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あべ・やすしといいます。

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2013ねん 01がつ 15にち

「障がい」表記について。

 去年、たくさんの ひとたちと共同論文を かいた。まだ査読まちなので、論文として掲載されるかどうか きまっていない。なので、共同で原稿を かいたというのが正確。そのとき、障害の表記を「障がい」にしたいという意見が複数でた。それについて反対意見もでた。わたしは、どっちでも いいと おもったし、そのように発言したけれど、「なぜ「障がい」にするのか、納得のいく説明をしてほしい、そうでなければ「障害」で」ということを あとで つけくわえた。


 「障がい」にするなら するとして、気になることがある。たとえば、わたしは この数年、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」というものを 紹介しつづけている。これは、障害者に対するサービスに限定されるものではない。図書館の利用に なんらかの困難がある場合、それは、図書館側が もうけてしまっている障害であり、それを解消する責任が 図書館には あるという視点に たっている。とても意義ぶかい視点だと おもいます。

 この、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」を、「図書館利用に障がいのある人々へのサービス」と表記するとすれば、それは まちがっていると おもうのです。


 これは、「移動障害」や「情報障害」も おなじです。社会のありかたが、そのような障害を つくっている。社会のありかたを かえることで、移動するさいの障害や 情報を やりとりすることの障害を なくしていかなくてはいけない。この場合の障害は、問題としての障害なわけです。これを「障がい」と表記するのは、文脈を ふまえていないと感じるわけです。


 さて。わたしは これまで、視覚障害というのと、移動障害というのとでは、障害の意味が ちがうと おもってきました。みえないことは、客観的な事実であって、社会のありかたに左右される移動障害や情報障害とは ちがうものだと。しかし、みえにくさや きこえにくさについていえば、社会のありかた、その場の状況が おおきく関係していることに気づくようになりました。


 きこえにくい ひとが、私語が うるさすぎて、きこえないと いうことが あります。その場の状況や環境のせいで、ききたい発言が きこえない。あるいは、ルーペや拡大読書器について きちんと情報提供されていないために、みえるものが みえないと おもいこまされてしまう。みえないままにされてしまう。そういうことが あります。社会のありかたが視覚や聴覚の障害を 重度化したり、顕在化したりしてしまうということです。工夫すれば、よみやすくなる読字障害の ひとについても、おなじことが いえます。


 ものごとは、イチかゼロかではない場合が ほとんどです。ただ、まったく みえない(全盲)、まったく きこえない(全ろう)という場合もあるので、社会のありかたに左右されない視覚障害や聴覚障害も あるわけです。ただし、人間が利用できる感覚は複数あるので、視覚以外、あるいは聴覚以外の感覚を つかって、移動できること、情報の やりとりが できること。それが大事です。つまり、視覚障害に注目するのと視覚障害者に注目するのとでは、みえてくるものが ちがってくるということです。全盲のひとにとって、大事なのは視覚情報以外のものだということですね。きくこと、さわること。聴覚と触覚に敏感だったり鋭利な感覚を もっていることも あるということ。それなのに、音声情報や点字資料が すくなすぎて、情報のアクセスに障害が あるということ。

 ろう者も、みること、さわることに重点があり、視覚と触覚に敏感だったり、鋭利な感覚を もっていることも ある。それなのに、手話による情報や文字情報が すくなすぎて、情報のアクセスに障害があるということ。


 視覚障害がないとか、聴覚障害がないということは、なにも、五感が すぐれているというわけではないのに、「わたしは健常者だ」と おもっている。点字を 触読できるほどの感覚も なければ、手話の音韻を 視認できるほどの視覚も言語的知識も ないのに、「わたしには障害がない」と おもっている。これはたんに、権力関係を 反映しているだけで、能力の差ということではない。また、「能力の差」というものが たとえ あったとしても、それを 優劣と解釈するのは おかしいという倫理観もないということ。つまり、たいしたことのない人間だということ。


 わたしにも障害があると感じ、配慮が平等でないだけなんだと実感するとき、バリアフリーやユニバーサルデザインという理念の必然性が理解できるのでしょう。


 わたしたちは、たいしたことのない、よわい存在です。それは肉体だけの はなしではなくて、倫理という面でも よわいのです。だから、社会の ありかたを よりよくしないと いけないのです。個人の良心まかせにしていては いけないのです。


 まったく整理できていないのですが、ここまでの議論を まとめてみます。

 「障がい」という表記は、障害を 個人的なこととして とらえてしまうという問題が あります。そして、社会が つくりだした障害を 問題視する視点に つながらないという問題が あります。もうひとつは、障害を 特定の ひとたちにだけ みいだしてしまっているという問題が あります。


 あたりまえのことを、だらだらと かいてしまったのでしょうか。まちがったことを かいてしまったのでしょうか。わたしは よく わかりません。


関連記事:

トマトトマト 2013/01/15 11:01 初めまして。
この記事を読んで、あらためて
「障害」とはなんなのか、考えさせられました。

「障害者」っていうのは、
「そこにあるものを、共有できない人」なんですよね。
「何かが欠けている人」じゃない。

だから、たとえば、
耳が聞こえるAさんが、ろう学校の校舎に入ったとき、
Aさんは「障害者」になる。
手話の会話が「共有できない」から。
ろう者の学生たちがAさんにも分かるように
声を出したり、筆談での会話を始めたとき、
その場に「障害者」はひとりもいなくなる。
全員が会話を「共有できている」から。

日本語字幕付きで上映中の映画をみている、ろう者のBさん。
このときBさんは、耳が聞こえるようになったわけではないので
ろう者であることに変わりはないのだけど、
少なくとも「障害者」ではなくなる。
(=「聴力の障害」はあるままだけれど、「情報の障害」はなくなる)
聞こえる観客も、聞こえない観客も、
限りなく近いレベルで場を「共有できている」から。

バリアを感じていない人の協力によって、
たいていのバリアはなくなるんですよね。

私は耳が少し聞こえにくく、
一歩外に出ればやはり「障害者」になってしまう状況が多くあります。
この世界は耳が悪い人ばかりではないので
「聴覚障害者」と区別されるのは当たり前としても、
「障害者」ではなくなれる世界になってほしいし、
そういう世界を作っていかなくちゃなあと思いました。

hituzinosanpohituzinosanpo 2013/01/15 13:55 いいコメントを ありがとうございました。
おっしゃるとおりですね。

ennenn 2013/01/15 14:59 障がいのがいは、「害」ではなく「碍(礙)」ですよ。
文部科学省の告示による常用漢字に含まれていないので、ひらがな表記となります。
ご忠告まで。

hituzinosanpohituzinosanpo 2013/01/15 15:43 障碍でも障礙でも おなじ はなしです。障碍や障礙という表記が いいという意見には同意しません。

ウルフウルフ 2013/01/15 23:09 初めまして。ブログ拝見いたしました。
図書館の利用に障害が、といったところなんですが、どうしてひらがな表記だと間違いということになるのでょうか?違う漢字をあてると間違いということでしたら理解できるのですが…

私、以前、障害者○○センターといった所に勤務しており、当然、名刺にも表記されておりました。支援される側の方からすれば、自分は障害者なんだという思いはあったと思います。やはり障害者という言葉は、その当事者を意味する(当事者としては自分のことを言われている)言葉になると思われます。そして害という漢字には悪い意味、印象があるのも確かではないでしょうか?

悪い意味で使われる漢字を用いた呼び方で自分が呼ばれる、自分を支援する人間の機関名、適応される法律にも、障害者という言葉が使われている、となると自分の存在が悪なのか、といった感覚になっても不思議ではないのではないでしょうか?

私は一般的にいう障がい者ではないですし、そのような話を実際に障がいをお持ちの方としたこともありません。でもやはり(支援機関名や法律名は別として)障がいという表現をつかうようにしています。

もちろんブログ主さんのようなお考えもあるんだなと、意見を尊重しておりますし、現状の社会に問題がある、障がい者なんて言葉がなくなる社会になってほしいという思いも持っております。私のような意見もあるということも知っていただければ幸いです。

また、こういった意見を述べるに当たり、自分の中で改めて、考える機会を与えていただいたことにも感謝しております。

ありがとうございました。

starorangestarorange 2013/01/15 23:09 子供とするか子どもとするか、障害者とするか障がい者とするか。
はっきり言ってこの辺のクレーム(と私は思っています)は本当に問題に関わる人の手間を増やしてるだけのものです。
ですが、ほとんど宗教のようなものなのでこれを唱えている人達に正論をいっても意味がありません。
人権原理主義者への対応は日本が抱える宗教問題の一つだと思います

takasantakasan 2013/01/16 00:02 実を言うと、日本語の語彙および発音要素の少なさが問題だったりします。
「障害」と「障碍」という、似てことなる意味の語が同音異義語に存在する、という問題。
本来近いけど意味の異なるこの2つを、戦後日本語簡略化のために「障害」でひとくくりにしてしまった、という問題。
どちらの「しょうがい」も、おおらかな気持ちと細やかな配慮があれば先鋭化しないはずなのに、ね。

まつこまつこ 2013/01/16 03:10 軽度の左片麻痺と高次脳機能障害を有する当事者です。
はっきりいって「障害」が「障がい」になろうが困っていること自体は何も変わりませんし、日常生活を送る上で、また、社会参加する上で「障害」があることには変わりません。

また、
>悪い意味で使われる漢字を用いた呼び方で自分が呼ばれる、自分を支援する人間の機関名、適応される法律にも、障害者という言葉が使われている、となると自分の存在が悪なのか、といった感覚になっても不思議ではないのではないでしょうか?

表記ひとつでそこまで考えが飛躍するのは「障害者=病的なもの、異質なもの」と捉えている部分や「腫れ物に触るような態度」がどこかにあるからではないかと感じました。何らかの障害を抱えて生きている人たちにとって、その態度こそが社会参加への「障壁・障害」になっているんじゃないかと思います。

行政はそんな言葉遊びじゃなく、もっと実際的な「難聴者への補聴器購入費用の一部免除」とか「回復期を過ぎた患者さんに対するリハビリの利用単位の上限の拡大」とか、本当に必要なことに取り組んでもらいたいです。

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