小手先のコミュニケーション ーー 思想の視点がない
先日、NHk番組「未来塾」で、意見の違いで対立した場合、どうしたらいいか、ということを講師のさいじょうさんが、教えていた。
結論は、意見の対立の背景には、価値の違いがあり、さらにその奥には、関心の違いがあるから、お互いの関心をしる(洞察)することで対立が解消するかのように言っていた。
相手の主張の裏にある心、こだわりなどを読み取ってそこからほぐせば、意見の相違がなくなる、融和に至るという話だ。
それでうまくいくような場合もあるだろうが、うまくいかないときも多いと感じた。
だって、思想の違いということがある。同じ事象に対してどう考え、何を目指すかの考え方の違いでどうしても距離があるということがある。
どの立場に立つかとか、経済的利害の違いということもある。
DV加害者と被害者を想定してみれば、話し合って、相手の関心に配慮すればいいというのは間違った対応だ。
原発を容認するか批判するかも、その裏には経済的利害、立場の違いがある場合がほとんどだ。
イラク人質事件では、自民党政権が、共産党系だとか、反体制的だということで、人質救出よりも、自己責任論を持ち出した。
なんでも対立すればいいのではないし、自分が正しいと思って相手を間違っていると決めつけるのもだめだ。しかし、またコミュニケーションの問題だとととらえて話し合えばわかるというのも、その危険性や限定性に自覚的でないとだめだ。
そこが感じられない、小手先対応の話だった。
今の日本では、自分の頭でじっくり考える、そのうえでの自分の思想を作る、そして立場を持つ、とか、社会運動をするということが軽視され、上から目線で、左右の対立ではなく、第3の道がいいよというのが多い。
ジェンダー平等に対するバックラッシュに対しても、中立を気取る様な人がいる。
ジェンダーフリーという言葉の誤訳が原因だというのは間違いなのに、いまでもそんなことを言ってこの誤読が保守派の反発を喚起したというような主張がある。
そんなところに問題の出発点や根幹はない。
極端で硬直化したフェミ側にも問題があったといって、バックラッシュ派を擁護する。
そして保守派の反発をバックタッシュとラベリングしたとしてまたフェミを批判する。
そしてバックラッシュを支持した一部の「一般の人」に対しても、一般の人の思想にも問題があるし、メディアにも問題があるという視点がない。
「保守運動とフェミニスム運動の対立は合わせ鏡のような構図だった」と第3者的に双方を批判。
これは現場の実態や運動をしらない愚かなインテリの典型である。
保守運動側にあってその言い分を聞き、温厚な人間性(対話の可能性)だと記述し、一定の理解をするがフェミ側へは取材もしないのは、フェミの側といっていても実は、フェミの立場ではなく、いい子ちゃんの立場に過ぎない。
運動実態・現場を知らないから、最初から構図を決めて、意外と保守派の人もいいじゃないという程度である。
現実の経験が浅いのだなと感じる。
どんな場合でも、いろいろな対立でも相手側に素晴らしい人がいる場合などいくらでもある。温厚な人もいる。しかし、そういう人が手段としてひどいことをするのだ。DVをみよ。戦争を見よ。ユダヤ人を差別する人を見よ。沖縄に軍事基地を押し付けている人を見よ。朝鮮学校差別をする人を見よ。
第3者的に、「相手に勝手なイメージをつけて不信感ばかりを強化し対立(攻撃)するのでなく、相手をよく知り話し合えば、対話可能だし、理解もできるし、問題解決の道も見える」という凡庸なお説教レベルはみあきた。
リアルな軍事対立をしている米ソの対立までも射程に入れ地球レベルの視野で語るような、ティク・ナット・ハンを少しでも読んで爪の垢を煎じて飲めといいたい。そこには単なるコミュニケーションの問題にしたり、中立を気取る第3者立場を大きく凌駕する素晴らしいスピリチュアルな対話と非暴力の思想がある。世間知らずの「いいこちゃん」(お坊ちゃんお嬢ちゃん)の作文とは雲泥の違いである。
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2013-01-21 12:12
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