんだよ。自由が誰かから「お許しいただく」ものだったらそれ、暗黒時代だから。
そいえば、エヴァの旧映画版はたまたま『もののけ姫』の後に観て、「ああ、あれはもののけ姫の世界の未来だったのか」思ったらわりといろいろスッキリ通った感あったおぼえがある。
で、「暴力に向き合わないために暴力を向けられている対象を切り離して外部化する」操作をする人が「わたしは弱いですから(とても向き合えない)」などと言うわけで。いや、この社会に暴力を野放しにしてる元凶はあなた方ですよふざけんな、と、もう。
「暴力を向けられることを問題にする」心性について。これは以前にapemanさんが書いてらした「弱者である=道徳的な悪である」の他に、「暴力に向き合わないために切り離して外部化する」という操作が働いているように思われる。てか、つい最近知人がモロにそういう反応をしてたの見たという。
ところで「人権概念を鼻で笑う」ことが誰に対するカッコつけであるかを考えるとですね、ただもう「悪い」としか言えない。
「怖い人が恐いこと言ってくるから黙ってる」が、いずれあらゆる自由を踏みつぶす……ことを、まぎれもなく作品発表をしているはずの同人作家さん達が意外に理解してないことに、時に深刻な戦慄を感ずる。